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第9章 執事の悩みごと

ずっと、君のそばに

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「……お嬢様?」

 戸惑いと同時に声をかけると、結月は、ゆっくりと顔をあげて

「あら、五十嵐」

 そう言って笑った結月は、至って普通だった。てっきり、泣いていると思っていたのに……

「どうして、このような所に」

「五十嵐こそ、どうしたの? 今日は、お休みでしょ?」

 にこやかに、いつもと変わらない柔らかな笑顔を浮かべる結月。レオはそれを見て、戸惑いつつも、結月のそばに歩みよる。

「そのような場所に腰掛けて、お召し物が汚れてしまいますよ」

 かたわらに立って、ベンチに座る結月に語りかけると、その後、結月は

「大丈夫よ。ちゃんと埃を払ってから、腰掛けたから」

 そう言って──また笑う。

 だが、どこか浮かない顔をしているようにも見えた。
 無理もない。大事な使用人が、大事な家族が、また辞めてしまうのだ。結月が、悲しまないわけがない。

「お嬢様──」

「ひどいでしょ、この温室」

「……え?」

「昔はね、結構キレイな温室だったのよ。花も緑もたくさんあって、なんでかわからないけど、私はこの温室にくるのを、とても楽しみにしていて……だけど、この家かなり広いし、庭の手入れだけでも大変そうで……だからね、もう閉めていいって言っちゃった」

「…………」

 たんたんと話す結月を見つめながら、レオは白い手袋をした手をきつく握りしめた。

 結月が、なぜこの温室にくるのを楽しみにしていたのか、それをレオは、よく知っていた。

 初めてあった日、結月が大事そうに抱えていた、あの『箱』を──結月は、この温室に隠していた。

 誰にも見つからないように
 誰にも気づかれないように

 こっそりと……

 だけど、今の結月は、その『箱』のことですら、忘れてしまっているのだろう。

「お嬢様が、お望みなら、この温室、全て元通りに致しますよ」

 思わず、喉をついて出た言葉は、本心だった。
 結月が望むなら、何だって叶えてやりたい。

 だけど──

「無茶言わないで。これ以上、負担を増やしてどうするの? 矢野だって、辞めてしまうのに」

「………」

 その決心は、あっさり打ち砕かれた。

 斎藤が辞めて、矢野が辞める。そのあとの業務を、全てレオが引き継ぐのだというを、結月はしっかり理解していたから。

「ありがとう、五十嵐。気持ちは嬉しいけど、元に戻したところで無意味よ。私は、いずれこの屋敷からいなくなってしまうから……」

「…………」

「本当はね。まだ先の話だと思っていたの。結婚なんて、まだ先の話だって……だけど、私、この前18歳になって、もう、いつ結婚の話が出てもおかしくない年になっていて……今日ね、矢野に謝られたわ。『できるなら、ずっとお嬢様にお仕えしかった』って……だけど、私が結婚したら自分たちは、お払い箱になってしまうから……息子の夢を叶えるためにも、今転職しておきたいって……っ」

「………」

「私ね、言えなかったの。『お払い箱になんてしないわ』って、言ってあげられなかった……っ。ゴメンね、私、この屋敷の……あなた達のあるじなのに……私には、あなた達を守ることができない……ッ」

 目に涙を滲じませた結月は、その後、嘆き悲しみように、両手で自分の顔を覆い隠した。

 働きたいと言ってくれる人を
 側にいようとしてくれる人を

 安心して、働かせてあげることも出来ず、ただ親の言いなりになって、大切な人たちを守ることすら出来ない自分に

 ──結月は今、涙している。

 そうだ。結月は、こういう人間だ。

 自分よりも、他の誰かの悲しみを優先できる人で、そんな所に強く惹かれて、俺は君を好きになった。

 心優しい君に惹かれて、ふわりと笑う君に癒されて、いつしか君が、俺の『全て』になった。

 だから、誓った。
 優しい君は、いつも自分を犠牲にしてしまうから

 これ以上、傷つかないように
 これ以上、悲しまないように

 俺が君の代わりに
 君を苦しめる全てのものを

 ──壊してやるって。

 それなのに、どうして俺は今、君を悲しませているのだろう。


「……お嬢、様」

 無意識に伸ばした手は震えていた。だけど、それは触れる前に、結月の言葉に遮られた。

「ごめんね、五十嵐。取り乱してしまって。……私なら大丈夫よ。それに、矢野にとっても、みんなにとっても、これが一番いいってことは、ちゃんとわかってるの。だから───だから、五十嵐も、

「……っ」

 笑って──いつものように笑って言った、その言葉に、心臓が抉られるようだった。

「自分の人生を、私なんかに縛られないで……私なら、大丈夫。仮に私が結婚する前に、みんないなくなったとしても、一人で、その時を待てるわ」

 一人で──その言葉に、きつく唇を噛み締める。

 その笑顔の奥で、結月は、どれだけ泣いているのだろう。

 辞めていいなんて、本心ではないくせに、使用人たちに罪悪感を抱かせないように、無理に気丈に振舞って、俺たちを安心して送り出そうとしてる。

 この広い屋敷の中で一人になっても
 好きでもない男と結婚させられても

 ──自分は大丈夫だから、と。


「……っ」

 咄嗟にその手を取れば、レオは、結月の前に膝まづいた。
 座る結月を見上げて、きつくきつく、その手を握りしめて

「俺は絶対に、お嬢様を一人には致しません。ずっとずっと、お傍に──」

 ずっと、君のそばに──ありったけの思いを込めて、そう訴えかけた。
 
 だけど……

「ありがとう。五十嵐は、の鏡ね」
「……っ」

 届くことのない思いに、心が砕けそうになる。

 違う、違う。『執事』としてじゃない。
 俺は、一人の『男』として、君を──


「く……ッ」

 自分でも、もう、限界なのが分かった。

 思いが溢れて、止まらなかった。
 このまま、全て、話してしまいたい。

 俺が君を、どれだけ愛しているのかも
 俺が君の、なんなのかも
 
 そして──
 
 俺たちが、どんな『夢』を見て
 どんな『約束』を交わして
 どんな『未来』を誓ったのか

 なにもかも───全て。



 結月の細くしなやかな手を更に握りしめると、俺は、再び結月を見上げた。

 大切な人。愛しい人。
 この世界で、誰よりも傍にい続けたい人。

 そのかけがえのない人に、この秘めた想いを伝えるため──

「お嬢様、俺は────」




 
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