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彼と彼女:前

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「これはどうしたものか」



 男はそれをみて大仰に首をかしげた。





 そこは森の中だった。

 森は深く、静寂に満ちていた。数多く立ち並ぶ針葉樹は空高くを目指し、互いに日の光を求め競い合っていたのは過去のようだ。今や成長を遂げ切り、ひたすらにその先の死を待っている。

 そこにいたのは40過ぎに見える男だった。しかし、その姿を見たものは簡単に「男」とだけ思うことは出来ないだろう。長く伸びた銀の髪は緩やかにまき、腰まで伸びている。顔立ちは鋭さに甘みを含み、彼に見つめられるだけで喜びを見出すものすらいそうであった。

 彼は喪服のような漆黒の服を来ていた。静かな森に男は完璧なまでに調和していた。薄くあいた唇を舌がなめ、その隙間から白い歯がのぞく。

彼の穏やかながら鋭い薄紫の視線は足下に向いていた。

 そこには静寂を壊すような存在があった。――彼は一人ではないのだ。

 藍色の軍服、それは擦り切れており、それが正規の軍人のものではなく、募られた民間兵に与えられたおさがりのものだと思われる。ところどころ茶色く薄汚れたそれは、切り裂かれ、肌色が露出し、その肌色は更に傷を開き、赤い血を流していた。折れた剣を強く握ったままの手。顔が苦痛にゆがんでいるが、はっとする美しさがあった。年の頃は10代後半か20前後か。

 短い赤毛の、一見すると男に見える。

 しかし、切り裂かれた服の隙間から見える肌は女のものだ。

 ふむ、と男は首をかしげ、そして笑った。









 彼女は逃げることを決めた。決めてしまえば、あとは走り出すだけだった。

 そのときの心境はとても追い詰められたものだった。世界を守るのはお前だ。お前がどうにかしなければいけない。そんな声ばかり聞こえ、彼女はそれに従うだけだった。ともに立つものもおらず、全ての責任を彼女に着せ、全ての失敗で彼女を責め、全てが彼女に寄り掛かった。

 そんな日々に嫌気がさしたのだ。

 このままではいられない。このままでいるくらいならいっそ、逃げるべきだ。逃げおおせることが出来なければ、死ぬしかない、いや、死ねば良い。そう思い逃げ、戦場に至った。

 しかし、土壇場で彼女は思ってしまった。



 ――死にたくない。



 後悔とは後で悔いることだ。

 わかっていたのに。後で悔いるとわかっていながら彼女は命を捨てにいった。そして、当然のように後悔していた。

 何も知らない、優しくしてくれた人たちが命を落とした。業火が戦場を燃やし尽くす。落ちた炎から逃れられない距離だった。皆、炎に焼かれていく。彼女も焼かれそうだった。でも、一瞬早く飲まれた彼らに手を伸ばした。

 伸ばした手は届かなかった。

 届いたところで非力な自分には何も出来なかっただろう。数瞬後には彼女も飲まれている。そんなことはわかっていても。



 ――帰りたいな。 



 彼らは言っていた。そんな中に、帰りたくないと思う私がいたせいなのか。運の悪い人たちだった。ただ、

それだけなのかもしれないけれど。



「……やはり、私は……」



 疫病神だったのだろう。

 涙が頬を伝う感触にハッとする。



「起きたか」



 彼女は耳に届いた声に体をこわばらせた。男の声だった。



(嘘)



 どこだここ。

 夢と現状の差が激しすぎて彼女は思考が出来なくなった。



「どこだここはという顔だね、ここは森だ。名前はない。そして、森の中の城だ。こちらもまた名はない。この部屋は名前がある。客室だ。君が初めての客だが」



「……貴方は」



 体を起こして見渡す。窓が見えた。カーテンがない、広い窓。外には樹しか見えない。

 確かにここは森の中で建物のようだ。城かどうかはわからないが。窓の外には樹の高いところが見えるということは、それなりの高さのところということだろう。

 部屋は広く、白い。家具は少なく、落ち着いた印象を受ける。

 寝ていたのはベッドだった。

 真白いシーツに彼女はくるまれていた。自分が裸であることに気づき、纏っていたシーツを胸に押しつける。

 声の主は少し離れたいすに腰掛けていた。

 窓を背に優雅にティーカップを持ち上げ、目を閉じて、においをかいでいる。

 銀の髪に整えられた髭。黒く古めかしい服はしかし、彼にはとても似合っている。年の頃は40過ぎのようだ。ほぼ裸で見ず知らずの男と同室にいる、というのにやけに緊張感がなかった。彼が穏やかな視線をしていたからだろうか。



「私は君の恩人で、ここの主だ。囚われ人と言ってもいい。私のことは閣下とでも呼びたまえ」



 深みのある声。それだけで説得力があるような声だ。

 男の言葉に首を傾げる気持ちもあったが、しかし、先に叩き込まれた礼儀作法が顔を出した。



「助けていただいてありがとうございます。――ここは地獄ですか」



「君がどの地獄を思い浮かべながらその言葉を言ったかはわからないが、ここはまぁ、私にとっては地獄かもしれない。君に取っては、少し、まだわからないね。君、名前は」



「……リルド」



「リルド、君を歓迎しよう。君のおかげで私の地獄は少し救われたようだ。着るものはこのクローゼットにあるよ。あとでみると良い。風呂はそこのドアの向こうだ。お湯は出る。自由に使ってくれ。一応伝えておくと、夕食は 3時間後だ」



 リルドは彼の指さすほうを見た。そこには時計があった。今は昼の2時。5時に夕食ということか。



「風呂に入って寝直すのもよし、腹を満たすのもよし。私はおさらばするから、好きに為てくれ」



「……」



 リルドの返事は待たずに閣下と名乗る男は立ち上がりドアを開けて去って行った。

 一度、ドアに触る直前に彼はリルドに向かってウィンクした。ドアが閉まった音に我に返ったリルドは額に手を当てた。

 いろいろと聞かれるかと思ったが、結局、名前しか聞かれなかったことに安堵と不安を覚える。



「何が、どうなっているの……」



 どう考えてもおかしい。自分は戦場で死を待っていたはずだ。にもかかわらず、今、自分は大したケガもなく、戦場とはまるで違う場所にいる。何故なのか。考えてもわからない。

 裸であることに一瞬躊躇したが、どうせ服を取りにベッドからでなければならない。リルドは男が去ったドアをちらりと確認した後、ベッドから滑り出た。

 さすがに知らないところで裸で寝るのは気が引ける。リルドは壁際のクローゼットにかけより、開いた。

 そこには、白のさらりとしたワンピースのような寝具があった。手を通し、ボタンを留める。ようやく人心地つくと、次は窓にかけより外を見る。思った通り、この部屋は高いところにあるらしい。

 ガラスは質が良いのか非常に薄く透き通っている。しかし、あかない作りのようだ。

 リルドは窓を開けないまま、下をのぞき込み、地面が遠いことを確認した。閣下が言っていたように確かにここは森の中らしい。

 かなりの太さの木々が高く生い茂り、遠くを見渡すのが難しいほど。

 少なくとも、自分がいた戦場からは相当遠いのだろう。樹はよくある種類だが、ここまで太いとなると森の、特に深部なのがわかる。戦場は森の端だった。

 リルドは手掛かりを得ることができず落胆した。

 閣下と名乗る彼に聞くしかなさそうだ。

 リルドはベッドに戻り、腰を下ろした。



(どうしよう……どうしようもないけど……)



 小さく息を吐き、部屋を改めて見渡す。

 家具が少なく、色も少ない。白で統一された家具は、高価な物だと思われる。

 考えても答えがでないものはいくつだってある。閣下と名乗る彼は怪しいがすぐにリルドを傷つけるようなことをするようなつもりはなさそうだ。そんなことを考えているとあくびが出た。

 体は正直だ。この眠さでは考えても状況は変わらないだろう。

 リルドは考えることをやめ、眠気に身を任せることにした。

 さぁ、もういい。どうなったって知るもんか、寝よう。

 そう思い、ベッドに横になって、リルドは気づいた。――先ほどの閣下と名乗る男、彼が持っていたカップはどこに行った。ドアを開けて出て行った彼は両手があいていた。おいていったのか、しかし、見渡してもこの部屋にはなにもない。

 どころか、



「いす、あったはずなのに」



 慌てて身を起こす。そして部屋を見る。

 部屋にはベッドとクローゼット、小さなタンスしかなかった。 









「おや、一緒に夕食を食べていただけるとはうれしいね」



「……いえ」



 答えにならないうめきのような声しか出なかった。しかし、閣下は気を悪くした様子はない。リルドは少し安堵した。

 変な屋敷だ。

 リルドは夕食の席に着いてその気持ちを深めた。

 暖かな料理が二人分並んでいる。給仕するモノは姿も気配も見えず、一人穏やかに机の反対側で先ほどの”閣下”が杯を煽っているだけだ。





 布団に横たわってすぐ眠りについたのち、結局2時間ほどで目が覚めたので、二つあったドアを確認し、見つけた風呂に入った。

 風呂に入れば、必要なモノはすべてそろっているし、目を離した隙に先ほどは何もなかった棚の上にタオルが置かれている。

 部屋に戻れば、ベッドに上にさぁ着ろといわんばかりに服がおいてあった。

 クローゼットに服があるか確認はしたが、出してはいなかったはずなのに。

 一度は捨てたつもりの命だった。だから、もう、何も考えるのはやめ、ここから逃げようとすることもなかった。

 リルドは男に向き合った。何者なのか、何を考えているのか、何を求めているのか。全く読めない。



「とても美しい。こんな女性と食事が出来るなんて全く私は幸運だ。――聞きたいことは全部聞くと良い。答えよう。しかし、同じように君にもすべて聞かせてもらいたい。しかし、ソレは食事のあとにしよう」



 リルドはうなずいた。



  ◇◇◇



 聖女は、この世界に必要なのだと教会も議会も国王も、だれもかれもがそう言った。しかし、それはそれぞれ違う意味をはらんでいた。



「――君が今代の聖女か。前回から何年ぶりなのかね?」



「 400年ぶりです」



「そうか、ならば確かにたまった膿に押しつぶされてもおかしくはない」



 こんな風に他人事のように言われてしまうと、何となく居たたまれない気持ちもある。ーー聖女であることを嫌っておきながら、どういう神経なんだ。自分が嫌になる。

 しかし、結局はその通りだ。リルドは聖女だった。

 少しばかり裕福な農家の娘に生まれた時、誰もリルドが 400年ぶりの聖女だと気づかなかった。

 だから必要以上にこじれてしまった。





 聖女は世界に必要なのだという。しかし、ずっと世界にいるわけではない。

 生まれ、生きて、死に、再び生まれるまでに間が開く。

  400年、ソレはこの世界の勢力が変わるには十分な時間だった。



「――普通に生まれ、気づかれずに普通に育ち、私は道を違えてしまったのです」



 偶然の出来事だった。

 聖女が生まれるのは北にしか咲かない花がある場所のみだった。花が生えないところに聖女は生まれない。だから、花の生える区域は教会の区域だった。例え支配する国や王家が変わろうと、教会はその土地に生まれるものに対しての権利を保持し続けた。しかし、400年の年月は教会の勢力を弱め、教会と仲の悪い自身の勢力を大陸中に伸ばそうとする強国の支配の手が広がっていた。

 それは必ずしも悪いことではなかった。人々の生活が大きく変わるわけではなかった。だからこそ、それはじわじわと広がっていた。

 しかし、リルドにとって、それは道を違える大きな分かれ道だった。





 リルドの生まれた場所は国境付近。教会の領地の中ではあったが、強国の力も強く、聖女を探す教会の手はあまり行き届いていなかった。それでも、すべての女児が初潮を迎えるまでには聖女か否かと調べられる。しかし、その前にリルドは強国の貴族に目をつけられた。

 幼いが、きっと美人に育つ。そういわれ、伝令が彼女に家にやってきたのだ。

 北の娘は肌が白く、目立ちすぎるのが難だが、非常に美しい髪をしている。そして、未だ素直に教会の教えを守るから、従順。

 リルドの両親も、良くも悪くも従順だった。

 貴族は言った。家事使用人、奉公として預かり、必要ならば教育も与えよう。

 その言葉にリルドのためと送り出した。

 貴族は少女趣味ではなかった。いつかは妾にするとしても、今ではない。リルドは田舎では受けることの出来ない教育を受け成長していった。

 しかし、奉公に出て数年し、リルドが聖女であることが発覚した。

 誤って怪我し、それを一瞬で治したのだ。



 ――奇跡が起こった。



 ここで問題となったのはリルドを引き取ったのは強国の貴族であり、強国は教会を敵視していたことだ。

 過去、教会は聖女の存在を楯に魔物退治を請負、大陸で一番の勢力を誇っていた。強国は当時、散々に煮え湯を飲まされていた。しかし、長い間聖女が生まれてこなかったがために、教会の勢力は衰え、代わりに強国が強国になり得ていた。

 そんな時、400年ぶりに産まれた聖女がこの国の、貴族のものであるという知らせに王都は沸いた。

 リルドはまず、奉公先の貴族の養子となり、次にもっと高位の貴族の養子に。そして、最後には王子の婚約者となっていた。

 王も王子も今後の国力の増強に喜んだ。しかし、喜ばないモノもいた。

 もともとの王子の婚約者に、聖女を失った教会のものたち。



 ――リルドがいなければ王太子妃になれたのに。



 ――懐にいない聖女に意味はない。死ねば再び輪廻は回る。



 手を組んだ彼らにリルドは命を狙われた。

 さらに、聖女を得た王国は完全な味方ではなかった。教会のように聖女の力を最大限に発揮するノウハウがあるわけでもなく、彼らは半ばリルドを持てあましていた。

 聖女は教会のたたえるような女神の愛おし子ではない。ただの強い力を持った人間だ。

 そのような教えでリルドは教育された。遠回しに調子に乗るなと何度も念を押され、しかしその実、世界はお前が守るのだ守れないならばお前に居場所はないと繰り返された。





 そして、魔族が再び活性化し攻め入り始めたとき、リルドは戦いのすべてを押し付けられた。

 強国ゆえに発言権が強い軍部は聖女が己の権力の頂点にいることに不満だった。

 普段から軍部に押されていた国王はここぞとばかりに自身の息子の婚約者である聖女の代わりにと命令を下した。

 リルドは聖女だからどうにかできるだろうと戦いも何も任され、負けるごとに責められた。

 理不尽に、心が死んでしまいそうだった。だから、逃げようと思った。







「殺されるくらいなら逃げてやろう、死んでやろうと、ね」



「そう、です」



 世界は戦で満ちていた。魔物との戦いの前線には聖女が立たねばならない。そういわれてリルドは戦場に立っていた。しかし、付け焼き刃の戦の知識ではそれぞれの命をかけた戦いに勝利をもたらすことは難しかった。

 結局、聖女はお飾りで歴戦の将軍や将校によって戦の式はとられるようになり、ただリルドは責任だけを積み重ねていった。

 聖女は命を救い、奪うもの。そして、象徴。

 軍はリルドを守ってはいたが、さほど力を入れていたわけではない。むしろ将軍のほうが守りが固い。ただリルドは荒んだ戦場で聖女の力を失わぬよう、処女を散らさないよう見張られていただけだった。

 食事すら満足に与えられないようになって、やっと決心がついた。

 身の回りを手伝うものもいないのだ。戦の混乱に乗じて逃げれば良い。

 リルドは一人で準備し、夜間、監視を逃れ、戦場に逃げた。

 途中死人から軍服を奪い、同じく手に入れた短刀で髪を切った。目立つ赤毛は泥で汚し、民兵の集まりに紛れた。

 彼らのほとんどは年をとっていたり、けがをしていたりで満足に働けず、土を積むことくらいは出来るだろうと連れてこられたものたちだった。そして、彼らとともに防衛戦に向かい、リルドは死んだ。

 否、死にかけた。





「ここはどこでしょう。私は死ぬはずだったのです。なのに、生きている」



 リルドの問いかけに男は肩をすくめた。



「ここは、いうならば牢屋だ。私専用のね。まさか君が入ってくることが出来るとは思わなかった。君というか、生きとし生けるものはすべて、というべきか。ここは私以外には何者もいてはならない空間なのだ。しかし、君がここにやってきた以上、ここを作ったモノが君に来てほしかった、君に死んで欲しくなかったということなんだろう」



「ここをつくったもの?」



「ここを作ったのは女神様というやつだよ、リルド。私は彼女の計らいで閉じ込められた」



「女神?」



 リルドは目を細めた。

 確かに、教会は女神がいると言っている。しかし、教会と仲の悪い王国でリルドが学んだのは別の意見だった。

 聖女は命を救い、奪うもの。その力は実際は女神に与えられた聖女独自のものではない。

 聖女とよばれるほどではなくとも力のあるものはいるのだ。そんな彼らの力を使うことによって王国は勢力を増していた。

 だからこそ、彼らは考えていた。その中でも特別力の強いモノが聖女なのだ。つまり、聖女は女神の恩寵ではない。特別強いだけのただの人間なのだと。

 リルドはその説に納得していた。何しろ、教会と違って王国は力の研究に熱心だった。力を自分たちの中でとどめておきたい教会が聖女という旗を使って権威を自分たちだけのものにしたいのだ、という認識すらあった。王国で教育を受けたことも関係あるとは思うのだけど。



「確かに、まぁ、そうかもしれない、しかし、そのシステムを作ったのは彼女なのだ。だからいるのだよ、彼女は」



 閣下は嗤った。



「しかし、では貴方はいったい何なのだ」



「私かね?私はただの隠居人さ」



  80がらみの老人のような台詞を 40そこそこに見える男に言われても。男の盛りはまだまだだろうに。ただの変な人であることは確実だが。リルドは思った。

 男は顎髭を撫でた。

 一本も撥ねのない。綺麗に整った髭だ。

 強国ですら、女神を信じておらずとも、敬意は払っていた。それは生活に基づいた習慣にも近しい。

 しかし、この男は敬意すら払わない。

 変な男だ。



 ――そうか、これはきっと、死の間際にみる夢なのだ。



 リルドはそんな考えに至った

 それ以外あるものか。これは、夢だ。だから、もうどうだっていいのだ。興味も感心も捨てよう。

 自分が聖女であることもどうでもいい。死にたい気持だってどうだっていい。

 そんなことより、このデザートが美味しい。

 リルドは閣下を見た。彼は彼女が何も問わないのを面白く思ったようだ。そんな彼を無視して彼女は言った。



「デザートのお代わりをもらえますか」



 閣下は笑顔で肯定した。



  ◇◇◇



 リルドと”閣下”の奇妙な同居生活は浮き沈みなく、静かに経過していった。

 リルドの知る限り”閣下”は読書をしていることが多い。それは広間であったり、書斎であったり、窓際であったり、階段であったり。ともかく、彼はどこにでもいつの間にか座り込んで本を読んでいるのだ。

 初めの時のように、リルドが目を覚ますと部屋で本を読んでいることがあった。

 おはよう、と声をかけられて驚き体を布団に隠した彼女を見て、いまさらのように「これはもしかしたら紳士的ではないのかもしれないね」といって、それ以来彼はリルドの部屋で本を読んでいない。

 何を読んでいるのかこっそりのぞくと、知っている言語であったり、知らない言語であったり、そもそも文字が書いてるとは思えないような本であったり、ともかく、彼という人間は簡単には測りかねる部類であることがよくわかるものばかりであった。

 リルドといえば、何をしていいかよくわからず、最初のうちは城を静かに探索してばかりいた。

 何しろ、幼い時に見出されて以来、リルドは他人に行うべきことを決められていた。

 その大半は学ぶことだ。学ぶことは嫌いではない。

 使用人として屋敷にいたときも、王宮に上がって聖女としての知識、力について知っていった時も、積み重なる知識に少しの達成感を覚えたことも事実だ。しかし、学ぶことが好きかといわれるとよくわからなかった。

 力はここでは制限されているようだった、なかなか思うように使えずそうそうにあきらめた。箒で素振りをしてみた。しかし、すぐに面倒になった。

 気づけば日がな一日ぼんやりと窓の外の樹に積もる雪を眺めていたりした。

 外に行くのはまれだった。何しろ寒いし、外に行くにはどうやら閣下とともにでないとでることが出来ないようだった。何しろ玄関の大きなドアは閣下でないとあけることが出来ず、リルドが触れてもびくともしないのだ。

 閣下は散歩に行く際にはリルドを誘ってくれたが、それもまれであるし、だからといって本を読んでいる閣下をわざわざ外に連れ出すほど外にいきたい気持ちもなかったため、結局外に出る機会は少なかった。

 そんな自分に、そこまで向上心がなかったのか、とか、こんなにつまらない人間だったのか、と少し悲しい気持ちになったくらいだ。

 何日かするとリルドが時間をもて余していることに気付いたのか、”閣下”はリルドに本を渡してきた。

「私はこれが食べたいな」 

 渡された本を見れば、どうやらこれはその料理の作り方の乗っている本だったようだ。

 リルドは素直にうなずき、台所に向かった。

 不思議な城はさすがだった。そこにはすでに材料がそろっており、オーブンすら予熱してあった。

 リルドは閣下のいう料理やお菓子を作って過ごすようになった。しかし、それも毎日ではない。

 彼はリルドの料理をいつも通りの大仰な様子で褒め、喜んで食べていた。

 リルドはその中で自分が思った以上に料理や家事が好きだったことに気付いた。貴族の侍女見習いをしていた時以来のことだったが、体が覚えていたらしい。

 そうして、穏やかな生活が続き、気づいたときには自身で乱雑に短く切り捨てた深紅の髪が肩につき、結うことが出来るほどの長さになっていた。





 そんなある日のことだった。





「リルド、頼みがあるのだが」



 閣下は朝食の席で言い出した。

 いつも通りの食卓だった。彼は漆黒の服を隙もなく着こなし、鋭い視線は変わらず。しかし、その視線は問いかけるわけでも、責めるわけでもなく、ただそこにあるだけのもだった。

 何度みても見慣れないほど美しい閣下の顔をちらりと見、リルドは今日は何か大物でも頼まれるのだろうか。と思った。

 パイだろうか。もしくはこの間失敗した焼き菓子だろうか。パイはうまくいって褒められたが、焼き菓子はなかなか膨らまず、ぺしゃんこになってしまったのだ。閣下は「食べれないこともない」と何とも慰めになるとは思えないことを言っていたし、再挑戦しろということか。そう思い、



「どうぞ、何なりと」



 といった。そして、次の閣下の言葉に硬直した。いわく、



「性交渉をしよう」







 死んだと思ったら生きていたとき以上の衝撃がリルドを襲った。







「――待て待てリルド、今から燭台でのどをついて死のうみたいな顔をするな」



「……いえ、死にたいとまでは思っていませんが」



 リルドは形容しがたい感情で閣下を見てはいたが、死にたいとは思っていなかった。ので、一応否定する。



「なぜ、今更そのようなことをおっしゃるのですが」



「なぜといわれると、思い出したからだ」



「思い出した……?」



「私は生まれてこのかた、この屋敷と森だけで過ごしてきた。これは私にとって義務のようなものだ。他人とかかわらずに生きることが私に求められた唯一だった。しかし、君という奇跡がここに現れた。私は非常にうれしくてね。他人の作った料理や君の寝息を聞いたり寝顔を眺めることの充実感を覚えていた」



「そう、ですか」本を読んでいるだけだと思ったら、寝顔をじっくり見られたりもしていたのか。少し恥ずかしくなる。



「で、だ。一人ではできないこと、ということで思い出した。性交渉は男女二人いないとできない。ちなみに君を見つけた時もそういう打算がなかったわけではないことを告白しておこう」



「……」



「で、思い出した。だからしたいのだ」



「………」



 理屈はわかるが、意味が分からない。というか、あんまりわかりたくない。



「性交渉をしたいということはわかりました、しかし、私としてもそう簡単にいいですよというほど貞節が緩いわけではありません。たとえ貴方が命の恩人だとしても。……そもそも、あなたはいったい何者なのか、そこから教えていただきたい。」



 今更のように聞いてからリルドははっとした。

 閣下に考え直させようとしたつもりだったのか口をついてでた言葉だったが、そういえば気になっていたのだった。



 ――そういえば気になっていた。等、現状に繋がる非常に大切な疑問だったはずなのに。



「それは」



 リルドの言葉に、困った顔で閣下は顎を撫でた。

 そういう感情の見える表情は好きだ。

 リルドは少し考え、彼の提案に思考を向ける。

 彼のことは嫌いではない。助けられたし、その恩もある。彼自身は突拍子もなく、意味もわからないが基本的に紳士的で嫌がるようなことは一切してこない。それに何しろ顔が良い。顔が良いことは財産なのだと彼を見ると思うほどだ。

 しかし、だからといってそう易々と性交渉をするのも憚られる。

 性交渉をしたことのない処女であるリルドは一応それなりに貞操は守りたかった。

 何しろ、今までの常識が貞操守るべし、だったのだ。

 聖女は処女であるべし、というのは教会と王国、聖女について両方で統一されていた意見の一つだった。

 故に命と同じくらいリルドの貞節は守られていた。

 だが、こんな閉じられたところにいて、ただ生かされているというのも申し訳ないような気もする。

 閣下は、嫌いではない。

 好きかといわれるとよくわからない。

 特段性交渉をしてみたいわけではないが、興味関心がないわけでもない。





 リルドの苦悩に気付かず、閣下は何やら考え込んでいたが、「うむ」と独り言を漏らすと、リルドに向き直り、言った。



「では、私のことを教えよう」







「私は人の身に生まれたが、幸運と不幸を同時に背負ってしまった。君は女神はいないといったが、実はいるのだ。ただ、彼女は人の世に必要最小限の干渉のみしかしないことを原則としている。しかし、その必要最低限の干渉、を越えなければいけないこともある。――それが私の存在だ」



 閣下は肩をすくめた。



「私は人間の子に生まれた。女神が人の子にする祝福は様々なものがある。しかし、それらは簡単な差異はあっても、人の枠を超えるような差があってはならない。それが原則だ。

 だが。ある日。祝福を与えていた女神はうっかり祝福を与えすぎてしまった。

 いうならば、皆に降り注ぐ小雨のように落としていた祝福を一人の子に向かって滝のように落としてしまったのだよ」



「ええと、聖女と同じように?」



 祝福は力を同じでいいのだろうか?リルドが首をかしげると閣下は首を横に振って否定した。



「いや、祝福とは力とほとんど同じ解釈で良いが、この話の与えすぎた、は聖女の特別とは違う。聖女は”女神の愛おし子”だ。選んで与えられた力だ。しかし、私は違う。うっかり、の産物なのだ。本来であれば、それはありえないことだった。そんな多量の祝福を得てしまった子は受け止めきれず、祝福に耐えられず人間ではない存在、つまりは妖精のようなものになってしまうからだ。

 しかし、その子はそれをすべて吸収してしまった。吸収してしまいながら、存在は人のままであった。

 それが私だ」



 閣下は笑った。



「祝福とは力である。君のような聖女は女神が意図して作る力の大きなものだ。しかし、私のものは意図せず作ってしまったありえない存在だった。

 人の世に私がいれば、きっと、私は人の世を好きに操ることのできる英雄か、魔王か。ともかく、人の世の理を崩す存在となっていただろう。ゆえに私は生れ落ちてすぐに女神に選択を求められた。

 ――人をあだなす存在になり果て、いつか聖女に殺させるべき存在としての魔王として地上で育ち、早々に死ぬか。

 ――人とかかわることなく森の神域で一人祝福によって無限にもある命を穏やかに過ごすか。

 生まれてすぐの赤子に聞く内容ではないが、まぁ、私は祝福を得しものであるため、自身の意思で決めた。決めることができたのだ。

 それがこの、人と関わらず穏やかに死まで一人で生きるというものだった。」



 特段、長い話ではなかった。リルドはただ、閣下を見ていた。



「だから、ここは牢獄だ。君のような人間がここに来るはずではなかったのだ。よほど女神は君を殺したくなかったと思われる」



「……」



「信じられないかね?信じることが難しい話なのは私にもわかる。しかし、それ以外に何もいえないのだ」



 閣下は笑った。笑うとこの人は寂しそうに見える。リルドは唇を噛んだ。



「……信じるかどうか、私にはまだよくわかりません。しかし、貴方がとても複雑な存在であることはわかる。それはずっとここにいてみてきたから」



 彼の住む屋敷の不思議も理解できた。

 女神の作った、彼への牢獄。それならば、この不思議も納得できる。

 考え込んだリルドに、閣下は肩をすくめた



「すぐにベッドに入ろうなどというつもりはない。それは紳士的ではないと私も知っているからね。だから。もし今後その気になったら教えてくれ。そして、その気にならなかったとしても私は君をここから追い出す気もない。――そもそも君がここにいるのは女神の考えなのだろうし、そこは安心してほしい」



 彼の話に、リルドはうなずくしかなかった。

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