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化生の群編

救い

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  朱月灯恵あかつきともえの最期について聞かれ、口を開きかけた九木くきだったが、直前でありのままを伝えていいか迷ってしまった。単純な状態だけなら、あまり良いものとは言えなかったからだ。
 悪路王あくろおう瘴気しょうきに蝕まれた灯恵の体は、すでに手の施しようもなかった。下手な延命治療は悪化するか苦痛を長引かせるかというので、気休め程度の鎮痛剤と栄養注射のみという、苦渋の決断を余儀なくされた。
 佐権院さげんいんの事情聴取が終わってからの二日間、灯恵はまともに喋れなくなるほど苦しみ抜いた。死亡確認の場に九木も立ち会ったが、ベッドシーツは血反吐にまみれ、髪は絶え間ない苦痛によって真っ白く変わってしまっていた。
 それだけ見れば、これほど惨たらしく、苦しみに満ちた最期もないと思えた。
 しかし、九木は不思議と灯恵の遺体から目を背けることはなかった。
 なぜなら―――
「……穏やかなもんだったよ」
 灯恵の表情は苦悶に歪んだものではなく、痛々しい惨状に反してとても穏やかで、微笑みすらたたえているようだった。
「そう……ですか……」
 結城ゆうきはそう言うと目を細めて天井を見つめた。
 それ以降、結城は何も言わなくなってしまったので、九木も『じゃ、お大事に』とだけ言って病室を後にした。
「ユウキ」
 無言のまま天井を見つめ続ける結城をアテナが呼んだ。
「アカツキトモエを救えなかった、と思っていますね?」
「……」
「心に触れずとも、あなたの思っていることは分かります」
「……ごめんなさい」
「改めて問います。アカツキトモエを救えなかったと思っているのですか?」
 結城は数秒を置いてから、小さく縦に頷いた。
「それを悔いているのですか? 恥じているのですか?」
「……僕が……」
 結城は震える唇で言葉を紡ぎ始めた。負傷による震えではなく、感情から来る震えだった。
「僕がもう少し……早く灯恵さんの……ことに気付いていたら……僕がもっと……気を付けていたら……灯恵さんを……助けられた……かもしれない……」
 結城の声はだんだんと歪み、涙声へと変わっていった。
 灯恵が事件の首謀者であったこと、悪路王復活の際に灯恵から目を離していたこと。もしそれらに対して少しでも行動が早ければ、灯恵は死に至らなかっただろう。
 灯恵が凄絶な最期を迎えたのは、自分にも遠因がある。
 それが結城の心を自責の念で苛んでいた。
「……アカツキトモエは私たちと出会う前に、すでに罪を犯していました。たとえどのように事が運んだとしても、あの者は罰を受けていたはずです」
「でも……こんな……こんなことって……」
「ユウキ、あなたはアカツキトモエを救えなかったと思っているようですが、それは誤りです」
「え……」
「あなたは確かに、アカツキトモエを救ったのですよ」
 そう断言するアテナの姿は、窓から射し込む陽の光も相まってか、とても輝いて見えていた。
「あなたが関わらなければ、アカツキトモエは村人たちを鏖殺おうさつし、さらなる罪を背負いながら、復讐鬼として生涯を終えていたことでしょう。ですが、アカツキトモエは最期には己の罪を認め、向き合うことができた。それは復讐鬼の宿った心では決して見出せなかったことです」
「……」
「ユウキ、あなたがアカツキトモエの中にいた復讐鬼を退治したのですよ?」
 アテナは結城の額をゆっくりと撫で擦った。まるで泣いている子どもをあやす母のように、何度も何度も。
「あの村に住む者たちは、いずれ然るべき罰を受けていました。アカツキトモエも含めて。それはあなたが気に病む必要はありません。アカツキトモエの復讐を阻止するためにアクロオウに立ち向かったこと。たとえ復讐の女神ネメシスが認めなかったとしても、アテナわたしが認めましょう。ユウキ、あなたは良くやりましたよ」
 アテナに額を撫でられながら、結城は声を殺して泣いた。
 せめて最期に笑えなければ、良い人生だったと言えない。
 自分の口から出た言葉を、結城は改めて噛み締めていた。
 灯恵や成磨せいまの命まで助けられなかったことは、まだ全て割り切れたわけではない。ただ形がどうあれ、灯恵が人生に満足し、微笑わらって逝くことができたなら、少しは灯恵の心が救われたのかもしれないと思った。
 結城は灯恵、成磨、そして螺久道村らくどうむらで失われた子どもたちの命が、浮かばれてくれることを静かに願った。

「よぉ、結城」
 結城がひとしきり泣いたタイミングを見計らったかのように、入院着姿の千夏ちなつが病室を訪ねてきた。左手に飲みかけの清酒『酒呑ごろし』の一升瓶を持って。
「あ……千夏さん……」
 結城が見た千夏は、負傷による辛さを全く感じていない様子だった。
 千夏も悪路王との戦いで、腿を槍で貫かれるなどしたはずだった。なのに足を引き摺ることなく、普通に結城のベッドまで歩み寄ってくる。
(鬼の子孫だから、かな? 回復が早いのか?)
「千夏さんも……今回は……ありがとうござい……ました」
 千夏の怪我の疑問はさておき、結城は螺久道村での依頼において、協力してくれたことに礼を述べた。まだ全身の筋肉疲労でうまく喋れないのがもどかしかったが。
「気にするなよ。あたしが付いてきたいって言い出したことだし。それにあたしもそこそこ愉しませてもらったからな」
 千夏は小さく舌なめずりをしながら妖艶に微笑ほほえんだ。それが悪路王との戦いを指しているのか、はたまた別のことを指しているのか、結城には少し解りかねた。
「それで何をしに赴いたのですか、チナツ? 結城が目覚めるまで一度も見舞いになど来なかったではありませんか」
 千夏の態度が気に入らないのか、アテナはわずかに眉根を寄せていた。
「あたしだって脚をブッ刺されたんだから、そんなにうろうろできるわけないだろ、メガミサマ? てかあの槍、鋭すぎだろ。体を貫かれたことなんて三百年以上なかったぞ」
 千夏もアテナの槍で負傷させられたのが気にかかっていたのか、語気を荒くして言葉を返す。
「私とともに世界に生まれた槍です。オニの体を貫くなど、造作もありません」
「へぇ~。じゃ、あたしの『骨砕き金棒』がカミサマの頭にもタンコブが作れるか、試してみるか?」
「望むところです。スパルタの民ですら恐れおののく私の頭蓋の一撃、あなたに味わっていただくとしましょう」
「そりゃ楽しみだ。どんな味がするのかな?」
 互いに見つめ合いながらにやりと笑うアテナと千夏。笑顔自体はどちらも美人なので美しいのだが、雰囲気が異様に恐い。
「ちょ……ちょっと……」
 激しく火花を散らすアテナと千夏の間に、へなへなと包帯塗れの右手が割り込んできた。このままだと本気で一戦交えるかもと思った結城だった。
「案ずることはありませんよ、ユウキ。本気でそんなことはしません、『ここでは』」
「そうそう。うるさくなりそうだからやらねぇよ、『いまは』」
 発言がどう考えても『いつかやる』前提なのは気が気でならなかったが、下手に口を出しても意味がないと分かっているので、結城はそれ以上突っ込まないことにした。
「それで、結局ただ見舞いに来ただけなのですか、チナツ?」
 気を落ち着かせたアテナが、改めて千夏に聞いた。
「結城が目を覚ましたって聞いたから、ちょっとした祝いをってね」
 千夏はそう言って左手に持っていた『酒呑ごろし』の一升瓶を軽く掲げた。
「結城、口開けろ」
「待ちなさい! 負傷している者に飲酒をさせるなど―――」
「ほい」
「うぶっ!」
 一升瓶の口は結城ではなく、なぜか立ち上がろうとしたアテナの唇を割って押し込まれた。
「んぐ……んぐ……ぱっ!」
「あんたもちょっと甘かったな」
「チナツ……」
「お味はどうだった?」
「……美味でした」
 口元を軽く拭いつつ、アテナは頬を赤くして目を逸らした。その様子を見て、千夏は愉快そうにニヤニヤと口を綻ばせている。
「私にその酒を振舞うためにわざわざ訪ねてきたのですか?」
「まさか。本命はこっち」
 千夏が視線を向けた先を、アテナも目で追ってみた。すると結城の口に小さな小瓶が突っ込まれ、結城がその中身をゴクゴクと飲まされている最中だった。
「何を―――」
「ほい、終わり」
「きゅぽっ!」
 アテナが手を出そうとした時には小瓶の中身は飲み干され、千夏は結城の口から小瓶を引き抜いた。
「ユウキ、無事ですか! 何を飲まされたのですか!?」
「だ、大丈夫です、アテナ様。ちょっとビックリしただけで……あれ?」
 途中で結城は違和感に気付いた。声が元に戻り、喋っても喉や気管が苦しくない。それどころか、体中に纏わり付いていた筋肉の痛みもだいぶ楽になっている。
「ど、どうなって―――」
「キュウ様特製の回復薬だ。感謝しとけよ」
「キュ、キュウ様の?」
「あたしもお前も怪我したって連絡したら、キツネ便でそれ寄越してくれたんだ。ただし七、八割までしか治ってないから、まだ入院しとけよ」
 千夏は空になった小瓶を振りながら、にかりと八重歯を見せて笑った。
「チナツ、そういうことなら最初から言えば良いものを」
「あたしだって入院してる身で退屈なんだよ。ちょっとくらい遊ばせろ」
「ありがとうございます、千夏さん。おかげで気分が良くなってきました」
 結城は上半身を起こして千夏に頭を下げた。
「私からも礼を述べます、チナツ」
 アテナもまた小さく頭を下げる。
「あたしじゃなくてキュウ様に言ってくれよ。お前にご執心なんだからな」
「そ、そうか。じゃあ今度お礼を。え~と、いなり寿司、とか持って行ったらいいのかな?」
「それと、ほれ」
 千夏は丁寧に折りたたまれた便箋を渡してきた。
「何ですか、これ?」
「開けてみな」
 結城は便箋を受け取ると中を開いた。そこには達筆な文字で『お代はいただきましたよ』と書かれ、最後にハートマークまで付けてある。
「? お代?」
「さっきの回復薬の原料、キュウ様の唾液だ」
「えっ!?」
「なっ!?」
 千夏の爆弾発言に、結城とアテナが驚きの声を上げた。
 そして結城は宿として一懇楼いっこんろうをリザーブしてもらう際、キュウが言っていたことを思い出した。
『お礼は~、結城さんのキッスでいいですよ~』
 関節的とはいえ、キュウに唇を奪われた結城は、まさに狐につままれた心持ちになってしまった。
「ゆうきー! おまたせー!」
 呆気に取られている結城の耳に、媛寿えんじゅの元気な声が飛び込んできた。病室の扉の方を見ると、子ども用のキッチンミトンを付けた媛寿が、なぜかアルミの大型鍋を持ち上げていた。
「えんじゅ、とんじるつくってきた! たべてたべて!」
 媛寿は素早く結城のベッドまで来ると、アルミ鍋を台に置いてお椀に豚汁をよそい始めた。どうやら病院の給湯室を借りて調理してきたらしい。
「はやくげんきになる!」
 具材を大盛りに入れたお椀の中身を木匙で掬い、少し口で吹いて冷ましてから、結城の口元に近づけた。
「あ、ありがとう、媛寿」
 見た目が年端もゆかぬ少女に食べさせてもらうのに気恥ずかしさを覚えつつ、結城は木匙に入った豚汁を食べた。
「おいしい?」
「うん、おいしいよ」
「やったー!」
 媛寿は諸手を上げて喜んだ。洋食はあまり得意ではないが、和食なら媛寿はシロガネよりもうまく作ることができる。ボロアパート時代は結城と交代で食事を作っていた。
(話の途中でいなくなってたけど、媛寿なりに気を遣ってくれたのかな)
 励ましの豚汁の具を租借しながら、結城はもう一度媛寿に感謝の念を抱いていた。
「ぜんぶたべればはやくげんきになる」
「へ? あ~、いや、全部はちょっと多いような―――」
「食っといた方がいいぞ。あの回復薬は効き目が強い分、あとで腹も減りやすいんだ」
「で、でも鍋一杯は―――」
「いいえユウキ。体作りには潤沢な栄養は不可欠。そのためにこのトンジルは最適です。しっかりと食しなさい」
「ア、アテナ様!?」
「ゆうき、じゅうにじかんあればじぇっときもなおる!」
「ぼ、僕は別にお城にお姫様を助けに行く用事ないけど!? マ、マスクマン助け―――」
 マスクマンに何とかしてもらおうとした結城だったが、いつの間にかマスクマンは病室から姿を消していた。媛寿が豚汁を持ってきた時には確かにいたはずなのだが。
 ちなみにシロガネはもう完全に寝入っている。
 結城の声にならない悲鳴が上がるのを、廊下にいたマスクマンはココナッツ飲料を飲みながら聞いていた。
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