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第五章 懊悩編

懊悩編43話 キマイラ症候群、ステージ4

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「………結論から言おう。キマイラ症候群、ステージ4だ。肝臓を始め、他の臓器への転移も見られる。余命は半年、よく持って一年……」

………私がステージ4のキマイラ症候群だと? そんなバカな!!







今日も私は霞ヶ関のオフィスで執務にあたる。社会を動かし、変えていく為に。

社会を動かすのは理念でも情熱でもない。

金だ。金が日本の社会を、そして世界を動かしている。

つまり金を動かす者が世界を動かしているのだ。日本で金を動かす者達、それは我々財務官僚だ。

苫米地とまべち君、このレクではあの副大臣には理解出来んぞ。もっと分かりやすく端的に書きたまえ。」

「はい、レベルを落として書いたつもりなのですが、まだ足りませんでしたか。」

「レクの相手の政治家の事ぐらいよく調べておきたまえ。ド田舎の世襲議員で親の地盤と看板だけで当選を重ねただけの男だぞ。中身などありはせんのだ。引退した父親の威光がまだ健在だから箔付けで副大臣の肩書きを貰ったに過ぎん。マクロ経済とミクロ経済の違いが分かっているかすら怪しいものだ。」

「天掛審議官は手厳しいですね。レクは書き直しておきます。明日中で大丈夫ですか?」

「今夜中だ、私は水木局長と会議があるので今日はここへは戻らんが、明日の朝にはチェック出来るようにしておきたまえ。この二世自身はボンクラだが、親父の方はまだ政界への影響力がある。うまく乗りこなすだけの価値はあるからな。」

「はい、審議官。」

まったく、苫米地君は使えない訳ではないが、まだまだ仕事を任せきる訳にはいかんな。





会議は踊る、とはよく言ったものだ。

空転空転、噛み合わない議論に浮ついた省益の応酬。これでは政治家の事を笑えんぞ。

空虚な会議が一応の決着をみるのに4時間もかかってしまった。

会議室外の廊下から東京の夜景を眺める。燦然と輝くこの街、そしてこの国を動かすダイナミズムは私が求めてやまなかったものだ。

………波平はどこかの地方都市で侘しい夜景でも眺めているのだろうか?

馬鹿馬鹿しい、波平には大志も大望もなかった。ただただ平凡、そんな人生になんの価値がある。

一度きりしかない人生を浪費したければすればいい。

虎の子が虎とは限らん、それが家庭を持って得た教訓だ。

そんな愚にもつかない回想を断ち切ったのは水木局長の声だった。

「天掛君、ご苦労だったな。なんとかまとめてくれて助かったよ、これで一段落だ。」

「水木局長、国会ではすでに補正予算の審議が始まってます。大変なのはこれからでしょう。」

「うむ、だがそっちは事務次官マターだからな。あまり口出しもどうかと思うよ。早いトコ、私に椅子が回ってくるといいんだがね。ま、こんなところで立ち話もなんだ。一杯飲みながら話さんか、次期局長?」

「ご冗談を。無論、ご相伴に預かろうと思いますが。」

私はビルを出てタクシー拾い、局長と共に料亭へと向かう。酒は一人で飲みたいものだが、これも仕事の一環だ。




料亭「明星」は密談にはもってこいの場所で政治家達もよく利用する。

料理も酒も申し分ないが、酒の相手が脂ぎった上司ではいささか艶に欠ける。画竜点睛を欠く、か?

いかんな、仕事と割り切らねば。

「天掛君、君は政界に転身する気はないのか?」

「政界、ですか? そういう話がきていると?」

政界か、興味はある。政治家もピンキリあるが少数だが優秀な人間はいて、大臣ともなれば権限は大きい。

大臣を上手く使うのが官僚の腕の見せ所だが、私なら官僚を使いこなす大臣になれるはずだ。

それになんと言っても日本の最高権力者と衆目が一致するのは大臣達の上に立つ者、だからな。

その高みへの道は険しいだろうが、だからこそやり甲斐がある。

「そういう意思があるか確かめてくれないか、と匂わされたというところだよ。与党の有力議員からな。」

政界転出の誘いか。私に離婚歴がなければ、もっと早くそんな話がきていたろうが。

「考えた事もありませんでしたね。日々、仕事に追われていたもので。」

そんな意思はない、と答えるのもマズいが、あると答えるのもマズい。

「そうか、まだ選挙もなかろうし直ぐに答えんでもいいだろう。だが天掛君の判断によってはワシも色々考えねばならん。」

だろうな、局長の手駒の中で一番使えるのは私だ。

政界への転身、考える価値のある話だが、もう少し裏を取らねばならん。明日から少し与党に探りを入れてみよう。

安定を考えれば官僚を続けるべきだな。

水木局長が事務次官となれば局長の椅子は私に回ってくる。局長になれば事務次官も狙える。

今から政界に飛び込んで事務次官の上を狙えるものだろうか? 

私の歳なら政界では充分若手の部類だが、同世代の世襲議員に比べスタートラインが不利だからな。

それに政治家の辛いところは衆愚から支持されねばならん事だ。私にそれが出来るだろうか?

当選出来たとしても陣笠議員で終わるくらいなら官僚を続けたほうがはるかにいい。

「ところで天掛君、キミ、少し顔色が悪くないか?」

「このところ激務続きでしたので疲れているのでしょう。」

「体は大事にしたまえ。健康あっての人生だぞ。ワシも女房のススメで黒酢とやらを飲み始めてな……」

取るに足らない話に相槌を打ちながら、私は官僚としての出世と政界への転身を天秤にかけて考える。

官僚の力に限界を感じ始めたのは頂点が現実味を帯びてきた最近の事だ。

さらなる力を求めるなら政治家になるしかない。

そして政治家に転身するなら今しかない。壮年と言える今しか。

だが官僚を続ければ事務次官の椅子も夢ではない。

しかし政治家として最高の位まで登りつめれば、その権限は事務次官の比ではない、か。

………より高みへ、より強大な権限を持ってこの社会を変える。ならば転身を考えるべきか?

………だが叶わぬ夢に価値などない。夢は見るだけで価値があるなんて世間知らずの綺麗事は、一年もせずに消える流行歌の中にしかないのだから。

官僚か政治家か、どの道が正解なのだろうか?



朝、いつものように目覚めた私は、シャワーを浴びて都内の自宅から霞ヶ関へ向かう。

通勤途中の電車内で胃のあたりに鈍い痛みを感じる。

昨日は水木局長に付き合って深夜まで飲んでいたからな。

もう私も若くはない、少しは健康にも気をつけるべきか。

年に一度だけ人間ドッグに入ってはいるのだが、それだけで万全とは言えない。

健康不安で失脚した政治家を何人も見てきた。政治家へ転身するなら健康は必須条件だ。

生活習慣から改める時期がきているのかもしれない。

水木局長が始めた黒酢とやらは効くかな? 黒酢はともかく最近は怪しげな健康食品や器具をよく見かけるようになった。

厚生労働省の連中はちゃんと仕事をしているのだろうな? 怪しいものだ。

そんな事を考えている内に霞ヶ関に着いた。さぁ仕事の時間だ。



「うん、こんなところでいい。最初からこうしておけば二度手間を踏まずに済んだんだぞ?」

「面目ありません。まだまだ天掛審議官の指導が私には必要なようです。」

ふん、見え透いた世辞を言うものだ。私に引き上げてもらって出世を狙っているのだろう?

「ところで来週の国際会議の件だ……が………グッ!!」

「天掛審議官、どうされました!?」

「………差し込みとでも………言うのか。少し胃が痛んでな。昨日飲み過ぎたせいだと思うが………」

「早めに病院に行ったほうがいいですよ。来週からは国際会議です。またてんてこ舞いで医者にかかるヒマなんてありませんから。」

そうだな、今日の昼からの予定なら苫米地君でも代行出来るだろう。

一度、どこまで出来るのか見ておくのもいい。

どこまで期待できて、どこからが期待薄なのかを把握しておくのにいい機会かもしれん。

「今日の昼からの予定は苫米地君が代行してくれ。私は大学時代の同窓生がやってる病院があるから、そこへ行ってみよう。」

「はい、天掛審議官、お任せ下さい!」

随分と張り切っているじゃないか。お手並みを拝見しよう。

君には目をかけてきたつもりだ。私の期待を裏切るなよ?



共生会病院、全国でいくつもの大病院を持つ日本屈指の医療財閥。

その経営者の一族である雨宮と私は学部は違えど大学の同期生で、今でもそれなりに付き合いがある。

雨宮は財務官僚として頭角を現した私とは付き合っておいて損はないという計算もあるに違いないが。

せっかく貴重な時間を潰したのだから精密検査を受ける事にするか。

今まであまり健康には気を使ってこなかったからな。




予約は入れていなかったが雨宮の顔でなんとかしてくれた。

その雨宮は現在この病院の外科部長、結構なご身分だ。

生まれながらに地位も栄達も約束されているのだから、しがない神主の倅に生まれついた私とは大違いだな。

私は雨宮と違って自分の力だけでここまできた。だが雨宮との付き合いは無駄ではなかったかもしれんぞ。

政治家への転身を本気で考えるなら金がいる。雨宮は金だけは持っている、いや、票もだ。

そんな事を考えてながらタブレットで仕事もこなす。

「天掛光平さん、お入り下さい。」

看護師から呼ばれ、診察室に入る。忙しい私を随分待たせてくれるじゃないか。



診察室では学生時代と比べれば10キロは増量したであろう雨宮が気鬱げな表情でカルテを見ていた。

医者の不養生とはよく言ったものだ。他人を診察するより自分が成人病予防をした方がいいんじゃないか?

「天掛、君は奥さんとは離婚していたね? 今でも連絡は取っているかい?」

「取る訳がなかろう。離婚してから電話すらした事がない。」

「息子さんは? ウチの息子とよく遊んでくれた波平君はどうしてる?」

「どこぞの地方大学に行ったよ。二年程会っていないな。」

雨宮は心底呆れた顔をする。昔から感情をすぐ表情に出す男だ。よく医者が務まるものだよ。

「天掛………波平君がどこの大学に行ってるかも知らないのかい? 一人息子じゃないか!」

相変わらずお節介な男だな。私は家族の話をしにきた訳じゃない。

………政界への転身を考えている今は無下にも出来んか。雨宮はまだ利用価値のある男だ。

「………関西のどこかだろう。仕送りの金の送り先が関西の地銀だったからな。」

「そんな事じゃないかと思っていたけど………君は家族をなんだと思っているんだ?」

自分の息子が医大に入った自慢でもしたいのか? 私に勝ってる部分は息子の出来ぐらいしかないからな!

………いつもは制御出来ている感情が、今日はなぜだか制御出来ない。

この言いようのない不安感はなんなんだ!!

「………波平の話はもういい。他人の家庭に口を出さないで貰おう。」

「お母さんは既に亡くなっているんだったね。失踪したお父さんはどうなった?」

………おい、なぜ私の検査結果に家族が関係してくる………ま……まさか!

「親父は失踪したままだ!………雨宮!検査の結果を言え!!」

たまらなくなって私は叫んだ。心の中に暗雲が急速に立ちこめてくる。

………ふくよかな雨宮の顔が不吉極まりない死神の顔に見える。





「………わかった、家族とそんな状態ならキミに直接告知しよう。………結論から言おう。キマイラ症候群、ステージ4だ。肝臓を始め、他の臓器への転移も見られる。余命は半年、よく持って一年………」





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