不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第90話 今川三河守義元と今川治部太輔氏真

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 今川義元の口から出陣の日時が明確に告げられ、今川氏真に呼び止められて公家の中御門宣綱や浅井小四郎、瀬名陸奥守、武田六郎、葛山左衛門佐らとも顔を合わせた元康。

 去り際に氏真の正室である春姫とも面会することが叶い、時節柄体調を気遣う内容のやり取りを二言三言交わしたのみで別れていた。

 ともあれ、その日より早くも七日が過ぎた皐月の八日。中御門宣綱ら今川氏に世話になっている公家たちの働きかけた成果が現れた――

「蔵人佐!」

 尾張出陣について、隠居屋敷にて今川義元と最後の打ち合わせをしている元康の元に、当主である今川氏真自らが大勢の奉公衆を引き連れ、喜色満面で現れたのである。

「これ、五郎。あまりはしゃぐでない。そちも今年で二十三となる。もう少し落ち着きをじゃな」

「父上、それがそうも落ち着いておられぬのです!先ほど朝廷より使者が参り、これを私と父上に」

「ほう、朝廷からとな。見せてみよ」

 ――まったく何を騒いでいるのだ。

 義元の表情からは、そう思っていることがありありと伝わってくる。しかし、書状を読み進めていくにつれ、目を大きく開いていく。これには、傍から見ている元康も、何事かと思ってしまうほど。

「なんと、五郎に予が名乗っていた治部太輔に、そして、予には三河守に任官するとあるではないか!」

「はい、先日中御門宣綱公が申しておられた通り、素晴らしき出陣祝いにございます!」

 先ほどまで息子に落ち着けと言っていた父親までもが、声に嬉しさが乗っている。そのどこかおかしい様子に笑いが零れそうになるのを必死にこらえる元康。

 それはさておき、当主・氏真が治部太輔に、隠居の義元が三河守に正式に任官したことの意味は大きかった。

「予からそなたへの家督継承を朝廷も認めたということが、予も名乗っていた治部太輔に任官したことに現れておる」

「そして、父上が三河守と正式に認められたは、当家の三河支配を朝廷もお認めになられたということ!まこと、喜ばしき限りにございます!」

 家督の継承と三河支配を朝廷からも認められたことは、尾張侵攻前という時期もあり、追い風ともなりうることである。

「御屋形様、治部太輔への任官、まこと祝着至極に存じます。また、太守様におかれましても、三河守への任官、まことおめでとうございまする!」

「蔵人佐!この今川治部太輔氏真が命じる、尾張にて今川家の武威を示して参れ!」

「はっ、はは!」

「これ、五郎。やめぬか。得た官職をそうむやみやたらに振りかざすでない」

 面白半分で治部太輔を名乗っていたことを父よりたしなめられる氏真。しかし、この人は絶対に隙を見て言い出すぞ、と幼い頃からの付き合いである元康は感じ取っていたのであった。

「して、太守様。某は二日後に出発、一足先に三河へ入り、出迎えの支度をいたしまする」

「うむ、井伊谷の井伊信濃守も合流したうえで進むがよい」

「然らば、今切の渡しを経て、東海道を進む道よりも井伊谷の近くを行軍する本坂道を通って参った方がよろしゅうございますか」

「そうじゃな、その方が行軍もしやすかろう。此度はこれまで以上に大軍勢での行軍ともなるゆえ、部隊のほとんどは本坂道を進ませるつもりじゃ」

 元康は上機嫌の氏真をそっちのけで、義元と進軍のことなど、詳細を打ち合わせ、その日は帰宅となった。

「それでは、まもなく夕暮れともなりまする。某はこの辺りで失礼いたしまする」

「うむ。蔵人佐、先発隊を立派に率いてみせよ。今川家親類衆、松平蔵人佐元康これにありと、東海道に知らしめる所存で臨め」

「はっ、ははっ!」

 言外に『そなたは予の死後も氏真を補佐する武将であるのだ。若いからといって、味方にも敵にも侮られるような進軍をしてはならぬ』と言われているかのようであった。

 しかし、義元が言いたいと思っていることは、元康には痛いほどわかる。むしろ、此度の進軍で先発隊すらも率いていけぬようでは、義元亡き後の今川軍は任せられぬと思われても致し方ない。

「それでは、失礼いたしまする!御屋形様も太守様も、良い夜をお過ごしくださいませ」

 丁重に、気品ある振舞を心掛けて退出していく元康。そんな彼が退出した後の広間には、奉公衆を除けば、義元と氏真の父子のみが残るのみであった。

「五郎よ」

「はい、父上」

「此度の尾張遠征、元康が立派に務めあげたならば、本領岡崎へ戻すつもりでおる」

「えっ!?」

 突然の告白に氏真も驚きを禁じ得ない様子であった。それも無理はない。氏真の知る限り、元康は竹千代や次郎三郎元信であった頃から、お膝元の駿府に暮らしている。

 そんな主従であり心の友とも思っている青年が、突然駿府より遠く、三河へと行ってしまうというのは、寂しいものがある。

 だが、自分の父が何の考えもなく、そのようなことを申すはずがないことも重々承知している氏真は問いを返すことによってそれに報いた。

「父上、お考えのほどをお聞かせ願えませぬか」

「ふっ、成長したな、五郎。よかろう、蔵人佐を三河へ戻す理由は二ツある」

「二ツにございますか?」

 義元は氏真に順を追って説明していく。まず一つは元康を駿府へ留め置く必要がないこと。もう一つは三河防衛の柱石としたいこと、であった。

「そもそも蔵人佐、あの頃の竹千代を駿府へ留め置いたは、松平宗家から人質として出せる者が当主本人しかおらなんだこと。何より、織田領国が間近で織田に攫われた経緯もある中、前線にほど近い三河へ留め置くは断絶の危険があったからじゃ」

「確かに、あの当時は松平同士もまとまっておらぬ頃。そのうえ、竹千代が亡くなれば宗家は断絶、松平同士で誰が宗家の主となるか、血みどろの争いとなるは必至」

「そうじゃ。ならばと思い、最も安全な駿府へ身柄を移し、庇護することとした。そうして育成すれば、じれうは当家の三河支配を支える武将となる、そう考えてもおったからじゃ」

 義元の言葉に、静かに相槌を打つ氏真。まだ経緯しか話しておらず、肝心な理由は聞き出せていない。しかし、この経緯を聞けば、氏真にも父の言わんとすることが分かって来るようであった。

「父上、駿府へ留め置く必要がないと申されたは、此度の尾張侵攻を完遂した暁には織田の脅威は去る。それゆえ、身の危険が少なくなった岡崎へと戻す、かように仰りたいわけですか」

「おお、分かってきたようじゃな。付け加えるとすれば、蔵人佐はすでに元服し、今川家親類衆となっておる。そして、自らに代わる人質もできたであろう」

「関口刑部少輔が娘との間に産まれた竹千代にございまするな。なるほど、竹千代を代わりに駿府へ留め置けば、人質の面でも言うことはございませぬ」

 凡愚だと思っていた我が子が想像以上に三河のことを理解している。そのことに成長を感じ、親としての悦びに包まれながら義元は話を続けていく。

「こうしたことから、蔵人佐を駿府へ留め置く必要がなくなったというわけじゃ。そして、もう一つが……」

「三河防衛の柱石としたい、と」

「そうじゃ。今川家親類衆である松平蔵人佐元康が岡崎城におる。そのうちは、今川領へ侵攻などできぬ。そう思わせれば理想じゃ。何より、地理的に尾張へ睨みを利かせるには十分であろう」

「なるほど、尾張へ睨みを利かせ、今川家親類衆として三河の国衆らをまとめさせる。さながら、遠州懸川の朝比奈備中守の如き役割を期待しておると」

 氏真の考えが的外れなものではなく、論理的に正しい方向へ、自分の考えと合致する方へと付いて来られていることを確認しながら、嬉しそうに義元は話を続けていった。

「そうじゃな。蔵人佐が当家の親類衆として三河に在し、尾張にも睨みを利かせる。万が一合戦となれば、朝比奈備中守ら遠江の軍勢が後詰めをすればよかろう」

「蔵人佐と朝比奈備中守がおれば、駿府まで到底敵はたどり着けませぬな」

「うむ。さすれば、駿河から軍勢を送るとなれば、武田や北条への援軍として温存しておけばよい。さすれば、両国へ貸しを作ることにもなり、緊急時には手を貸してもらうことも可能となるわけじゃ」

「さすれば、当家は安泰にございまするな」

「まあ、あとは折を見て三河と尾張の守護職を得られるよう幕府に働きかける。何、すでに駿河と遠江を上手く統治することのできておる五郎ならば、時間をかけさえすれば必ず成果を挙げられよう。さすればおのずと守護職は手元に転がり込んでくる」

 そうなれば今川家は安泰である。これこそが義元が自身の死を意識して考え抜いた領国統治を盤石とするための礎石であり、此度の尾張侵攻はそのための布石であった。

 自らの父が死を意識してこのようなことを考えていることまでは氏真も感じ取れていなかったものの、そうなれば自身も安泰であることだけは理解できた。

「五郎よ」

「は、はい!」

「そなたは戦の経験は未だなく、才があろうとも思われぬ」

「こ、これは手厳しいことを」

 唐突な指摘に恥ずかしそうに頬を人差し指で掻く氏真。しかし、義元は怒っているのではなかった。むしろ、かえって笑っているようであったのだ。

「よいか、そなたに軍事の才はない。じゃが、代わりに采配を執れる者は数多おる。となれば、彼らの心を掴んで忠誠を尽くさせること。これが要となる」

「はい!」

「よい返事じゃ。決して、思い込みだけで理由なく人を裁くことだけはしてはならぬ。それこそ領国の乱れともなる。そなたは風説に惑わされやすいところもあるゆえ、予はそれを危惧しておる」

「き、気をつけまする。父上の御心に叶うような、立派な当主となってみせまする!」

 まったく武芸の稽古や学問に精を出さなかった氏真。はじめは家督を継承させるべきか迷いもあった。

 だが、家督を継承して関口刑部少輔氏純や三浦備後守正俊らの補佐を受けながら実務をこなす中で、成長してきた。まだまだ若く、覚束ない面も多々あるが、確実に当主に見合う人物へと成長し続けている。

「五郎、予の可愛い五郎よ」

「はい、父上。なんでございましょう?」

 ――むにっ。

 我が子のふくよかな頬の肉をつねる父。突如として行われたに驚き、その手を振り払う子の姿がそこにはあった。

「父上!?な、何をなされまするか!」

「当主としての政務の傍ら、和歌や連歌、蹴鞠などに励んでおるらしいが、武術に関してはどうじゃ」

「時折、剣術の稽古に励んでおります。近日中には塚原卜伝より新当流を学ぶつもりでもおりまする」

 義元の眼から見ても、まだまだ無駄な肉があるように思われるが、幼少の頃よりは筋肉もつき、少しは剣術に励んでいるらしいことも見てとれる。

「そうか。まずは剣術の稽古からじゃな。弓術や馬術も、追々始めてゆけばよい。予には予の、そなたにはそなたの歩み方というものがあるゆえ、それ以上は何も言わぬ。ただ、人生というものは胡坐をかいた時点で、そこで終わりじゃ」

「はい。それゆえに、たゆまぬ鍛錬を続けよ。左様に仰りたいのですよね」

「おお、そうじゃ。よくぞ予の言いたきことを理解した」

「ははは、父上から口頭でも書面でも耳が痛いほど言われて参ったこと。日々精進し、父上をも超える君主となってみせまする!」

「そうかそうか、ならばまだまだ長生きせねばならぬな。そなたの成長を見届けねばならぬ」

「無論です!父上に嫡孫の顔を見せることも、この五郎の夢にございまする。しかと体調に気を付けて長生きしてくださいませ。まだまだ父上から学びたいことも山ほどございますゆえ」

 我が子から尊敬の眼差しを向けられ、なおかつ健康を気遣われ、長生きを願われる。親として、これほどの幸福というものは存在しないのではないだろうか。

「そうじゃな。長生きして、今川家の行く末をしかと見届けねばならぬ」

「はい。ぜひともおばば様よりも長生きしてくださいませ」

「ほう、母上よりもか」

「はい。おばば様は父上よりも小言が多すぎまするゆえ」

 あまりにもしょうもない理由に、義元は声を上げて笑った。先ほどまでは立派になったと思い、心の内でこぼしていた涙が、一気に嬉し泣きとして氏真にも見える形で現れた。

「ち、父上!なにもそこまで笑わずとも……!」

「すまぬすまぬ。予想していた理由とは大きく異なっておったゆえ、可笑しくなってしもうたわ。ふっ、ははは……!」

 笑う父を嗜めながらも、子は笑う。

 そんなありふれた父子の夢が粉々に打ち砕かれる日まで、あと十一日と迫っていた――
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