不屈の葵

ヌマサン

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第3章 流転輪廻の章

第76話 迫りくる尾張出陣と不安拭う言葉

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「お、御屋形様!某が先発隊にとは真のことにございまするか!?」

「おお、真じゃ。何も予は嘘などついてはおらぬ」

 初陣の時とは異なり、義元の指揮下で臨む大戦。しかも、従属国衆という立場で臨む以上、尾張に近い三河衆が先鋒となるのは至極当然のことであった。

「ただ、あくまでも出陣する意向を表明しただけのことゆえ、より具体的なことは来年頭に改めて、御屋形様や重臣らを交えて協議したいとのこと。陣立てにつきましても、その折に確定させることとなりまするゆえ、今お渡しした書状にあることは確定事項ではございませぬ」

 先発隊に己が名を記されていたと知り、元康の表情が蒼ざめたのを見逃さなかった朝比奈兵衛尉元長は確定したわけではないと付け加えた。

「兵衛尉殿!」

「これは備中守殿。声を荒立てて何事にございまするか」

「先発隊には某もお加えいただきたい。三河者が先鋒など、いつ裏切るか知れたものではない。何より、今川譜代が名誉ある先陣を務めるべきと思うがいかがか!」

「備中守殿、御前であるぞ!何より、太守様の案に難癖つけるなど、恥を知りなされ!」

「なんじゃと!庶流の分際でほざきおったな!」

「おお、やるか!」

「ご両名ともお控えあれ!御屋形様の御前なるぞ!」

 頭に血が昇った朝比奈備中守泰朝、同兵衛尉元長がハッと我に返るほどの怒気を帯びた声がその場を制した。

 その声の主は最年少の北条助五郎氏規であった。まだ十五の若造ではあったが、その気迫たるや三十前後の強者らを押し黙らせる凄みがあった。

 何より、普段から怒気を露わにすることなどない北条助五郎の姿に、舅である関口刑部少輔氏純も、そして元康も驚きに目を張った。

「御屋形様、声を荒げましたこと、伏してお詫び申し上げます」

「よい、よくぞ両名の諍いを収めてくれた。礼を申すぞ」

「ははっ!」

「朝比奈備中守、同じく兵衛尉。若年の助五郎に叱り飛ばされて何とする。このような醜態、二度とさらすでないぞ」

「はっ、ははっ……!」

「まこと、面目次第もございませぬ」

 あわや斬り合い寸前にまで燃え上がった武者どもを鎮静化させ、今では本心から反省して頭を下げている。それが出来てしまう北条助五郎は真に比類なき武士であると、心に刻む元康なのであった。

 それはともかく、その日の集まりは解散となり、元康は真っ直ぐに屋敷へ。その折の考え込んだ様子の元康に、近侍する鳥居彦右衛門尉元忠、阿部善九郎正勝、天野三郎兵衛景能らは一体どうしたのかと首を傾げていた。

 元康が屋敷へ帰宅すると、どういうわけか、身ごもっている駿河御前が丁寧に手をつき、出迎えの姿勢を取っていた。

「殿、お帰りなさいませ」

「おお、瀬名か。具合はどうじゃ。出迎えなどして大丈夫か」

「はい。つわりも落ち着いて参りましたほどに」

 青白く、まだまだ体調は優れぬ様子の瀬名であるが、本人が落ち着いてきたと申している以上、元康としてもそれ以上詮索するようなことはできなかった。

「それならばよい。そうじゃ、先ほど駿府館にて舅殿とお会いしたぞ」

「まぁ、父は何ぞ申しておりましたか」

「いや、生憎私的な話などはできなんだが、御屋形様に諸国の情勢などを語っておられた。まこと、博識な御方じゃと、改めて感心して帰ってきたところよ」

 元康の脳裏に、越前の朝倉氏や豊後の大友氏、陸奥の伊達氏の話などを披露する関口刑部少輔の姿が蘇る。あれほど諸国の情報に精通している人物は早々いない。そう思えてならない立派な人物である。

「そうじゃ、瀬名。いよいよ太守様は御自ら尾張表へ御出陣なされるとのことじゃ」

「そ、それは真にございますか!?」

「瀬名、落ち着け。お腹の児に障ろうぞ」

 隠居とはいえ、外交と軍事を統括している今川義元自らが出陣するなど、十年以上なかったこと。それを記憶しているだけに、瀬名にも事の重大さが伝わったようであった。

 そんな瀬名を一度落ち着かせてから、元康は再びゆっくりと、瀬名が感情を高ぶらせないよう、細心の注意を払って語り始める。

「御屋形様は武田や北条からも援軍を得るべく、使者を飛ばしておるとも聞いたゆえ、万を超す大軍勢での遠征となろう」

「万を超す軍勢など、私には想像もつきませぬ……」

「案ずるな。わしもそのような大軍は見たことがないゆえ、想像がつかぬのは同じこと。何より、尾張での合戦となれば、わしを含めた三河衆が先陣を務めることとなろう」

「と、殿が先陣……」

 先ほどの今川治部太輔義元自らの出陣と聞いた時よりも落ち着いた様子の駿河御前。元康は一体どういうわけかと説いたげな視線を彼女へ向ける。

「いかがした、わしが先陣と聞いても大して驚く様子もないが……」

「ええ、これが殿の初陣であったならば、狼狽えもしましょう。されど、殿は昨年の初陣にてご立派に勝利を飾っておられます。ゆえに、太守様の元で戦う今度の戦は大丈夫であろうと、そう思うたまでにございます」

「なるほど、確かにそうやもしれぬ。じゃが、此度は相手が違う。昨年の相手は寺部城主の鈴木重辰と広瀬城主の三宅高貞であった。されど、次は尾張一統も目前に迫った織田信長じゃ」

「さりとて、所詮は尾張の守護代上がりの織田家では、太守様の敵でもありますまい」

 確かに、織田信長という男を知らない人間の反応としては、駿河御前の判断が正しいのだろう。しかし、一度会ってわずかながらに言葉を交わしたことのある元康は、油断のならぬ相手として記憶されているのである。

 事実、先代・織田備後守信秀の死後、同母弟・信勝を斬り、異母兄・信広をはじめとする他の織田一門を屈服せしめ、主家である織田大和守家を滅亡へと追いやり、その居城であった清洲城を自らの居城としている。

 そして、最後まで粘り強く抵抗を続けていた岩倉城の織田伊勢守家も滅亡へと追いやり、残すは今川が抑えている大高城と鳴海城。この両城を攻め潰せば、尾張国内において信長に反抗する勢力は皆無となるのだ。

 家督継承から七年かけて尾張一統を成し遂げようとしている織田信長は間違いなく傑物。対する義元も東海道において並ぶ者なしの傑物であるが、一体どちらが勝つのか、元康には安直に予想することなどできなかった。

 だが、今考えていることをそっくりそのまま駿河御前に伝える度胸は、今の元康に持ち合わせてはいなかった。何より、今考えていることが他所へ漏洩したならば、内通しているなどとあらぬ疑いがかかることにもなりかねない。

「そうじゃな、所詮は太守様の足元にも及ぶまい。じゃが、わしは初陣にて戦場での慢心は禁物じゃと、酒井将監ら歴戦の強者より教わったのじゃ。ゆえに、そのような戯言を申したまで」

「左様にございましたか。その尾張表への御出陣はいつ頃に?」

「たしか、来春とのことであった。仔細は年が明けてより、重臣一同を招集しての評定にて決するとも申しておられた」

「来春、にございますか。では、ご帰還なされる頃には、お腹の児も産まれておりましょうか」

 そう言って、優しくお腹を撫でる駿河御前。青白さの目立つ表情ではあるが、実に穏やかな、慈母のごとき笑みを浮かべていた。その笑みを見ていると、元康までもが慈父のごとく目を細めてしまう。

「次に生まれるも男子であろうか。それとも、姫であろうか」

「それは生まれてみねば分かりませぬ。されど、どちらにしても私たちの子にございまする」

「そうじゃな。竹千代とお腹の中の子が笑顔でいられるためにも、わしは生きて帰って参るゆえな」

 口上では言える、生きて帰るという言葉。しかし、戦場とは恐ろしい場所である。必ず、生きて帰ると口にした誰かを噓つきにしてしまうのだから。

 それが元康自身にも、周囲の人々にも、等しく降りかかる恐れのある事態。それが死であり、戦場という場所なのだ。

「殿、来春にも出陣とあらば、他の松平家の軍勢も指揮して戦うこととなりましょう」

「そうじゃな、大草松平や長沢松平、青野松平に能見松平。そのほかにも深溝松平などの軍勢を合わせたうえでの松平勢。数は二千を優に超えよう。責任重大な役目じゃ。わしの判断一つで、松平に災いが降りかかることになるゆえな」

 改めて駿河御前から指摘されて、元康は宗家の当主という立場の重さを再認識させられることにもなっていた。

「じゃが、わしは腐っても今川家親類衆。もしかすると、他の三河国衆も与力として付けられ、下手をすれば三千を超える数で動かねばならぬやもしれぬ」

 今川家に従う従属国衆という立場から、先陣を務めることになるは必定。そのうえに、今川家親類衆という立場が重なってくることで、並みの先陣を承るよりも肩の荷が重くなる感覚に襲われる。

「殿!」

 先行きが不安となり、視野が狭くなりつつある元康に声をかけたのは駿河御前――ではなく、酒井左衛門尉忠次であった。

「ご案じなさいますな。岡崎には殿をお支えする家臣どもが数多おりまする。戦経験の豊富な大久保・本多。石川や鳥居なども、御傍で殿をお支えいたしまする」

「そうであったな。わしには頼りになる家臣が数多ついておる」

「はい。それゆえ、おひとりで抱え込んではなりませぬ。殿が抱えた重荷。我ら家臣一同にも分け与えてくださいませ」

 松平宗家の主として、今川家の親類衆として、頑張らねばならぬと気負う元康。そん彼にとって、酒井左衛門尉の自身の心に寄りそう温かみのある言葉は、大きな自信と安心感をもたらした。

「殿、さように気負わずともようございます。太原崇孚和尚、朝比奈備中守泰能殿なしとはいえ、今川には数多の強者がおります。それらを采配するのも、百戦錬磨の太守様。殿はその胸を借りるおつもりで、堂々と戦をなされませ」

「そう……じゃな。堂々と戦をすることこそ、勝利を収め、なおかつ生きて駿府へ帰ってこれる道理じゃ。瀬名、そなたの言葉、しかと胸に刻んでおこうぞ」

 まだ十八歳の若き当主・松平蔵人佐元康。それもあって、本人は見くびられぬように強がり、必要以上に気負っているようであった。

 しかし、酒井左衛門尉と駿河御前からの不安を和らげる温かな声援は何物にも代えがたい力を生じさせる。

「そうじゃ、殿。いざ、織田方と開戦となれば、苅谷水野とも協力せねばなりますまい」

「水野か――」

 生母・於大の方の実家。それが元康にとっての水野家。しかし、生母といっても三歳の折に生き別れ、それ以降、時おり文通をする程度の間柄。

 何より、父・広忠にとって最も身近な敵対者。そんな認識も、元康の中には確かに芽生えていた。

「苅谷水野の藤九郎信近殿は我らと同じく、今川家の従属国衆。まして、苅谷領は此度の尾張表への遠征においては通り道にございまする」

「左衛門尉は水野が大人しく今川軍を通過させると思うか」

「はい。ただ、それはあくまでも表向きのことかと。警戒すべきは、下野守信元が緒川水野の方にございましょう。あの御方はどうにも信用なりませぬ。何より、無二の織田方にございますゆえ」

「緒川の下知が入ったならば、苅谷水野とてどう動くか分からぬ、か」

 確かに、一度は今川家に従属した水野下野守だが、現に今では織田方としての活動を継続している。酒井左衛門尉の進言通り、謀を廻らすのが好きな水野下野守信元の動向から目を離してはならないようにも思える。

「されど、表立って今川の大軍に抗えば滅亡は免れませぬ。ゆえに、我らの出陣中に岡崎を襲撃するなどの軍事行動はいたしますまいかと」

「いや、何も軍勢を率いて攻め込むだけとは限るまい。たとえば、岡崎城に運び込んだ全軍の兵粮を、草の者を潜らせて焼き払うくらいはしてくるやもしれぬ」

「となれば、それを未然に防ぎえる程度の人物は岡崎城の守衛に残しておくべきかと」

「そうであるな。じゃが、岡崎城に詰めている城代の方々が留め置かれるか否かによっても人選は変わってきそうじゃな」

 誰を戦場へと連れて行き、誰を岡崎に残していくか。その点についての判断も、重要となって来る。

「それについては殿もお考えください。その時は我らも助言いたしまするが、あくまで助言や進言程度のこと。最後にお決めなさるは殿にございまするゆえ」

「分かっておる」

 尾張表への出陣に向けて、心構えを新たにできる範囲での備えを考え始める元康。

 かくして永禄二年も暮れてゆき、運命の永禄三年を迎える――!
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