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化生の群編

白き狙撃者

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 露天風呂で鼻血を吹いた結城ゆうきは貧血になってしまい、奇しくも雛祈ひなぎと同様、翌日は休むことになってしまった。
 回復した翌々日の朝、結城は媛寿えんじゅとともに螺久道村らくどうむらへやって来ていた。
 アテナたちは結界を攻略する準備をしてから来るということで、結城は一足先に村へ行き、手紙についての反応を見ておくことにしたのだった。
 結城が村の人間に手紙のことをふれ回って三日目。もしも依頼の手紙を出した者が螺久道村にいるなら、結城に対して何かアプローチがあっても良い頃合だった。
 結城は村を散歩するように適当に歩いて回るが、相変わらず長閑のどかな風景が続くばかりだった。時折すれ違う村の人間たちも、結城を見てにこやかに挨拶をして通り過ぎていく。あまり結城のふれ回ったことを気にしていない様子だった。
「……あれ?」
 畑仕事に向かう数人の老人たちと挨拶を交わした後、結城はふと違和感を覚えて立ち止まった。
「? ゆうき、どしたの?」
「……いや、何でもないよ」
 肩車していた媛寿にそう答えたが、結城はまだ違和感を拭えていなかった。
 村に到着してから何人も村の人間とすれ違っているが、その様子があまりに普通すぎる。
 結城が流した手紙の件は些細なことだったので、当事者でなければ特に反応が変わることがないのは仕方ない。
 しかし、一昨日に起こった村長宅の襲撃事件については別だ。村長宅は半壊、村長本人も重傷。警察も現場検証に来たはずだった。
 なのに村人たちの様子は、結城が村を訪れた初日と何ら変わっていない。
(!)
 結城はもう一つ、朱月あかつき夫妻から聞いた事件のことも思い出した。詳しい内容までは言っていなかったが、螺久道村では少し前に凄惨な事件が起こっている。そんな事件が起こった後ならば、村人たちの雰囲気にも動揺やかげりが見えてもおかしくない。それが、あまりにも自然に、朗らかな様相を呈している。
(どうなってるの?)
 その事実に気付いた時、結城は背筋が凍える気がした。
(いや、気のせい、気のせいだよ……)
 まだ背中の神経に居座る気味の悪さを紛らわせようと、結城は足早に道を急いだ。そうしなければ、まるで自分が得体の知れない者たちが住む魔窟にいるように錯覚してしまいそうだったからだ。

 しばらく歩いていると、結城はいつの間にかアテナたちが調べていた森林地帯の入り口に来ていた。相変わらず森の奥は薄暗く、底知れぬ闇に通じている気さえする。アテナたちが調べて何かあると分かっているだけに、余計に不気味に思えた。
「ゆうき、ここ、なんかヤ」
「そうだね。別のところでアテナ様たちを待とうか」
 怖ろしい想像が過ぎった後で不気味な場所に留まりたくはなかったので、 結城は媛寿に賛同して再び歩き出そうとする。が、
「あっ」
 道の先に見知った人影を見つけ、踏み出そうとした足を止めた。
灯恵ともえさん!」
 結城は思わずその人物の元に駆け出した。相手も駆け寄ってくる結城に気付き顔を向ける。
 螺久道村を訪れた初日に、川に落ちた結城を救助した朱月灯恵、その人だった。今日は畑仕事ではないのか、作業着ではなく半袖のブラウスにジーンズという出で立ちをしている。
「こんにちは。今日は成磨せいまさんは一緒じゃないんですか?」
「え…ええ、今日は一人です」
 灯恵はなぜかそわそわとした様子で、結城と目を合わせようとしない。
 それを見た結城は無理もないことだと思った。殺人事件に続いて村長までもが重傷を負ったとなれば、住み慣れた場所であっても危険を感じずにはいられない。
 灯恵の示す人として当然の反応に、結城は先程まで付きまとっていた違和感と恐怖が薄れていくのを感じた。
「あっ、そうだ。良かったらこの前助けてもらったお礼をしたいんですけど、灯恵さんたちはどこに住んでるんですか?」
「え?」
「いま泊まってる旅館の温泉饅頭とか持って行きたいんですが、甘いものは大丈夫ですか?」
「え、え~と、その……」
 結城の提案に、灯恵はうろたえるように言葉を詰まらせる。お礼をしたいのは事実だったが、急に明るい話題に変えようとしたので、少し強引な感になってしまったと結城は後悔した。
 灯恵はますます戸惑ってしまったのか、しきりに右肩に垂らした髪を撫でている。
(うぅ、ちょっと馴れ馴れしすぎたかな~)
 結城はナンパに失敗した優男の心境になってしまった。媛寿はといえば、姿を消して結城の肩に乗っているが、退屈なのか明後日の方を向いて欠伸をしていた。
(ゆうき~、えんじゅラムネのみた―――)
 結城の頭頂を枕代わりに頬を載せた媛寿が、たまたま目を向けた先、森の木々の間から結城たちを見ている人影があった。
 媛寿はその人影から格別の負の感情が発せられていることに気付いた。必ず何か仕掛けてくる、と。
 その予感は的中した。人影の手元が動いた瞬間、結城に向かって何かが放たれた。それは結城の後頭部に真っ直ぐに、且つ高速で飛来する。
「ゆうき、あぶない!」
 媛寿は結城の髪を掴み、精一杯身をよじった。
「うわっ!」
「あっ!」
 媛寿に髪を引っ張られた結城はバランスを失い、地面に背中から倒れ込もうとする。その際、思わず灯恵の手を掴んでしまい、一緒になってバランスを崩した。
 倒れ込む寸前、飛来した物体は灯恵の左頬を掠めて通り過ぎた。
「ぐあっ!」
「ひぐっ!」
 結城は背中を地面に打ち付けたが、灯恵は間一髪、結城が腕で庇ったので地面との衝突は避けられた。そのすぐ後に、固い音が近くの電柱から聞こえた。
「いたた……あっ、ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫……です」
 そう答える灯恵だったが、左頬にはうっすらと切り傷が付いていた。それ以外は特に深刻な負傷はなさそうなので、結城はひとまず胸を撫で下ろした。
 安心したのも束の間、結城たちのすぐ横に落下する物があった。おそらく電柱にぶつかって跳ね返ったであろうそれを見て、結城は目を見開いた。白木で作られたに白い矢羽と小さなやじりが取り付けられている。間違いなく和弓の矢だった。
 そして、それが意味するのは、結城たちの命を狙っている者が確実にいるということだった。
 結城はすぐさま灯恵と位置を入れ替え、自身が上側になって庇う体勢を取った。少し首を上げて目を動かし、矢を放ったであろう敵を捕捉しようとする。
「ゆうき、あそこ」
 結城の傍まで匍匐ほふくしてきた媛寿が、森の一角を指差す。その先にいる敵の姿を捉えた結城は息を呑んだ。森の木々の間に立つその人物は、まさに『鬼』としか表現できない姿をしていたからだ。
 薄暗い陰の中にあってはっきりと存在感を示す白装束。頭から肩までを覆う純白のころも。色合いだけで見れば美しさを感じる装いだが、首から上の様相が美を打ち消し、結城に恐怖を植え付けていた。
 怨嗟に歪み、牙を剥きだし、鋭い二本の角をたたえた般若の面を被っている。ただ面を被っているだけなら結城もそこまで怖れたりはしない。結城が体の底から感じた恐怖は、見つめてくる面の奥から放たれる、人間とは思えない強い負の感情に当てられたからだった。
 般若面は左手に和弓を握っている。矢を放った張本人であることは明白だった。
 結城は強大な恐怖に当てられながら、動くか否かの選択を迫られていた。
 般若面を捕らえようと飛び出せば、般若面は灯恵を狙うかもしれない。
 動かなければ般若面は次の矢を放ってくるかもしれない。
 灯恵を庇いつつ逃げようものなら、背中から矢で狙ってくるかもしれない。
 どれを選ぶにも距離的な不利がはたらき、灯恵を守りきるには危険な選択だった。
「よっくもゆうきをー!」
 結城が行動を迷っていると、媛寿が左袖から掛け矢ハンマーを取り出し、猛然と般若面に突撃していった。迫り来る媛寿を見て取ったのか、般若面は身を翻して森の奥に消えていった。
「まーてー!」
 森の奥へ消えた般若面を追い、掛け矢を構えた媛寿はそのまま森へと猛進していく。
「媛寿、ちょっと待って! あっ、灯恵さん!」
 媛寿を追いかけようと踏み出した結城は、灯恵のことを思い出し振り返った。
「今日は家に帰ってじっとしていてください。戸締りもしっかりして、成磨さんにも気を付けるように言っておいて、それと……巻き込んじゃってごめんなさい」
 慌ててそれだけ告げると、結城は媛寿の後を追って森に入っていった。
「媛寿ー!」
 結城の背が森の暗闇に消えた頃、灯恵は胸の前で右拳を強く握り、唇を固く引き結んだ。体は真冬の寒気に晒された小動物のように震えていたが、それは矢を射掛けられたからではなく、般若面の怪人物に遭遇したからでもなかった。
 この先に待ち構える未来に対する、恐怖とも期待ともつかない、不可思議な感情だった
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