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第一部

第三十四話 貴族の階段(9)

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 何とも言いようのない切ない気分に浸ってしまっていたのです。

 溶けた階段とその気持ちの両方から抜け出したくて、どんどん下へ向かっていきました。

 いえ、下というか、もう段差が感じ取れないのだから、横に水平に動くような感じでしたよ。

 言ってわかって頂けるかちょっと覚束ないですけどね。

 ようやく一番下と思われるところに来ました。

 つまり屋敷の正面玄関の前です。絨毯はそこまでずっと続いているのですから。

 私は身体を起こそうとしました。

 掴めるものは何かないか? 
 
 やがて扉の取っ手を見付けます。

 ドアノブのような小振りなかたちではなく、鉄板で作られた丸く平べったい形状をしています。

 縋り付きましたよ。

 すると、完全に絨毯に浸かったままだった両足も抜き出すことが出来ました。

 でも、そのアグニシュカも私の足首を握り締めて、絨毯から上がってきます。

「やめて」

 私はそれを突き放しました。

 アグニシュカは絨毯の底へと沈んでいきました。

 扉を開け、明け方の光が届いてきたところで、私は一気に駆け抜けました。

 そして、今あなた方の目の前に立っているのです。


 
 「ブラヴォ! あまさず書き留めて貰いましたよ。実に物凄い綺譚《おはなし》だ。でも……」

 だが、ルナの手帳は開いたままだ。

「ちゃんと終わっていない、っていうんだろう?」

 ズデンカが後を受けた。

「君も要領がよくわかってきたね」

「このパターン、何度繰り返した?」

 ズデンカは苦笑いした。

「終わっていないとは?」

 エルヴィラは不安そうに訊いた。

「お前がまだアグニシュカと会って、はっきり気持ちを伝えていない、ってことだろう」

 ズデンカは腕を組んだ。

「でも、それならまだ大分時間がかかってしまいますし……」

 エルヴィラは不安そうだった。

「いえ、ここで、気持ちの結末を付けることは出来ますよ」

 と言ってルナは手を振った。本来は煙を吐きたいのだろう。ニコチン中毒かアルコール中毒かは知らないが、少し震えていた。

――またかよ。

 ズデンカは呆れた。

 列車が揺れた。床板が震動する。

 ズデンカは義務的にまばたきをする。

 不死者はしなくてもいいからだ。

 見知らぬ栗巻毛の少女が立っていた。

 いや、ルナと、ズデンカにとってはそうだが、エルヴィラには違う。

 さっきまでは確実にいなかったし、部屋に入ってくる様子も見えなかった。

「アグニシュカ! どうしていきなり?」

 エルヴィラは立ち上がっていた。

 そして、静かに抱擁した。

 だが、アグニシュカは何も言わなかった。

「答えてよ」

 エルヴィラは必死に言った。

「エルヴィラ」

 アグニシュカは笑っていた。歯を剥き出し、動物のような笑顔だった。

「わたしは、あなたが見た幻想を実体化させました」

 ルナはハンカチを取り出してパイプを拭いていた。

「じゃあ、このアグニシュカは」

「そうです。あなたが階段の裏側で出会った存在ですよ」

 ルナはこともなげに言った。

「せっかく逃げ出してきたのに! なんであなたはそんなことを」

 エルヴィラは両手を握り締め憤ったように言った。

「でも、ここでなら彼女になら伝えられるじゃないですか。あなたの想いを」

 ルナの関心はもっぱらパイプで、エルヴィラの目は見ていなかった。

 エルヴィラははっと息を呑んだ。そして、思いきったように。

「これからはもう主人と召使いなんてやめよう。二人で……暮らしていくんだから」

 その声は震えていた。幻想に対しても恥ずかしさを感じているのだろうか。

「よし、あなたの綺譚《おはなし》はこれでお終い、と言うことで」

 ルナは手帳に書き入れ、頁を閉じた。
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