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豪宴客船編

古屋敷の酒宴

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 街灯がぽつりぽつりと照らす夜の道を、その者はひたすらに走っていた。
 足を進ませるのは、ただ恐怖一点のみ。
 逃げなければ捕まるという強迫観念に囚われ、あてどなく走り続けていた。
 乗せられていたトラックが横転し、幸いにも外へ脱出する隙ができた。この機を逃せばもう二度とないという直感が脳裏を過ぎり、その者は見知らぬ夜道に駆け出したのだ。
 同乗者たちは追ってきていないが、そのことに気を配っている余裕などない。
 とにかく距離を取ることだけを考え、泥のように湧き上がってくる恐怖に涙を溜めながら走り続ける。道端の小石を踏んでも、肺が潰れそうなほどに苦しくても、何ら構うことはない。
 しかし、いよいよ街灯が少なくなってきたところで、文字通り足元をすくわれた。全力疾走でバランスを失ったために、勢いそのまま二転三転しながら道を跳ね回り、止まった。
 脳が揺さぶられたのか、その者はしばらく思考できないまま倒れていた。
 やがて起き上がり、また駆け出そうとするが、もはや体力の限界だった。恐怖に突き動かされて配分を考えないまま走り続けた体は、感覚では追いつかないほど疲弊していた。
 よろめきながら歩くことはできても、もう走ることは適わない。
 言うことを聞かない体を引きずりながら、恐怖だけがまた湧き立ってくる。
 逃げなければいけないはずが、歩くのもままならない。
 恐怖に顔を引きつらせながら、その者は大粒の涙を流した。追っ手に捕まり、自由のない闇に引き戻される自身を想像して。
 だが、その思考が一瞬遮られた。
 声が聞こえたからだ。それも眼前の夜闇にまるで似つかわしくない、『ひょえええ~!』という情けないような、間抜けたような声。
 どう考えても追っ手の声ではなかった。かといって味方であるというわけでもない。むしろ、この場においてその者に味方などいるはずもない。
 ただ、その者は不思議と声がした方向に足を進めた。
 声の主が必ずしも危害を加えないとも限らない。それどころか、追っ手より性質が悪いかもしれない。そう思うのが自然なところ、なぜか一直線に声がした方へ歩いていった。
 元より行くあてもない。その者は何かに導かれるように、山道をよろりよろりと登っていった。

「んん……」
 目蓋の上から当てられる光に気付いて、結城ゆうきはゆっくりと意識を覚醒させた。
 目を開けるとカーテンの隙間から朝日が差し込み、外からは山鳥たちが元気に囀っている。少しひんやりした山の空気が頬を撫でる。
 陽気のいい絶好の起床―――になるはずだった。
「うっ―――ぐおぉ」
 上半身を起こした際の、凶悪な頭痛にさらされるまでは。
(な、なにこれ……頭いたい~)
 ベッドの上で背を曲げて頭を抱え込む。その頭痛には覚えがあった。
 二日酔いだ。
(んん!? 昨夜は何があったんだっけ?)
 頭痛に見舞われながら、結城は昨晩の記憶を辿ろうとした。が、まだ酔いが残っているのか、思い出そうにも記憶に手が届かなかった。
「ん?」
 結城はふと、視線を横に向けた。ベッドシーツが盛り上がっている。
 よく見ると、結城はベッドの右半分を使っており、もう半分が別の誰かに占領されていた。
 シーツの盛り上がり方を見るに、かなり小柄だった。アテナ、マスクマン、シロガネではない。
 結城はまた媛寿えんじゅがイタズラを仕掛けようとしているのだと思った。寝起きを狙って仕掛けられたことが何度かあったからだ。
 今回はゾンビのお面でもしているのか。それともリアルなワニのぬいぐるみでも置いているのか。予想を立てて覚悟を決めながら、結城はシーツを一気に捲った。
「…………」
 シーツを捲った結城は、しばらく反応ができなかった。そこにあったのはゾンビのお面でも、ワニのぬいぐるみでもない。
 ただの少女だった。
 赤みの強い茶色の癖っ毛を無造作に伸ばした、細身の少女がすやすやと寝息を立てていた。
 それだけでも問題だが、さらなる問題があった。少女は一糸纏わぬ裸身で眠っていた。
「~~~~~!」
 結城は声にならない悲鳴を上げた。
(え!? ちょ!? なんで!? どうして―――はっ!)
 そこで結城は気付いた。真っ裸で眠っていたのは、自分も同じだったということを。
(ど、どういうこと!? まさか! まさか!?)
 結城の中で恐ろしい想像が過ぎった。もしかしたら酔った勢いで見知らぬ少女を連れ込み、あれやそれやといたしてしまったのではないか、と。
(ま、待て! 待て待て待て待って! お、落ち着こう! 昨日はいったい何があった?)
 恐慌を起こしかかった精神をぎりぎりのところで繋ぎとめ、結城は昨日の記憶を一つずつ辿ることにした。

 昨日の昼前、ちょうどアテナに鍛錬をつけてもらった直後だった。最寄の警察署の遺失物係から、古屋敷に連絡が入った。
 拾得物に落とし主が現れなかったので、発見した結城に受け取りに来てほしいという内容だった。
 結城が媛寿を伴って外出すると、高確率で何かしらの落とし物を拾っていた。
 拾う物は食品、日用雑貨、骨董品、装飾品など、多岐にわたり一定しないが、それなりに価値のある物ばかりだった。結城はそれらを必ず警察に届けるようにしていたが、大抵の場合は落とし主が現れず、結城が受け取ることになっていた。
 それが媛寿の座敷童子ざしきわらしとしての力によるものであるのは、結城もすでに承知していた。しかし、あまり拾い過ぎるのも後ろめたく感じるので、結城は媛寿に相談したことがあった。が、座敷童子の運勢偏向能力は、媛寿自身でも完全に操れたり、まして止めることもできない。座敷童子に付かれた者についてまわる、一種の特異体質と割り切るしかなかった。
 仕方がないので、結城は拾得物の一部をネットオークションやフリーマーケットに出品して、その売り上げの一部をどこかしらに寄付するということを習慣にしていた。もっとも、それも媛寿が数字を時々いじっているので、予想よりも大きい売り上げになることが多かったが。
 今回結城が受け取ることになったのは、1立方メートル弱の木箱だった。媛寿と一緒にいると、変わった品物を拾うのが日常なのだが、それを発見した時はどう落としたのか不思議でならない代物だった。三ヶ月前、警察に届けるのが一苦労だったのも憶えている。
 さすがに警察署から運んでくるのは結城だけでは無理だったので、アテナに手伝ってもらってようやく古屋敷まで戻ってきた。
 木箱の中身は様々な種類の酒だった。日本酒から洋酒、なぜかウイスキーボンボンまでがぎっしりと詰められていた。
 酒屋に卸す物でも荷崩れしたのかと思ったが、ともかくそれは結城たちの物になったので、その日は古屋敷で酒の試飲会が催されることになった。
 結城は酎ハイを、媛寿はウイスキーボンボン―結城が飲酒に難色を示したため―を、アテナはワイン全般を、マスクマンは果実酒を、シロガネはラム酒とビールを、それぞれ好みの酒類を手に取って味を楽しんだ。
 途中、各々が台所で作るツマミの品々も絶品で、試飲会は大いに盛り上がったのだが、雲行きが怪しくなったのは二時間ほど過ぎたあたりからだった。
「ユウキ、こちらに来なさい」
「は、はい」
 アテナに呼ばれ、結城は椅子に座るアテナの前まで歩いていくが、その時にはすでに結城の中で危険信号が鳴っていた。
「両腕を上げなさい」
「う、腕を?」
「いわゆる『バンザイ』です」
「あ、はい。ばんざ~―――い!?」
 結城が腕を上げた瞬間、アテナは結城のシャツの裾を持ち上げ、あっさりと結城をセミヌードにしてしまった。
「え!? え!? え!?」
「そのままでいなさい」
 いたって真面目なアテナは、結城の上半身を注意深く観察したり、時折掌で軽く叩いたりしながら、360度見て回った。
「あ、あの~、アテナ様。これっていった―――い!?」
 アテナは今度は結城のズボンに手をかけ、一気に引き下ろした。アテナが何をしたいのか分からないまま、結城は完全に剥かれてしまった。
(え!? なに!? これって羞恥プレイ!?)
 困惑する結城をよそに、アテナは結城の下半身を見つめながら、再度360度見て回った。
「……やはり足りませんね」
(え? 足りない? 足りないって何のこと? まさか!?)
「もう少し筋肉が足りない」
「き、筋肉?」
「そうです」
 アテナは顎に人差し指を当てながら目を細めた。
「私としてはもう少し筋肉を付けた方が良いと思います。いかなる運動においても、筋肉は重要です。しかし現在の鍛錬メニューに追加しては、オーバーワークになってしまって逆効果になります。さらには全身の筋肉を満遍まんべんなく、且つ実用的に鍛えたい。どうすれば……」
 どうやらアテナは結城の鍛え具合を見ていたと知り、結城はホッと胸を撫で下ろしかけた。が、それは間違いだった。
「閃きました。レスリングです」
 アテナはそう言うと、即座に上着を脱ぎだした。
「ちょ! ま、待ってくださいアテナ様! なんで!?」
「なぜも何も、レスリングです」
 焦りまくる結城など露ほども気にせず、アテナは手早く着衣を脱いでいく。
「レスリングの組み合いを取り入れれば、全身の筋肉を満遍なく鍛えられます。早速いまから実践です」
「そ、それは分かりましたけど、なんで服を脱ぐんですか!?」
「ユウキ、古代ギリシャのオリンピックは、裸で行われていたのですよ」
「……」
「レスリングも然り!」
「……」
 堂々と胸を張って断言するアテナを前に、結城は両目を手で塞ぎながら口が塞がらなくなった。
 だが、思考は動いていた。そして思い至った。アテナは酔っている、と。
 滅多に酔うことのないアテナだったが、それなりの量が入ると稀に酔っ払うことがあった。それも酔った状態がどうなるか非常にランダムで、一番悪い場合は考え方も行動も奇行に走るというものだった。今回はその一番悪いパターンに当たってしまった。
「ユウキ、あなたもちょうど裸です。さぁ、始めますよ」
「い、いや、それは~……」
 結城はわずかに後ずさった。いま両目を開ければ、モデル並みに整った女神の裸身を目の当たりにすることになる。しかもレスリングの組み合いをしようと言ってきている。
 そんなことになったら、結城の思考回路は爆発してしまう。
 小林結城、二十五歳。童貞である。
「さぁ! さぁ!」
 アテナは俄然やる気だった。酔っ払った女神に説得など通用するはずがない。
「ひ、ひょえええ~!」
 結城は踵を返してリビングを脱出しようと駆け出した。が、誰かにぶつかって尻餅をついた。
「!?」
 顔を覆っていた手をどけて目を開けると、真っ白なエプロンドレスが見えた。なぜかシロガネが結城の行く手を阻んでいた。
「ど、どうしたのシロガネ?」
「結城」
 シロガネはロングスカートの裾を掴むと、ゆっくりと持ち上げていった。
「え!? え!? ま、待ってシロガネ!」
 何かとんでもない展開になると思い、シロガネを止めようとした結城だったが、それは別の意味で的中した。
 シロガネがスカートをはためかせると、ガチャガシャとシロガネ愛用の『オモチャ』が大量に落ちてきて、結城は一気に青ざめた。酔いが全て吹き飛ぶほどに。
「結城、今日こそ……」
 両手にモザイク必須のオモチャを構えたシロガネがじりじりとにじり寄ってくる。
 普段から無表情なので気付いていなかったが、結城は確信した。シロガネもかなり酔っている、と。よく見ると脇には空になったラム酒とビールの瓶が何本も転がっている。
「シロガネ、ユウキは私とレスリングの鍛錬をするのです。邪魔は許しません」
「結城と『コレ』で、遊ぶ。絶、対」
 結城の後ろにはアテナが立ち塞がり、前にはシロガネが道を閉ざしている。その火花散る板ばさみにあった結城は、真っ裸なことも相まって寒気が止まらなかった。
「はっ! マスクマン、助け―――」
 マスクマンに救援を求めようとしたが、首を巡らせた結城の頭は真っ白になった。マスクマンはテーブルに突っ伏して、とっくに酔いつぶれていた。
 結城は以前マスクマンが言っていたことを思い出した。元々マスクマンがいた土地では、飲酒の文化がなかったので、酒には極端に弱いということを。
 マスクマンが当てにならなくなった結城は、何とかこの場を収める手はないものかと、再び必死になって首を巡らせた。
 そして床に座る媛寿の背中が目に止まった。決死の匍匐ほふく前進で媛寿のところに向かう。
「媛寿、お願い! アテナ様とシロガネを止めて! このままだとトンデモないことに―――」
 大慌てで媛寿を説得していた結城の視界を、くしゃくしゃに丸められた銀紙が横切った。それは媛寿の手元から飛んで、脇にある他の大量の銀紙の仲間入りをした。ウイスキーボンボンの包み紙だった。
「ゆ~う~き~」
 媛寿がゆっくりと顔を振り向かせる。結城はとてつもなく悪い予感がした。目が据わり、頬が上気し、ついでにしゃっくりを断続的に繰り返している媛寿の様子を見て。
「ゆうき~、えんじゅしってる~。べっどのしたに~、えっちなのかくしてるって~」
「えっ!? ちょ、ちょっと待っ! なんでここで言うの!? しかもなんで知ってるの!?」
 思わぬ爆弾発言を投下され、結城は説得も忘れてたじろいだ。そんな結城に、媛寿はなぜか『純米吟醸・美幼年』の瓶を握りしめながら迫ってくる。
「ゆうきは~、えっちなのみてるのに~、えんじゅにはおさけ~、だめっていう~」
 ふらふらと迫りながら、媛寿は一升瓶の栓を開け放った。
「えんじゅ~、だてまさむねにおかしもらったことあるのに~、ゆうきはおさけのんじゃだめっていう~」
 いよいよ結城の思考も混乱の極みに入りかけているが、媛寿が言いたいことは何となく察しがついた。要はウイスキーボンボンだけしか許可されなかったことが気に入らなかったようだ。媛寿は見た目的には完全に子どもであり、結城としては子どもに酒を渡すという構図が憚られたのだが、どうやら納得していなかったらしい。
「えんじゅがのめないかわりに~」
 媛寿は一升瓶の口の先を、結城の顔に狙い定めた。
「ゆうきのめ~!」
「え、媛寿、落ち着い―――ぐぽっ!」
 言い終わる前に、結城は一升瓶の口を押し込まれ、勢い余って仰向けに倒れ込む。
「ごぼっ! ごくごくっ! ごぼぼっ!」
「のめ~! のめ~!」
 媛寿に押し倒された結城は、逆さになった一升瓶の中身をひたすらに飲み下ろすしかなくなった。間断なく流れ込んでくる吟醸酒のせいで、媛寿をなだめるどころか、一言も喋ることができない。
「ごくっ! ごぶっ! ふぐごくごくっ!」
 吟醸独特の香りと味に呑まれながら、一気に酔いが回った結城の意識はそこで途絶えた。
 昨晩の結城の記憶はここまでだった。
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