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第3章 流転輪廻の章
第74話 戦雲漂う大高と鳴海
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――見返りに嘆願を聞き届けてもらう。戦場における武功も、そのための手段となっている。
それに気づかされた時、元康の中で、点と点が一つ繋がったように感じられた。
今回の場合、鳴海城と大高城は敵対している織田領国との境目、要するに最前線にあたる要衝なのである。最前線である以上、いつ戦が始まってもおかしくなく、その中で命を落としても文句は言えない。
長期にわたって最前線において城を守衛し続けることは金銭的にも、精神的にも凄まじい負担となる。そのような状況に、家臣らは好き好んで赴くであろうか。
答えは否である。岡部丹波守のように失う者がないと言い切れるものは別だろうが、たいていの者には愛する家族や友人がいる。さらには、最前線へ伴っていく自らの家臣らも共に過ごした時間が長ければ長いほどかけがえのない存在となっていく。
愛する家族や友人とくだらない話をして笑ったり、酒を飲んだり。そのようなことができなくなる、それが死というものである。
そのような死を進んで求めていくような状況など、誰しもが避けたいと思うことである。それがいかに、主君のため、領民たちのためであったとしても。
忌避されてしまう境目在城。己の窮状に対する救済を求める家臣たち。これぞ、文字通り起死回生の機会。
こんなマッチングアプリがあったら使いたくないランキング、堂々の第一位。それが、最前線となる要衝に居続けて、場合によっては命をかけて守り抜かなければならないが、その見返りに願いを叶えてもらえるデスゲームチックな構造なのである。
「つまり、太守様からみれば人員が欠乏しがちな任務の人員が補充され、命をかけてでも叶えてもらいたい嘆願のある家臣らにとっては起死回生の機会となる。それが境目在城ということにございまするか」
「よくぞここまでたどり着いたの、蔵人佐。正解じゃ。家臣らは命がけで任を全うする代わりに、権益の保証や認可を得る、新たな所領を得る、失地回復を果たすということじゃ」
「理屈は分かりまする。しかし――」
「心の底から納得できぬであろう。じゃが、前にも薫陶を授けたように綺麗事だけでは政などままならぬ。しかと肝に銘じておくがよい。まぁ、五郎にも授けた事柄であるが、予の真意までくみ取れたかは怪しい。ゆえに、蔵人佐にも教えておかねばならぬと、かように思ったわけじゃ」
「お心遣い痛み入りまする。しかと、太守様の薫陶、胸に刻み付けましてございます」
「この対応は当家に限ったことではない。隣国、相模北条家でも同じような処置が行われておる。岡部丹波守も朝比奈輝勝も、死を覚悟の上で志願してきた者らじゃ。不憫と思うてくれるなよ――」
それ以降のことは元康もよく覚えていない。
領国の平和を、領民を守るためには誰かが請け負わなければならない役割。それは頭では分かっていても腹落ちするわけではなかった――
今川方において鳴海城将・岡部丹波守元信、大高城将・朝比奈輝勝の在番が決定した一方。
織田方においても、今川方に対抗するかのように鳴海城の周囲には丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を建設。加えて、大高城周辺には丸根砦、鷲津砦を築いていた。
「殿。水野藤二郎、ただいま参上いたしました」
「おお、戻ったか。して、藤二郎。久しぶりの故郷はいかがであったか」
「はっ、久方ぶりに兄や弟、妹らにも会えてようございました」
「で、あるか」
緒川より清洲へと帰還した水野藤二郎忠分は兄・下野守信元らと対面できたなど、他愛もない話から入りつつ、本題である領内の様子を語り始める。
「知多郡内はやはり臨戦態勢といったところでしょうか。合戦が始まる前の緊迫した空気が漂っておりました」
「やはりそうであったか。目下、鳴海城と大高城の周囲に砦を築き、対応を進めておるところよ。この両城を攻略いたせば、水野との連絡も容易になろうものぞ」
「はい。その点は兄も申しておりました。鳴海と大高が目の上のたん瘤である、と」
「で、あるか。ここを攻略できれば織田、水野ともに益をもたらすこととなる。ゆえ、まだまだ水野下野守には働いてもらわねばならぬ」
この時、信長の命令によって築かれた砦。これによって、今川家にとっては城相互の連絡や三河方面との連絡が遮断される事態に陥る。しかも、遮断されるのは連絡だけではない。兵粮や武器弾薬などの物資を輸送するのも困難を極めていた。
「おそらく、今川の者共も両城を救援するべく、軍勢を派して来ることは必定。ゆえに、砦の守将らにも奮闘してもらわねばならぬ」
「左様にございまするな。ともすれば、少しでも援軍が来襲しないよう、水野が立ち回ればよろしゅうございますか」
「で、ある。水野にも織田にも兵を回さなければならぬ状況となれば、砦への救援も思うがままに任せなくなろう。そうして、両城の兵粮や物資が枯渇すれば、降伏開城は必然であろう」
「まさに、戦わずして勝つ。城攻めをせずに落とす、兵糧攻めにございまするな」
「今川の籠城している者らとの我慢比べ。必ずや買ってみせようぞ」
ニヤリと獰猛な笑みを浮かべる織田信長。そして、その獰猛な主君の笑みに、実家に対する不安も払しょくされる水野藤二郎であった。
「して、殿。まもなくお子がお生まれになると城中でお聞きしましたが……」
「おお、藤二郎の耳にも入ったか。いかにも、そうじゃ。吉乃より産み月は二月後の神無月と聞いておる」
「それはおめでとうございまする!男子であれば、四男!姫君であれば次女となりまするか!」
「うむ。吉乃はすでに我が嫡男である奇妙丸、次男の茶筅丸を産んでおる。男子ならば良き弟、女子ならば愛すべき妹となろうぞ」
信長は昨年のうちに長女と三男が生まれており、現時点で四児の父なのである。
「殿は先代信秀公と同じく、子宝に恵まれておりまするな」
「ははは、兄弟仲良くしてくれれば父として申すことはない。おれのように、同じ母から生まれた弟を手にかけるようなことが起きねばよいが」
「ま、まことに……!」
弟・信勝を成敗したことを口にする信長は笑っていたが、その鋭い眼だけはまったく笑っていなかったのである。その眼に、水野藤二郎は話題の選択をしくじったことを痛感させられる。
「そうじゃ、そなたの甥の話は緒川へ伝わってはおらなんだか」
「お、甥にございまするか」
甥といっても、苅谷水野藤九郎信近の跡取り息子のことか、それとも妹・於大の方が産んだ甥たちのことかがとっさに分からなかった。その戸惑う様子を見て、信長は和らいだ表情を見せた。
「一時期熱田におった竹千代がことよ。清洲よりも岡崎に近い緒川か阿比居には消息が伝わっておるかと思うたのじゃが」
「あっ、松平蔵人佐がことにございましたか。確か、殿は面識がございましたな」
「熱田の加藤図書が屋敷に留め置かれておった折に会うて話したことがあるわ。おれにとって弟分のようなもの。弟の消息を気にする兄に聞かせると思って、便りがあったのならば教えてはくれまいか」
「はっ、然らば申し上げまする」
そうはいっても、そこまでの情報は伝わっていなかったのだが、何も言わないのではよろしくないため、藤二郎は必死に頭を回転させていく。
「半年ほど前になりまするが、正室である御前との間に嫡男が誕生し、竹千代と名付けられた由」
「ほう、もう嫡男に恵まれたと申すか」
「はっ!そのように聞き及んでおりますれば……!」
「よい、続けよ」
信長としても、すでに元康に嫡男がいることは意外であったらしく、水野藤二郎にとっても新鮮に思えるほど驚いた口ぶりであった。
「あの竹千代も父となったか。まこと、時が過ぎ去るのは早いものよ」
「加えて、岡崎の老臣どもに七カ条の定書なるものを下したとのこと」
「ほう、我が命に服するよう求めでもしたか」
「い、いえ。かえって、領国で重臣らが下した判決には関与しないことなど、重臣らの判断を尊重する姿勢とのこと」
「本領におらぬ以上、下手に口を出して領内の政務が滞ることを避けたか」
「おそらくはその方が領国統治が上手くいくと判断したのでございましょう」
信長は水野藤二郎から七カ条の定書の内容を聞いた時、不可解だと言わんばかりに眉をひそめた。しかし、次の瞬間にはその意図を察したのか、ふふふと声を漏らしながら笑みを浮かべていたのである。
その後、「大儀であった」との信長の言葉を受けて、水野藤二郎はその場を静かに、後にするのであった――
かくして、季節は葉月から長月。そして、神無月へと移り行く。
小春日和の穏やかな一日と呼べるその日。空模様とは打って変わって、地上では今川勢と織田勢との間で小競り合いが勃発していた。
「奥平監物殿!敵の抵抗が思いのほか、激しゅうございます!」
「そのようなこと、百も承知!菅沼久助殿も力戦くだされ!」
奥平監物定勝率いる作手奥平氏、菅沼久助定勝率いる島田菅沼氏。この両氏は従属先の今川家からの要請を受け、大高城へ兵粮を運び込もうとしているのであった。
「くっ、織田の奴らめ……!」
「菅沼久助殿!怒ってはなりませぬぞ!戦場において発した怒気こそ、命取りになり申す」
城内に兵粮を運び込ませまいと矢を射かけ、刀や槍を振り回して行く手を遮る織田勢を突破できず苛立つ菅沼久助。この時二十歳の青年にとって、味方が苦戦する様は実にじれったいものであった。
それに対し、菅沼久助を諫める奥平監物は酸いも甘いも知る四十八歳の老将。それだけに、彼の発言には血気にはやる菅沼久助も黙って従うほかなかった。
「よろしいか、菅沼久助殿。某、戦の駆け引きには慣れており申す。ゆえに、敵との押したり引いたりの駆け引きは引き受けまするゆえ、貴殿が指揮する菅沼勢は電光石火、わき目もふらず兵糧を運び入れることに専念いただきたい」
このまま織田勢とぶつかり合うだけでは兵力を消耗するだけ。それを察した奥平監物は自らが指揮する作手奥平勢が織田勢をあしらって道を開くので、若くて勢いのある菅沼久助指揮する島田菅沼勢で兵粮を大高城へ運び込んでほしい。
それが、老練な奥平監物からの要請であった。要するに、織田勢を相手する役と兵糧を運び入れる役を手分けしてやろうというのだ。この提案に一理あると思った菅沼久助の判断は迅速であった。
「では、奥平監物殿の申す通りにいたしましょう。何卒、織田勢の相手をお願いいたしまする!」
「任されよ!」
寄せては引き、引いては寄せる。さながら浜辺に打ち寄せる波のような駆け引きでもって、織田勢を巧みに誘導していく。その駆け引きによって生じた大高城までの道を、菅沼久助は見逃さなかった。
「よし、今ぞ!一気に兵糧を運び込めぇ!」
弱冠の当主が先頭きって突き進み、麾下の島田菅沼勢は勢いづく。若き当主に牽引された軍勢が進んでくるのを見て、大高城の朝比奈輝勝は門を開いてこれを迎え入れる。
「朝比奈殿!こちらが兵粮にござる!」
「菅沼殿、かたじけない!表で戦っておられる奥平監物殿にも、朝比奈輝勝が礼を申していたとお伝えくだされ」
奥三河の国衆の当主。それを出迎えた朝比奈輝勝は今川家譜代の家臣。偉そうな態度で迎えられると島田菅沼家の誰しもが思っていたが、そのようなことはなかった。傲慢さなど微塵も感じさせない、気品あふれる爽やかな対応をしてのけたのである。
「では、我らはお役目は果たしましたゆえ、戻りまする」
「うむ。島田菅沼家、作手奥平家。貴殿ら三河武士の武勇、しかとこの目に焼き付けましたぞ。我らも今川譜代の者として、負けてはおられぬ。それはともかく、貴殿らが無事に本国へ帰還できること、祈っておりまする」
大高城へまんまと兵粮を運び入れた島田菅沼勢は表で織田勢を相手に力戦する作手奥平勢と合流。城内から朝比奈勢の援護射撃もあり、彼らは無事に本領へ帰還することが叶ったのであった。
この大高城への兵粮搬入の途上で起こった合戦の戦果を聞き、駿府にいる今川義元は大層喜び、島田菅沼久助定勝には二十三日付で感状が発給されたのであった。
かくして、砦を築いて城を攻囲する織田勢と、それを阻止して兵粮を懸命に運び入れる今川方の軍勢。両軍の軍事的な緊張感はますます高まり、永禄二年も暮れに向かいつつあった。
この時すでに、かの有名な桶狭間の戦いまであと七ヵ月。織田信長と今川義元。両者の決戦の時が迫っていたのである――
それに気づかされた時、元康の中で、点と点が一つ繋がったように感じられた。
今回の場合、鳴海城と大高城は敵対している織田領国との境目、要するに最前線にあたる要衝なのである。最前線である以上、いつ戦が始まってもおかしくなく、その中で命を落としても文句は言えない。
長期にわたって最前線において城を守衛し続けることは金銭的にも、精神的にも凄まじい負担となる。そのような状況に、家臣らは好き好んで赴くであろうか。
答えは否である。岡部丹波守のように失う者がないと言い切れるものは別だろうが、たいていの者には愛する家族や友人がいる。さらには、最前線へ伴っていく自らの家臣らも共に過ごした時間が長ければ長いほどかけがえのない存在となっていく。
愛する家族や友人とくだらない話をして笑ったり、酒を飲んだり。そのようなことができなくなる、それが死というものである。
そのような死を進んで求めていくような状況など、誰しもが避けたいと思うことである。それがいかに、主君のため、領民たちのためであったとしても。
忌避されてしまう境目在城。己の窮状に対する救済を求める家臣たち。これぞ、文字通り起死回生の機会。
こんなマッチングアプリがあったら使いたくないランキング、堂々の第一位。それが、最前線となる要衝に居続けて、場合によっては命をかけて守り抜かなければならないが、その見返りに願いを叶えてもらえるデスゲームチックな構造なのである。
「つまり、太守様からみれば人員が欠乏しがちな任務の人員が補充され、命をかけてでも叶えてもらいたい嘆願のある家臣らにとっては起死回生の機会となる。それが境目在城ということにございまするか」
「よくぞここまでたどり着いたの、蔵人佐。正解じゃ。家臣らは命がけで任を全うする代わりに、権益の保証や認可を得る、新たな所領を得る、失地回復を果たすということじゃ」
「理屈は分かりまする。しかし――」
「心の底から納得できぬであろう。じゃが、前にも薫陶を授けたように綺麗事だけでは政などままならぬ。しかと肝に銘じておくがよい。まぁ、五郎にも授けた事柄であるが、予の真意までくみ取れたかは怪しい。ゆえに、蔵人佐にも教えておかねばならぬと、かように思ったわけじゃ」
「お心遣い痛み入りまする。しかと、太守様の薫陶、胸に刻み付けましてございます」
「この対応は当家に限ったことではない。隣国、相模北条家でも同じような処置が行われておる。岡部丹波守も朝比奈輝勝も、死を覚悟の上で志願してきた者らじゃ。不憫と思うてくれるなよ――」
それ以降のことは元康もよく覚えていない。
領国の平和を、領民を守るためには誰かが請け負わなければならない役割。それは頭では分かっていても腹落ちするわけではなかった――
今川方において鳴海城将・岡部丹波守元信、大高城将・朝比奈輝勝の在番が決定した一方。
織田方においても、今川方に対抗するかのように鳴海城の周囲には丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を建設。加えて、大高城周辺には丸根砦、鷲津砦を築いていた。
「殿。水野藤二郎、ただいま参上いたしました」
「おお、戻ったか。して、藤二郎。久しぶりの故郷はいかがであったか」
「はっ、久方ぶりに兄や弟、妹らにも会えてようございました」
「で、あるか」
緒川より清洲へと帰還した水野藤二郎忠分は兄・下野守信元らと対面できたなど、他愛もない話から入りつつ、本題である領内の様子を語り始める。
「知多郡内はやはり臨戦態勢といったところでしょうか。合戦が始まる前の緊迫した空気が漂っておりました」
「やはりそうであったか。目下、鳴海城と大高城の周囲に砦を築き、対応を進めておるところよ。この両城を攻略いたせば、水野との連絡も容易になろうものぞ」
「はい。その点は兄も申しておりました。鳴海と大高が目の上のたん瘤である、と」
「で、あるか。ここを攻略できれば織田、水野ともに益をもたらすこととなる。ゆえ、まだまだ水野下野守には働いてもらわねばならぬ」
この時、信長の命令によって築かれた砦。これによって、今川家にとっては城相互の連絡や三河方面との連絡が遮断される事態に陥る。しかも、遮断されるのは連絡だけではない。兵粮や武器弾薬などの物資を輸送するのも困難を極めていた。
「おそらく、今川の者共も両城を救援するべく、軍勢を派して来ることは必定。ゆえに、砦の守将らにも奮闘してもらわねばならぬ」
「左様にございまするな。ともすれば、少しでも援軍が来襲しないよう、水野が立ち回ればよろしゅうございますか」
「で、ある。水野にも織田にも兵を回さなければならぬ状況となれば、砦への救援も思うがままに任せなくなろう。そうして、両城の兵粮や物資が枯渇すれば、降伏開城は必然であろう」
「まさに、戦わずして勝つ。城攻めをせずに落とす、兵糧攻めにございまするな」
「今川の籠城している者らとの我慢比べ。必ずや買ってみせようぞ」
ニヤリと獰猛な笑みを浮かべる織田信長。そして、その獰猛な主君の笑みに、実家に対する不安も払しょくされる水野藤二郎であった。
「して、殿。まもなくお子がお生まれになると城中でお聞きしましたが……」
「おお、藤二郎の耳にも入ったか。いかにも、そうじゃ。吉乃より産み月は二月後の神無月と聞いておる」
「それはおめでとうございまする!男子であれば、四男!姫君であれば次女となりまするか!」
「うむ。吉乃はすでに我が嫡男である奇妙丸、次男の茶筅丸を産んでおる。男子ならば良き弟、女子ならば愛すべき妹となろうぞ」
信長は昨年のうちに長女と三男が生まれており、現時点で四児の父なのである。
「殿は先代信秀公と同じく、子宝に恵まれておりまするな」
「ははは、兄弟仲良くしてくれれば父として申すことはない。おれのように、同じ母から生まれた弟を手にかけるようなことが起きねばよいが」
「ま、まことに……!」
弟・信勝を成敗したことを口にする信長は笑っていたが、その鋭い眼だけはまったく笑っていなかったのである。その眼に、水野藤二郎は話題の選択をしくじったことを痛感させられる。
「そうじゃ、そなたの甥の話は緒川へ伝わってはおらなんだか」
「お、甥にございまするか」
甥といっても、苅谷水野藤九郎信近の跡取り息子のことか、それとも妹・於大の方が産んだ甥たちのことかがとっさに分からなかった。その戸惑う様子を見て、信長は和らいだ表情を見せた。
「一時期熱田におった竹千代がことよ。清洲よりも岡崎に近い緒川か阿比居には消息が伝わっておるかと思うたのじゃが」
「あっ、松平蔵人佐がことにございましたか。確か、殿は面識がございましたな」
「熱田の加藤図書が屋敷に留め置かれておった折に会うて話したことがあるわ。おれにとって弟分のようなもの。弟の消息を気にする兄に聞かせると思って、便りがあったのならば教えてはくれまいか」
「はっ、然らば申し上げまする」
そうはいっても、そこまでの情報は伝わっていなかったのだが、何も言わないのではよろしくないため、藤二郎は必死に頭を回転させていく。
「半年ほど前になりまするが、正室である御前との間に嫡男が誕生し、竹千代と名付けられた由」
「ほう、もう嫡男に恵まれたと申すか」
「はっ!そのように聞き及んでおりますれば……!」
「よい、続けよ」
信長としても、すでに元康に嫡男がいることは意外であったらしく、水野藤二郎にとっても新鮮に思えるほど驚いた口ぶりであった。
「あの竹千代も父となったか。まこと、時が過ぎ去るのは早いものよ」
「加えて、岡崎の老臣どもに七カ条の定書なるものを下したとのこと」
「ほう、我が命に服するよう求めでもしたか」
「い、いえ。かえって、領国で重臣らが下した判決には関与しないことなど、重臣らの判断を尊重する姿勢とのこと」
「本領におらぬ以上、下手に口を出して領内の政務が滞ることを避けたか」
「おそらくはその方が領国統治が上手くいくと判断したのでございましょう」
信長は水野藤二郎から七カ条の定書の内容を聞いた時、不可解だと言わんばかりに眉をひそめた。しかし、次の瞬間にはその意図を察したのか、ふふふと声を漏らしながら笑みを浮かべていたのである。
その後、「大儀であった」との信長の言葉を受けて、水野藤二郎はその場を静かに、後にするのであった――
かくして、季節は葉月から長月。そして、神無月へと移り行く。
小春日和の穏やかな一日と呼べるその日。空模様とは打って変わって、地上では今川勢と織田勢との間で小競り合いが勃発していた。
「奥平監物殿!敵の抵抗が思いのほか、激しゅうございます!」
「そのようなこと、百も承知!菅沼久助殿も力戦くだされ!」
奥平監物定勝率いる作手奥平氏、菅沼久助定勝率いる島田菅沼氏。この両氏は従属先の今川家からの要請を受け、大高城へ兵粮を運び込もうとしているのであった。
「くっ、織田の奴らめ……!」
「菅沼久助殿!怒ってはなりませぬぞ!戦場において発した怒気こそ、命取りになり申す」
城内に兵粮を運び込ませまいと矢を射かけ、刀や槍を振り回して行く手を遮る織田勢を突破できず苛立つ菅沼久助。この時二十歳の青年にとって、味方が苦戦する様は実にじれったいものであった。
それに対し、菅沼久助を諫める奥平監物は酸いも甘いも知る四十八歳の老将。それだけに、彼の発言には血気にはやる菅沼久助も黙って従うほかなかった。
「よろしいか、菅沼久助殿。某、戦の駆け引きには慣れており申す。ゆえに、敵との押したり引いたりの駆け引きは引き受けまするゆえ、貴殿が指揮する菅沼勢は電光石火、わき目もふらず兵糧を運び入れることに専念いただきたい」
このまま織田勢とぶつかり合うだけでは兵力を消耗するだけ。それを察した奥平監物は自らが指揮する作手奥平勢が織田勢をあしらって道を開くので、若くて勢いのある菅沼久助指揮する島田菅沼勢で兵粮を大高城へ運び込んでほしい。
それが、老練な奥平監物からの要請であった。要するに、織田勢を相手する役と兵糧を運び入れる役を手分けしてやろうというのだ。この提案に一理あると思った菅沼久助の判断は迅速であった。
「では、奥平監物殿の申す通りにいたしましょう。何卒、織田勢の相手をお願いいたしまする!」
「任されよ!」
寄せては引き、引いては寄せる。さながら浜辺に打ち寄せる波のような駆け引きでもって、織田勢を巧みに誘導していく。その駆け引きによって生じた大高城までの道を、菅沼久助は見逃さなかった。
「よし、今ぞ!一気に兵糧を運び込めぇ!」
弱冠の当主が先頭きって突き進み、麾下の島田菅沼勢は勢いづく。若き当主に牽引された軍勢が進んでくるのを見て、大高城の朝比奈輝勝は門を開いてこれを迎え入れる。
「朝比奈殿!こちらが兵粮にござる!」
「菅沼殿、かたじけない!表で戦っておられる奥平監物殿にも、朝比奈輝勝が礼を申していたとお伝えくだされ」
奥三河の国衆の当主。それを出迎えた朝比奈輝勝は今川家譜代の家臣。偉そうな態度で迎えられると島田菅沼家の誰しもが思っていたが、そのようなことはなかった。傲慢さなど微塵も感じさせない、気品あふれる爽やかな対応をしてのけたのである。
「では、我らはお役目は果たしましたゆえ、戻りまする」
「うむ。島田菅沼家、作手奥平家。貴殿ら三河武士の武勇、しかとこの目に焼き付けましたぞ。我らも今川譜代の者として、負けてはおられぬ。それはともかく、貴殿らが無事に本国へ帰還できること、祈っておりまする」
大高城へまんまと兵粮を運び入れた島田菅沼勢は表で織田勢を相手に力戦する作手奥平勢と合流。城内から朝比奈勢の援護射撃もあり、彼らは無事に本領へ帰還することが叶ったのであった。
この大高城への兵粮搬入の途上で起こった合戦の戦果を聞き、駿府にいる今川義元は大層喜び、島田菅沼久助定勝には二十三日付で感状が発給されたのであった。
かくして、砦を築いて城を攻囲する織田勢と、それを阻止して兵粮を懸命に運び入れる今川方の軍勢。両軍の軍事的な緊張感はますます高まり、永禄二年も暮れに向かいつつあった。
この時すでに、かの有名な桶狭間の戦いまであと七ヵ月。織田信長と今川義元。両者の決戦の時が迫っていたのである――
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