上 下
347 / 526
第一部

第三十三話 悪魔の舌(5)

しおりを挟む
 寝る時間が足りなくなって、仕事にも支障を来すようになってきました。

 睡眠が浅くなったためでしょうか。目を閉じればすぐに牛の首だけが姿を現します。既にあの製造所はなく職場や家の中のあちこちを背景にしていました。

「甦らせたいだろ? そうじゃないのか」

 牛の首は私の耳元で囁き続けます。

 舌で舐められて、怖気がしました。

「いやだ。悪魔なんかの言うことを聞くか」

「悪魔に魂を売っても、叶えたいことはないのか? お前の妻アドリアーナと娘エリカを甦らせたくはないのか?」

「ないないない」

 私は何度も言葉を重ねて否定しました。身体中に倦怠を感じながら。

 でも、その空元気も続かなくなる時がやってきたのです。

 二十四時間起き続けて、また短い眠りに落ちてしまった時、刹那にして現れ、横から首を舐め続ける牛の首に向かって、

「お願いだ。もうこれ以上、私を苦しめないでくれ!」

 と言ってしまったのです。

「それは、アドリアーナとエリカの復活を望む、ということだな」

 悪魔は狡猾に囁きました。

 私はしっかりと頷きませんでした。ただ首を上下に動かしただけです。

 ああ、でもそれが同意になってしまったとは。

 悪魔は口元を歪めました。笑ったのでしょう。

 その時はなぜ笑ったのか、わかりませんでした。

 次の瞬間から夢に悪魔が現れることはなくなりました。私はぐっすり眠ることができるようになりました。

 体力を回復して、再び仕事に取りかかろうと準備を始めた矢先。

 アドリアーナとエリカが帰ってきたのです。

 夕方、久しぶりに家の隣にある職場へ向かい、領収書や仕事の書類を纏め直して戻ってきてすぐのことでした。

 玄関の扉がノックされたのです。

「誰だ」

 こんな時間に私の家を訪れる者などいません。不吉な予感がしました。

 ノックは何回も、何回も続きます。

「私よ、開けて」

 やがて声が聞こえました。妻――アドリアーナの声です。

 背筋が凍りました。

 「お父さん、エリカだよ」

 娘――エリカの声です。

 二人は確実に収容所で命を落としたのです。最期の姿こそ見ていませんが、一緒にいて生き残った方の話も聞いています。

「神さま、私をお守りください。邪悪なものたちからお救いください」

 私は何度も祈りました。でも、ドアを叩く音は止みません。

 近所の人の騒がしい声も聞こえて来ました。私は妻と娘がいるなどと告げてはいません。不審に思われないでしょうか?

 恐怖と外聞を計る心。色んな感情の板挟みになりながら、私はドアを開けることが出来ませんでした。

「どうした? お前の望みは叶ったじゃないか」

 悪魔の嘲笑う声が聞こえました。

「叶ってなどいない。第一お前なんかに頼んでもいない」

「お前は首を動かしたぞ」

 私はその時己の失錯《しっさく》を悟りました。

「取り消せないのか」

 悪魔は答えません。

 私は悪魔の舌を探しました。部屋の隅に置いてあった小函の中に収めてあったのです。

 急いで暖炉に向かい、火を点してそれを引っ繰りかえしました。

 幾枚もの乾涸らびた舌ははらはらと炎の飲まれて消えていきます。

 ほっとして振り返ったのも束の間。小函の中にはまだ舌が一枚残っているではありませんか!

 それも尖端に当たる部分でした。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

愚かな父にサヨナラと《完結》

アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」 父の言葉は最後の一線を越えてしまった。 その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・ 悲劇の本当の始まりはもっと昔から。 言えることはただひとつ 私の幸せに貴方はいりません ✈他社にも同時公開

孕ませねばならん ~イケメン執事の監禁セックス~

あさとよる
恋愛
傷モノになれば、この婚約は無くなるはずだ。 最愛のお嬢様が嫁ぐのを阻止? 過保護イケメン執事の執着H♡

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

隣の席の女の子がエッチだったのでおっぱい揉んでみたら発情されました

ねんごろ
恋愛
隣の女の子がエッチすぎて、思わず授業中に胸を揉んでしまったら…… という、とんでもないお話を書きました。 ぜひ読んでください。

生贄にされた先は、エロエロ神世界

雑煮
恋愛
村の習慣で50年に一度の生贄にされた少女。だが、少女を待っていたのはしではなくどエロい使命だった。

処理中です...