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第一部
第五話 八本脚の蝶(9)
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「うん、いいお話だ」
ルナは手帳を閉じた。
「お作りになった蝶を見せてくださいませんか?」
マルセルは何も言わず幾つもの標本箱を持ってきた。
そこに張られたガラスの奥には本物と見紛うばかりのさまざまな蝶たちが針で留められていた。
そのいずれもが八本の脚を持っていた。
「ほんとにたくさんありますよね。ここまで作ったもんだって我ながら思いますよ」
マルセルは眼を細めた。
「何か願いはありますか?」
ルナは聞いた。
「もう一度だけアルフレッドに会わせてください」
マルセルは答えた。
「よろしい。ちょっと君、顔を貸して」
とルナは眠そうにしていた大蟻喰の肩を叩いて家の外へと連れていった。
「マイペースなご主人様ですね」
マルセルは微笑んでズデンカに言った。
「あたしもほんと苦労させられてるよ」
ズデンカは額を押さえた。ルナと大蟻喰を二人だけにさせておくのが不安で仕方なかったのだ。
扉がまた開かれた時、マルセルは目を瞠った。
よれよれになった服を着て、顔を覆う真っ白な髭が生えた背の高い男がルナの後ろに続いていたからだ。
「どなた……」
とまで言いかけてマルセルははっとした。
「アルフレッド!」
二、三歩ばかり近づく。
ルナはパイプを吸い、煙を吐き出していた。
「ああ、俺だ」
アルフレッドは寂しそうに笑った。
「今まで何をしていたの?」
「色んな港へしょっちゅう行ったよ。今は身体にガタが来ちまってな。だが、もうこの街には戻れねえ」
アルフレッドはマルセルに近づくことなく答えた。
「戻れないって! 私はあなたにずっと会いたかったのに!」
不安そうに両手を揉み、アルフレッドに詰め寄るマルセル。
アルフレッドは身を引いて言った。
「本当にお前が会いたい人は俺じゃないだろう?」
「どういうこと?」
とたんに食卓に置いていた標本箱がカタカタと震え始めた。
勢いよく地面に落ち、ガラスが割れる。
中の蝶たちが一斉に羽ばたき始め、続々と外へ飛び出してきた。
ビックリしたマルセルは身を引き離した。
アカタテハを先頭にして、無数の蝶たちが群れをなしてグルグルとマルセルの周りを飛び回った。遠くから眺めると円錐形に見えるぐらいに。
移り変わる蝶の紋様にめまいを感じながらマルセルは床にうずくまった。
「これは、いったい……」
「マルセル」
優しい声が聞こえて来た。
訊き返す必要もなかった。
「エロイーズ」
蝶の渦の中で二人は抱き合っていた。
「ずっと言いたかったんだ。あなたの人生は意味なくなんかない。私と一緒にいてくれてありがとうって」
マルセルはエロイーズの耳元で囁いた。
「一緒に過ごせて楽しかった。本当にありがとう」
エロイーズも繰り返していた。
マルセルが椅子の上で目覚めた時、周りにはもう誰もいなかった。ルナもズデンカも大蟻喰もアルフレッドも、
――エロイーズも。
まるで白昼夢を見ていたかのようにマルセルは立ち上がって、自分ひとりのためにお茶を入れに台所へ向かった。
「アルフレッドさんを食べたのはいつ頃のこと?」
ルナは聞いた。三人は誰もいない冬枯れの並木道を歩いていた。
もう、空は紅く染まっている。鰯雲が背中を並べていた。
「二年前だね。エルキュールの路地裏に行き倒れになってて、余命幾許もない感じだった。ただの酔いどれだったよ。死なせてくれ、死なせてくれって繰り返していたから流石のボクも叶えてやるしかなくって」
「君にしたら優しいね」
ズデンカの心にまた甘美な痛みが走った。ルナが自分にそれと同じこと言ったことを覚えていたからだ。
「ボクは優しいんだよ。そもそも人間が生きていくことがこの星に害しかもたらさないのだから食べてあげることにしてるほどなのに」
と言って大蟻喰は胸を張った。
「マルセルさんもエルキュールに行っていたんだから、もしかしたら生前会えてたかもね」
「会わなかった方がいいんじゃないか」
ズデンカは心配そうに言った。
「そうだね」
ルナは口を噤んだ。
「残念ながら、アルフレッドは蝶のことなんて覚えてなかったようだよ。昔過ぎるしね。マルセルさんの記憶すらおぼろだ。まあ、良い気分転換にはなったよ。明日からはまた心置きなく人を食べることが出来そうだ」
大蟻喰は言った。
「わたしたちは付き合うつもりはないけどね」
ルナは断った。
「そうなの。残念だなぁ」
そう言って大蟻喰は背中を丸め、速度を早めて先に走っていった。
小さくなっていく大蟻喰の後ろ姿を眺めながらズデンカは溜息を吐いた。
「宿に帰ろう」
「いや馬車を出すよ。次は花の都エルキュールだ」
ルナは言った。
「ったく。わかったよ」
ズデンカはまた溜息を吐いた。
「しけた幻想に報いあれ。って言う機会なかった」
ルナはしょんぼりしていた。
「言わなくていいんだよ」
ルナは手帳を閉じた。
「お作りになった蝶を見せてくださいませんか?」
マルセルは何も言わず幾つもの標本箱を持ってきた。
そこに張られたガラスの奥には本物と見紛うばかりのさまざまな蝶たちが針で留められていた。
そのいずれもが八本の脚を持っていた。
「ほんとにたくさんありますよね。ここまで作ったもんだって我ながら思いますよ」
マルセルは眼を細めた。
「何か願いはありますか?」
ルナは聞いた。
「もう一度だけアルフレッドに会わせてください」
マルセルは答えた。
「よろしい。ちょっと君、顔を貸して」
とルナは眠そうにしていた大蟻喰の肩を叩いて家の外へと連れていった。
「マイペースなご主人様ですね」
マルセルは微笑んでズデンカに言った。
「あたしもほんと苦労させられてるよ」
ズデンカは額を押さえた。ルナと大蟻喰を二人だけにさせておくのが不安で仕方なかったのだ。
扉がまた開かれた時、マルセルは目を瞠った。
よれよれになった服を着て、顔を覆う真っ白な髭が生えた背の高い男がルナの後ろに続いていたからだ。
「どなた……」
とまで言いかけてマルセルははっとした。
「アルフレッド!」
二、三歩ばかり近づく。
ルナはパイプを吸い、煙を吐き出していた。
「ああ、俺だ」
アルフレッドは寂しそうに笑った。
「今まで何をしていたの?」
「色んな港へしょっちゅう行ったよ。今は身体にガタが来ちまってな。だが、もうこの街には戻れねえ」
アルフレッドはマルセルに近づくことなく答えた。
「戻れないって! 私はあなたにずっと会いたかったのに!」
不安そうに両手を揉み、アルフレッドに詰め寄るマルセル。
アルフレッドは身を引いて言った。
「本当にお前が会いたい人は俺じゃないだろう?」
「どういうこと?」
とたんに食卓に置いていた標本箱がカタカタと震え始めた。
勢いよく地面に落ち、ガラスが割れる。
中の蝶たちが一斉に羽ばたき始め、続々と外へ飛び出してきた。
ビックリしたマルセルは身を引き離した。
アカタテハを先頭にして、無数の蝶たちが群れをなしてグルグルとマルセルの周りを飛び回った。遠くから眺めると円錐形に見えるぐらいに。
移り変わる蝶の紋様にめまいを感じながらマルセルは床にうずくまった。
「これは、いったい……」
「マルセル」
優しい声が聞こえて来た。
訊き返す必要もなかった。
「エロイーズ」
蝶の渦の中で二人は抱き合っていた。
「ずっと言いたかったんだ。あなたの人生は意味なくなんかない。私と一緒にいてくれてありがとうって」
マルセルはエロイーズの耳元で囁いた。
「一緒に過ごせて楽しかった。本当にありがとう」
エロイーズも繰り返していた。
マルセルが椅子の上で目覚めた時、周りにはもう誰もいなかった。ルナもズデンカも大蟻喰もアルフレッドも、
――エロイーズも。
まるで白昼夢を見ていたかのようにマルセルは立ち上がって、自分ひとりのためにお茶を入れに台所へ向かった。
「アルフレッドさんを食べたのはいつ頃のこと?」
ルナは聞いた。三人は誰もいない冬枯れの並木道を歩いていた。
もう、空は紅く染まっている。鰯雲が背中を並べていた。
「二年前だね。エルキュールの路地裏に行き倒れになってて、余命幾許もない感じだった。ただの酔いどれだったよ。死なせてくれ、死なせてくれって繰り返していたから流石のボクも叶えてやるしかなくって」
「君にしたら優しいね」
ズデンカの心にまた甘美な痛みが走った。ルナが自分にそれと同じこと言ったことを覚えていたからだ。
「ボクは優しいんだよ。そもそも人間が生きていくことがこの星に害しかもたらさないのだから食べてあげることにしてるほどなのに」
と言って大蟻喰は胸を張った。
「マルセルさんもエルキュールに行っていたんだから、もしかしたら生前会えてたかもね」
「会わなかった方がいいんじゃないか」
ズデンカは心配そうに言った。
「そうだね」
ルナは口を噤んだ。
「残念ながら、アルフレッドは蝶のことなんて覚えてなかったようだよ。昔過ぎるしね。マルセルさんの記憶すらおぼろだ。まあ、良い気分転換にはなったよ。明日からはまた心置きなく人を食べることが出来そうだ」
大蟻喰は言った。
「わたしたちは付き合うつもりはないけどね」
ルナは断った。
「そうなの。残念だなぁ」
そう言って大蟻喰は背中を丸め、速度を早めて先に走っていった。
小さくなっていく大蟻喰の後ろ姿を眺めながらズデンカは溜息を吐いた。
「宿に帰ろう」
「いや馬車を出すよ。次は花の都エルキュールだ」
ルナは言った。
「ったく。わかったよ」
ズデンカはまた溜息を吐いた。
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ルナはしょんぼりしていた。
「言わなくていいんだよ」
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