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◆第39話 破られた戦術
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突然聞こえた叫び声に、俺は客席へ顔を振り向けた。
「シュ、シュトルさんっ!」
「よく見ろ、アレン! お嬢ちゃんが高速で闘技場内を飛び交っている間、マナロの耳が絶え間なく動いていた。この闘技場内のどの場所から音がしたのかを聞き取って、迎撃すべき方向を予測しているに違いない! そして狼獣人族は嗅覚も鋭い! 急接近するお嬢ちゃんの匂いを嗅ぎ分けることで、立体的な攻撃にも対応しているんだっ!」
俺のすぐ後ろにある特別席で、シュトルさんが立ち上がり叫んでいた。
右手で持った杖で身体を支えながら、真っ直ぐに闘技場内を見つめている。
思い出したぞ。
協会認定の訓練士の試験勉強をしていた際に、目にした覚えがある。
狼獣人族の耳は兎獣人ほど遠くの音は聞こえないが、代わりに周囲のどの方向から音がしているのかを瞬時に聞き分ける能力がある。
ピノラがいくら早く闘技場内を飛び交ったとしても、音の速さには届かない。
マナロはピノラが最後に蹴った壁の音を聞き分け、回避行動を取っていたのだろう。
そして壁に向かって跳んだ時と異なり、攻撃のために自分に向かって跳んでくるピノラとの距離や角度を匂いで判別し、迎撃した。
「ぎ、ぎいいいいいいいっ! な、何だあの男はぁぁっ!? 余計なことをベラベラと喋りおって! おい貴様っ! 僕の獣闘士の戦術を解説するんじゃなぁぁぁいっ!!」
場内を挟んで反対側の席にいたプレシオーネは、地団駄を踏みながら顔を真っ赤にして叫んでいる。
手元に置いていた氷水の入った硝子瓶を落としてしまうほど動揺している様子だ。
あの様子から察するに……シュトルさんの予想は、まず間違いないだろう。
しかし、瞬時にマナロの戦術を見抜くなんて……シュトルさんは間違いなく訓練士として一流の知識と経験を持っている。
俺が見落としていたマナロの耳の動きまで観察し、助言までくれるとは。
『弟子』として、『家族』として、もっと沢山の事を教えて貰う必要がありそうだ。
だが戦術が破られた原因が解ったところで、対処法が思いつかない。
嗅覚と聴覚を封じる手段を講じるか、またはそれらを上回る攻撃が必要となるのだが……そんな事、考えた事すら無い。
それはマナロも察しているようで、まるで動揺する素振りすら見せずに闘技場の中央で笑っている。
「フン! あたしの迎撃方法が知れたところで、どうにかできるのかい? ほら、突っ立ってるならこっちから行くよ!!」
やかましく騒ぎ立てるプレシオーネなど気にも留めず、マナロは再び前傾姿勢になると一直線にピノラに向かって向かってきた。
銀色の長い尻尾を逆立てたかと思うと、歯を剥き出しにして駆け出す。
「ま、マズいっ! ピノラ、避けるんだ!」
「う、うんっ……!!」
爪を地面に食い込ませながら猛烈な勢いで突進してくるマナロの攻撃を間一発で跳び避けたピノラは、再び闘技場の壁を蹴り高速移動を開始した。
会場内にまたも壁を蹴る轟音が響き始める。
「フン! 逃げたか! しかしまた同じ戦術とは、懲りない兎獣人だね!」
マナロはその場で低い姿勢のまま止まると、ピノラが跳び続ける空間を睨みつけた。
壁を蹴り付ける音が鳴り響くなか、俺はマナロの銀髪の隙間から生えている狼獣人族特有の尖った耳を見た。
やはりシュトルさんの言った通り、マナロの両耳が前後左右に向きを変えるようにせわしなく動いている。
後方で音がすれば後方に、前方で音がすれば前方に……瞬時に向きを変えながら、音でピノラの居場所を追っているようだ。
マナロが頭部を守る防具を着けていないのは、この能力を生かすためだったのか……!
「うぅぅぅっ…………!」
唸り声を上げながら加速していくピノラは、再び最高速度まで加速すると、一段と勢い良く壁を蹴り付けた。
今度はマナロの左側面から。
先ほどの直線で突撃する軌道とは違い、やや高く飛び放物線を描くような軌道で飛びかかる。
これは……獅子獣人族のラーナを倒した、テンプルキックの軌道だ!
マナロの頭上ギリギリから放たれる蹴りならば、例え回避されても反撃される可能性は低い。
頭上を掠めるような高さで向かうピノラは、蹴りの姿勢に入る。
だが────────
「フンっ! 甘いんだよぉぉぉおおっ!!」
最後の踏み込み音を聞き分けたマナロは、飛びかかってくるピノラを十分な余裕を持って視界に捉えていた。
高さのあるピノラの軌道から外れるように身を低くすると、交差する瞬間に四肢を使って跳躍する。
蹴りを入れ損ない、無防備になったピノラに向かってまるで逆立ちをするかのような姿勢で強烈な蹴りを入れた。
「うああぁぁぁぁぁぁッ!?」
「ああっ!? ピノラぁぁぁぁっ!!」
「はーーーーっはっはっはァ! このあたしに! 蹴りなんて入れられると思ってるのかァ!」
真下から腹部を貫くような蹴り上げを受け、空中で跳ね上げられたピノラは再び背中から地面へと落下した。
辛うじてアダマント製の鉄手甲で防御したおかげで、腹部への直撃は避けられたようだが、その衝撃までもは完全には防げなかったようだ。
一度目と同じように、ごろごろと地面を転がっていく。
だが今度は、ダメージを受けてしまった。
ぺたんと地面に座り込んでいるピノラは、左手で腹部のあたりを抑えている。
その顔は、苦痛に歪んでいた。
「う……えほっ、げほっ……!」
「ピノラ、逃げろ! マナロが来てるぞっ!!」
「ふ、ふぇっ!!??」
よろよろと立ち上がろうとしていたピノラに、マナロが迫る。
先ほどと異なり、ピノラが体勢を立て直す前に追撃を入れるつもりだ。
「があああああああああああああああああっ!!!!」
凄まじい咆哮と共に、右手を繰り出すマナロ。
風を切るような音を発しながら振られた爪は、空を切った。
ピノラは間一髪で後方へと飛び退る。
幸いにも瞬発力はピノラの方がはるかに上だ。
接近されても、足が無事な限りは逃げ回ることはできる。
ピノラは闘技場内を何歩か飛び、俺のいる訓練士席の真正面まで飛び退いてきた。
直下にいるピノラに、俺は身を乗り出すようにして声をかける。
「ピノラ! 大丈夫かっ!? 怪我は……!?」
「ト、トレーナー……どうしようっ……! ピノラの攻撃が、効かないよっ……!」
「ピノラ、落ち着くんだ。まずは呼吸を整えて、ダメージの回復を優先しよう」
壁に手を着き、肩で息をするピノラを見ながら……俺は頭の片隅で、ギブアップを宣言すべきか逡巡していた。
ここまで2回、最高速度にまで達したはずの攻撃を避けられた。
このまま同じ戦術で戦ったところで、マナロに決定打を与える事は出来そうにない。
それに対しピノラは、2発の迎撃を受けたダメージが着実に現れている。
最高速度で飛び込むピノラの戦術では、着地を失敗してしまうと、その速度のまま地面に投げ出されてしまうことになる。
そうなれば、本来相手にぶつけるはずだった武具の重さが、負荷となって自身へ跳ね返ってくる。
マナロの打撃に加え、地面へと叩きつけられる衝撃に何度も耐えられるほど、ピノラの身体は頑丈ではない。
そして恐るべきは、マナロの反射神経と、迎撃の素早さだ。
例えピノラが攻撃のために壁を蹴る音を発したとしても、対応が間に合うかどうかは別問題のはずだ。
普通ならピノラの最高速度の跳躍を迎撃するなど不可能であるはずなのに、マナロはそれを平然とやってのけている。
それは彼女の優れた嗅覚のほか、バランスの取れたしなやかな筋肉があってこそ実現できているのだろう。
マナロもまた、決勝戦に相応しい一流の獣闘士なのだ。
「ピノラっ………………」
俺は、土で汚れたピノラの白い耳を見た。
純白の可愛らしい耳が、薄汚れてしまっている。
全身には地面を転がった際にできた擦り傷が目立つ。
きっと衣服に隠れた箇所も、傷だらけに違いない。
これ以上、ピノラが痛い思いをするのを見るのは辛い。
俺はピノラに向けて口を開いた
その時
「────────トレーナーっ!」
ピノラの呼ぶ声が、耳に届く。
「ピノラ…………」
ピノラは訓練士席の真下から、俺の顔を見上げている。
大きな赤い宝石のような目を見開き、唇を固く結ぶその表情で、真っ直ぐに俺の目を見ている。
耳と尻尾に生えた純白の毛は土に汚れ、顔には擦過傷があり見るからに痛々しい。
鉄製よりもはるかに重く、また熱を帯びやすいアダマント製武具を身に付けている影響で、額には滝のような汗が輝いている。
見るからに満身創痍だ。
本当の事を言えば、まだマナロを攻略できる可能性は、ある。
まだ実行に移していない戦術が、ひとつ残っている。
昨晩、決勝戦の相手が狼獣人族であることを念頭に、俺とピノラはシュトルさんの手記を読みながら作戦を立てていた。
いつもの高速移動による攻撃が通用すれば、それで良し。
もし反撃を受ける危険があれば、突入時に上下左右へ軌道をずらして攻撃する。
そして、それさえも破られてしまった時は、最後の手段。
身体能力の優れた狼獣人族に対抗できる、数少ない戦法────────────────
だがその作戦は、ピノラ自身にとてつもない苦痛を与えてしまうものであったため『これはやめておこう』と封印したものだ。
これ以上、ピノラに痛い思いをさせたくない。
辛い思いをさせたくない。
大怪我をしてからでは遅い。
ギブアップすべきだ。
だが ────────
「トレーナーっ! ピノラは……まだ行けるよ! まだ戦えるよっ! だから…………」
ピノラはぼろぼろの身体で、痛々しい姿で……
それでも、俺の言葉を待っている。
心から俺を信じている。
「だから、お願いっ! ピノラを信じて、トレーナああああああっ!!」
そう叫んだピノラの口元には、笑みが浮かんでいた。
その瞬間、俺は目の前に光がさしたかのような感覚に陥った。
そうだ
俺はピノラと、約束したんだ
3ヶ月前の闘技会で敗れた、次の日のあの朝
まだ薄暗い夜明け前、自宅の中庭で誓ったじゃないか
互いに、支えあえるように
互いに、夢に向かって歩けるように
どんな事があっても、諦めずに戦うことを誓ったんだ!!
「ピノラっ!!」
俺は渾身の力を込めて叫ぶ。
訓練士専用席の手すりを、力一杯握りしめる。
闘技場内に落ちてしまいそうなほどに身を乗り出す。
見上げるピノラに、俺は笑顔で応えた。
「俺はピノラを信じている! どんな事があっても!」
強い意志の宿る赤い瞳が輝く。
俺の言葉に大きく頷いてみせたピノラは、拳を握りしめて正面に向き直った。
小さな身体を低く構え、ふわふわの白い耳をぴんと立てるその姿は、およそこんな場所で戦うとは思えないほどに可憐だ。
まっすぐ前にいるマナロを見据えながら構えるその背中に、俺は小さく、だがはっきりと伝えた。
「────────ピノラ、シュトルさんのくれた手記にあった『狼獣人族の弱点』、覚えているか?」
「…………うんっ!」
「昨日の夜の作戦、いけるかっ!?」
「うんっ! マナロさんを倒すには、もうそれしかないねっ!!」
指示を飛ばす俺の声を聞いたのだろうか、ピノラに向かって徐々に距離を詰めていたマナロは唐突に足を止めた。
遥か向こう側にいるプレシオーネは上機嫌で指示のようなものを叫んでいるが、マナロはそれに応える様子が無い。
代わりに俺たちの反撃を察知し、やや姿勢を低くする。
氷を思わせるような美しい青い瞳が細められ、口元からは鋭い犬歯が覗いた。
「何だ……? 兎獣人め、この期に及んで何をする気だ……!?」
警戒心を露わにしたマナロは額に浮いた汗を腕で拭うと、今まで以上の前傾姿勢となって身構えた。
口を閉じ、鼻呼吸に切り替え、嗅覚による索敵を行う体制を整える。
天頂に輝く灼熱の陽光を指すかのように立てられた耳は、砂つぶの音ひとつ逃すまいと言わんばかりにこちらを向いている。
ピノラの倍はあろうかと言う筋肉に覆われた上腕が張り詰めているのが見えた。
俺は唾を飲み込む。
訓練士専用席にいる俺でさえも、マナロの姿を見て恐怖を感じる程だ。
同じ闘技場の地面に立ち、マナロと対峙するピノラにとって、その恐ろしさはとてつもないものだろう。
だが、そんなマナロを目の当たりにしても尚、ピノラは笑顔で口を開いた。
「見ていて、トレーナーっ! ピノラは……トレーナーと一緒にいるためなら、何だってやるんだからっ!!」
自身に満ち溢れたその顔が見えた、一瞬の後
ピノラは再び地面を蹴り、駆け出した。
「シュ、シュトルさんっ!」
「よく見ろ、アレン! お嬢ちゃんが高速で闘技場内を飛び交っている間、マナロの耳が絶え間なく動いていた。この闘技場内のどの場所から音がしたのかを聞き取って、迎撃すべき方向を予測しているに違いない! そして狼獣人族は嗅覚も鋭い! 急接近するお嬢ちゃんの匂いを嗅ぎ分けることで、立体的な攻撃にも対応しているんだっ!」
俺のすぐ後ろにある特別席で、シュトルさんが立ち上がり叫んでいた。
右手で持った杖で身体を支えながら、真っ直ぐに闘技場内を見つめている。
思い出したぞ。
協会認定の訓練士の試験勉強をしていた際に、目にした覚えがある。
狼獣人族の耳は兎獣人ほど遠くの音は聞こえないが、代わりに周囲のどの方向から音がしているのかを瞬時に聞き分ける能力がある。
ピノラがいくら早く闘技場内を飛び交ったとしても、音の速さには届かない。
マナロはピノラが最後に蹴った壁の音を聞き分け、回避行動を取っていたのだろう。
そして壁に向かって跳んだ時と異なり、攻撃のために自分に向かって跳んでくるピノラとの距離や角度を匂いで判別し、迎撃した。
「ぎ、ぎいいいいいいいっ! な、何だあの男はぁぁっ!? 余計なことをベラベラと喋りおって! おい貴様っ! 僕の獣闘士の戦術を解説するんじゃなぁぁぁいっ!!」
場内を挟んで反対側の席にいたプレシオーネは、地団駄を踏みながら顔を真っ赤にして叫んでいる。
手元に置いていた氷水の入った硝子瓶を落としてしまうほど動揺している様子だ。
あの様子から察するに……シュトルさんの予想は、まず間違いないだろう。
しかし、瞬時にマナロの戦術を見抜くなんて……シュトルさんは間違いなく訓練士として一流の知識と経験を持っている。
俺が見落としていたマナロの耳の動きまで観察し、助言までくれるとは。
『弟子』として、『家族』として、もっと沢山の事を教えて貰う必要がありそうだ。
だが戦術が破られた原因が解ったところで、対処法が思いつかない。
嗅覚と聴覚を封じる手段を講じるか、またはそれらを上回る攻撃が必要となるのだが……そんな事、考えた事すら無い。
それはマナロも察しているようで、まるで動揺する素振りすら見せずに闘技場の中央で笑っている。
「フン! あたしの迎撃方法が知れたところで、どうにかできるのかい? ほら、突っ立ってるならこっちから行くよ!!」
やかましく騒ぎ立てるプレシオーネなど気にも留めず、マナロは再び前傾姿勢になると一直線にピノラに向かって向かってきた。
銀色の長い尻尾を逆立てたかと思うと、歯を剥き出しにして駆け出す。
「ま、マズいっ! ピノラ、避けるんだ!」
「う、うんっ……!!」
爪を地面に食い込ませながら猛烈な勢いで突進してくるマナロの攻撃を間一発で跳び避けたピノラは、再び闘技場の壁を蹴り高速移動を開始した。
会場内にまたも壁を蹴る轟音が響き始める。
「フン! 逃げたか! しかしまた同じ戦術とは、懲りない兎獣人だね!」
マナロはその場で低い姿勢のまま止まると、ピノラが跳び続ける空間を睨みつけた。
壁を蹴り付ける音が鳴り響くなか、俺はマナロの銀髪の隙間から生えている狼獣人族特有の尖った耳を見た。
やはりシュトルさんの言った通り、マナロの両耳が前後左右に向きを変えるようにせわしなく動いている。
後方で音がすれば後方に、前方で音がすれば前方に……瞬時に向きを変えながら、音でピノラの居場所を追っているようだ。
マナロが頭部を守る防具を着けていないのは、この能力を生かすためだったのか……!
「うぅぅぅっ…………!」
唸り声を上げながら加速していくピノラは、再び最高速度まで加速すると、一段と勢い良く壁を蹴り付けた。
今度はマナロの左側面から。
先ほどの直線で突撃する軌道とは違い、やや高く飛び放物線を描くような軌道で飛びかかる。
これは……獅子獣人族のラーナを倒した、テンプルキックの軌道だ!
マナロの頭上ギリギリから放たれる蹴りならば、例え回避されても反撃される可能性は低い。
頭上を掠めるような高さで向かうピノラは、蹴りの姿勢に入る。
だが────────
「フンっ! 甘いんだよぉぉぉおおっ!!」
最後の踏み込み音を聞き分けたマナロは、飛びかかってくるピノラを十分な余裕を持って視界に捉えていた。
高さのあるピノラの軌道から外れるように身を低くすると、交差する瞬間に四肢を使って跳躍する。
蹴りを入れ損ない、無防備になったピノラに向かってまるで逆立ちをするかのような姿勢で強烈な蹴りを入れた。
「うああぁぁぁぁぁぁッ!?」
「ああっ!? ピノラぁぁぁぁっ!!」
「はーーーーっはっはっはァ! このあたしに! 蹴りなんて入れられると思ってるのかァ!」
真下から腹部を貫くような蹴り上げを受け、空中で跳ね上げられたピノラは再び背中から地面へと落下した。
辛うじてアダマント製の鉄手甲で防御したおかげで、腹部への直撃は避けられたようだが、その衝撃までもは完全には防げなかったようだ。
一度目と同じように、ごろごろと地面を転がっていく。
だが今度は、ダメージを受けてしまった。
ぺたんと地面に座り込んでいるピノラは、左手で腹部のあたりを抑えている。
その顔は、苦痛に歪んでいた。
「う……えほっ、げほっ……!」
「ピノラ、逃げろ! マナロが来てるぞっ!!」
「ふ、ふぇっ!!??」
よろよろと立ち上がろうとしていたピノラに、マナロが迫る。
先ほどと異なり、ピノラが体勢を立て直す前に追撃を入れるつもりだ。
「があああああああああああああああああっ!!!!」
凄まじい咆哮と共に、右手を繰り出すマナロ。
風を切るような音を発しながら振られた爪は、空を切った。
ピノラは間一髪で後方へと飛び退る。
幸いにも瞬発力はピノラの方がはるかに上だ。
接近されても、足が無事な限りは逃げ回ることはできる。
ピノラは闘技場内を何歩か飛び、俺のいる訓練士席の真正面まで飛び退いてきた。
直下にいるピノラに、俺は身を乗り出すようにして声をかける。
「ピノラ! 大丈夫かっ!? 怪我は……!?」
「ト、トレーナー……どうしようっ……! ピノラの攻撃が、効かないよっ……!」
「ピノラ、落ち着くんだ。まずは呼吸を整えて、ダメージの回復を優先しよう」
壁に手を着き、肩で息をするピノラを見ながら……俺は頭の片隅で、ギブアップを宣言すべきか逡巡していた。
ここまで2回、最高速度にまで達したはずの攻撃を避けられた。
このまま同じ戦術で戦ったところで、マナロに決定打を与える事は出来そうにない。
それに対しピノラは、2発の迎撃を受けたダメージが着実に現れている。
最高速度で飛び込むピノラの戦術では、着地を失敗してしまうと、その速度のまま地面に投げ出されてしまうことになる。
そうなれば、本来相手にぶつけるはずだった武具の重さが、負荷となって自身へ跳ね返ってくる。
マナロの打撃に加え、地面へと叩きつけられる衝撃に何度も耐えられるほど、ピノラの身体は頑丈ではない。
そして恐るべきは、マナロの反射神経と、迎撃の素早さだ。
例えピノラが攻撃のために壁を蹴る音を発したとしても、対応が間に合うかどうかは別問題のはずだ。
普通ならピノラの最高速度の跳躍を迎撃するなど不可能であるはずなのに、マナロはそれを平然とやってのけている。
それは彼女の優れた嗅覚のほか、バランスの取れたしなやかな筋肉があってこそ実現できているのだろう。
マナロもまた、決勝戦に相応しい一流の獣闘士なのだ。
「ピノラっ………………」
俺は、土で汚れたピノラの白い耳を見た。
純白の可愛らしい耳が、薄汚れてしまっている。
全身には地面を転がった際にできた擦り傷が目立つ。
きっと衣服に隠れた箇所も、傷だらけに違いない。
これ以上、ピノラが痛い思いをするのを見るのは辛い。
俺はピノラに向けて口を開いた
その時
「────────トレーナーっ!」
ピノラの呼ぶ声が、耳に届く。
「ピノラ…………」
ピノラは訓練士席の真下から、俺の顔を見上げている。
大きな赤い宝石のような目を見開き、唇を固く結ぶその表情で、真っ直ぐに俺の目を見ている。
耳と尻尾に生えた純白の毛は土に汚れ、顔には擦過傷があり見るからに痛々しい。
鉄製よりもはるかに重く、また熱を帯びやすいアダマント製武具を身に付けている影響で、額には滝のような汗が輝いている。
見るからに満身創痍だ。
本当の事を言えば、まだマナロを攻略できる可能性は、ある。
まだ実行に移していない戦術が、ひとつ残っている。
昨晩、決勝戦の相手が狼獣人族であることを念頭に、俺とピノラはシュトルさんの手記を読みながら作戦を立てていた。
いつもの高速移動による攻撃が通用すれば、それで良し。
もし反撃を受ける危険があれば、突入時に上下左右へ軌道をずらして攻撃する。
そして、それさえも破られてしまった時は、最後の手段。
身体能力の優れた狼獣人族に対抗できる、数少ない戦法────────────────
だがその作戦は、ピノラ自身にとてつもない苦痛を与えてしまうものであったため『これはやめておこう』と封印したものだ。
これ以上、ピノラに痛い思いをさせたくない。
辛い思いをさせたくない。
大怪我をしてからでは遅い。
ギブアップすべきだ。
だが ────────
「トレーナーっ! ピノラは……まだ行けるよ! まだ戦えるよっ! だから…………」
ピノラはぼろぼろの身体で、痛々しい姿で……
それでも、俺の言葉を待っている。
心から俺を信じている。
「だから、お願いっ! ピノラを信じて、トレーナああああああっ!!」
そう叫んだピノラの口元には、笑みが浮かんでいた。
その瞬間、俺は目の前に光がさしたかのような感覚に陥った。
そうだ
俺はピノラと、約束したんだ
3ヶ月前の闘技会で敗れた、次の日のあの朝
まだ薄暗い夜明け前、自宅の中庭で誓ったじゃないか
互いに、支えあえるように
互いに、夢に向かって歩けるように
どんな事があっても、諦めずに戦うことを誓ったんだ!!
「ピノラっ!!」
俺は渾身の力を込めて叫ぶ。
訓練士専用席の手すりを、力一杯握りしめる。
闘技場内に落ちてしまいそうなほどに身を乗り出す。
見上げるピノラに、俺は笑顔で応えた。
「俺はピノラを信じている! どんな事があっても!」
強い意志の宿る赤い瞳が輝く。
俺の言葉に大きく頷いてみせたピノラは、拳を握りしめて正面に向き直った。
小さな身体を低く構え、ふわふわの白い耳をぴんと立てるその姿は、およそこんな場所で戦うとは思えないほどに可憐だ。
まっすぐ前にいるマナロを見据えながら構えるその背中に、俺は小さく、だがはっきりと伝えた。
「────────ピノラ、シュトルさんのくれた手記にあった『狼獣人族の弱点』、覚えているか?」
「…………うんっ!」
「昨日の夜の作戦、いけるかっ!?」
「うんっ! マナロさんを倒すには、もうそれしかないねっ!!」
指示を飛ばす俺の声を聞いたのだろうか、ピノラに向かって徐々に距離を詰めていたマナロは唐突に足を止めた。
遥か向こう側にいるプレシオーネは上機嫌で指示のようなものを叫んでいるが、マナロはそれに応える様子が無い。
代わりに俺たちの反撃を察知し、やや姿勢を低くする。
氷を思わせるような美しい青い瞳が細められ、口元からは鋭い犬歯が覗いた。
「何だ……? 兎獣人め、この期に及んで何をする気だ……!?」
警戒心を露わにしたマナロは額に浮いた汗を腕で拭うと、今まで以上の前傾姿勢となって身構えた。
口を閉じ、鼻呼吸に切り替え、嗅覚による索敵を行う体制を整える。
天頂に輝く灼熱の陽光を指すかのように立てられた耳は、砂つぶの音ひとつ逃すまいと言わんばかりにこちらを向いている。
ピノラの倍はあろうかと言う筋肉に覆われた上腕が張り詰めているのが見えた。
俺は唾を飲み込む。
訓練士専用席にいる俺でさえも、マナロの姿を見て恐怖を感じる程だ。
同じ闘技場の地面に立ち、マナロと対峙するピノラにとって、その恐ろしさはとてつもないものだろう。
だが、そんなマナロを目の当たりにしても尚、ピノラは笑顔で口を開いた。
「見ていて、トレーナーっ! ピノラは……トレーナーと一緒にいるためなら、何だってやるんだからっ!!」
自身に満ち溢れたその顔が見えた、一瞬の後
ピノラは再び地面を蹴り、駆け出した。
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