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第10章 餅津木家とお嬢様
婚約者と執事
しおりを挟む(……ダメだわ。やっぱり思い出せない)
それから暫く、結月は冬弥と話をしながら、ずっとモチヅキ君のことを考えていた。
目の前の"餅津木 冬弥"が、あの夢の中のモチヅキ君なのか? それをずっと思い出そうとするが、軽く頭が痛くなるだけで、手がかりになりそうなことは何一つ思い出せなかった。
(あ、そうだ。もしかしたら、誕生日を聞けば、思い出せるかも?)
前に、夢の中で聞きそびれた、モチヅキ君の誕生日。それを思い出して、結月は、なにか手がかりになるのではと、冬弥に話しかけた。
「あの、冬弥さんの誕生日はいつですか?」
「誕生日? 8月19日だけど」
「8月19日……夏生まれなんですね」
「あぁ、冬弥なんて名前だからね。冬生まれと、よく間違えられるよ。うちの親父、周りと同じものが嫌いでね。"夏に生まれても冬も制するような男になれ"とかいって、うちの兄弟、みんな生まれとは、逆の季節の名前が付いてるんだ。だから、春馬兄さんは秋生まれ!」
「あ、確かに、そうですね」
雑談を交わしながら、結月は、モチヅキ君の誕生日が、8月19日だったかを思い出そうとする。
だが……
(うーん、やっぱりダメ。誕生日をきいても思い出せない)
いくら記憶喪失とはいえ、思い出したくても思い出せないのは、やはり辛いものがある。
思わず、シュンとして俯けば、背後に控えていたメイドが、目の前のテーブルに、綺麗に盛り付けられたロブスターを運んできた。
そして、その皿を見つめながら、結月は思う。
もし、あのモチヅキ君が冬弥なら、きっと自分は幸せなはずだ。
なぜなら、初恋の人と結婚できるのだから──
「それより、どうして誕生日なんて」
「あ、ごめんなさい。昔あったことがあると言っていたので、思い出そうと思ったのですが……なかなか思い出せなくて」
「…………」
結月が申し訳なさそうにそう言うと、その後、冬弥は結月の手をとり、そっと握りしめてきた。
「結月さん。無理に思い出さなくてもいいよ。僕は昔の記憶がなくても、今でも、結月さんが好きだから」
「え? 今でも?」
「そうさ。今も、そして、これからもね」
「……あの、一つお聞きしてもいいですか? 8年前に私たちは、何か約束をしていませんでしたか? 」
「…………」
そう言って結月が冬弥を見つめれば、冬弥は結月の手を握る力を微かに強めた。
「知りたいなら教えてあげるよ。僕たちは昔、結婚の約束をした仲だ」
「え? 結婚?」
「あぁ、幼い頃、僕達は、お互いに好きあっていたんだ。でも、結月さんが階段から落ちて記憶喪失になってしまって、婚約の件は一度、白紙に戻ったんだ。でも、もういいじゃないか、昔のことは。これで全て、元通りになったんだから──」
すると冬弥は、そのまま結月を抱きよせた。
だが、その言葉を聞いて、結月は困惑する。
(結婚の……約束? じゃぁ、やっぱり冬弥さんが、モチヅキ君?)
全て、元通り。
確かに、その通りなのかもしれない。
記憶はなくても、幼い頃自分は、確かにモチヅキ君のことが好きだった。
それは、きっと間違いじゃない。
なら、"お互いに好きあっていた"と言っていた冬弥は、きっと、モチヅキ君で間違いないはずで───
(あれ……なんで?)
だが、その瞬間思い出したのは、なぜか自分の"執事"の姿だった。
優しく微笑む姿に無性に胸が締め付けられた。
自分が好きなのはモチヅキくんで、今日、その"モチヅキくん"と再会した。
しかも、婚約者として──
それはきっと、幼い頃の自分にとっては、とてもとても幸せなことで。
それなのに──
(なんで、私……五十嵐のこと……っ)
好きな人に抱きしめられているにも関わらず、その腕の中で思い出すのは、なぜか執事のことばかりだった。
初めは、少し苦手だった。
執事なのに、全く思い通りにならなくて、その上、よくからかわれては、怒ったり、困ったりさせられた。
だけど、自分がどんなに怒っても、五十嵐は、いつも笑って傍にいてくれた。
たくさん笑わせてくれた。
泣いていたら、慰めてくれて、不安があれば、抱きしめてくれた。
そうするうちに、代わり映えのしない毎日が、少しずつ色をとり戻っていくように感じた。
まるで、なくしていた感情を、一つ一つ拾い集めていくみたいに……
そして、いつしか、五十嵐が傍にいないと、落ち着かなくなった。
会えない日は『今、何をしているのかな?』そんなことを考えるようになった。
だけど──
(っ……なんで? 私が……好きなのは……っ)
自分の感情に、戸惑う。
目の前には、夢にまで見た"モチヅキ君"がいて、その好きな人に、抱きしめられているのに、全くドキドキしなかった。
それどころか、逆に心が冷えていくようにも感じた。そして、それにより、自分の今の気持ちを実感する。
(どうしよう、私……もう……っ)
好きではないのだと思った。
モチヅキくんを、いや、餅津木 冬弥のことを。
そして、今、好きなのは───
「ッ───!?」
だが、その瞬間、ぐらりと視界が揺れた。
咄嗟に冬弥から離れ、ソファーに手をつくと、結月は、もう片方の手で頭をおさえた。
(ッ……なに、急に)
突然の目眩。グラグラと視界が揺れて、その上、頭も痛いし、気持ちも悪い。
しかも、何故かとてつもない睡魔に襲われて、結月の身体は、今にも崩れ落ちそうだった。
「結月さん、大丈夫ですか?」
「っ……あの、ごめんなさい……急に気分が」
「それはいけない。疲れてしまったのかもしれませんね。奥の部屋にベッドがありますから、横になってはいかがでしょうか」
「……え、と……っ」
うまく思考が回らなかった。
確かに、できるなら今すぐ横になりたい。
だけど、心の奥で、何かが警鐘を鳴らす。
「ぁ、いぇ……私、もぅ、帰り……ます……五十嵐を、うちの……執事を……呼んで、頂けませんか……?」
虚ろな思考で結月がなんとか、そう呟けば、その瞬間、冬弥の表情に影がさした。
(ちっ……なかなか、しぶといな。この女)
結月に分からぬよう軽く舌打ちをしたあと、冬弥は、結月が飲んでいたグラスに目を向ける。
ゆっくり飲んでいたからか、思ったより時間がかかったが、どうやら、やっと酔いが回ってきたようだった。
だが、完全に酔い潰すには、もう数口ほどたりないらしい。
そう思った、冬弥は──
「おい、さっきのボトル持ってこい」
ソファーにふてぶてしく腰掛けたまま、結月のグラスを頭上に掲げる冬弥は『今すぐ、つぎにこい』とばかりに、背後に控えたメイド達に命令する。
また、ジュースと騙して飲ませれば、次は完全に酔って眠ってしまうだろう。
そう考えながら、手にしたグラスに、ワインが注がれるのを待つ。だがその瞬間
──バシャッ!?
「!!?」
真っ赤なワインは、グラスではなく、冬弥の頭上に降り注いだ。
ボトルに半分くらい残った赤いワイン。
それが、まるで滝に打たれるかように、冬弥の頭上から髪をしたたり、顔や肩へと流れ落ち、真新しいシャツやスーツをビショビショに濡らしていく。
「ッ──てめぇ、なにやってんだ!?」
いきなり頭からワインをぶっかけられ、怒り心頭になった冬弥は、背後に立つ男に罵声をあびせた。
だが、そこにいたのは、先程、ロブスターを捌くのに苦戦していた青年ではなく
「?……誰だ、お前」
「…………」
見知らぬスタッフの姿に、冬弥はきつく眉根を寄せた。
スラリと背が高く、どこか凛々しい顔付きをした黒髪の男。
だが、その男は、冬弥を客ではなく、まるでゴミでも見るかのような、酷く冷たい目をしていた。
「っ……おい、なんだその目は。お前も、ここのスタッフなんだろ?」
「いいえ」
「はぁ!?」
するとその男は、空になったボトルを手にしたまま、改めて冬弥を見据え、まるで挑発でもするような不敵な笑みを浮かべた。
「お初にお目にかかります、餅津木 冬弥様。私は──結月お嬢様の"執事"です」
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