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第一部
第二十話 ねずみ(10)いちゃこらタイム
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馬車は北へ向けて走り出した。
寒くなりつつはあるのだが、半島南部でゆっくり過ごしたこともあり、吹き付けてくる風は穏やかで、春の気配が近付いて来ているように見えた。
幌を上げても大丈夫だ。
「結局君もわたしも本を貰っちゃったね。読んだ?」
ルナは『稲妻翁伝』の茶色く変色した紙の匂いを嗅ぎながら言った。
「読んでられるかよ。あたしは馭者だぞ」
「あ。そうだった」
そう言いながらルナはクスクス笑った。
「で、結局お前は願いを叶えたのか? タルチュフに。別れる前に書斎まで行って三十分ぐらい話してたが」
「簡単なお願いだったよ」
ルナは短く言った。
「どんなだ?」
「本に署名《サイン》をしてくれって」
「はあ?」
「高く売れるらしいんだよ。サイン入りはね。とくにわたしは滅多にサインを書かないから」
「物ぐさだしな」
ズデンカはため息を吐いた。
「面白そうだね。ボクも混ぜてよ」
馬車と並ぶ大蟻喰。なかなかの速さで走らせているつもりなのに、平然とついてこれるとは、なかなかの脚力だなとズデンカは思った。
とは言え、ズデンカも本気になれば馬車は愚か自動車を追い越すぐらいは走れるのだが。
「今日はしつこいな」
ズデンカは表情を変えず言った。
「どういう意味だよ」
大蟻喰は少しムッとしていた。
「いつもなら馬車まで近付いてこないじゃねえか」
「今日はいいだろ。広場《あっち》じゃ、キミたちと話す機会なかったからね」
「用が済んだらさっさと帰れよ」
「ボクも本が欲しかったな。あの鼠とかを殺してでも奪ってくるんだった」
「何を言いやがる」
今度はズデンカが怒る番だ。
「まあまあ、喧嘩してても仕方ない」
そう言うルナは頁をぺらぺらと捲り続けていた。
「この本面白い。なるほどそうくるのか……」
「何が面白いんだか」
ズデンカは言った。
「本を読むってのは結局自分独りだけの体験さ。人とは共有出来ない」
「朗読会や読書会したりするやつらもいるだろう」
ズデンカは大都会で耳に挟んだことを話した。もちろん、自分は参加したことがない。
「ああ、楽しむ人もいることはいるね。悪いことじゃないだろうさ。人と妄想を擦り合わせるのは」
「変な言い方だな」
ズデンカは顔を顰めた。
「ボクはルナと妄想を擦り合わせたいよ」
ニヤリと笑って大蟻喰は馬車に飛び乗り、ルナの隣へよじ登ってきた。
「わたしは言いたいのはさ。本を読んで感じたことは結局自分の中だけにあって他にはないってことさ」
「詭弁だな。なら音楽だってそうだし、映画だってそうだ。今お前の目の前にいるこのあたしだって馬だって大蟻喰だって、お前の中だけにあるってことになるじゃねえか。だが本当にそうか?」
ズデンカは振り向いた。いつになく理詰めで答えてやれたと確信していた。
「ふふふ。君は随分と哲学的にものを考えるね」
ルナは鼻で笑った。
『哲学的』の言葉で、ズデンカはルナとちょっと前に同じような会話をしたことを思いだした。
だが、ズデンカは本当に知りたいのはその先だ。
「答えられねえのか」
「ちょっとズデ公! ルナが困ってるじゃないか」
大蟻喰が頬を膨らませた。
「誰がズデ公だ?」
「いや、答えるよ。それだって妄想かもね」
ルナは手を上げた。
「そうは言わせねえさ」
ズデンカはきっぱり言った。
「あたしが妄想だって言うならお前の頭をぶん殴る。あたしは居る。あたしは居る。ここに居るんだよ!」
思わず怒鳴っていた。
「かなり、真剣だったよー」
ルナは冷やかした。
「笑える」
大蟻喰は言った。
「うるせえ」
自分が人間なら赤面するとこだろうな、とズデンカは思った。
寒くなりつつはあるのだが、半島南部でゆっくり過ごしたこともあり、吹き付けてくる風は穏やかで、春の気配が近付いて来ているように見えた。
幌を上げても大丈夫だ。
「結局君もわたしも本を貰っちゃったね。読んだ?」
ルナは『稲妻翁伝』の茶色く変色した紙の匂いを嗅ぎながら言った。
「読んでられるかよ。あたしは馭者だぞ」
「あ。そうだった」
そう言いながらルナはクスクス笑った。
「で、結局お前は願いを叶えたのか? タルチュフに。別れる前に書斎まで行って三十分ぐらい話してたが」
「簡単なお願いだったよ」
ルナは短く言った。
「どんなだ?」
「本に署名《サイン》をしてくれって」
「はあ?」
「高く売れるらしいんだよ。サイン入りはね。とくにわたしは滅多にサインを書かないから」
「物ぐさだしな」
ズデンカはため息を吐いた。
「面白そうだね。ボクも混ぜてよ」
馬車と並ぶ大蟻喰。なかなかの速さで走らせているつもりなのに、平然とついてこれるとは、なかなかの脚力だなとズデンカは思った。
とは言え、ズデンカも本気になれば馬車は愚か自動車を追い越すぐらいは走れるのだが。
「今日はしつこいな」
ズデンカは表情を変えず言った。
「どういう意味だよ」
大蟻喰は少しムッとしていた。
「いつもなら馬車まで近付いてこないじゃねえか」
「今日はいいだろ。広場《あっち》じゃ、キミたちと話す機会なかったからね」
「用が済んだらさっさと帰れよ」
「ボクも本が欲しかったな。あの鼠とかを殺してでも奪ってくるんだった」
「何を言いやがる」
今度はズデンカが怒る番だ。
「まあまあ、喧嘩してても仕方ない」
そう言うルナは頁をぺらぺらと捲り続けていた。
「この本面白い。なるほどそうくるのか……」
「何が面白いんだか」
ズデンカは言った。
「本を読むってのは結局自分独りだけの体験さ。人とは共有出来ない」
「朗読会や読書会したりするやつらもいるだろう」
ズデンカは大都会で耳に挟んだことを話した。もちろん、自分は参加したことがない。
「ああ、楽しむ人もいることはいるね。悪いことじゃないだろうさ。人と妄想を擦り合わせるのは」
「変な言い方だな」
ズデンカは顔を顰めた。
「ボクはルナと妄想を擦り合わせたいよ」
ニヤリと笑って大蟻喰は馬車に飛び乗り、ルナの隣へよじ登ってきた。
「わたしは言いたいのはさ。本を読んで感じたことは結局自分の中だけにあって他にはないってことさ」
「詭弁だな。なら音楽だってそうだし、映画だってそうだ。今お前の目の前にいるこのあたしだって馬だって大蟻喰だって、お前の中だけにあるってことになるじゃねえか。だが本当にそうか?」
ズデンカは振り向いた。いつになく理詰めで答えてやれたと確信していた。
「ふふふ。君は随分と哲学的にものを考えるね」
ルナは鼻で笑った。
『哲学的』の言葉で、ズデンカはルナとちょっと前に同じような会話をしたことを思いだした。
だが、ズデンカは本当に知りたいのはその先だ。
「答えられねえのか」
「ちょっとズデ公! ルナが困ってるじゃないか」
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「誰がズデ公だ?」
「いや、答えるよ。それだって妄想かもね」
ルナは手を上げた。
「そうは言わせねえさ」
ズデンカはきっぱり言った。
「あたしが妄想だって言うならお前の頭をぶん殴る。あたしは居る。あたしは居る。ここに居るんだよ!」
思わず怒鳴っていた。
「かなり、真剣だったよー」
ルナは冷やかした。
「笑える」
大蟻喰は言った。
「うるせえ」
自分が人間なら赤面するとこだろうな、とズデンカは思った。
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