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豪宴客船編

執念

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「はあああ!」
「っらあああ!」
 アテナと楠二郎くすじろう。互いに渾身の右拳が、寸分の違いもなく同じ位置へと突き込まれる。
 突進の勢い、足腰と体幹の支え、最大の効果を発揮する腕の伸び具合。その全てが突き出す右ストレートに最高の威力を与える。
 残るは純粋な力のみ。それが破壊力を生む最後の要素となり、ぶつかり合った後の勝敗を決する。
 二人の拳が触れ合った瞬間、衝撃が波紋のように拡がり、地面に走った亀裂をさらに深く刻み込む。
 そして鮮血を宙にき散らしたのは―――――――――楠二郎の右腕だった。
 アテナが放った右ストレートの衝撃は、楠二郎の腕の筋肉を幾筋にも裂き、弾けさせ、骨を歪ませた。
「ぐお―――」
 一瞬遅れて楠二郎が苦悶の声を漏らす。『本気』を出したアテナの膂力りょりょくは、楠二郎の腕一本を半壊せしめるほどだった。
 痛みに腕を引いた楠二郎を見つつ、アテナは足元が気になっていた。
 いまの一撃は、確実にセントラルパークの基盤にひびを入れてしまった。
 船上ということで抑えていた力を解放すれば、楠二郎を圧倒することは可能だった。が、多用すれば船体を決定的に破壊してしまう危険もある。
 最悪の場合、依頼が失敗したとしても、アテナは結城ゆうきを沈没の憂き目に遭わせまいと考えていた。
(あと三回、いえ二回でもセントラルパークここは崩れるかもしれません。それまでに――――――)
 そうアテナが思考していた刹那せつなの間に、
「―――おおあああ!」
 楠二郎はさらに一歩踏み込み、アテナに拳を振るってきた。かろうじて原型を留めていた右腕で。
「っ!?」
 楠二郎の気迫と予測を超えた攻撃に戦慄したアテナは、角力スマイの特性も相まって避けることができなかった。まさか筋肉がボロ布のように崩れ、骨がき出し、腕の形を保っただけでも奇跡といえる状態で、拳を握り打って出るとは思わなかったからだ。
 額に決まった二発目の右ストレートの勢いに押され、アテナは後ろに身体をらせた。
(己の腕を囮にし、その腕さえも本命として使う。腕を失う危険さえいとわぬその執念……まさにオニ!)
 さすがに崩れかけの腕で放たれた拳撃では、本来の威力は損なわれてしまうところだが、額の中心をうまく捉えたその一撃は、アテナの意識を揺るがすには非常に効果的だった。
「うおあああ!」
 倒れ込もうとするアテナに、なおも獣の雄叫びを上げて追いすがる楠二郎。
 たとえ脳を揺らすに足る攻撃だったとしても、それでアテナを仕留められるとは、楠二郎も思っていない。
 再びアテナのマウントポジションを取り、今度は楠二郎が乱打の嵐を見舞うことで、確実にアテナの意識を奪う。
 それならば、戦女神とて負けを認めるほかはない。楠二郎はそこに賭ける気でいた。
 コンマ一秒すら惜しまれる。右腕の復元を待つ余裕もない。アテナが倒れた瞬間にマウントを取り、そこからはひたすらに拳の雨を降らせる。
 背中から倒れようとするアテナ。そこへ肉薄する視界。楠二郎はいま、全ての現象がスローモーションのように見えていた。
 その濃厚な時間の中、ついにアテナの背が地に着いた。
(ここだー!)
 楠二郎は左腕を引きながら跳んだ。仰向けに倒れたアテナに跳び乗ると同時に左拳を叩き込むために。その後は潰れかかった右腕も使い、アテナが意識を失うまで拳を振るい続ける。
 アテナに覆い被さろうとする瞬間、引いていた腕を伸ばそうとする瞬間、楠二郎は確信した。
 勝った、と。
 だが、拳が突き込まれる寸前、その手首をアテナの両手ががっしりと包み込んだ。
「なっ――――――ぐっ!?」
 驚きの声を上げたのも束の間、楠二郎は逃げる間もなく、首をアテナの両ももに挟みこまれた。完璧な三角絞めを決められたのだ。
「ぐう……うぅ……」
 楠二郎の胴を絞め上げたアテナの脚が、今度は楠二郎の首を絞め上げる。頚動脈の血流が阻害され、頚椎けいついがミシミシときしみを上げていた。
 本来なら、掴まれていない方の腕で反撃するのが常套じょうとうだが、楠二郎の右腕はまだ復元しきっていない。アテナの膂力に押し負け、その上で強引に振るった右腕は、通常の傷よりも回復に時間を要していた。
 そのわずかな時間の中で楠二郎が落とされたなら、勝利はアテナのものとなる。
「バラキモト・クスジロウ。あなたの執念は、人の域を超えたオニそのもの……しかし、戦女神わたしもまた、軽々けいけいに勝ちを譲るつもりは、ない!」
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