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第2章 執事と眠り姫
キス
しおりを挟むふわりとカーテンが揺れ、春の香りが部屋の中に舞い込んだ。
すると、その瞬間、ゆっくりと距離を近づけたレオは、呆れたような声を発した。
「……無防備すぎ」
唇が触れるまで、あと数センチ。
こんなにも近くまで異性が近づいているにも関わらず、目を覚ますどころか、なんの警戒心もなく眠り続ける結月に、レオは苦笑する。
(……まさか、前の執事の前でも、こんなに無防備だったわけじゃないだろうな)
後でミルクティーを淹れに行くと言っていたにも関わらず、この有り様。
その気になれば、このままキスするくらい容易いことだった。
だが、いくら昔、思いあっていたとはいえ、今の結月に自分の記憶はない。
結月にとって今の自分は、一ヶ月前に会ったばかりの見ず知らずの男で──ただの執事。
そんな彼女に、いくら好きだからといって、無理やり唇を奪うなど、できるはずがなく……
(そういえば、寝顔、初めて見たかも?)
眠る結月を見つめ、レオは、ふとそんなことを考えた。
あの頃は、昼間、屋敷の使用人たちに隠れて、こっそり会っていた。
当然、起きている結月しか見ていなかったし、ここ一ヶ月、執事として夜の見回りをすることはあったが、こんなも近くで、結月の寝顔を見ることはなかった。
「ふ……可愛い」
今まで見たことのない愛らしいその姿に、レオは頬を緩めた。
だが、それと同時に午前中、斎藤から聞いた話を思い出す。
あの後、記憶喪失について少し調べた。
結月のような記憶喪失は、一般的に『逆行性記憶障害(または、逆行性健忘)』と言われていて、事故などで脳挫傷を受けた際、それ以前の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまう、いわゆる脳の障害。
記憶を失う期間は、数ヶ月から数年、中には数十年に及ぶ症例もあるらしい。
また、通常は、発症時点に近い出来事ほど思い出しにくく、発症時点から遠い過去の出来事ほど思いだしやすい。
だが、これが一過性のものなら、数ヶ月で記憶を取り戻すらしいが、結月の場合、記憶を失ってから、もう8年。
慢性的な記憶障害だ。
ハッキリいって、結月が、その半年の記憶を思い出す確率は──0に近い。
「……本当に、何も覚えてないのか?」
頬に触れ、聞こえるか聞こえないかの声で囁いた。
本当に、全て忘れてしまったのだろうか?
俺と出会った日のことも
二人で過ごした、あの日々も
そして、別れ際に誓い合った
あの『約束』も──
「ん、……っ」
「?」
するとその瞬間、結月が少しだけ、苦しそうな声を漏らした。
さすがに身の危険を感じたのか?
はたまた、偶然か?
その姿を見て、レオは、近づきすぎたかと、身を起こし、結月の元から離れる。
「……!」
だが、その直後、レオの身体は、なぜか距離を取るのを阻まれた。
何事かと自分の脇腹に視線を送れば、結月の細い手が、燕尾服の裾を掴んでいた。
「……え?」
突然のことに、レオは瞠目する。
だが──
「……、け……て」
その後、ギュッとレオの服を握りしめ、呟いた結月を見て、レオは大きく目を見開いた。
何を言ったのか?
それは、はっきりとは聞き取れなかった。
だけど、まるで『助けて』と言っているようにも聞こえて──
「結月……っ」
咄嗟に手を取ると、レオは、まるで『助けに来たよ』とでもいうように、結月の手を握りしめた。
だが、その手に直接、触れられない今の自分が、酷くもどかしく感じた。
白い手袋ごしに伝わる体温に、結月との距離を感じさせる。
どうして、今の自分は、ただの執事でしかないのだろう。
結月のために、こうして執事となって戻ってきたはずなのに、今は、結月の執事でいることが──こんなにも辛い。
「結月……っ」
再度、名を呼ぶと、レオは小さく唇を噛み締めた。
ベッドの上に投げ出された、もう片方の結月の手を見れば、あの『空っぽの箱』が握られていた。
箱を手にしたまま眠ってしまったのか、結月は今、その箱を手に、どんな『夢』を見ているのだろう。
悲しい夢をみているのだろうか?
辛い夢をみているのだろうか?
その言葉が、自分に向けられた言葉がどうかすら、今は分からないはずなのに
「……大丈夫だよ、結月」
眠る結月に視線を落とすと、レオは慰めるように優しく囁きかけた。
握りしめた手を緩め、そのまま優しく指を絡めると、恋人繋ぎになり、より深く繋がった手を、ベッドの上へと縫い付ける。
──大丈夫。
結月は、この箱を大切だと言った。
なら、きっと、今も俺たちの『夢』は、この『箱』と共にある。
例え、記憶を失っても
どんなに時間が経ってしまっても
その身体は
その心は
──きっと、覚えてる。
「大丈夫。必ず俺が思い出させてあげる。君の願いがなんだったのかも、あの日交わした約束も……何もかも、全て」
ベッドに縫い付けた手を握りしめ、更に距離をつめると、レオは結月の額に、優しく口付けた。
そっと唇が触れれば、絡みあった指先が、微かに反応したのを感じた。
まるで返事をするように、ぎゅっと握り返された結月の手を更に握り返し、レオは再び結月を見つめる。
「好きだよ、結月」
それは、まるで、初めて彼女に口付けた、あの時と同じように。
たとえ君が
俺のことを、忘れてしまっても
たとえ、この思いが
一方通行なものだとしても
それでも、俺は
ずっとずっと、君のことを
「───愛してる」
どこか切なさを秘めた声が響くと、その瞬間、春の柔らかなか風が、再び部屋の中に吹き抜けた。
サラリと髪を揺らすその風は、あの日、二人が最後の言葉を交わした時と同じように
──甘く優しい、花の香りがした。
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