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化生の群編

負の阿修羅

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(な……な……な)
 アテナと千夏ちなつの二段攻撃で鬼は吹き飛ばされ、ひとまず危機から脱した雛祈ひなぎではあったが、今度は別のことに衝撃を受けてしまっていた。
 ギリシャの戦女神から連想して、雛祈は結城ゆうきが持っている武器に心当たりがついた。
 牛の革が貼られた青銅の盾は、トロイア戦争で英雄アイアースが持っていた盾であり、鎌に似た剣はメデューサ退治で知られる英雄ペルセウスが使った曲刀ハルペーだった。
 どちらも神話に名を刻んだ伝説の武具。それを正しく理解しているならば、驚かない方が無理というものだった。
 ただし結城に限って言えば、日頃からアテナが思い出話のように語るので、それほど意識的には遠く感じない代物だった。雛祈にとっては、歴史に失われた国宝級の品が予想外の場所で見つかった、と同じような感覚ではあったが。
「えっと……大丈夫ですか?」
 結城は呆気にとられている雛祈に向き直り、少し絡みづらそうに様子を窺った。その表情は、やはり雛祈から見れば間抜けているようにしか映らない。
 そんな結城の様子を見て、雛祈はまた腹が立ってきた。
 百歩譲ってアテナが持ちかけてきた勝負は、結城が先に黒幕を突き止めたので、雛祈も素直に負けを認めざるを得ない。
 しかし、それでも結城の霊能者としての実力は皆無であり、武術的な資質もお世辞でも高いとは言えない。
 祀凰寺家の息女として、実力も社会的地位もある雛祈と比べてしまえば、天と地ほどの開きがあるのは明白だった。
 そんな結城が神話級の武具を身に纏い、あまつさえ雛祈の窮地を救うことまでやってのけた。
 身の程知らずにも程がある。天地がひっくり返っても、その役どころにはそぐわない。雛祈は命が危うかったことよりも何よりも、その不条理に腹が立って仕方がなかった。
(やっぱり、コイツは、大っ嫌いだ!)
 目尻にわすかに涙を浮かべた雛祈は、全力で結城の顔を睨みつけた。
(えっ!? えっ!? なっ、なに!?)
 初対面時から苦手意識のある相手に睨まれ、結城は訳も分からず怯むばかりだった。
「シオウジヒナギ。今その目はユウキに向けるのではなく、あの者に向けるべき時ですよ」
 アテナに促され、雛祈は鬼が吹き飛ばされた方向を見た。つられて結城もそちらを見る。
 土煙の中から、鬼がその巨体をゆらゆらと揺らしながら現れる。
 最初は脳震盪でも起こしたかと思われたが、それにしては揺れ方が異様だった。左半身に重さが偏ったような、左側に引きづられている格好だった。
「ギャアァ!」
 突然、左肩に生じた顔が悲鳴を上げた。耳を劈くような叫び声に、結城と雛祈は反射的に耳を覆い、それ以外の者たちも思わず顔をしかめるほどだった。
 悲鳴が途切れると、鬼の左肩の上と脇下から血が噴出した。何もダメージを受けていなかったはずの箇所が、ぱっくりと割れて傷口となっていた。
「オオオォ」
 頭部の口から重苦しい吐息が聞こえてきた。同時に、傷口からは脇腹や腕に顔が生じた時よりも数倍は気味の悪い水音が漏れていた。
 二箇所の傷口から、何かが生えてきた。それは植物の成長を収めた映像を早回しするように、恐るべき速さで伸びていく。
 篝火に照らされた赤黒いそれを見た一同は目を見張った。
 腕だ。左の肩の上と脇下から、鬼は本来の腕と変わらぬ太さの複腕を出現させたのだ。
「うっ!」
 その光景に、結城は嘔吐感がこみ上げそうになった。雛祈もこういう現場には慣れている方だが、目の前で起こる変身の不気味さに、さすがに不快感を覚えた。
「アアアァ!」
 今度は右の二の腕にある顔が悲鳴を上げる。左側と同じく、右肩の上と脇下から血飛沫が舞った。またも不気味な音を立てて、新たな腕が生成される。
「オオオォ!」
 元からあった二本の腕に加え、さらに増えた腕が四本、計六本の腕が揃った時、鬼は周囲の空気が震えるほどの雄叫びを上げた。
「ハッ! 何とも気色の悪い阿修羅アシュラだな!」
 鬼の姿を見て、千夏が率直な感想を述べる。その様は、結城たちが遭遇した鬼のなりそこないたちが易しく見えるほどの、人の負の心から生まれた異形の鬼神アシュラだった。
 雄叫びが止むと、鬼はゆっくりと、一歩一歩結城たちとの間合いを詰めてきた。
 先の反応速度の高さから、誰もが攻め手に出ることを躊躇っていた。
 だが、そんな状況を斬り裂くように、異形の鬼へと突貫する者がいた。
 真白いエプロンドレスをなびかせた銀髪のメイド、シロガネだった。その双腕にはいつも通り、右に日本刀、左に大剣ツヴァイヘンダーを携えている。
「シロガネ!」
 結城が名前を呼ぶ頃には、シロガネが疾風の速さで鬼との間合いを詰め、自らの最大効果域まで達していた。日本刀と大剣、どちらもが最高の威力を発揮できる位置取りに。
斬鋼ざんこう×6かけるロク
 研ぎ澄まされた二本の刃が、篝火の明かりに反射して閃いた。常人にはほとんど視認できなかったであろう一秒にも満たない間に、シロガネは六回もの剣撃を叩き込んでいた。その一つ一つが、甲冑を正面から両断できる威力を持つ。
 大航海時代から現代まで生き延び、自我と魂を持ちえた刃物の化身であるシロガネ。同じ刃物であるならば、最も効率の良い使い方を即座に見出し、それが多少なりとも意思を持つ道具であるならば、その意思に語りかけて威力を上げることも可能だった。
 シロガネが愛用する日本刀と大剣は、シロガネ自身が刃を研ぎ、さらに意思を同調させることで、いま鋼をも断ち斬る能力を発揮していた。
 その強力無比な連撃が、鬼の肉体を断裂せんと襲いかかった。
 だが、シロガネの感じた手応えは、鬼の肉体を斬った感触ではなかった。しいて言うならば、それは剣の腹で斬撃を受け流された感覚に似ていた。
 剣を振りぬいたシロガネが見た鬼の体には、かすり傷一つとてついていない。放たれた六つの斬撃は、完璧に防がれてしまっていた。
 四つ分の顔についている、八つ分の眼球がシロガネを睨んだ。
 鬼が右足を半歩出した瞬間、三本の腕にある鉤爪がシロガネの胴を捉えた。
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