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第4章 苦海の章
第87話 元康を見守る母たちとの再会
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水野藤九郎信近に案内されて訪れた隣室に控えていたのは、美しい黒髪の女性。元康はその女性に恋愛感情とは異なる、何か別の感情によって惹きつけられながら、伯父・藤九郎に促されて着座した。
「伯父上。こちらの御方は?」
「ふふふ、分からぬか」
「は、はい。されど、どこかでお会いしたことがある、そんな気がいたしております」
「……だそうじゃ、於大」
――於大。
伯父がニヤリと口角を吊り上げながら読んだ名に、元康は反射的に目を見開いてしまっていた。
「母……上?」
「お久しゅうございます。松平蔵人佐元康殿。十六年前のあの日、まだ三ツの幼子であったというに、大きくなられて――」
天文十三年。元康がまだ竹千代であった頃、頭の片隅に追いやられていた生き別れの母の顔が目の前にいる女性と重なる。
すると、自然、元康は目の前にいる母の手を取り、涙が堰をきったように溢れ出す。それにつられてか、母の方も子以上に涙を流していた。
「母上、幾度か書状をいただき、ありがとうございました。思い返せば、あの書状も元康の生きる糧となってございました」
「そうでしたか。そうであったのなら、筆をとった甲斐もあったというもの。こうして再び会える日が来ようとは思いませなんだ」
「某も、よもやこの苅谷城で対面が叶うとは思いませんでした。して、母上は何故ここへ」
「駿府の母より元康殿が近く三河へ参られると聞いたのです。そのことを夫に打ち明けたところ、兄の下野守に掛け合ってくださり、この苅谷へ」
於大の方の言う夫とは先夫・広忠のことではなく、今の夫である久松佐渡守のことであった。それを分かったうえで、元康はまだ会ったことのない継父へと感謝を伝えたくなってしまう。
「実はの、我が兄が今川家へ帰参するという文をよこしたのは、駿府の源応尼様からの書状が届いてからなのじゃ」
「そ、そうだったので……!」
駿府にいながら、実の娘に留まらず、血の繋がっていない子供たちの行動をも変化させてしまうとは、偉大な祖母であると痛感させられる。そして、水野藤九郎の言葉はまだ続いた。
「蔵人佐殿。御身の母上の身の上は分かってござろうな」
「はっ、水野下野守信元が傘下国衆である久松佐渡守が妻、にございましょう」
「いかにも。まだ正式に兄の下野守が今川家への帰参が受け入れられていない今、そなたもわしも身内とはいえ、敵方の者と密会しておることになる」
「密会……」
確かに、水野藤九郎にとっての異母妹であり、元康にとってのただ一人の生母たる人物。されど、彼女が属する立場は未だ敵方。密会と表現されても致し方ないことでもあった。
すなわち、今日苅谷城にて敵方の久松佐渡守の継室・於大の方と会ったことは公表できない、ということでもある。だからこそ、密会であると水野藤九郎は表現したのである。
「よいか、蔵人佐殿。そなたは先ほど、水野下野守の今川家従属を打診すると申したな」
「はい。さように申しました」
「よいか、これは骨折り損のくたびれ儲けとならぬ話じゃ。その打診が成功いたせば、今川家と水野家で不必要な血が流れずに済む。じゃが、それだけではない。一番の利を得るは蔵人佐殿、そなたじゃ。母と会うのに何の遠慮もいらなくなるゆえな」
後半の言葉は、元康の心にぐさりと深く突き刺さる文言であった。於大の方は兄が何故そのような言葉を使ったのかが分かるゆえに、とっさに目を伏せてしまう。
「晴れて水野下野守が今川家に再従属となれば、蔵人佐殿は気兼ねなく阿古居を訪ねて母や継父、異父弟妹と対面することも叶う。となれば、そなたが成すべきことは明白であろう」
「そ、そうですな。駿府に立ち返りましたら、御屋形様と太守様に強く掛け合ってみることといたしましょう」
「よし決まった!これで松平家と水野家の未来は明るい!これはめでたい!さっ、蔵人佐殿。一献汲もうぞ」
「ありがたく頂戴します」
それからのことは酒が入ったこともあり、元康も明瞭に記憶しているわけではない。しかし、生母と十六年という月日を経て会えたという悦びと酒の二連撃に、完全に舞い上がってしまっていた。
「蔵人佐殿、ずいぶんと酔っておられる。今宵は苅谷城へ泊まっていくがよろしかろう」
「いえ、まだ酉の刻にございまする。これより岡崎へ戻りますれば、亥の刻には宿所の大樹寺に着きまするゆえ、どうかご案じなく」
「そうか。では、気をつけて戻られよ。駿府の御両所にも、何卒よろしく取り次いでくれますよう」
「もちろん、その儀はしかと心得ておりますれば。然らば、これにてご免!」
元康は酔いが醒めぬ中、夢見心地で帰路についた。
元康が酒井左衛門尉、高力与左衛門、阿部善九郎、天野三郎兵衛、平岩七之助・善十郎兄弟、鳥居彦右衛門尉、渡辺半蔵、植村新六郎、石川彦五郎らを引き連れて苅谷城を出たとの報告を受けた水野藤九郎はただちに城門を閉めるよう命じた。
「ふっ、ちょろいものよ。ああしておけば、馬鹿正直に駿府の義元と氏真へ嘆願してくれるであろう。ふっ、ははははは……!」
「兄上、あれでは元康殿が不憫というもの。あのように政治の駆け引きに利用されるを哀れとは思いませぬか」
「それは母親として至極当然の想いじゃ。この藤九郎もその点、よう理解しておる。じゃが、守りたいものがあるならば、利用できるものは身内であろうと利用する。それまでのこと。拙者も兄者も無間地獄に落ちるを覚悟のうえで行っておること」
その兄・藤九郎の言葉に、いつぞやの緒川にいるもう一人の兄の『男女問わず、この地上に生まれ落ちた時点で乱世の駒、駒に意思など存在せぬわ』という言葉が脳裏によみがえる。
今、於大の方が胸の内で抱えている想いは自分が腹を痛めて産んだ我が子が乱世の駒として謀略の道具に使われていることへの憤りであり、そうでもしなければ生き抜くことはできない乱世そのものへの憤りでもあった。
「そう怒るな、於大。水野家にとっては松平元康の動き一つで辿る道が大きく変わる。希望ともなり得るし、絶望ともなり得る存在なのじゃ」
――だから、分かってくれ。
そんな想いを言外に滲ませながら、於大の方に対する水野藤九郎。その悲しさを帯びた眼差しに、於大の方は唇を一文字に結んだまま虚空を見上げるのであった。
そして。苅谷城を発った元康は水野藤九郎に伝えたとおり、亥の刻に大樹寺へと辿り着いた。宿所に帰着したという安心感からか、その日は何もすることなく、寝所へと直行したのであった。
そうして大きな寝息を立てながら体中の疲れを大気中へ放り出して迎えた翌朝。東の空から朗ら朗らと明けていく中、元康は体を起こす。
「殿、お目覚めにございまするか」
「おお、三郎兵衛か。今は卯の刻であろうか」
「はい。卯の刻にございます。先ほど岡崎城より使者が参り、辰の刻に随念院様が田原御前様、矢田姫さま、市場姫さまとともに大樹寺へ参られるとのこと」
「何と、大叔母上と継母上、それに妹らまで来ると申すか」
「はい。『突然訪問する無礼、平にご容赦くださいませ』とも言付かっておりますれば」
実の母親と会った翌日に、義理の母とも会うことになろうとは複雑な心境であったが、その複雑な想いは喜色で塗りつぶせてしまうほどの幸福感をもたらしていた。
「では、身支度を整えて待つとする」
「はっ、万事支度は整っておりまする」
「さすがは天野三郎兵衛。抜かりない」
「お褒めに預かり、光栄にございまする」
元康は天野三郎兵衛に導かれるまま、朝の支度を順に済ましていく。季節がもう少し暖かければ、支度していく中で目が覚めていくものだが、この寒さが厳しい季節においては起きて掛け布団を跳ねのけた時から肌に染みる寒さがあった。
「殿、酔いの方は醒められましたか」
「うむ。あれだけぐっすり眠っておったのじゃ。酔いも醒めて、実に良い気分じゃ」
「ははは、殿。さては、酔いと良いをかけられましたな」
「おお、言われてみればそうじゃ。三郎兵衛はまこと細かいところにまで目が行き届くものよ」
――いや、自分でも気づいてなかったんかい!
世が世なら、そうしたツッコミが入るのであろうが、天野三郎兵衛康景はそれ以上は何も言わず、感じたことをそっと心の内にしまい込んだのである。
「殿、随念院様一行が岡崎城を出られたとのこと」
「おお、新六郎か。うむ、そうか。使いの者には承知した、お待ち申し上げておると伝えてくれい。そうか、あと四半刻もすれば到着とな。待ち遠しいものよ」
瞼を閉じれば四年も前に会った時のことが思い出される。あの折は満足に会話することも叶わずであったが、今回の元康には秘策があった。
「三郎兵衛、わしが駿府より持って参った品々を披露するときが参ったらしい。そちらの支度の方も頼む」
「ははっ!では、高力与左衛門殿に伝えて参ります」
「頼む。わしは一足先に面会する間へと向かっておくとしよう」
「では、品々はその隣室まで運び、姫様たちがお座りになられた頃を見計らってお持ちいたしまする」
「それはよい。ならば、そのように手配を頼む」
まこと細やかな気配りのできる好青年・天野三郎兵衛。彼の手際の良さには毎度感心させられる。そうして四半刻など瞬く間に過ぎていき、寺門の方から賑やかな声が聞こえてきた。
「酒井左衛門尉、石川彦五郎の両名が出迎えであたっておりまする」
「そうか。では、善十郎。そちは隣室に控える高力与左衛門と天野三郎兵衛にこのことを伝え、そのまま待機しておいてくれ」
「ははっ!」
慌ただしく平岩善十郎康重が退出していく頃、賑やかな男女の声が建物内から聞こえてくるように。元康とともに待機しているのは阿部善九郎、平岩七之助、鳥居彦右衛門尉、植村新六郎、渡辺半蔵らであった。
「さっ、随念院様。こちらへ」
「おお、かたじけない。ささっ、姫様とともに御前もこちらへ参られるがよい」
石川彦五郎の声に続き、久しく耳にしていなかった大叔母の声が元康の耳に飛び込んでくる。
「元康殿、お久しゅうございます。随念院にございます」
「これは、大叔母上もご機嫌麗しく」
「うむ、元信殿が我が弟より『康』の一字を受け継いだと聞いた折、思わず涙が零れたほどにございます」
「そうまで喜んでおられたとは露知らず。先々代の清康公は某にとって祖父、大叔母上にとっては弟にもあたる御仁。何より、三河を一統なされた偉大な方の一字を名乗っている以上、それに恥じぬ行動をと常日頃より心がけております」
元康にとって尊敬できる大叔母・随念院。父・広忠が存命であった折に、元康の養育係を託されて以降の間柄。元康にとっては、育ての母親と呼んでも良いほどの女性である。
そんな随念院との再会に、懐かしき思い出話をいくつかしている頃には矢田姫と市場姫を伴って田原御前が着座していた。それに気づいた随念院は、自分ばかり話していてはいけないと思ったのか、話し手を田原御前らへと譲っていく。
「元康殿。まこと大きゅうなられましたなぁ」
「はっ、今年で十九となりました。我が祖父が十九の頃には牧野家の今橋城、今の吉田城を攻め落とすなど東三河への進出を開始し、父が十九の頃には我が母と離縁して水野家と絶交した年にあたりまする。それを思えば、某は今川家の庇護の下、安穏とした暮らしを送っておりますれば」
「いえいえ。それでもご成長なさっておられることはこの母も存じております。西加茂郡での初陣など、亡き広忠様や清康公を超える働きであったともっぱらの噂。随念院様とそのことを大変喜ばしく思っておりました」
常にしみじみとした語調で語る田原御前。以前に会った時よりも落ち着いた雰囲気を身に纏い、女性として一層熟したと感じさせられる。
何より、生母・於大の方と生き別れてより広忠存命時より『母』として接してくれ、今日に至ることを元康は心の底から感謝しているのである。
「そうじゃ、継母上。随念院様も存じておるやもしれませぬが、この元康、春より開始される尾張表への出兵において先陣という大切なお役を頂戴いたしました」
「それは、おめでとうございます」
「まこと、武門の誉れにございまする。ご立派に務めあげてくださいませ。ご武運をお祈りいたしております」
先陣の事を聞いた田原御前と随念院はまったく同じ反応を示した。言葉の上では祝意を述べているが、内心では危険な先陣の役割を引き留めたいとも思っているかのよう。
肉親へ心配をかけることは分かっている。それだけに、無事に役目を全うして帰ってこなければならぬと、一層決意を固くする元康なのであった。
「伯父上。こちらの御方は?」
「ふふふ、分からぬか」
「は、はい。されど、どこかでお会いしたことがある、そんな気がいたしております」
「……だそうじゃ、於大」
――於大。
伯父がニヤリと口角を吊り上げながら読んだ名に、元康は反射的に目を見開いてしまっていた。
「母……上?」
「お久しゅうございます。松平蔵人佐元康殿。十六年前のあの日、まだ三ツの幼子であったというに、大きくなられて――」
天文十三年。元康がまだ竹千代であった頃、頭の片隅に追いやられていた生き別れの母の顔が目の前にいる女性と重なる。
すると、自然、元康は目の前にいる母の手を取り、涙が堰をきったように溢れ出す。それにつられてか、母の方も子以上に涙を流していた。
「母上、幾度か書状をいただき、ありがとうございました。思い返せば、あの書状も元康の生きる糧となってございました」
「そうでしたか。そうであったのなら、筆をとった甲斐もあったというもの。こうして再び会える日が来ようとは思いませなんだ」
「某も、よもやこの苅谷城で対面が叶うとは思いませんでした。して、母上は何故ここへ」
「駿府の母より元康殿が近く三河へ参られると聞いたのです。そのことを夫に打ち明けたところ、兄の下野守に掛け合ってくださり、この苅谷へ」
於大の方の言う夫とは先夫・広忠のことではなく、今の夫である久松佐渡守のことであった。それを分かったうえで、元康はまだ会ったことのない継父へと感謝を伝えたくなってしまう。
「実はの、我が兄が今川家へ帰参するという文をよこしたのは、駿府の源応尼様からの書状が届いてからなのじゃ」
「そ、そうだったので……!」
駿府にいながら、実の娘に留まらず、血の繋がっていない子供たちの行動をも変化させてしまうとは、偉大な祖母であると痛感させられる。そして、水野藤九郎の言葉はまだ続いた。
「蔵人佐殿。御身の母上の身の上は分かってござろうな」
「はっ、水野下野守信元が傘下国衆である久松佐渡守が妻、にございましょう」
「いかにも。まだ正式に兄の下野守が今川家への帰参が受け入れられていない今、そなたもわしも身内とはいえ、敵方の者と密会しておることになる」
「密会……」
確かに、水野藤九郎にとっての異母妹であり、元康にとってのただ一人の生母たる人物。されど、彼女が属する立場は未だ敵方。密会と表現されても致し方ないことでもあった。
すなわち、今日苅谷城にて敵方の久松佐渡守の継室・於大の方と会ったことは公表できない、ということでもある。だからこそ、密会であると水野藤九郎は表現したのである。
「よいか、蔵人佐殿。そなたは先ほど、水野下野守の今川家従属を打診すると申したな」
「はい。さように申しました」
「よいか、これは骨折り損のくたびれ儲けとならぬ話じゃ。その打診が成功いたせば、今川家と水野家で不必要な血が流れずに済む。じゃが、それだけではない。一番の利を得るは蔵人佐殿、そなたじゃ。母と会うのに何の遠慮もいらなくなるゆえな」
後半の言葉は、元康の心にぐさりと深く突き刺さる文言であった。於大の方は兄が何故そのような言葉を使ったのかが分かるゆえに、とっさに目を伏せてしまう。
「晴れて水野下野守が今川家に再従属となれば、蔵人佐殿は気兼ねなく阿古居を訪ねて母や継父、異父弟妹と対面することも叶う。となれば、そなたが成すべきことは明白であろう」
「そ、そうですな。駿府に立ち返りましたら、御屋形様と太守様に強く掛け合ってみることといたしましょう」
「よし決まった!これで松平家と水野家の未来は明るい!これはめでたい!さっ、蔵人佐殿。一献汲もうぞ」
「ありがたく頂戴します」
それからのことは酒が入ったこともあり、元康も明瞭に記憶しているわけではない。しかし、生母と十六年という月日を経て会えたという悦びと酒の二連撃に、完全に舞い上がってしまっていた。
「蔵人佐殿、ずいぶんと酔っておられる。今宵は苅谷城へ泊まっていくがよろしかろう」
「いえ、まだ酉の刻にございまする。これより岡崎へ戻りますれば、亥の刻には宿所の大樹寺に着きまするゆえ、どうかご案じなく」
「そうか。では、気をつけて戻られよ。駿府の御両所にも、何卒よろしく取り次いでくれますよう」
「もちろん、その儀はしかと心得ておりますれば。然らば、これにてご免!」
元康は酔いが醒めぬ中、夢見心地で帰路についた。
元康が酒井左衛門尉、高力与左衛門、阿部善九郎、天野三郎兵衛、平岩七之助・善十郎兄弟、鳥居彦右衛門尉、渡辺半蔵、植村新六郎、石川彦五郎らを引き連れて苅谷城を出たとの報告を受けた水野藤九郎はただちに城門を閉めるよう命じた。
「ふっ、ちょろいものよ。ああしておけば、馬鹿正直に駿府の義元と氏真へ嘆願してくれるであろう。ふっ、ははははは……!」
「兄上、あれでは元康殿が不憫というもの。あのように政治の駆け引きに利用されるを哀れとは思いませぬか」
「それは母親として至極当然の想いじゃ。この藤九郎もその点、よう理解しておる。じゃが、守りたいものがあるならば、利用できるものは身内であろうと利用する。それまでのこと。拙者も兄者も無間地獄に落ちるを覚悟のうえで行っておること」
その兄・藤九郎の言葉に、いつぞやの緒川にいるもう一人の兄の『男女問わず、この地上に生まれ落ちた時点で乱世の駒、駒に意思など存在せぬわ』という言葉が脳裏によみがえる。
今、於大の方が胸の内で抱えている想いは自分が腹を痛めて産んだ我が子が乱世の駒として謀略の道具に使われていることへの憤りであり、そうでもしなければ生き抜くことはできない乱世そのものへの憤りでもあった。
「そう怒るな、於大。水野家にとっては松平元康の動き一つで辿る道が大きく変わる。希望ともなり得るし、絶望ともなり得る存在なのじゃ」
――だから、分かってくれ。
そんな想いを言外に滲ませながら、於大の方に対する水野藤九郎。その悲しさを帯びた眼差しに、於大の方は唇を一文字に結んだまま虚空を見上げるのであった。
そして。苅谷城を発った元康は水野藤九郎に伝えたとおり、亥の刻に大樹寺へと辿り着いた。宿所に帰着したという安心感からか、その日は何もすることなく、寝所へと直行したのであった。
そうして大きな寝息を立てながら体中の疲れを大気中へ放り出して迎えた翌朝。東の空から朗ら朗らと明けていく中、元康は体を起こす。
「殿、お目覚めにございまするか」
「おお、三郎兵衛か。今は卯の刻であろうか」
「はい。卯の刻にございます。先ほど岡崎城より使者が参り、辰の刻に随念院様が田原御前様、矢田姫さま、市場姫さまとともに大樹寺へ参られるとのこと」
「何と、大叔母上と継母上、それに妹らまで来ると申すか」
「はい。『突然訪問する無礼、平にご容赦くださいませ』とも言付かっておりますれば」
実の母親と会った翌日に、義理の母とも会うことになろうとは複雑な心境であったが、その複雑な想いは喜色で塗りつぶせてしまうほどの幸福感をもたらしていた。
「では、身支度を整えて待つとする」
「はっ、万事支度は整っておりまする」
「さすがは天野三郎兵衛。抜かりない」
「お褒めに預かり、光栄にございまする」
元康は天野三郎兵衛に導かれるまま、朝の支度を順に済ましていく。季節がもう少し暖かければ、支度していく中で目が覚めていくものだが、この寒さが厳しい季節においては起きて掛け布団を跳ねのけた時から肌に染みる寒さがあった。
「殿、酔いの方は醒められましたか」
「うむ。あれだけぐっすり眠っておったのじゃ。酔いも醒めて、実に良い気分じゃ」
「ははは、殿。さては、酔いと良いをかけられましたな」
「おお、言われてみればそうじゃ。三郎兵衛はまこと細かいところにまで目が行き届くものよ」
――いや、自分でも気づいてなかったんかい!
世が世なら、そうしたツッコミが入るのであろうが、天野三郎兵衛康景はそれ以上は何も言わず、感じたことをそっと心の内にしまい込んだのである。
「殿、随念院様一行が岡崎城を出られたとのこと」
「おお、新六郎か。うむ、そうか。使いの者には承知した、お待ち申し上げておると伝えてくれい。そうか、あと四半刻もすれば到着とな。待ち遠しいものよ」
瞼を閉じれば四年も前に会った時のことが思い出される。あの折は満足に会話することも叶わずであったが、今回の元康には秘策があった。
「三郎兵衛、わしが駿府より持って参った品々を披露するときが参ったらしい。そちらの支度の方も頼む」
「ははっ!では、高力与左衛門殿に伝えて参ります」
「頼む。わしは一足先に面会する間へと向かっておくとしよう」
「では、品々はその隣室まで運び、姫様たちがお座りになられた頃を見計らってお持ちいたしまする」
「それはよい。ならば、そのように手配を頼む」
まこと細やかな気配りのできる好青年・天野三郎兵衛。彼の手際の良さには毎度感心させられる。そうして四半刻など瞬く間に過ぎていき、寺門の方から賑やかな声が聞こえてきた。
「酒井左衛門尉、石川彦五郎の両名が出迎えであたっておりまする」
「そうか。では、善十郎。そちは隣室に控える高力与左衛門と天野三郎兵衛にこのことを伝え、そのまま待機しておいてくれ」
「ははっ!」
慌ただしく平岩善十郎康重が退出していく頃、賑やかな男女の声が建物内から聞こえてくるように。元康とともに待機しているのは阿部善九郎、平岩七之助、鳥居彦右衛門尉、植村新六郎、渡辺半蔵らであった。
「さっ、随念院様。こちらへ」
「おお、かたじけない。ささっ、姫様とともに御前もこちらへ参られるがよい」
石川彦五郎の声に続き、久しく耳にしていなかった大叔母の声が元康の耳に飛び込んでくる。
「元康殿、お久しゅうございます。随念院にございます」
「これは、大叔母上もご機嫌麗しく」
「うむ、元信殿が我が弟より『康』の一字を受け継いだと聞いた折、思わず涙が零れたほどにございます」
「そうまで喜んでおられたとは露知らず。先々代の清康公は某にとって祖父、大叔母上にとっては弟にもあたる御仁。何より、三河を一統なされた偉大な方の一字を名乗っている以上、それに恥じぬ行動をと常日頃より心がけております」
元康にとって尊敬できる大叔母・随念院。父・広忠が存命であった折に、元康の養育係を託されて以降の間柄。元康にとっては、育ての母親と呼んでも良いほどの女性である。
そんな随念院との再会に、懐かしき思い出話をいくつかしている頃には矢田姫と市場姫を伴って田原御前が着座していた。それに気づいた随念院は、自分ばかり話していてはいけないと思ったのか、話し手を田原御前らへと譲っていく。
「元康殿。まこと大きゅうなられましたなぁ」
「はっ、今年で十九となりました。我が祖父が十九の頃には牧野家の今橋城、今の吉田城を攻め落とすなど東三河への進出を開始し、父が十九の頃には我が母と離縁して水野家と絶交した年にあたりまする。それを思えば、某は今川家の庇護の下、安穏とした暮らしを送っておりますれば」
「いえいえ。それでもご成長なさっておられることはこの母も存じております。西加茂郡での初陣など、亡き広忠様や清康公を超える働きであったともっぱらの噂。随念院様とそのことを大変喜ばしく思っておりました」
常にしみじみとした語調で語る田原御前。以前に会った時よりも落ち着いた雰囲気を身に纏い、女性として一層熟したと感じさせられる。
何より、生母・於大の方と生き別れてより広忠存命時より『母』として接してくれ、今日に至ることを元康は心の底から感謝しているのである。
「そうじゃ、継母上。随念院様も存じておるやもしれませぬが、この元康、春より開始される尾張表への出兵において先陣という大切なお役を頂戴いたしました」
「それは、おめでとうございます」
「まこと、武門の誉れにございまする。ご立派に務めあげてくださいませ。ご武運をお祈りいたしております」
先陣の事を聞いた田原御前と随念院はまったく同じ反応を示した。言葉の上では祝意を述べているが、内心では危険な先陣の役割を引き留めたいとも思っているかのよう。
肉親へ心配をかけることは分かっている。それだけに、無事に役目を全うして帰ってこなければならぬと、一層決意を固くする元康なのであった。
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