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第一章 開幕編
2話『行動開始とエンカウント』
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「ここは──」
ひんやりとした土が背中に触れる感覚が心地良く、瞼を貫通する太陽の光で目が覚める。
起きたばかりの身体に鼻腔を通って最初に入って来たのは、澄み切った空気だった。
住んでいたのが比較的都会だったことに加え、現代社会を生きていた。故に彼にとって、このように綺麗な空気を吸うのは実に数年振りの事だ。
「転移は、どうやら済んでるっぽいな」
身体を起こし、キョロキョロと周囲を見渡す。
見渡す限り、目に映るもの全てが深緑に染められた森。其処が彼、雨宮海斗改めアウラのスタート地点だった。
まだ朝方なのか、鳥達の囀りが鳴り止まない。気候も安定しているようで、暑すぎず寒すぎずといったところ。
一先ず、これが夢でない事を確認する為に、アウラは軽く頬を抓った。
「……痛」
表情を変えずに零す。
痛覚は問題無く機能していた。つまりは紛れも無い現実だという証明である。
記憶も至ってハッキリしている。あの天使のような装いの少女、アインに境界と呼ばれる場所で、自分が赴く世界の説明を受けた。そして護身用という名目で、神の兵器などというとんでもない代物を授けられた。
(尤も、使えば死ぬ、なんてデメリット付きだけどな)
頬に走る痛みを実感し、完全に意識が覚醒したところで思い出したように周囲を見渡す。
その視線の先は美しい景色ではなく、土色に満ちた下方に向けられている。
「そうだ、ヴァジュラは……っと。あったあった」
こてん、と転がっていた、白銀の両刃の剣。
見る度に使い勝手が悪いだろうなと思ってしまうが、その不満は口に出すと雷が落ちそうなので考えるだけに留めておくアウラであった。
「申し訳ないけど、使わせて頂きます」
一言、今や天上に座す本来の所有者に断りを入れ、中心の柄の部分に手をかけてひょいと拾い上げた。
その見た目からは何となく重そうな印象を持っていたが、アウラの予想に反して不思議と振り回せない重さでも無かった。
「意外と軽いんだな、これ。どういう構造?」
ダンベルを持ち上げるかのように、上下に揺らして重さを確かめる。
金属製の刃が両端に付いており、地面に突き立てれば先端が目線と等しくなる程のサイズにも関わらず、異常な程に軽く感じたのだ。
同時にもう一つ気付いた事があったらしく、アウラは己の身体に視線を落とす。
「あれ、この服────」
服の生地を引っ張りながら、その変化に気が付く。
ヴァジュラを持つ手の袖はおろか、全身が未知の装いとなっていたのだ。
上は白を基調とした軽装で、動作をあまり阻害させるようなものではない。一見すれば旅人を思わせるような服装だった。
(前の世界じゃずっとジーパンにパーカーみたいな服着てたから、なんかコスプレしてるみたいな感覚だな……)
そして畳みかけるように、それらを容易く上回る衝撃が彼を襲う。
「────!?」
思わず二度見していた。
原因は―――白銀の刀身に反射した己の顔だった。
「……あれ、俺ってこんな……」
まじまじと鏡面に映る顔を見つめるアウラ。
十余年もの間付き合ってきた自分の顔。忘れる事など普通ならばまずあり得ない。
確かに基本的な部分はあまり大きな変化は起きていないのだが、日本人特有の黒い瞳は美しい碧眼に、ずっと黒色だった髪はこともあろうか、
「銀、髪……だと?」
異世界なのだから居ても何ら不思議ではないのだろうが、黒から銀へと華麗なまでのジョブチェンジを果たしていた。
アウラは一本だけ指で摘み引っ張ってみるが、ウィッグなどでは無い。間違いなく彼自身の地毛であった。
「調整って、こういうことか……」
銀髪から手を離し、納得したように呟いた。
確かに怪しまれる事は無いのだろうが、何故よりによって銀髪なのだろうかと疑問を抱いてしまう。
「とりあえず、ここからは一人だ。気を引き締めろ」
頬を叩き、気持ちを切り替える。
現状で助けてくれる人間誰一人としていない。この世界に住む誰かと出会い、知り合うまでは自分一人で生き抜かなければならない。
「まずは、この森を抜けろって事だよな」
果ての見えない、深い森の奥を見据えて自分がやらねばならない事を理解する。
生活や職業、人脈云々以前の問題が目の前に立ちはだかっている。
彼の新たなスタートラインは、何処にあるかも知らぬ異界の森。一体どれだけの広さなのか、そもそもこの森が安全なのか不安要素は山のようにあるが、それを知る術は彼には無い。
かつて神々が実在した、幻想が現実である世界。
安易な考えではあるが、この森に魔獣の一匹や二匹生息していても何ら可笑しくないのだ。
「都合良く人が助けに来るなんて事も無さそうだし、まずは行動しないとだ」
思い立ったが吉日。
自らを鼓舞するようにそう意気込み、彼は金剛の刃を携え、森の奥深くへと足を踏み入れて行った。
※※※※※※
「────」
てくてくと森を歩き続けていく中、アウラの頭の中にはいくつかの疑問が浮かび上がっていた。
第一に、仮にこの森を抜けられた所で近くに街があるのか、という点。次にこの世界の貨幣制度、職業の数。そして何より「言語」に関しての問題が心配だった。
現代の多く創作作品に於いては基本的に日本人が異世界に転生ないし転移しても会話は日本語で成立しているが、実際がそうとは限らない。
「言葉の壁」があるというだけでコミュニケーションは難航し、生活難易度は格段に跳ね上がる。
「その辺も、アインが何とか調整してくれると願うしかないよなぁ……」
生い茂る木々の間を突き進みながら、そう言葉を漏らした。
アウラの体感でほんの数十分前の事。異世界に送り出す上で必要最低限の事はする、と彼女は言っていたのを思い出した。
アウラという新たな名前も、第二の生を歩むという意味を持つと同時に、日本名に違和感を持たれない為であった。その上異世界らしい装いにもなっていた。
全体的に飄々としていて掴みどころのない性格だった為、肝心な部分を忘れていないか不安感を抱いていた。
太陽は未だ天高く上っている。時刻で言えば大体正午より前といったところだろう。
今の所空腹感は無く、疲労も特に溜まっている訳では無いので、止まる事なく進むんでいる。
「出来れば、少なくとも三日以内にはこの森を抜けたい所なんだけど……大丈夫か?」
彼にとっての何よりの優先事項はこの森からの脱出、そして現地人との接触。
ゴブリンやら狼やらの魔物と遭遇する可能性がゼロではない以上、出来る限り早めが望ましい。
「こういうのって日が沈んだら可能な限り動かない方が良いのか? 最悪、焚火でもして野宿か」
夜行性の魔物に襲われる危険性を考慮しての事だった。
護身用の武器こそあれど、武術等に関しては素人もいいところ。それこそ武器なんて持った事すら無い一般人に武具を持たせる、それが相当な無理強いであることは想像に難くない。
一匹程度なら対処できる可能性はゼロではないが、数匹で構成された群れで襲い掛かられたら確実にゲームオーバーを迎える。
「────しっかし、すごいな。ここ」
少し周囲に目をやれば、見た事のない色彩の鳥や、木の枝を伝うリスのような小動物などが見受けられる。
この森に住まう野生動物を見る度に、自分が異世界に来たのだなと是が非でも実感させられる。
それは既に、此処は自分の知る世界では無い。という根本的な不安も掻き立てるものでもあった。
(……こんな序盤で死んだらアインに爆笑されそうだし、何が何でも無事に此処を抜けないと)
一度深呼吸をしてから言い聞かせるように言う。
確実に五体満足で森を脱出し、諸々の問題を解決し、拠点と職を確保しなければ、と。
彼は、異界の森林の奥深くへと突き進む。
気が付けば、行動を開始してから数時間が経過していた。
既に相当な距離を歩き続けているが、依然、森から脱出できそうな気配は無い。
(これ、本当に抜け出せるのか……?)
そんな不安がアウラの頭を過る。
休み無く歩いてこそいるが、一向に抜け出せるビジョンが見えない。
最終的には外に出たいのだが、歩けど歩けど逆に森の奥深くへと迷い込んでいるのではないか、と勘ぐってしまう。
周囲の風景が全く変わらないのもその原因の一つだ。
最初の方は異世界に住む小動物を見て多少は胸が躍っていたが、今となってはそんな事より抜けられるのか否か、という心配がアウラの中で大きくなりつつある。
今思い返せば、見切り発車でスタートしたのは失敗だったのではないかとも思う。
最初の地点からはもう随分と離れてしまったので引き返すのは恐らく無理。途中で通った巨大樹への道も分からなくなってしまっていた。
そんな過ぎた事を気にしながら、とぼとぼと歩みを進めるアウラ。
その足取りは最初の方に比べて重くなっている。足に乳酸が溜まり、動かすのに若干の辛さを覚えるようになってきていたのだ。
──そろそろ休憩を挟みたい。
切実にそう思うようになってきたアウラを待ち構えていたかのように、切り株がぽつん、と佇んでいた。
「ちょっと……休むか」
蛍光灯の光に集まる蛾の如く、吸い込まれるように切り株へと歩み寄り腰を降ろした。
同時に「あぁ~」という声を漏らす。
疲弊している身体に、優しく頬を撫でるそよ風。そして適度な静寂。
(あ、これヤバイ。マジで寝るヤツだ)
それらの要素が絶妙にマッチして、さっき目覚めたばかりだというのに睡魔が侵略を開始した。
証拠に、瞼が異常に重くなっていき、意識が沈んでいく感覚すらし始めた。
プール後、冷房の効いた教室で受ける授業はこの世のものとは思えない程に眠かったが、今のソレは、それらに勝るとも劣らない。
うつらうつらと、着実に自分の中の睡魔が意識を塗り潰していく。
少しでも気を抜けば即座に夢の世界にゴールインするという事は理解しているつもりなのだが、人間、甘い誘惑というものには勝てないように出来ている。
だが、保っていた意識が深淵へと沈む直前。それは阻まれる事になる。
「────ッ!」
ビクゥ!と、意識と共に彼の身体が起き上がる。
授業中などに頻発する「寝ピク」では無い。
何故なら外部からの干渉によって、睡魔に犯されつつあった意識が引っ張り上げられたのだから。
心臓の鼓動が急激に加速する。
──何かが、近くにいる。
彼にそう確信させたのは、ガサガサという音。
風は吹けど、音を立てる程のものでは無い。例えるならば、足が草木に当たった時に発生する音が最も近い。
それに加えて、違和感の最たるものが
──見られてる。
自らを見据えている、何者かからの視線であった。
音が聞こえた距離的にも、そう遠くは無い。自分の視野の範囲内だった。
静かに切り株から立ち上がり、ヴァジュラの柄を強く握り締める。
額から汗が頬を伝い、鼓動を加速させる。
異音のした方向へと視線を移し、その奥の方をじっと見つめる──そして、目が合った。
「……っ」
眠気はとうに消え失せ、極度の緊張が身体を支配していた。
目を合わせた、真っ赤に光る瞳。ソレは自ら林の奥から姿を現したのだ。
「……あれは」
詰まったように言葉を漏らす。
シルエットだけで言えば、それは限りなく狼に近い。しかし、それをただの狼であると断言するというのは憚られる。
血走ったような眼も十分に恐怖を感じさせる。しかしそれ以上に見る者を畏怖させるのは、漆黒の毛皮に覆われた巨大な体躯だった。
通常の狼とは桁が違う。それと同時に、ソレが一体何であるかを認識した。
──魔獣。
その言葉がことこの状況において、自分を見据える獣を最も適格に形容していたのだから。
魔獣は一歩も動かず、その場からずっとこちらを監視している。
「何もしてこないのか……?」
視線を向けてこそいるが、その場に座ったまま襲ってくるような様子は無い。
少し警戒心を緩め、武器を降ろす。
その刹那。
「ウォォォォォォォォォォォォォン!」
その魔獣は天高く咆哮する。
何の為の咆哮だったのか、その瞬間は分からなかったが、すぐにその意味を理解させられた。
「……まさか」
気付いた頃にはもう手遅れだった。
その音は残響となって森中を駆け巡る。
それに呼応するかのように、同じ体躯を持つ巨獣が眼前の一頭の背後に姿を現した。
(マズい────!)
瞬間、全てを察した。
自分を見ていた個体は、ただ獲物を発見しただけ。手を出さずにいたのは品定めでもしていたのだろう。
狩りの確実化を図る為に、実行するのはあくまで群れで行うという事。
総数にして6。
汗が顎から零れ落ちる──その時。
「────ッ!」
武器を降ろし、アウラは力強く地を蹴った。
生き延びる為に何をすべきかは考えるまでも無い。単身であれば戦う事も選択肢の一つとしてはあるが、群れ相手あれば確実にバッドエンドは約束されている。
少しでも可能性がある方に賭けたのだ。
アウラに続くように、獲物を逃がすまいと狼達も行動を開始した。
森の中を疾駆する少年と簒奪者。
命を賭した鬼ごっこの火蓋が、切られたのだ。
※※※※
彼はただ足を駆動させる。
その足を止めればその時点で詰みが確定する。獣達の餌食となり腹の中だ。
果ての見えない迷宮の如き森の中を駆ける。彼らはアウラの真後ろに4体、斜め後方に左右1体ずつで彼を追い続ける。
戦うという選択は勇気では無く「無謀」。自分より遥かに大きな体躯を持つ獣の群れを相手に大立ち回りできる程の力なんて持ち合わせていない。一体を相手している内に他の個体に襲い掛かられた時点で即チェックメイトである。
「はぁ……っ!はぁ……!」
ただ「逃げる」。それだけを考える。
彼の中にある感情は恐怖と焦燥。しかし少しでも距離を離し、この場を巻く事さえ出来ればその時点で勝ちだ。
悔いなく生きると決めた以上、こんな序盤で死ぬ訳にはいかない。
異なる世界で生の続きを歩むという奇跡を得たというのに、何も成し遂げていないのに死ぬという事は出来ない。
この命を、このような所で無為に消費させる訳にはいかない。
(──っ……頑張れ俺……!)
自分にそう言い聞かせる。
時折現れる倒木や岩といった障害物の事を常に念頭に入れていち早く反応し、パルクールのようにそれらを乗り越えていく。
この状況において、何よりスピードを落とす事は許されない。
そんな中一つ、違和感が付き纏っていた。
(疲れが、そこまで無い……?)
当然息は上がるが、未だ最高速を維持したまま。その上、身体の動きや五感がいつにも増して冴え渡っている。
持久走にはあまり自身が無かったのだが、これはアウラにとっては嬉しい誤算だった。
(なんでか分かんないけど、これなら────!)
まだまだ余力を残している事もあり、より一層力強く乾いた地面を蹴り、少しでも彼らを引き離す。
(逃げ切れるか……!?)
後を追う魔獣達も、先程より多少ペースは落ちて来ている。
このまま突き放す事が出来れば巻く事が出来る。勝利条件は戦って勝つという事では無く、この状況を切り抜けて生き延びる事。
しかし悲しいかな。
そんな微かな希望を打ち砕くかのように、漆黒の体躯がアウラの視界に映り込んだ。
「────っ」
ピタリと足が止まり、唇を噛み締める。
何処から現れたのか。前方には更に3頭の怪物。
驚く事に、自分を追う獣達は、左右と後方の獣だけではなかったのだ。
完全に包囲された。
自分が逃げていたのではなく、追い込み漁のように誘導されていた。
何もかもが手遅れだった。
退路など無い。
獲物を前にした怪物たちは、ゆっくりとその距離を縮めていく。例え一頭でも、彼らからからすれば自分一人殺す事など容易である。
(詰んだか……これ)
彼の表情から、つい数分前まで僅かにあった余裕が消え失せる。
どう考えてもこの状況を切り抜ける手段は無く、「四面楚歌」という状況をこの上なく体現しているのだから。
異世界に来てからものの数時間で命の危機に晒されている。戦ったとしても勝てる見込みなど無い。
数でも、力でも、彼らの方が圧倒的に上回っている。
目を付けられた時点で、この結末は決まっていたのかもしれない。
それでも彼は、ヴァジュラを握り締めた。
諦めなど無い。
後悔しないと心に決めたのなら、最後まで足掻いてみせようと。
(……やるしかないか)
武器を構え、前方の個体を見据える。
覚悟を決め
「──っ!」
ヴァジュラを携え、獣へと向かっていく。
対する獣も、その強靭な四肢でアウラの命を絶つべく、飛ぶ様に襲い掛かった。
その跳躍は数メートルあったアウラとの距離を一瞬で詰める。狙うは喉元。そこに食らいつきさえすれば息の根を止めたも同然だった。
弱いモノが強いモノに食われるは大自然が定めた道理。
決意も虚しく、異世界での生は早々に幕を閉じる。
──そう、思われた。
確かに魔獣は自身の方へと跳躍したが、その牙が自分に届く事は叶わなかった。
飛んだ筈の魔獣の身体が、一瞬の間に地に落ちているのだから。
「────」
あまりにも急な状況転換で、頭の中は極めて混濁していた。
「間一髪、ね」
突如として発せられた、そんな、余裕のある声。
地に伏した魔獣と、その傍らに立つ紫髪の少女。
既に息絶えたその体躯には、首の付け根から胸を貫くように、一本の剣が真っ直ぐに突き刺さっていた。
一撃。
己より巨大な躯体を持つ怪物を、その少女は一瞬で絶命せしめた。
少女は魔獣の亡骸から剣を引き抜き、薙ぐようにしてこびりついた血を払う。ビシャリ、と、黒々とした血が地面に撒き散らされる。
仲間が瞬く間に仕留められた光景を目の当たりにしたのか、魔獣達のターゲットはアウラからその少女に切り替わっていた。
「戦えるなら手伝って貰って構わないけど、足だけは引っ張らないでね」
そう言い捨てる彼女の視線は、獣達にのみ向けられていた。 アウラに対しての言葉だったが、それは獣たちに対する宣戦布告と同義──自分が今からお前たちを殺すと。
ひんやりとした土が背中に触れる感覚が心地良く、瞼を貫通する太陽の光で目が覚める。
起きたばかりの身体に鼻腔を通って最初に入って来たのは、澄み切った空気だった。
住んでいたのが比較的都会だったことに加え、現代社会を生きていた。故に彼にとって、このように綺麗な空気を吸うのは実に数年振りの事だ。
「転移は、どうやら済んでるっぽいな」
身体を起こし、キョロキョロと周囲を見渡す。
見渡す限り、目に映るもの全てが深緑に染められた森。其処が彼、雨宮海斗改めアウラのスタート地点だった。
まだ朝方なのか、鳥達の囀りが鳴り止まない。気候も安定しているようで、暑すぎず寒すぎずといったところ。
一先ず、これが夢でない事を確認する為に、アウラは軽く頬を抓った。
「……痛」
表情を変えずに零す。
痛覚は問題無く機能していた。つまりは紛れも無い現実だという証明である。
記憶も至ってハッキリしている。あの天使のような装いの少女、アインに境界と呼ばれる場所で、自分が赴く世界の説明を受けた。そして護身用という名目で、神の兵器などというとんでもない代物を授けられた。
(尤も、使えば死ぬ、なんてデメリット付きだけどな)
頬に走る痛みを実感し、完全に意識が覚醒したところで思い出したように周囲を見渡す。
その視線の先は美しい景色ではなく、土色に満ちた下方に向けられている。
「そうだ、ヴァジュラは……っと。あったあった」
こてん、と転がっていた、白銀の両刃の剣。
見る度に使い勝手が悪いだろうなと思ってしまうが、その不満は口に出すと雷が落ちそうなので考えるだけに留めておくアウラであった。
「申し訳ないけど、使わせて頂きます」
一言、今や天上に座す本来の所有者に断りを入れ、中心の柄の部分に手をかけてひょいと拾い上げた。
その見た目からは何となく重そうな印象を持っていたが、アウラの予想に反して不思議と振り回せない重さでも無かった。
「意外と軽いんだな、これ。どういう構造?」
ダンベルを持ち上げるかのように、上下に揺らして重さを確かめる。
金属製の刃が両端に付いており、地面に突き立てれば先端が目線と等しくなる程のサイズにも関わらず、異常な程に軽く感じたのだ。
同時にもう一つ気付いた事があったらしく、アウラは己の身体に視線を落とす。
「あれ、この服────」
服の生地を引っ張りながら、その変化に気が付く。
ヴァジュラを持つ手の袖はおろか、全身が未知の装いとなっていたのだ。
上は白を基調とした軽装で、動作をあまり阻害させるようなものではない。一見すれば旅人を思わせるような服装だった。
(前の世界じゃずっとジーパンにパーカーみたいな服着てたから、なんかコスプレしてるみたいな感覚だな……)
そして畳みかけるように、それらを容易く上回る衝撃が彼を襲う。
「────!?」
思わず二度見していた。
原因は―――白銀の刀身に反射した己の顔だった。
「……あれ、俺ってこんな……」
まじまじと鏡面に映る顔を見つめるアウラ。
十余年もの間付き合ってきた自分の顔。忘れる事など普通ならばまずあり得ない。
確かに基本的な部分はあまり大きな変化は起きていないのだが、日本人特有の黒い瞳は美しい碧眼に、ずっと黒色だった髪はこともあろうか、
「銀、髪……だと?」
異世界なのだから居ても何ら不思議ではないのだろうが、黒から銀へと華麗なまでのジョブチェンジを果たしていた。
アウラは一本だけ指で摘み引っ張ってみるが、ウィッグなどでは無い。間違いなく彼自身の地毛であった。
「調整って、こういうことか……」
銀髪から手を離し、納得したように呟いた。
確かに怪しまれる事は無いのだろうが、何故よりによって銀髪なのだろうかと疑問を抱いてしまう。
「とりあえず、ここからは一人だ。気を引き締めろ」
頬を叩き、気持ちを切り替える。
現状で助けてくれる人間誰一人としていない。この世界に住む誰かと出会い、知り合うまでは自分一人で生き抜かなければならない。
「まずは、この森を抜けろって事だよな」
果ての見えない、深い森の奥を見据えて自分がやらねばならない事を理解する。
生活や職業、人脈云々以前の問題が目の前に立ちはだかっている。
彼の新たなスタートラインは、何処にあるかも知らぬ異界の森。一体どれだけの広さなのか、そもそもこの森が安全なのか不安要素は山のようにあるが、それを知る術は彼には無い。
かつて神々が実在した、幻想が現実である世界。
安易な考えではあるが、この森に魔獣の一匹や二匹生息していても何ら可笑しくないのだ。
「都合良く人が助けに来るなんて事も無さそうだし、まずは行動しないとだ」
思い立ったが吉日。
自らを鼓舞するようにそう意気込み、彼は金剛の刃を携え、森の奥深くへと足を踏み入れて行った。
※※※※※※
「────」
てくてくと森を歩き続けていく中、アウラの頭の中にはいくつかの疑問が浮かび上がっていた。
第一に、仮にこの森を抜けられた所で近くに街があるのか、という点。次にこの世界の貨幣制度、職業の数。そして何より「言語」に関しての問題が心配だった。
現代の多く創作作品に於いては基本的に日本人が異世界に転生ないし転移しても会話は日本語で成立しているが、実際がそうとは限らない。
「言葉の壁」があるというだけでコミュニケーションは難航し、生活難易度は格段に跳ね上がる。
「その辺も、アインが何とか調整してくれると願うしかないよなぁ……」
生い茂る木々の間を突き進みながら、そう言葉を漏らした。
アウラの体感でほんの数十分前の事。異世界に送り出す上で必要最低限の事はする、と彼女は言っていたのを思い出した。
アウラという新たな名前も、第二の生を歩むという意味を持つと同時に、日本名に違和感を持たれない為であった。その上異世界らしい装いにもなっていた。
全体的に飄々としていて掴みどころのない性格だった為、肝心な部分を忘れていないか不安感を抱いていた。
太陽は未だ天高く上っている。時刻で言えば大体正午より前といったところだろう。
今の所空腹感は無く、疲労も特に溜まっている訳では無いので、止まる事なく進むんでいる。
「出来れば、少なくとも三日以内にはこの森を抜けたい所なんだけど……大丈夫か?」
彼にとっての何よりの優先事項はこの森からの脱出、そして現地人との接触。
ゴブリンやら狼やらの魔物と遭遇する可能性がゼロではない以上、出来る限り早めが望ましい。
「こういうのって日が沈んだら可能な限り動かない方が良いのか? 最悪、焚火でもして野宿か」
夜行性の魔物に襲われる危険性を考慮しての事だった。
護身用の武器こそあれど、武術等に関しては素人もいいところ。それこそ武器なんて持った事すら無い一般人に武具を持たせる、それが相当な無理強いであることは想像に難くない。
一匹程度なら対処できる可能性はゼロではないが、数匹で構成された群れで襲い掛かられたら確実にゲームオーバーを迎える。
「────しっかし、すごいな。ここ」
少し周囲に目をやれば、見た事のない色彩の鳥や、木の枝を伝うリスのような小動物などが見受けられる。
この森に住まう野生動物を見る度に、自分が異世界に来たのだなと是が非でも実感させられる。
それは既に、此処は自分の知る世界では無い。という根本的な不安も掻き立てるものでもあった。
(……こんな序盤で死んだらアインに爆笑されそうだし、何が何でも無事に此処を抜けないと)
一度深呼吸をしてから言い聞かせるように言う。
確実に五体満足で森を脱出し、諸々の問題を解決し、拠点と職を確保しなければ、と。
彼は、異界の森林の奥深くへと突き進む。
気が付けば、行動を開始してから数時間が経過していた。
既に相当な距離を歩き続けているが、依然、森から脱出できそうな気配は無い。
(これ、本当に抜け出せるのか……?)
そんな不安がアウラの頭を過る。
休み無く歩いてこそいるが、一向に抜け出せるビジョンが見えない。
最終的には外に出たいのだが、歩けど歩けど逆に森の奥深くへと迷い込んでいるのではないか、と勘ぐってしまう。
周囲の風景が全く変わらないのもその原因の一つだ。
最初の方は異世界に住む小動物を見て多少は胸が躍っていたが、今となってはそんな事より抜けられるのか否か、という心配がアウラの中で大きくなりつつある。
今思い返せば、見切り発車でスタートしたのは失敗だったのではないかとも思う。
最初の地点からはもう随分と離れてしまったので引き返すのは恐らく無理。途中で通った巨大樹への道も分からなくなってしまっていた。
そんな過ぎた事を気にしながら、とぼとぼと歩みを進めるアウラ。
その足取りは最初の方に比べて重くなっている。足に乳酸が溜まり、動かすのに若干の辛さを覚えるようになってきていたのだ。
──そろそろ休憩を挟みたい。
切実にそう思うようになってきたアウラを待ち構えていたかのように、切り株がぽつん、と佇んでいた。
「ちょっと……休むか」
蛍光灯の光に集まる蛾の如く、吸い込まれるように切り株へと歩み寄り腰を降ろした。
同時に「あぁ~」という声を漏らす。
疲弊している身体に、優しく頬を撫でるそよ風。そして適度な静寂。
(あ、これヤバイ。マジで寝るヤツだ)
それらの要素が絶妙にマッチして、さっき目覚めたばかりだというのに睡魔が侵略を開始した。
証拠に、瞼が異常に重くなっていき、意識が沈んでいく感覚すらし始めた。
プール後、冷房の効いた教室で受ける授業はこの世のものとは思えない程に眠かったが、今のソレは、それらに勝るとも劣らない。
うつらうつらと、着実に自分の中の睡魔が意識を塗り潰していく。
少しでも気を抜けば即座に夢の世界にゴールインするという事は理解しているつもりなのだが、人間、甘い誘惑というものには勝てないように出来ている。
だが、保っていた意識が深淵へと沈む直前。それは阻まれる事になる。
「────ッ!」
ビクゥ!と、意識と共に彼の身体が起き上がる。
授業中などに頻発する「寝ピク」では無い。
何故なら外部からの干渉によって、睡魔に犯されつつあった意識が引っ張り上げられたのだから。
心臓の鼓動が急激に加速する。
──何かが、近くにいる。
彼にそう確信させたのは、ガサガサという音。
風は吹けど、音を立てる程のものでは無い。例えるならば、足が草木に当たった時に発生する音が最も近い。
それに加えて、違和感の最たるものが
──見られてる。
自らを見据えている、何者かからの視線であった。
音が聞こえた距離的にも、そう遠くは無い。自分の視野の範囲内だった。
静かに切り株から立ち上がり、ヴァジュラの柄を強く握り締める。
額から汗が頬を伝い、鼓動を加速させる。
異音のした方向へと視線を移し、その奥の方をじっと見つめる──そして、目が合った。
「……っ」
眠気はとうに消え失せ、極度の緊張が身体を支配していた。
目を合わせた、真っ赤に光る瞳。ソレは自ら林の奥から姿を現したのだ。
「……あれは」
詰まったように言葉を漏らす。
シルエットだけで言えば、それは限りなく狼に近い。しかし、それをただの狼であると断言するというのは憚られる。
血走ったような眼も十分に恐怖を感じさせる。しかしそれ以上に見る者を畏怖させるのは、漆黒の毛皮に覆われた巨大な体躯だった。
通常の狼とは桁が違う。それと同時に、ソレが一体何であるかを認識した。
──魔獣。
その言葉がことこの状況において、自分を見据える獣を最も適格に形容していたのだから。
魔獣は一歩も動かず、その場からずっとこちらを監視している。
「何もしてこないのか……?」
視線を向けてこそいるが、その場に座ったまま襲ってくるような様子は無い。
少し警戒心を緩め、武器を降ろす。
その刹那。
「ウォォォォォォォォォォォォォン!」
その魔獣は天高く咆哮する。
何の為の咆哮だったのか、その瞬間は分からなかったが、すぐにその意味を理解させられた。
「……まさか」
気付いた頃にはもう手遅れだった。
その音は残響となって森中を駆け巡る。
それに呼応するかのように、同じ体躯を持つ巨獣が眼前の一頭の背後に姿を現した。
(マズい────!)
瞬間、全てを察した。
自分を見ていた個体は、ただ獲物を発見しただけ。手を出さずにいたのは品定めでもしていたのだろう。
狩りの確実化を図る為に、実行するのはあくまで群れで行うという事。
総数にして6。
汗が顎から零れ落ちる──その時。
「────ッ!」
武器を降ろし、アウラは力強く地を蹴った。
生き延びる為に何をすべきかは考えるまでも無い。単身であれば戦う事も選択肢の一つとしてはあるが、群れ相手あれば確実にバッドエンドは約束されている。
少しでも可能性がある方に賭けたのだ。
アウラに続くように、獲物を逃がすまいと狼達も行動を開始した。
森の中を疾駆する少年と簒奪者。
命を賭した鬼ごっこの火蓋が、切られたのだ。
※※※※
彼はただ足を駆動させる。
その足を止めればその時点で詰みが確定する。獣達の餌食となり腹の中だ。
果ての見えない迷宮の如き森の中を駆ける。彼らはアウラの真後ろに4体、斜め後方に左右1体ずつで彼を追い続ける。
戦うという選択は勇気では無く「無謀」。自分より遥かに大きな体躯を持つ獣の群れを相手に大立ち回りできる程の力なんて持ち合わせていない。一体を相手している内に他の個体に襲い掛かられた時点で即チェックメイトである。
「はぁ……っ!はぁ……!」
ただ「逃げる」。それだけを考える。
彼の中にある感情は恐怖と焦燥。しかし少しでも距離を離し、この場を巻く事さえ出来ればその時点で勝ちだ。
悔いなく生きると決めた以上、こんな序盤で死ぬ訳にはいかない。
異なる世界で生の続きを歩むという奇跡を得たというのに、何も成し遂げていないのに死ぬという事は出来ない。
この命を、このような所で無為に消費させる訳にはいかない。
(──っ……頑張れ俺……!)
自分にそう言い聞かせる。
時折現れる倒木や岩といった障害物の事を常に念頭に入れていち早く反応し、パルクールのようにそれらを乗り越えていく。
この状況において、何よりスピードを落とす事は許されない。
そんな中一つ、違和感が付き纏っていた。
(疲れが、そこまで無い……?)
当然息は上がるが、未だ最高速を維持したまま。その上、身体の動きや五感がいつにも増して冴え渡っている。
持久走にはあまり自身が無かったのだが、これはアウラにとっては嬉しい誤算だった。
(なんでか分かんないけど、これなら────!)
まだまだ余力を残している事もあり、より一層力強く乾いた地面を蹴り、少しでも彼らを引き離す。
(逃げ切れるか……!?)
後を追う魔獣達も、先程より多少ペースは落ちて来ている。
このまま突き放す事が出来れば巻く事が出来る。勝利条件は戦って勝つという事では無く、この状況を切り抜けて生き延びる事。
しかし悲しいかな。
そんな微かな希望を打ち砕くかのように、漆黒の体躯がアウラの視界に映り込んだ。
「────っ」
ピタリと足が止まり、唇を噛み締める。
何処から現れたのか。前方には更に3頭の怪物。
驚く事に、自分を追う獣達は、左右と後方の獣だけではなかったのだ。
完全に包囲された。
自分が逃げていたのではなく、追い込み漁のように誘導されていた。
何もかもが手遅れだった。
退路など無い。
獲物を前にした怪物たちは、ゆっくりとその距離を縮めていく。例え一頭でも、彼らからからすれば自分一人殺す事など容易である。
(詰んだか……これ)
彼の表情から、つい数分前まで僅かにあった余裕が消え失せる。
どう考えてもこの状況を切り抜ける手段は無く、「四面楚歌」という状況をこの上なく体現しているのだから。
異世界に来てからものの数時間で命の危機に晒されている。戦ったとしても勝てる見込みなど無い。
数でも、力でも、彼らの方が圧倒的に上回っている。
目を付けられた時点で、この結末は決まっていたのかもしれない。
それでも彼は、ヴァジュラを握り締めた。
諦めなど無い。
後悔しないと心に決めたのなら、最後まで足掻いてみせようと。
(……やるしかないか)
武器を構え、前方の個体を見据える。
覚悟を決め
「──っ!」
ヴァジュラを携え、獣へと向かっていく。
対する獣も、その強靭な四肢でアウラの命を絶つべく、飛ぶ様に襲い掛かった。
その跳躍は数メートルあったアウラとの距離を一瞬で詰める。狙うは喉元。そこに食らいつきさえすれば息の根を止めたも同然だった。
弱いモノが強いモノに食われるは大自然が定めた道理。
決意も虚しく、異世界での生は早々に幕を閉じる。
──そう、思われた。
確かに魔獣は自身の方へと跳躍したが、その牙が自分に届く事は叶わなかった。
飛んだ筈の魔獣の身体が、一瞬の間に地に落ちているのだから。
「────」
あまりにも急な状況転換で、頭の中は極めて混濁していた。
「間一髪、ね」
突如として発せられた、そんな、余裕のある声。
地に伏した魔獣と、その傍らに立つ紫髪の少女。
既に息絶えたその体躯には、首の付け根から胸を貫くように、一本の剣が真っ直ぐに突き刺さっていた。
一撃。
己より巨大な躯体を持つ怪物を、その少女は一瞬で絶命せしめた。
少女は魔獣の亡骸から剣を引き抜き、薙ぐようにしてこびりついた血を払う。ビシャリ、と、黒々とした血が地面に撒き散らされる。
仲間が瞬く間に仕留められた光景を目の当たりにしたのか、魔獣達のターゲットはアウラからその少女に切り替わっていた。
「戦えるなら手伝って貰って構わないけど、足だけは引っ張らないでね」
そう言い捨てる彼女の視線は、獣達にのみ向けられていた。 アウラに対しての言葉だったが、それは獣たちに対する宣戦布告と同義──自分が今からお前たちを殺すと。
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