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第一部

第五話 八本脚の蝶(3)

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 展覧会場には意外と多くの人が詰めかけていた。

 緋色の絨毯が一面に敷かれており、その単色さに目がやられたのか、ステッキを持ってこなかったルナはクラクラとしてズデンカによりかかった。

「大丈夫か?」
「ちょっと、ね」
「昔から繊細だから、ルナは」

 大蟻喰は逆に喜んで室内を歩き回っていた。

「悪さすんなよ」

 ズデンカはまた人を食い始めるのないかとハラハラしながら言った。

「ボクは食べたいときに食べるまでさ」

 大蟻喰は笑った。

「もし食べたら……」

 そうが言いかけてズデンカは壁面を埋め尽くすたくさんの蝶の標本に目を奪われた。

 死んでいる。

 ピン留めにされていて、確かに死んでいるはずだが、いまだに鮮やかな翅の色を保っていた。

 シマウマを思わせたり、ミミズクのようだったり、鬼百合が咲いたかのように見えたりした。

 ――こんなにいろんな種類がいたのか。
  ズデンカは驚いていた。

「来てよかっただろ」

 ルナが耳元で呟く。

「この――名前は何て言うんだ?」

 ズデンカは一匹の蝶を指差した。鬼百合を思わせるものだった。

「アカタテハって書いてるね。ふむ、でも変だな。分かるかい。この蝶、脚が八本あるよ」

 ルナは蝶を色んな方向から眺めながら言った。

「どれどれー?」

 二人の間に大蟻喰が顔を覗かせてきた。ズデンカは肘鉄を食らわせた。

「正面からじゃ分かりにくい、もっと近づいて横から見てよ」

 ルナは言った。

「あー確かにそうだね。珍しいこともあるもんだ」

 大蟻喰は驚いた。

 ルナはきらりとモノクルを輝かせた。

「くんくん。綺譚《おはなし》の匂いがする」

 そうやって鼻をひくつかせるポーズをやりながら一人ですっと立った。

「さて、調べるとしようか、諸君」 

 
  「誰かのイタズラです。こんなもの、最初はなかったんですよ。八本脚の蝶なんて、実在するわけないじゃないですか」

 酷く困惑した顔で、小太りな展覧会の主催者は三人を見た。

「じゃあ、展覧会に来た誰かがやったかのかもしれませんね。特定出来ませんか?」

 ルナは言った。


「出来るわけありません。一日何百人も来場されているんですよ!」

「出来るよね?」

 大蟻喰は異様に目をぎらつかせて前へ身を乗り出した。それを見た主催者はたちまち身震いを始めた。

「まあまあ」

 ルナはその肩を軽く叩いた。

 大蟻喰は口を拭った。よだれを垂らしていたのだ。

「じゃあその蝶だけくださいませんか? いたずらなんだったら、必要ないでしょう。お金ならいくらでも」

「いっ、いえ、うちのものじゃないんでタダで結構です」

 主催者は冷や汗を掻き顔をハンカチで拭きながら蝶に刺さった針を抜き、掌の上へ慎重に乗っけて戻ってきた。

「こちらです」

 ルナはそれを不器用な手付きで取った。思わず落としそうになったところをズデンカが押さえた。

「ちゃんと持っとけよ」

 ズデンカに置き直して貰って、ルナはそれを掌の上でしげしげと眺める。
 糸や紙や粘土や針金が丁寧に撚《よ》り合わされており、本物と見紛わんばかりだった。

「精巧に作られてるなあ。でも、偽物なんだよね。たぶん」

 指先でつんつんしていた。そのルナの様子を見てなぜかズデンカは心が落ち着いた。

「つまんないの」

 大蟻喰は退屈そうだった。

「じゃあ、少し場所を移して」

 展覧会場の奥にある喫煙室へ三人は歩いていった。

 たくさんの紳士が煙草を吹かせていたが、ルナたちはずかずか踏み込んだ。 

「女かよ」
「あれ、ルナ・ペルッツだよな」

「そう言えば……」

 ささやき交わす声。馬鹿にするような笑いが聞こえた。

 たまらずズデンカは一睨みした。

 室内は水を打ったように静かになる。

 ルナは気にせずパイプに火を点けた。蝶の標本へ煙を掛ける。

 とたんにその蝶は生あるもののように羽ばたきを始めた。

「幻解《エントトイシュング》出来るってことは作者はまだ生きてるらしい。それもきっと遠くじゃない」 
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