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7.その手を振りきって《4》

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 朝が来て、学校へ行くために家を出た。……はずだったが、気がつくと家の中にいる。あわてて外へ出て鍵を閉め、学校に急いだ。でもまたいつのまにか家の中に戻ってしまっている。
 それを四回は繰り返したろうか。突然ひどい方向音痴になったみたいだ。いったいどうしたんだろう? こんなときは外へ出ないほうがいいのかもしれない。家を出てはまた戻るというのを何回もしていたら、近所の人に見られたとき心配される。やむなく学校に欠席の連絡を入れた。
 学校を休むなんて生まれて初めてだ。病気をしないので休んだことがないし、眠らないので朝起きる必要がなく、遅刻をしたこともない。今日一日何をして過ごしたらいいんだろう。庭の景色を放心状態で眺めた。
 外に出られないということは買い物にも行けないということか。二階に上がって窓からあたりを見回したがこの異常事態はうちだけらしく、見かけた人はみんな外で普通に活動していた。明日もこんなだったら困るな、と思いながら下に降りた。
 ニュースを見て最新の事件を知り、そのあと情報番組を見て最近の芸能事情にちょっと詳しくなったところでもうつまらなくなってきた。こんなの見てる場合じゃないんじゃないか。テレビを消して二階の自分の部屋へ上がった。
 この家の部屋すべてを使っているわけではないが、生活スペースを一階に、自分の部屋を二階に持ってきたのは単に習慣からだった。生島家でも二階に自分の部屋があったから。鉄哉と同室で、二つの机を左右の壁に向け、二段ベッドで寝ていた。二人とも上の段が好きだったので、ベッドは一年交代で上下を入れ替えた。
 ……机でも整理するか。そういえば机の上を拭くことはあっても、引き出しの中までは拭いてなかったな。そう思うとさっそくやろうという気になり、下から雑巾を持ってきた。
 引き出しの手前は目につくので乱れを直していたが、奥は無関心だったので隅に少しホコリがたまっていた。一つずつ引っぱり出して中身をあけ、いらないものを捨て、中を拭き上げてまた収めるという作業に没頭した。
 四つの引き出しをすべて整理し終え、今度は畳を拭くことにした。水拭きすると畳が傷むらしいので、普段はほうきでざっと掃くだけだ。でも水で拭くと気分がすっきりする。
 這いつくばって畳の目にそって拭いていると、机の奥の床に何か落ちているのを見つけた。おととい掃き掃除したときにはなかったので、引き出しを出したとき引っかかって下に落ちたんだろう。
 ああ、これか。二つに折った封筒は引き出しの隙間にはさまったせいで、無残にしわが寄っていた。中身を久しぶりに出してみると、丈夫な紙で出来ているせいか意外と崩れてなかった。
 折り紙でつくった指輪だ。色紙より厚い、虹色の光沢を持つ変わった紙で折られていて、指を通すところがあり、石を模して四角く折られた部分もある。結構凝った作りなのだ。もちろん形が指輪なのであって、指にはめるには大き過ぎる。
 この指輪は昔鉄哉がくれた。小学三年のときクラスが初めて別々になって、彼には何か思うところがあったらしい。同じ学年に男女の双子がいてそちらも別のクラスになっていたので、わたしは当然の処置だろうと思ったが、鉄哉のほうは引き離されたように感じたらしく、だいぶグズグズ言っていた。不器用な彼が本を見て懸命に作ったということで評価はしたが、何でだろうという疑問のほうが強かったのであまり喜ばなかったような気がする。机の上に置いてたまに眺めるくらいだったが、ここに引っ越してくるとき封筒に入れてからは一度も出してなかった。
 時間がたっているのと力がかかったのとで、輪っかの内側にある折り合わせが歪んでちょっとめくれ、鉛筆の線が見えていた。何か書いてたみたいだ。ゆっくりと紙をほぐして広げてみると、下手な字で

「えみちゃんがいなくなりませんように。
 ずっといっしょにあそべますように」

 と書かれてあった。
 この頃に戻れたらどんなに気が楽だろう。以前のわたしにとって鉄哉は仲間であり、兄弟であり、友達だった。でも彼の成長がある一点を越えたときから、遠い存在になり始めた。
 彼がわたしの命を握っているとか、自分が十七歳でいなくなるとか、そういうことはじつは関係がないのかもしれない。手綱と狗の契約を知る少し前から、変わりだした彼の外見がわたしにあることを悟らせた。――もうすぐ大人になるのだ。わたしとは違う種類の生き物で、いずれ自分の仲間に迎え入れられ、その中の誰かを選ぶ。そこにわたしの居場所なんてどこにもない。その取り残されたような寂しい気持ちは、時がたつほど強まっていった。
 それまでは当然のように、現在が未来も続くものと思っていた。自分がいなくなるという予言を本当の現実としてとらえたことはなかったし、気をつけさえすれば普通の人間と変わりなく生きていけると信じていた。でも努力とか我慢とか、そういう次元の話ではなかったのだ。わたしと鉄哉は同じではない。生まれ変わりでもしない限り同じになれるはずもない。

 わたしでさえ違うと感じたのに、鉄哉にそれがわからないとは思えないが、彼の態度は変わらなかった。最初と変わらない一途さで、そしてこれまでとは違う感情で追い求めてくることがわたしの気持ちを変化させることはなく、だんだん苦痛になってきた。もうわたしは距離を置こうとしているのに、どうして気付いてくれないのだろう。どうしてこの人は自分の場所へ戻ろうとしないんだろう。
 手綱と狗の契約を知ったとき、完全に断ち切ってしまおうと思った。たしかにあのとき形容しようのない怒りに震えたが、鉄哉に怒る以上に、自分を取り巻く理不尽に怒っていた。――何もかもわたしが人間でないせいだ。わたしだけが違っているからだ。何一つわたしの望み通りならないし、誰もわたしに望みなんてなく、望みがあっても聞き入れる必要はないと思っている。自分の自由になるものは自分の命しかないのだと思うと、それを奪いに来るかもしれない鉄哉は、もはや敵としか言いようがなかった。

 もうこいつを見るまいと思った。心を閉ざし、その行動には何の意味もないのだと考えるようにした。今はわたしにいろんなものを渡そうと必死になっているが、やがてそれをしても意味はないのだと気付くだろう。遠くないうちに必ずそうなる。自分の心を守るために、本当の彼を見ないように意識を操作することにしたのだ。でも彼の善意や好意、熱意を無視し続けるのはとても疲れたし、気が滅入った。十七歳でこの葛藤は強制的に終了するのだということが、かえって救いになっていたぐらいだ。

 いつか鉄哉の気持ちが離れても、わたしは何も感じない。次の人生にも黙って従っていける。鉄哉のことを考えるのは、いなくなってからにしよう。鉄哉が自分にとって何だったのか、どんな意味を持っていたのか、一人になって彼と二度と会うことはないとわかったら、安心して考えられるようになるだろう。でも閉め出しても閉め出しても、彼は心の中に入ってきた。
 飢えや乾きを知らず、暑さや寒さに悩まされることもなく、傷の痛みや病の苦しみでさえわたしの表面を滑り落ちていく。今、そのわたしの心をしがむように噛みしめ、血をにじませ続けているのは鉄哉の存在だった。わたしを離すまいと必死にしがみつき、喰らいついてくるその痛みだけが、感覚のすべてになってしまっていた。

 こんなに縛られていたなんて。その言葉や行動、一緒に過ごした歳月が積もり積もって重い鎖と化し、わたしの心身をがんじがらめにしていた。その重さと不自由さが、かえって安らぎをもたらすほどに。
 この世を迷いなく捨て去れるのは、鉄哉にとってわたしは意味も関心もない存在になると思えたからだ。でももし、これから先も鉄哉がこの指輪の中にある彼のままなら、死ぬまでそうなのだとしたら、わたしにはこの世界を捨てきれない。来年になっても、再来年になっても。


 指輪はわたしを支えるものを奪っていった。一人でいられる強さ、一人で生きていく覚悟、すべてが平気に思える何にも執着しない心。ここにいてもしょうがないのに。彼の人生を正しい方向に進めるために、わたしの消滅が必要かもしれないのに。
 ここに残ったとしてもどうせ鉄哉は先に死ぬ。わたしはそのあと一人で途方もなく長く生きていかなくてはならないかもしれない。一時の感情に振り回されず、正しい目で見て判断すべきだ。そして鉄哉の命はもっと意義あることに使われるべきだ。
 以前神と思われる女の子が来たとき、鉄哉はあとに残されるわたしにすべてを与え、必要な物をすべて持たせると言っていた。でもすべてを与えられ、すべてを持たされても、わたしにはその重みに一人で耐えられる自信がない。もうどうしたらいいのかわからない。すべてが複雑にこじれ、何から手をつけたらいいのかわからなかった。涙がこぼれ、自分が一人では何も出来ない無力な存在になってしまった気がした。

『お前はいつからかそうなっていた。姿は見えなくても、奴の存在を心の中で追っていた。私への恩からそれを表に出すことはなかったが、今は隠す必要がない。しかしやはり気が咎めるらしい、あいかわらず自分を強く抑えつけている』
 改源さんの声が聞こえてきた。振り返ると、彼は寂しそうな顔でわたしを見ていた。
『お前を手放さないのは、お前たちに縁がないと知っているからだ。同じ世界に生まれて互いの存在を知ることが出来ても、それ以上の関わりは持てない。しかし相手を忘れられず、それぞれで苦しみ続けている。
 奴が触ると、お前は強烈に体が痛まないか?』
「痛いです。何で知ってるんですか?」
『落女のように扱われたらかなわないからな、お前が拒みがたいと感じている精通した男が触れれば、猛烈な痛みが発するように仕掛けてある。これはお前も承知の上でしたことだ。自分が誰か忘れた世界で簡単に相手を受け入れて、後悔することがないように。
 しかしこれは護りであって、呪いではない。お前が外そうと思えばいつでも外せる』
「――いいんですか、そんなこと教えて」
『知ったうえでどうするかはお前の自由だ。もっと他に知るべきこともある。今は理解出来ないだろうから言わないが、お前のすべてを決定付ける非常に重要なことだ。
 手元に置きたくて言うのではないが、お前はここにいてもけっしていい結果は得られない。先延ばしにすればつらくなるのはお前のほうだ。来年自分はかなり難しい選択をしなくてはならないと覚悟したほうがいい。私はその選択をさせまいとして、お前を連れて行こうと考えていた』
「……難しい選択……?」
『それにしても、第五世界の人間とは思えないことをしているな。あいつは』
 改源さんは部屋を見回した。わたしにはわからないが、鉄哉が何かしているらしい。そう考えると天井や壁が少しずつ迫り、わたしを逃すまいと身構えているように感じられた。

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