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第一部

第三十二話 母斑(10)

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「最後、エルフリーデに挨拶しなくて良かったのか?」

 ズデンカは割り込んだ。もちろん、これは苦肉の策だ。

「馬鹿だなあ。ヒュルゼンベックさんの奥方のエルフリーデさんとわたしに面識はないじゃないか」

 ルナはヘラヘラ笑った。

「だが、一応顔合わせしとくべきだったとは思うぜ」

 ズデンカは誤魔化した。

「変なところで義理堅いんだな。君は」 

「まあな」

 カミーユへの鉾先が外されたようなのでズデンカは内心でため息を吐いた。

 三人は向かい側のホームへと続く階段を登った。

 七番乗り場に戻ってみるとこちらは相変わらず人がいない。都市機能が発達しているネルダから田舎のゴルダヴァに行きたいと思う客は少ないのだろう。

 カミーユが率先して柱に取り付けられた鏡へと走っていった。

 カミーユは臆病だと思っていたズデンカにとっては意外だった。

「映っても何も起こらないですね」

「霊はエルフリーデさんに取り憑いていたから、鏡は単なるトリガーだよ。映った時、場合によって発動していたんだろう。他のお客さんたちも映っているけどなんの問題もない」

 ルナがすたすた寄っていって説明した。

「なかなか興味深いですね! ルナさんはいつもこんな風に事件を鮮やかに解決して言っているんですか」

「今回はうちのメイドの意見がとても参考になったよ」

「ズデンカさん! 凄い!」

 カミーユは底意なく感心しているようだった。

「たいしたもんじゃねえよ。単に思い付いただけだ」

「謙遜しちゃって」

 ルナが冷やかした。

 それと轟音を立てて列車がホームに入ってきたのが同時だった。

「時間ギリギリだったじゃねえか」

 ズデンカは焦った。

――一瞬でもエルフリーデに挨拶をとか考えたあたしが馬鹿だった。

「いや、まだ出発までにまだ十分は余裕が」 ズデンカはルナの首根っこを引っ掴んでれゅしゃに乗せた。 

  二等客車に急ぐ。一等客車の個室貸切切符を買うのはいささか無駄遣いな気がし、さりとて他の客と三等客車に詰め込まれて乗るのはルナやカミーユに危害が及ぶ可能性がある。不埒な行為に及ぶ男たちは事欠かないからだ。二等客車なら相乗りにはなるがルナも色んな客と話をして楽しめることだろう。

 いろいろ考えた末にズデンカが出した決断だった。

 三人で連れ立って長い廊下を歩いて行く。

「カミーユは列車は何度か乗ったことがあるか?」

 ズデンカは訊いた。

「はい、サーカス団で遠いところも旅していますので。ただ、ゴルダヴァは初めてなのでとても楽しみです!」

「楽しいようなところじゃねえぞ」

 ズデンカは顔を顰めた。

――そもそもルナが言い出さなけりゃあんなとこ二度と……。

「ズデンカさんみたいな方が生まれる国なんですから、きっと、素晴らしいところですよ!」

 カミーユは笑顔で言った。

 ズデンカは頬を掻いた。実際に痒いわけではない。

「カミーユも大分うちのメイドに馴染んできたようでよかったね」

 ルナがぼそりと言った。

「はい!」

 目指す個室が見えてきた。切符の番号と符合する。

 ルナが真っ先に扉を開けて中に入った。まだ誰も入っていなかった。

「つまらないなあ」

 ルナは退屈そうだ。綺譚を蒐集することが何よりの愉しみであるルナにとって、他者との接触は重要なことなのだ。

「車窓からの眺めを素直に愉しめ」

 ズデンカは窓側の席に坐った。頬杖を突く。

「まだ動き出してないよ」

「はあ」

 ズデンカはまたため息をした。

「疲れちゃった?」

「疲れもするさ。まああたしは疲れんがな。精神的なもんだ。お前の子守りのな」

「いいじゃないか。君の生きてきた中で一番実りある季節かも知れない」

 ルナもズデンカの前に腰を下ろした。

「生きちゃねえよ」

 とズデンカは否定した後で、

「ところで、あれの結末どうなった?」

「あれ?」

 ルナは小首を傾げた。

「オペラだ。『二人の幽霊』」

「取り憑かれた主人公は死んじゃうんだ。だから幽霊が二人になりました、ちゃんちゃん、と。まあすったもんだあるんだけどね」

 ルナは少し寂しげに言った。

「エルフリーデが死ななくて良かったな」

 ズデンカは車窓を見た。

「そうだね」

 列車が動き出した。
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