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化生の群編

痛みの行き着くところ

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「徳川幕府が終わる頃、幕府を立てるか幕府を倒すかで、この日ノ本は争いの渦中にあった。俺の家は幕府の側に付いたが、将軍はあっさり江戸を明け渡し、俺たちはこの北の地に逃れてまで抗った。俺は体が弱かったから、親兄弟が戦に行っている間、同じように東から逃れてきた奴らで作ったこの村で待つことになったんだ」
 悪路王あくろおうが語るのは幕末の動乱期。日本がいよいよ国際的に重要な進退を懸けなければならなかった時代に起きた、国を二分した最後にして最大の内戦についての生きた証言だった。
 アテナも来日してから日本史は一通り学んだが、これほど深い部分までは掘り下げることはできなかった。
 だからこそ悪路王の語る身上を想像しづらいところがあったが、逆に千夏ちなつは聞いている話に一定の想像がついた。すでに鬼も含めた大抵の妖怪は、余程の義理や事情がない限り、人間の争いに関わることをやめていた。『二十八家にじゅうはっけ』を敵に回すことを避ける意味もあり、多少の悪戯を生業とする妖怪を除き、強い力を持つ妖怪たちはなりを潜めることに努めていた。
 それでも世の中の動きは耳に入ってくるので、千夏もまた他人事のように戊辰戦争を眺めていたのを憶えていた。
(村の連中は佐幕派の身内の子孫ってわけか)
「だが、ある時官軍を名乗るごろつき共が村にやって来て、物資の徴発だと言って食い物や女を攫っていった。村に残っていたのは女子どもや年寄りばかりだ。太刀打ちできるわけがない。俺の女房と娘も連れていかれた。俺はばっさり斬りつけられて、死にはしなかったが虫の息だった」
 アテナと千夏は聞けば聞くほど、悪路王の話は矛盾が広がっていくような気がしていた。元がそれほど弱々しい人間であったなら、いま目の前にいる最悪の脅威といえる鬼神は何なのか。
 ただ、雛祈ひなぎは悪路王の話が進むにつれて、事の発端に何があったのか、そのピースがはまっていくのを感じていた。
「俺は何日も寝込んだが、女房の声が聞こえて目を覚ました。鉛みたいに重い体を起こしてみたら、ズタズタの着物を身に付けた女房が戻ってきていた。女房は娘も抱えていたが、娘はぴくりとも動かなかった。俺と同じで体が弱かったから、ごろつき共に嬲りものにされた挙句……」
 そこで悪路王の声が途切れる。娘の身に起こったことを、口にすることさえ憚られたのだろう。その様子を見ていたアテナと千夏は、我が子を生贄としたことで心の均衡を崩した灯恵ともえに重なって見えた。
「女房も背中に刀傷を負っていた。逃げる時に斬られて、娘の亡き骸と一緒に命からがら戻ってきたんだ。程なくして女房も息絶えた。俺は二人の亡き骸を前にして、人の世がいかに瑣末なことに満ちているか悟ったよ。尊王だ、攘夷だ、倒幕だ、佐幕だ、官軍だ、賊軍だと、何のことはない。嬲りものにされてこの世を去った女房と娘に比べたら、世の中ってやつは何とくだらないことで騒ぎ立てているのか。俺の中の何もかもが真っ白になっていったんだ」
 雛祈は悪路王の言葉から、『それ』が鬼に変わるきっかけだったと推察した。心が人の世界から遠ざかれば遠ざかるほど、人ではない世界からの干渉が伸びてくる。誘われて踏み入れば、人として生まれた者でも人ならざる者へと変わってしまうことは、往々にしてあることだ。妻子の喪失と、人の世への絶望。それは悪路王の最初の呪いだったのだ。
「それから俺は何も感じられなくなって、まるで夢の中を歩いているようなもんだった。隠していた短刀を持って、ごろつき共がたむろしているところまで歩いていった。そして一人一人殺していった。途中で斬られたり突かれたりしたが、何も痛くなかった。いくら血が流れても構わず殺していった。八人目を殺したあたりで、俺に何かが流れ込んできた。この北の地に住む奴らが何百年も抱いてきた、鬼の首魁『悪路王』への畏怖だ。何の因果か知らないが、俺は人が思い描いていた『悪路王』への想念を受けて、『悪路王』という鬼へと変わったんだ。そこから先は苦もなかった。人が紙細工みたいに脆いものだったからな」
 その告白は雛祈を戦慄させた。北の地に語り継がれる鬼『悪路王』が存在しない鬼だったことは、雛祈も一霊能者として知っていた。坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ伝説に名前のみが登場し、そこから人々の畏怖の念のみが一人歩きしただけの、有名無実の鬼神。
 だが、その念を抱く人々の数が多ければ多いほど、語り継がれる年月が長ければ長いほど、危険な要因となることもまた知っている。
 雛祈は手に持つ雷切らいきりのレプリカを見た。それもまた、同じ手法で造り出した、人の想念の産物だ。扱いを間違えれば、人の想いは存在しなかった鬼さえも造り出す。それほどまでに、人の想い、人の心は恐ろしいものだった。
「俺はごろつき共を形がなくなるまで壊し続けた。ちょうどこの場所でな。辺りは血と肉と骨の破片で満ちた。ただ、もう壊すものがなくなった時、俺の中も空っぽになったんだ。女房と娘を失くして、その仇だったごろつき共もいなくなって、俺の中に何も残らなかった。呆然としながら俺は気付いたんだ。もう俺には自分の指一本動かす理由もなくなったってな。俺は鬼の姿に変わったまま、その場から動くことなく滅んでいこうと思ったんだ」
「だったら何で今になってあの女に手を貸しやがったんだ。ご丁寧に新しい体までこさえさせて」
 そう聞いたのは千夏だった。ここまでの悪路王の話を聞けば、悪路王には仇を討って以降の行動原理は消滅したことになる。 朱月灯恵に協力する理由は見受けられない。
「……この村の忌むべき風習が、俺から始まったからだ」
 悪路王の声のトーンが急に落ちた。それまでは自身の悲哀を吐き出しているような口調だったのに対し、なぜかそこに罪悪感のようなものが滲んでいた。
「俺はごろつき共を細切れにして、後のことはどうでもよかった。だが、村の奴らは俺の力があれば幕府が巻き返せると言っていた。俺はもう何もせずに朽ちていければよかったんだ。そして俺が一切効く耳を持たず、その場から動かないと分かると、俺の首を落として腑分けをした。後は朱月あかつき灯恵が話した通りだ。俺の肉から作った酒を飲んで、俺と同じになろうとした。飲んでも鬼になれないと分かると、生贄なんてものまで始めやがった。そんなことをしたところで何も変わりはしないのにな」
 悪路王はまたアテナたちから目を逸らし、倒れている灯恵の方を見た。
「首だけになって瓶に浸けられ百五十年経った頃、俺と念で話せる奴が現れた。朱月灯恵は最初こそ喜んでいたが、俺が生贄は何の足しにもなっていないことを教えると、この世の終わりのように泣き崩れた。それはそうだ。村のためだと子を差し出したのに、ただ子殺しをしただけで終わっていたんだからな。あいつは俺に願った。村を跡形もなく消してほしいと。俺にはその願いを成就させる責がある。この螺久道村らくどうむらの始まりが俺にあるために」
「その豪力と俊足で村の者たちを殺戮し、この地を更地にして無に帰すというのですか!?」
「そんな程度で朱月灯恵の気は晴れはしない」
 アテナの問いかけに、悪路王は冷ややかな視線を送った。その仮定が的外れであるとでも言いたげに。
「俺はこれから村を覆う結界を張る。今度は誰も通ることは適わない。出ることもできない。そして結界の中を瘴気しょうきで満たす。村の者たちは死よりも辛い苦痛を味わいながら、何日も生き永らえ、命を落とす。その後は炎でこの地の全てを燃やし尽くす。俺も含め、何も残らないように……それが朱月灯恵の望んだ結末だ」
 アテナも千夏も、悪路王の告白を聞いていた誰もが眉をひそめた。ただ殺すだけでは飽き足らない。死を与えられる方が楽だと言える責め苦を味あわせた上で、その命を絶ち、最後には全てを灰塵かいじんに帰すという。一切の容赦も呵責もない、命ある者をどこまでも苦しめ、形ある物を残さず破壊する。それほどまでに灯恵の絶望、憎悪、怨嗟は深く、暗いものだった。
「……早く行け」
 今までで最も静かな声で悪路王が言った。
「このまま立ち去れば、もう手は出さない。半刻ほど後に俺は結界を張って、中を瘴気で満たす。そうなる前に村の外へ出ろ。そのために全てを話したんだ。お前たちに関わる理由など無いだろう」
 悪路王はまた灯恵に目を向けた。今度はじっと灯恵を見つめている。
「朱月灯恵も関わりのないお前たちを巻き添えにするのは望んでいない。これが最後の機会だ。さっさと出て行け」
 アテナ、千夏、マスクマン、そして雛祈、桜一郎と千冬は皆、悪路王の提案に揺れていた。このまま戦いを継続しづらい理由がそれぞれにある以上、悪路王と無理に戦う必要はない。戦えば多大な犠牲が出るは必至。
 また負けようものならば、結界の中で瘴気に蝕まれ、最後には焼き尽くされるのみ。
 取るべき道は明らかに思われた。
「……だ……ダメだ……」
 誰もが悪路王の勧告に折れそうになっていた中、消え入りそうな声が、それを否定した。
「……そんなのは……ダメだっ!」
 アテナと千夏が後ろを振り返った。そこには膝を震わせ、身体中が凍えそうになりながらも、立ち上がった結城ゆうきが悪路王を見据えていた。
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