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◆第21話 来訪者

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 ピノラの成長を見届けた俺は、また2日をかけてサンティカの街に戻った。

 シュトルさんは、約束を守ってくれていた。
 ピノラも、寂しい思いをしながらも俺を信じて待っていてくれた。
 ならば今、俺がやるべき事はひとつ。
 俺もシュトルさんとの約束を守るために、残り1ヶ月をかけて残りの120万ガルドを貯めなければ。

 しかし、ただがむしゃらに貨幣ガルドを稼ぐ事だけを考えてきたここまでの1ヶ月と大きく異なり、俺の胸には希望の灯火が宿っていた。
 もしかしたら、ピノラは次の闘技会グラディアで念願の初勝利を挙げられるかも知れない。
 そう思うと、ピノラと別れたあとの足取りも軽く、ふたたび獣人診療所の激務に戻される現実さえも明るく思えてくる。
 いや、寂しい事には変わりないが。


「戻りました。4日間もお休みを頂いてしまい、申し訳ございません。今日からまたお願い致します!」


 サンティカに戻った翌日、そう言って頭を下げた俺を、診療所に勤めている従業員の皆は温かく迎え入れてくれた。
 俺の事情を知っているであろう若い獣人医の先生は、俺の顔を見るなり安堵の表情を見せる。
 見ているだけでこちらまで笑顔になってしまうような、そんな天真爛漫な笑みを向けてくれている。
 突然俺が休暇を頂いてしまった事で、迷惑を掛けてしまったはずなのだが……先生はそんな嫌な顔ひとつせずにいてくれた。


「その様子ですと、目的は果たせたみたいですね。また明日から、頼りにしていますから。宜しくお願いしますね!」


 笑顔でそう言ってくれた先生の期待に応えるべく、俺は今まで以上に診療所の業務を積極的にこなしていった。
 前半と同じ診察時の補佐や治療助手に加えて、入院中の獣人患者たちの食事づくりや退院前のリハビリにも携わるようになり、気付けば俺は1日中診療所の中を行ったり来たりする日々を送るようになった。
 以前にも増して激務の日々だったが……不思議なことに、身体が疲れ果ててしまうような日は全く無い。
 むしろ周囲の人らに頼りにして貰っていることを肌で感じられるせいか、並々ならぬやりがいを感じる。
 あぁ、もしかしたら訓練士トレーナーではなく、幼少の頃に夢見ていた通りに獣人医の道を選んだとしたら、こんな日々を送っていたのだろうか。
 そんな感慨に耽る日もあったものの、俺は本来の目的のために働き続けた。


 そんなある日 ────────




 火蜥蜴サラマンダの月が近くなるに連れて段々と日の沈む時間が遅くなってきたと感じるようになった夕方、サンティカの街中では雨季の豊穣を願う祭りが開催されていた。
 薄暗くなりつつある街中では至る所で紙製のランタンが灯されており、これから夜の帳が下りるというのに街中はどこか興奮に満ちた雰囲気に包まれている。
 今夜は街のメインストリートを、古来より伝わる伝統的な衣装に身を包んだ一団がパレードをする予定で、締めくくりには花火も上げられる。
 街中の飲食店も、今日は道端に席を出しての営業が許可されており、路上では麦酒ビールを飲んだ人たちで溢れかえるだろう。

 去年の豊穣祭で、ピノラの2人で夜店を回ったのを思い出す。
 串焼きを食べ、果実水を飲み、2人で夜空に打ち上げられた花火を見上げて帰ったんだ。
 昔から、こういったお祭りの雰囲気は嫌いじゃない。
 いつもと違う夜というだけで、どこか心躍る。
 だが、今年は隣にピノラはいない。
 彼女は今、俺が迎えに来る事を信じて日々鍛錬しているはずだ。
 そんな状況では、心から祭りを楽しめるはずもなく……俺は華やかなムードの道を横目で見つつ、帰路に着いた。

 薄暗い自宅周辺。
 郊外まで来るとお祭りの雰囲気は殆ど無く、いつもと変わらない家路が続いているだけだ。
 背後から届く街の明かりが、いつもより少しだけ明るいくらいだろうか。
 街中では聞こえていた笛の音も、家まで来ると殆ど聞こえない。

 明日に備えて、早く寝よう────────
 そんな事を考えながら家の前まで来ると
 扉の前に、意外な客人がいる事に気が付いた。


「えっ……!? ア、アンセーラ先生……!?」


 自宅の古めかしい扉に向かって立っていたのは、闘技場の治療室で働く専属獣人医、アンセーラ先生だった。
 豹獣人パルドゥース族の中でも珍しい黒変種こくへんしゅである先生は、明かりの無い玄関の前で闇に溶け込むような出立ちでこちらを振り返った。


「こんばんは。突然訪問しちゃって、すまないわね」

「い、いえ、でも突然どうしたんですか? と言うか……よく俺の家を知ってましたね」

闘技会グラディアの関係者に聞いた事があったのよ。この辺りに住んでいるって」


 俺の顔を見て、アンセーラ先生はゆっくりと歩いてきた。
 黒い体毛が、夕闇のなかで彼女の輪郭をぼやかしている。
 正直なところ、俺も彼女の纏っている白衣と、金色に輝く瞳が見えたおかげで認識できたようなものだ。
 背後からもたらされている豊穣祭の明かりがなければ、俺は玄関の直前で彼女の存在に気付き、驚きのあまり大声を出していただろう。
 そんな事をすれば、俺は彼女の鋭い爪で八つ裂きにされていたかもしれない……比喩ではなく。
 俺は巡り巡って、心の中で豊穣の神に感謝を捧げる。

 だが、直後にアンセーラ先生の発した言葉で、俺は一気に身を固くした。



「……驚いたわ。まさかアレン君が、中央の獣人診療所で働いているとはね」

「っ…………!」


 どうぞ中でお茶でも……などと言おうとした矢先に投げかけられた言葉によって、俺の四肢は石のように固まってしまった。

 何故……!?
 どうしてアンセーラ先生が、俺が中央診療所で働いている事を知っている!?
 

「え、えぇと……それは、そんな…………」

「隠さなくていいわ。今日、たまたま中央診療所に用事があったから赴いたとき、君を見たのよ」


 噴き出る汗。
 詰まる息。
 噂で聞いたとかではなく、その目で見られていたとなれば……もはや言い逃れなど出来るはずもない。

 俺は恐る恐るアンセーラ先生の顔を見上げる。
 金色に輝く眼光はいつも通りに鋭く、着ている白衣と相俟ってとてつもない威圧感を放っている。
 声色からして怒っている様子は無さそうに思えるのだが、顔が全く笑っていないのでいたたまれない。

 何故、俺がこれほどにまで狼狽うろたえているのかといえば…………
 協会認定の訓練士トレーナーは、その身分が闘技会グラディアに於いて保証されている反面、訓練士トレーナーとしてあるべき姿から逸脱した行為が認められた際は、その資格を剥奪されてしまう事があるからだ。
 この『逸脱した行為』というのは客観視による判断のため明文化されている訳ではないのだが、それがまた厄介で。
 『自身が育成するはずの獣闘士ビスタを他人に預け、自分は日銭ひぜに稼ぎのために副業に勤しんでいる』などと通報された日には、どんな裁定が下るのかが予想がつかない。
 そのために俺はミレーヌさんの伝手で組合を頼り、身分を隠しながら獣人診療所で働いていた訳なのだが…………。


「…………ど、どうして協会専属の獣人医であるアンセーラ先生が、中央の診療所に…………?」

「サンティカには獣人の診療所が少ないからね。人馬獣人ケンタウロス族の装蹄道具や、鳥獣人ハーピー族用のギプスのような希少な物資は診療所間で融通し合っているから、その返却に伺ったのよ。それに───────」

「そ、それに…………?」


 アンセーラ先生は、怯えるように聞き返す俺の顔を見てにやりと微笑んだ。


「中央診療所に、若い男の獣人医がいるでしょ。『あれ』ね、実は私の弟なの」

「えええええええええええええええええ!?」


 は、初耳だ……。
 この2ヶ月の間、ずうっとお世話になっていたあの中央診療所の先生が……アンセーラ先生の弟さん!?
 あまりの衝撃に、俺は大声を上げてしまった。
 『聴診器いらず』などと言われるほどの鋭い聴力を持つアンセーラ先生は、俺の大声に顔を顰めた。


「あぁ、もう…………! 相変わらずうるさいわね、君は! 闘技会グラディアのたびに治療室に駆け込んで来るときも毎回のようにやかましいけど、なんとかならないの?」

「い、いえ、すみません……でも……せ、先生の弟さんだったとは思わなくて……このところ殆ど毎日一緒に働いてますけど、全然豹獣人パルドゥース族に見えなかったのに…………」

「弟はうちの一族でも稀有なほど柔和な性格だし、私のような黒変種じゃないからね。それに尻尾は、幼い頃に怪我をして大部分を失っているの」

「そ、そうだったんですか…………」


 言われて見れば、なるほど既視感がある。
 2人とも顔のパーツ、特に鼻の形なんかはそっくりだ。
 でも中央診療所の先生は人懐こい猫獣人ワーキャット族のような印象が強いのだが、アンセーラ先生はまるで猛獣のような……おっと。
 こんな事を考えているのが万一にでもバレたら、命が危うい。


「今月は闘技会グラディアも無いから、暇だったのよ。それに今夜は豊穣祭だし、久しぶりに弟の顔でも見に行こうと思ってお邪魔したところ、君を見かけてしまったと言う訳」

「は、はぁ…………」


 聞けば聞くほど、どうしようもなくどうしようもない理由だ。
 さすがに商業組合の力を以ってしても、姉であるアンセーラ先生がたまたま弟に会いに来てバレるなんてところまではカバーできまい。
 義理堅い弟さんの事だ、きっと俺の事は姉であるアンセーラ先生にだって言っていなかっただろうに。

 さて、困った。
 俺が訓練士トレーナーとしての仕事を放棄して、獣人医の真似事をしているのは見られてしまったはず。
 これが闘技会グラディアの協会にまで伝われば、俺の訓練士トレーナーとしての資格が剥奪されてしまうかもしれない。
 どうすればいい……ここで全てを曝け出して土下座でもすべきだろうか?
 それとも、今からでも街中でとびきり強い酒でも買ってきて酔い潰れてもらうのはどうか……?
 いや、今から酔わせたところで日中に見られた事を忘れてなど貰えまい。
 ……などと狼狽していると、アンセーラ先生は見かねて声をかけてきた。 


「……何やら余計な心配をしているようだけど、安心して。君が『副業』よろしく診療所で働いている事を他言するつもりは無いわ。それよりも…………」

「は、はいっ?」


 気のせいか、アンセーラ先生の眼光がひときわ鋭くなった気がする。
 俺は無意識に背筋を伸ばし、直立する。


「……ピノラちゃんはどうしたの? 診療所に入院している訳でも無かったし、今も家にいる気配も無いわよ」


 張り詰める空気。
 漂う緊張感。
 やはり聞かれてしまうか……いや、当然の事だろう。
 この2年間、文字通り片時も離れる事なく一緒にいた俺とピノラが、並んで歩いていないというだけでも違和感しか無い。
 それは他ならぬ俺自身でさえも、そう思っている事だ。

 アンセーラ先生は獣闘士ビスタでこそ無いが、豹獣人パルドゥース族特有の鋭敏な感覚を備えている。
 今も右耳だけを俺の家の方向へと向けて、様子を探っているようだ。
 家の中にはモコがいるはずだが、ピノラは不在である事など先生にはバレバレだろう。
 怒った様子でこそ無いものの、じっと俺の目を見つめて答えを待っている。
 これでは、まるで尋問だ。
 
 俺は目を閉じ、夜空を仰いだ。


「先生、ここから先にお話しする事は他言無用でお願いしたいのですが…………」

「解ってるってば」

「実は────────」


 俺は意を決し、アンセーラ先生にすべてを話した。
 前回の闘技会グラディアで負けた夜、ピノラと2人で約束した事。
 次の闘技会グラディアで勝つために、ピノラはヴェセットにいるシュトルさんの元で預かって貰っている事。
 そして俺は、武具の代金とシュトルさんへの約束を果たすために働いている事────────

 順を追って話す俺の言葉を、アンセーラ先生は頷きもせずにじっと聞き入っていた。
 今日までの事を全て話し終えると……そこでようやく姿勢を崩し、腕を組んでため息を吐いた。


「…………なるほどね、そんな事になってたの」


 白衣のまま腕を組んだアンセーラ先生は、言葉とともに深いため息を吐き出した。
 玄関前の低い石垣に腰を下ろしながら、アンセーラ先生は目を閉じる。
 いつもより明るい街の灯りによって見えにくくなってしまった星空の下、俺たちは湿った夜風に吹かれている。

 ほんのりと街の明かりに照らされたアンセーラ先生は、俯いたまま口を開いた。


「まぁ、白衣姿のアレン君もなかなか似合ってたから、私としてはそれも良いんじゃないかと思ってはいたけどね。もしこのまま闘技会グラディアでの戦いから身を引いても、アレン君なら弟と同じ診療所で…………」


 アンセーラ先生の黒く艶やかな体毛が風に靡き、まるでベルベットを思わせる光沢を放つ。
 俺は穏やかな表情のアンセーラ先生の前に歩み出て、口を開いた。


「アンセーラ先生、俺は…………俺とピノラは、夢を諦めてはいません」



 金色のガラス玉のような美しい瞳を真っ直ぐに見つめる。
 俺の真剣な眼差しを受け止めるかのように、アンセーラ先生は顔をこちらに向けてきた。


「今は、夢を実現させる準備のために互いに離れているだけです。今までのようにピノラにただ痛い思いをさせるためだけに、闘技会グラディアに参加するつもりでもありません。次の闘技会グラディアで、ピノラは必ず勝ちます!」


 豊穣祭の夜空に響く、決意の声。
 俺は無意識のうちに両手を固く握りしめていた。
 強く、はっきりとした宣誓だったが……何故か俺自身も驚くほどに穏やかな気分だった。
 遠い街の明かりに照らされたアンセーラ先生の顔が、光に滲む。

 しばらく互いの目を見つめたまま立ち尽くしていたが……
 ふと、アンセーラ先生が下を向いたと思うと、すぐ笑顔で顔を上げた。


「…………ふふ、何だ、いい顔をするようになったじゃないの」

「え…………」

「ごめんなさいね、突然お邪魔しちゃって。これ、お詫びよ」


 アンセーラ先生のこんな笑顔など、初めて見たかも知れない。
 凛とした、それでいて大人の女性を感じさせる艶やかな笑みを向けられて、俺はどきりと心臓が跳ねるのを感じる。
 微笑みながら近寄ってきた先生は、俺の目の前で足を止めると、右手に持っていた小袋を差し出してきた。


「先生、これは…………?」

「豊穣祭の露店で買った、串焼きと麦酒ビールよ。中央診療所で君を見かけた時、本当に訓練士トレーナーとしての道を諦めちゃったのか、もしくは余程お金に困る生活しちゃってるのかなって、心配になったの。これは、優しい私がそんな君にあげるつもりで買って来てあげた、貴重な差し入れよ」


 袋からは、香ばしい良い匂いが漂ってくる。
 大きな葉で包まれた、出店の串焼きだ。
 小瓶に入れられた麦酒ビールも入っている。
 俺が袋を受け取ると同時に、アンセーラ先生は俺の横を抜けて歩き出した。
 通り際に俺の肩をひとつ軽く叩くと、まだまだこれからが祭本番の街中に向けて歩いてゆく。
 煌々と光る祭りの灯りを背に、くるりと振り返った先生は……見たことも無いような優しい顔をしていた。


「アレン君。夢を追うために根を詰めるのも結構、だけど季節の行事も楽しめないほど切羽詰まってるようじゃ、いつか身体を壊しちゃうわ。今日はこれでも飲んで、酔っ払って寝ちゃいなさい。いいわね?」


 それだけ言うと、街の方へと向き直った先生は片腕をひらひらさせながら去っていった。
 白衣の袖から覗く手首は、いつもの印象とは違ってどこかか弱い女性のような印象を強く残す。

 まさか、本当に俺の事を心配して家まで来てくれたのか────────


「アンセーラ先生っ! ……ありがとうございましたあっ!!」


 俺は花火の上がり始めた夜空の中、帰っていくアンセーラ先生にお礼の言葉を叫ぶ。
 だがそれは、空に咲いた光の花から数秒遅れで響いた音にかき消されてしまった。




「…………やれやれ。寂しそうにしているのであれば、酒でも付き合ってあげようかとも思っていたんだけど…………あの様子じゃ、私がお邪魔できそうな場所は無いわね」


 花火の音に合わせて、黒く太い豹獣人パルドゥースの尾が踊っていた。
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