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最終章 箱と哀愁のベルスーズ

箱と哀愁のベルスーズ ⑫ ~ 子守歌 ~

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 4月14日。
 結月は、月の美しい夜に産まれてきた。

 洋介は、当然の如く喜んでくれた。

 初めて抱く我が子は、ミルクのような優しい匂いがして、純白の産着に身を包んだ結月の可愛さに、洋介の頬は緩んでばかりだった。

「可愛いなぁ、結月は……美結、結月を産んでくれて、ありがとう」

 その姿は、まさに父親そのもので、そう言って、幸せそうに笑った顔は、今でもよく覚えている。

 親バカにでもなるんじゃないかってくらい結月を可愛がり、名前だって真剣に考えてくれた。

 でも、喜ぶ洋介を見れば見るほど、私は、罪悪感に押しつぶされそうだった。

(結月は……どっちの子かしら?)

 あの時、一度だけ関係を持ったホテルマンの子か、それとも洋介の子か?

 どちらでもありえる話で、だけど、10年も授からなかったからか、洋介の子である確率は限りなく低くて

 私は、顔では笑いながら、心で泣いていた。


 ✣✣✣


「ぁー、ぅ~」

 それでも、わが子である結月は、とても可愛かった。
 
 父親が、どちらかわからなくても、愛おしい気持ちに変わりはない。

 それは、触れ合う度に湧きあがり、私は、結月を抱きながら、よく子守唄を歌ってあげていた。

「結月は、私の子守唄が大好きね」

 妊娠中から、よく歌ってあげていたからか、泣いていても、こうして子守歌を歌ってあげれば、すぐに泣き止み、いつしか眠りにつく。

 そして、不思議なことに、メイドたちが同じように歌っても、泣き止まないそうで、この子は、私の声でだけ泣き止むのだと思うと、愛おしさに拍車がかかった。

(可愛い……)

 腕の中で眠る結月の頬に、そっと指を這わす。
 無意識に頬が緩むと、私は、幸せな時を噛み締めた。

 いつだったか『子供をちょうだい』と言った私に、戸狩やあの男が『何があっても、子供だけは手放せない』そう言っていたのを思い出した。

 あの時の彼らの気持ちが、今、やっとわかった気がした。

 よその子とは、全く違う。

 なにより、やっと授かった我が子だからこそ
 何年と待ちわびた、大切な子だからこそ

 母としての気持ちも、より強くなった。

 可愛くないわけがない。
 愛しくないわけがない。
 
 できるなら、一生、守り続けていきたい。

 そう思えるほど、結月は、私にとって大切な存在になった。

 でも──

(この子は、これから、どうなるのかしら……?)

 愛しい子だからこそ、その将来に不安を抱いた。

 結月が産まれてから、阿須加家の親類縁者たちが、代わる代わる祝福しに来た。

 出産祝いとして、ベビー服やオモチャなどを持参しながら、結月を『可愛いお嬢様だ』と褒めてくれた。

 だが、その後、誰もが口を揃えて言ってきたのは

『次は、男の子を産まなきゃね?』

 そんな脅迫じみた言葉だった。

 10年たって、やっと授かった子だと言うのに、そんなことは知らないとでも言うように、女の子が産まれたと知るや、次は男の子をと迫られた。

 結局、跡取りを産めと言う重圧も、役立たずな嫁というレッテルも、まだまだ続くのだと思った。

 だけど、二人目なんて、もう産める気がしない。
 不倫だって、二度としたくないし。

 だけど、私が男の子を産まなければ、この子はどうなるの?

 それは、美しい月を覆う不定ふじょうの雲のように、不安が渦になっと押し寄せた。

 そのせいか、胸の奥が、鉛のように重くなる。

 愛しい娘の将来に、暗雲しか立ち込めていないような気がした。

 なぜなら、結月は、当主である洋介の元に産まれた、たった一人の跡継ぎ。

 なら、この子はいずれ、阿須加家を背負って立つことになる。

 つまり、今、洋介が抱えている当主としての重圧と、私が抱えている跡取りを産めという苦悩を、同時に背負うことになる。

(……それって、幸せなの?)

 この小さな肩に、私たちの苦しみが、全て受け継がれてしまう。

 そう思うと、気が気じゃなかった。

 あんなにも苦しんで、こんなにも悩んで、この10年、生きた心地がしなかった。

 洋介だって、上からと下からの板挟みで、毎日クタクタになるまで、精神をすり減らしてる。

 そして、思った。

(……産むべきじゃ、なかったのかもしれない)

 今更気づいても遅いのに、その時になって、初めて後悔した。
 
 私は、子供を利用したのだ。

 自分が、この苦しみから逃れるためだけに、子供を産んだに過ぎず、生まれたあとの子供の未来なんて、何も考えてなかった。

 でも、こうして母になったからこそ、娘の将来を深く案じてしまう。

(こんな一族の中に産まれて、この子は、幸せになれるの?)

 子供の頃は、まだいいかもしれない。
 
 でも、年頃になれば、きっと婚約者を宛てがわれ、好きでもない男と結婚させられる。

 そして、そこに結月の意思はなく、その好きでもない男と、ひたすら子作りに励むことになる。

 男児を授かるまで、ずっと──

「……っ」

 ここにいても、この子は、幸せにはなれない。

 私と同じような、いや、私以上の苦しみを味わうかもしれない。

 そう思うと、結月を抱く腕に、微かに力がこもった。

(どうしよう……っ)

 義兄だって、まだ諦めてなかった。

 それに、私だけならまだしも、万が一、結月にまで危害が及んだら?

 いっそ、この子を連れて、ここから逃げようか?
 そんなことを思った。
 
 でも、結月は、阿須加家の跡取り娘で、そんな娘を連れて逃げればどうなるかなんて、簡単に想像がついた。

 きっと、私の両親や兄にも迷惑がかかるし、ありとあらゆる手を尽くして連れ戻される。

 なら、どうすればいいの?

「結月……っ」

 どんなに考えても、答えが見つからなかった。
 
 どうにもできない。
 弱い私には、この子を守る術がない。

 なにより、この一族で、女として、当主として産まれたことが、どういうことか?

 今になって気付かされた。

 産むべきじゃなかった。
 私は、子どもをほっするべきじゃなかった。

 でも、もう遅い。
 だって、この子は、もう生まれてしまったのだから。

「……っ」
 
 いっそ、ここで死んでしまった方が、楽なのかもしれない──そう、思った。

 苦しいだけの世界を歩むより、何も知らないまま、神様の元に帰った方が、幸せかもしれない。

 私は、眠る結月を、ベビーベッドの上にそっと下ろした。

 今、部屋には、私と結月しかいない。

 このまま、辛いだけの人生を歩むくらいなら、ここで眠らせてあげた方が、結月のためかもしれない。
 
 私は、結月の細い首に、そっと手をかけた。
 そして、その手に、ゆっくり力を入れていく。

 赤子の息の根を止めるなんて、きっと簡単なこと。
 でも──

「っ……」

 その瞬間、瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。

「でき、なぃ……っ」

 できるわけがなかった。

 例え、救うためだとしても、やっと授かった大切な子に、手をかけるなんて、できるわけがなかった。
 
「……う、うぅ……っ」

 それは、残酷な世界に産み落としてしまった懺悔なのか、私は、結月の首に手を添えたまま、ひたすら涙した。

 どうやったら、この子を守れるの?
 どうやったら、この子を自由にできるの?

 必死に考えるが、やはり、答えは出ず。
 でも、その時だった──
 
「奥様、何をなさってらっしゃるのですか!!」

 静かな室内に、メイドの声が響き渡った。
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