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第7章 未来への一歩
第365話 お弁当とハンカチ
しおりを挟む「飛鳥……っ」
すると今度は、ミサが目に涙をためながら、飛鳥の名を呼んだ。
「あの、ごめんなさい……私、ずっと、あなたを苦しめていて……謝って、すむ話ではないけど、本当に……本当に、ごめんなさい……っ」
今にも泣きだしそうな声で、深く頭を下げてきたミサ。それを見て、飛鳥は
「あのさ、こんな所で泣かないでくれない。俺が泣かしたみたいじゃん」
「……っ!?」
瞬間、あまりに辛辣な言葉がかえってきて、ミサは声にもならない悲鳴をあげた。
怒られた!!
あの天使のように、可愛く優しかった飛鳥に!?
「ご、ごめんなさい……っ」
「…………」
涙をグッとこらえて、ミサは、再度飛鳥に謝った。その姿は酷く弱々しく、まるで別人のようにすら思えた。なにより
(怒らないんだ……)
その姿に、安堵と罪悪感が、同時に押し寄せる。
少しだけ、試したのはあった。昔は、口答えしようものなら、酷く怒鳴りつけらていたから、今のこの人はどうなのだろうと。
幼い頃、飛鳥は、よくミサに怒鳴られ、その度に萎縮して、怯えていた。
涙を流しながら、必死に扉をたたく音も、閉じ込められた部屋の中で、茫然と外を眺める日々も、鮮明に覚えてる。
それが、今はどうだろう。
口答えしても叱られることすらなく、それどころか、まるで叱られた子供みたいにあの母が、息子の自分の反応に怯えてる。
(……なんか、変な感じだな)
こうも立場が変わるとは思ってなかった。
この先、一生、この関係は覆らないと思っていた。
少し前までの自分を思い出す。
この人の姿を見ただけで、呼吸が乱れ、立つことすらままならなくなっていた、あの時を――
それなのに、あれほど大きく恐ろしい存在だったこの人が、今は、とても小さく見えた。
「仕事……大丈夫?」
「え?」
すると、飛鳥がポツリとつぶやき
「何の連絡もせず、来たから」
「あ……大丈夫よ」
「そう……復帰してから、どう?」
「え?」
「つらいこととか、困ってることとか……ない?」
「………」
その言葉に、ミサは涙をうかべたまま、更に大きく目を見開いた。
その飛鳥の声が、あまりにも優しくて、気を抜けば泣いてしまいそうだったから。
「っ……だ、大丈夫。休職して、責めらると思ってたけど、みんな優しくしてくれるし……課長達のおかげで、秘書課の手伝いもしなくなって、今は、とても穏やかよ」
「そう……」
よかった──素直にそう思って目を細めれば、その飛鳥の笑みに、ミサの胸はいっぱいになった。
飛鳥が、笑ってくれた。
それは、もう何年と見ていない、わが子の笑顔だった。モデルとして無理に笑わせていた、あの頃とは違う
愛する子の──心からの笑顔。
「っ……う、ぅ」
溢れ出しそうになった涙を、また必死に堪えた。
これ以上、嫌われたくない。
飛鳥に、迷惑をかけたくない。
その一心で『強くなれ』と、ミサは自身に言い聞かせた。
すると、飛鳥は、ミサが忘れたお弁当を差し出しながら、また話しかける。
「これ、エレナから預かって来た」
「あ……ありがとう」
「うん……じゃぁ、俺……もう帰るから」
簡潔に要件を伝えて、サヨナラをする。
本当に、必要最低限の会話だけ。
今はまだ何を話せばいいか、よく分からない。
だけど、久しぶりに言葉を交わせたのは、ここまで会いに来たのは、決して無駄ではなくて……
「あと……一つだけ、聞いていい?」
「……え?」
すると、去り際に飛鳥が、ミサを見つめた。
目が合えば、その青い瞳に魅入られる。
歩み寄るために、第一歩。
まずは「あの人」なんて呼び方を、やめよう。
「俺、これから、なんて呼べばいい?」
「え?」
「名前? それとも……」
『母』と呼ぶべきか──否か。
ずっと悩んでいた。
でも、いまだに答えが出ない。
すると、ミサはその問いに、侑斗の言葉を思い出していた。
『この先、お前が母親として『ゆり』を超えることはない。例え血が繋がっていなくても、飛鳥の母親は"ゆり"だけだ』
あの言葉には、深く納得した。
飛鳥にとって、自分はもう母親ではない。
でも、それでも、こうして、自分に采配をゆだねてくれるのは、飛鳥の優しさだ。
きっとここで「お母さんと呼んでほしい」といえば、飛鳥は呼んでくれるのかもしれない。
この子は、昔から、そういう子だった。
でも……
「ミサで、いいわ。私は、もうあなたの母でいる資格はないから」
「……」
エントランスの端っこで、二人静かに話をする。
何年分もの、想いのこもった会話。
すると、飛鳥は――
「そう……じゃぁ、ミサさんって呼ぶ」
そっけない返事。
でも、今は名前を呼んでくれるだけでも幸せだと思った。
あんなにも会いたかった飛鳥と、またこうして話ができた。
会って、目を見て、話をして
そんな、当たり前のことが、もう二度と叶わないと思っていたことが、こうして叶った。
だから……今は、それだけで
「ッ……、ぅ」
すると、また涙が溢れそうになって、ミサは自分の目元を押さえた。
泣いてはいけないと思えば思うほど、涙が止まらなくなる。
「……使う?」
「!」
すると、飛鳥がハンカチを差しだしてきた。
これで、涙を拭けとでもいうように
「泣き虫なところは、昔と変わってないんだね」
「……え?」
「いや……このハンカチ返してね」
「え、あ……」
「……なに?」
「いえ……双子と、同じことを言うのね」
前に、あの妹弟にも、同じことを言われた。
つながりを切らないように、また、会うための約束を、ハンカチに託してくれた。
そして、それをまた、飛鳥がしてくれたことに、胸がいっぱいになった。
(ハンカチ、持ってるけど……)
本当は、スーツのポケットの中に、ハンカチが入っていた。
でも、ミサはそのハンカチを出すことなく、飛鳥のハンカチを受け取ると、こらえていた涙をそっと拭った。
触れたハンカチからは、不思議と懐かしい香りがした。愛する我が子の、懐かしい香り。
「じゃぁ、俺もう行くから……仕事、頑張って」
すると、飛鳥は改めてそういって、ミサに背を向けた。ミサは、そんな飛鳥の背を見つめ、また呼びかける。
「飛鳥、ありがとう……!」
そういったミサに、飛鳥はまた、振り返ると
「うん、……またね」
そう言って、柔らかく微笑んだ飛鳥に、ミサはまた涙を流し、何度と「ありがとう」とつぶやいた。
「ありがとう、飛鳥……私、また……会っていいのね……っ」
あなたに、飛鳥に――
涙は、止まらず流れる。
だけど、心はとても温かかった。
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