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1.わたしを縛る人《3》
しおりを挟むわたしと鉄哉が初めて会ったのは四才のときだ。その頃彼ら生島家は小さな島に住んでいて、わたしの記憶はその島へ向かう船の中から始まっている。隣には叔父がいて、『あの島がそうだ』と指さしてわたしに教えてくれていた。
生島家はもとからそこにいたわけではない。鉄哉の父である生島のおじさんが家と故郷を嫌い、あちこちを転々としているうち「もう子供が生まれたんだからいい加減一か所に落ちついたほうがいい」と知り合いに声をかけられ、その島にいっとき引っかかっていたのだ。島は不便で人口も少なかったが、彼らのように事情がある子供を育てる人たちにとっては過ごしやすいところだった。
『生島の男の子はきっとお前が来るのを楽しみにしているだろう』
叔父はそんなことを言っていた。生島家にはわたしと同い年の子供がいるらしい。
彼らは島のはずれに建つ古い平屋に住んでいた。わたしと叔父が玄関の前に立ったとたん、ノックもしないのに中から男の子が裸足で飛び出してきた。
「エミちゃんだ! エミちゃんだ!」
理解不能なまでに大騒ぎしている。あっけにとられていると今度は急に黙り、足元にオシッコの水たまりをつくった。わたしはたちまちげんなりした。こんな奴と仲良くしなきゃならないなんて、と思うと前途が憂鬱だった。
生島のおじさんはレスラーのように見えた。背丈は普通なのだが体格が並外れて良く、顔が角ばっていて大きいのでそんな印象を与えるのだった。
「よく来たね、疲れたろう。中に入ってジュースでも飲みなさい。鉄哉はちょっとバカだけど、普段はもっとマシだから安心してね」
引っ越しの多い生活の名残りか、家は小さいのに物が少ないせいで、中が広く感じられた。息子のおしりを拭いたあとわたしにジュースを出してくれた生島のおばさんは、おばさんと呼ぶには気が引けるほど若かった。実際当時まだ二十三歳だったのだ。おじさんとは二十歳近い年の開きがあった。わたしが「お姉さん」と呼ぶと、「おばちゃんって呼んでいいのよ」と笑った。
着いたのが夕方近くだったのですぐ暗くなり、夕飯を食べさせてもらった。風呂に入り、わたしと叔父は用意されていた部屋で横になった。わたしはかねてから教えられていた通り、布団の中でじっとして朝を待った。隣を見ると、叔父も天井を見つめてじっとしていた。窓の外が少し明るくなってきたところで叔父に声をかけられ、近くの浜へ散歩に出た。
叔父はわたしの母の弟ということだったが、今思い出すと高校生ぐらいだったような気がする。一見すると女の子のようにきれいな人だった。
『昨日は言われた通りじっとしていたな。これからもそうしなくてはいけない。人間は夜はたいてい眠っているものだ』
叔父はわたしを褒めた。人間は夜になると一時死んだように動かなくなるので、誰かがまわりにいるときは同じようにしなくてはならないと叔父に教えられていた。でもその眠るという状態が、わたしにはいまだによくわからない。明かりを消して家を暗くし、本を読んだり静かに掃除したりするのがわたしの夜の過ごし方だ。
黙って歩きながらわたしにはこれがただの散歩ではなく、叔父との永遠の別れになるとわかっていた。けれども寂しいという気持ちはなかった。育ててくれた人には違いないが、これまでの記憶がないので愛着のわきようもない。ただ知識としてその人を知っているだけだった。
『お前のこれからの面倒は生島家がみてくれる。生島の人たちはお前を気に入ったようだ。彼らにはお前が何者かわかっているが、他の人間たちはそうではない。とにかく気をつけるように』
叔父が遺言めいた話を始めた。
「お前がこの世で生きていくためには、あの鉄哉という子が必要だ。けっしてあの子に逆らってはならない。あの子から離れようとしてもいけない。不自由だろうが、それがお前のためでもある。
しかし思ったより善良でよさそうな子だった。それに頑固で、容易に自分の信念を曲げないふうでもある。きっとお前の幸福を念頭に置いてくれるだろう。
人間の生活がふさわしければ幸せになれる。たぶんお前を連れ出そうとする者が現れるが、踏みとどまるかどうかは自分で決めるしかない。お前は辛抱強いし賢明でもあるから、きっと一番いい選択をすると思う」
軽く頷いたつもりだったが、ガクッと脳みそが揺れたように視界が混乱し、砂の上にひっくり返った。しかしそれも錯覚で、両足は依然として砂浜を踏んでいる。さっきまで目の前にいた叔父はどこにもいなかった。沖へ泳ぎ去ったわけでも、空を飛んでいったのでもないようだ。わたしは一人になったことを知り、来た道を戻った。
生島の家の近くで、おじさんが朝日を浴びながら立ったり座ったり、落ち着かない様子でタバコを吸っていた。わたしを見つけるとハッとしたようにタバコを捨てて火を踏み消し、駆け寄ってきた。
「行っちゃったか?」
そう聞かれたので、わたしは頷いた。
「大丈夫か?」
おじさんはわたしを心配して待ってくれていたのだ。ということは、おじさんは叔父が消えてなくなることをあらかじめ知っていたとも言える。わたしは平気だという印にまた頷いた。
「――じゃあ一緒に朝ご飯食べよう。おなかすいたろう? おばさんに卵焼いてもらおう。エミちゃんは卵焼きは甘いのが好きかな? しょっぱいのが好きかな?」
おじさんの大きな手がわたしの肩に置かれ、家まで連れ帰ってくれた。気遣ってもらっている、と感じたが、わたしはそのあと一度も泣かなかったし、叔父がいつか迎えに来てくれると期待することも、思い出して悲しい気持ちになることもなかった。
朝食のあと鉄哉から外で遊ぼうと誘われた。ついさっき叔父と別れたばかりの浜辺で、彼ご自慢の砂遊びの道具で濡れた砂を掘ったり貝をとったりしているのを見せられた。何が楽しいのかわからないながら、とりあえずその真似をした。
「地面の下にクジラがいるよね」
鉄哉が不可解なことを言った。
「え?」
「お父さんとお母さんに言ったんだけど、見えないんだって。誰にも言ったらダメだよって言われた。ヘンな子って思われるからって。大人だからだよ。大人だから見えないんじゃないかなあ」
子供のわたしにもクジラは見えない。鉄哉によればそのクジラは島より大きく、じっと動かないでいるらしい。海の向こうにもちらほら小さいのがいるとのことだった。
彼は島の下にあった石炭か石油の層をクジラと勘違いしていたのだ。黒く大きかったため、これはきっと図鑑に載っているクジラというやつに違いないと解釈したのだろう。
その後島を離れ、少し田舎だが適度に便利なこの土地に引っ越した。もともと料理人だったおじさんは「大炎上」という鉄板焼きの店を開き、現在も絶賛繁盛中だ。
小学生のあいだは生島家で寝起きしたが、中学生になると以前からの取り決め通り、わたしは近くに一軒家を借りて一人暮らしを始めた。この一年、自分でも上手に生活を管理してきたと思う。何しろ時間だけはたっぷりあるので、好きなだけ身の回りのことが出来るのだ。わたしは家の中をちまちま整えたり、さっぱりさせたりするのが好きだった。
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