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第3章 流転輪廻の章
第69話 鬼心の裁きと守るべきもの
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上洛して将軍・足利義輝に謁見し、尾張国主としての活動を許された織田信長の動きは迅速であった。
包囲するのみに留めていた岩倉城を陥落させ、次なる狙いは今川氏勢力の影響が及んでいた勢力圏。すなわち、織田領国と今川領国の境目に位置する、尾張国東部。鳴海・大高領の奪還へ、織田信長は乗り出したのである。
その結果、今川・織田両氏の和睦は再び破棄され、鳴海・大高両領で両勢力による確保と奪還をめぐっての軍事的な緊張が高まっていくこととなった。
織田信長が尾張で活発に活動する頃、元康のいる駿府でも動きがあった。それは、尾張鳴海領を治めている山口左馬助教継、山口九郎次郎教吉が今川義元の隠居屋敷へと呼び出されたのである。
そこには、今川家親類衆であり、近隣の三河岡崎を治める元康も同席していた。
「蔵人佐、何故山口父子が呼び出された場に同席させられておるか分かるかの」
「はっ、鳴海山口氏の所領に最も近い親類衆だから、でございましょうか」
「そうじゃ。そして、これより起こることの生き証人となってもらいたいからじゃ」
元康はふいに義元の言葉に不穏な気配を感じ取った。しかし、ここでは気づかないふりをした方が良さそうだと判断し、何事もなかったかのように背筋を正して、山口父子が入室してくるのを待った。
「山口左馬助、同九郎次郎。入って参れ」
「はっ、太守様におかれましてはご機嫌麗しく」
「そのような堅苦しい挨拶は良い。ここは正月の出仕の場ではないゆえな」
「ははっ!して、我らに火急の用がおありと承っておりますが、一体何事にございましょうや」
織田領国との境目である鳴海領を治める国衆である山口左馬助は、どうして呼び出されたのか、分かっていないようで分かっていた。
それは今川・織田両家に両属し、自家の存立と鳴海領の安泰を図ったことが今川義元の逆鱗に触れたのであろう、と。しかし、境目に位置する国衆が両属という対応を取ることは何も珍しいことではない。
よって、その理論で弁明すれば必ずや義元にも理解してもらえる、と考えていたのである。
「うむ、鳴海山口氏が当家と織田家に両属しておることについて、問いたきことがあったゆえ、遠く駿府まで呼び出したのじゃ」
「はっ、その儀につきましては、太守様もご承知の通り、領国の境目に位置する国衆としては別段珍しくもないことかと存じまする」
「黙らっしゃい!」
ピシリと言い切る義元に、当の山口左馬助・九郎次郎父子以上に、すぐ傍で控えていた元康の方が驚き入ってしまった。駿府で暮らすようになって以来、このように烈火のごとく怒りを露にした義元の姿など見たことがなかったからである。
いつも落ち着き払った様子で万事を処し、今川家の家政を取り仕切ってきた傑物。そんな御仁が激昂し、そのまま刀を引き抜き成敗してしまいそうなほどの怒気を発しているのである。
「良いか、両属などという対応は帰属が不安定な状況においてのみ許されること!お主らがやっとおることは、体のよい日和見にすぎぬ!この義元を嘗め腐っておるわ!」
「お言葉ではございまするが……!」
「ええい、くどい!誰ぞ、この痴れ者を切り捨ててしまえい!」
「太守様、何卒お許しを!何卒――!」
山口父子から見えない位置で控えていた武者たちにより、太刀を預けて丸腰であった両名は瞬く間に切り伏せられ、絶命していた。
駿府館よりも新しい床板に、血だまりが二つ。そこからこぼれた赤い雫は線を成し、胡坐をかく元康の左足にまで到達する。
人が死ぬことを覚悟して臨む戦場とは違い、日常生活が送られる邸宅で行われた謀殺に、足から感じる生暖かい液体の感触に、元康も目まいに襲われていた。
「蔵人佐、しっかりせよ」
「た、太守様……!い、今のは一体何が起こったのでございまするか……」
「去就明らかにせざる鳴海山口氏の当主と嫡男を成敗したのみである」
「このような謀殺、太守様の名に傷がつきまする……!」
「なんの、予の名に傷がつくことなど安いこと。良いか、鳴海領は織田領国と当家の領国の玄関と言っても良い。それが開け放たれたままでは、いかがなる?蔵人佐、そなたの岡崎に近いところまで易々と織田や水野の軍勢が通過できることとなろうが。それでは今川領国を守ることは敵わぬ。ゆえに、心を鬼にして、父子を誅殺した」
確かにやったことは騙し討ちに近い。だが、これを許しておけば、鳴海山口氏は両属が許されて、どうして自分たちはならぬのかと前例が出来上がってしまう。
そして、義元が成敗を命じたのは、現当主である息子・氏真に山口父子の誅殺は荷が重く、先の長い人生、そのことを背負って生きていかなければならなくなるのだ。
「予は今年で四十一となった。じゃが、五郎はまだ二十二。こうした重荷を背負うのは老い先短い隠居の務めじゃ」
元康をはじめとする他の今川領国庇護下に入っている国衆や家臣を守るため、まだ若い息子に重荷を背負わせないため。すべての重荷を背負い込もうとする義元の姿が、元康の脳裏に焼き付いて離れなかった。
「よいか、蔵人佐。領国を守るとはこういうことじゃ」
「こういうことじゃ、と申されますのは……」
「仏の心を持ちつつも、鬼とならねばならぬ折には鬼となる心構えのことよ。優しさだけでは国は守れぬ、これは五郎にもしかと伝えておかねばならぬこと」
時には鬼にならなければならないこともある。すなわち、たった今の山口父子の成敗も義元は心を鬼とし、すべての業を背負う覚悟でもって行ったのだ。それが、強く元康の胸を打った。
「太守様。太守様は先ほど両属は許さぬという姿勢を鮮明になされましたが、いかなるご存念か、お伺いしてもよろしいでしょうや」
「いかなる存念か。うむ、蔵人佐にならば申してもよかろう」
義元は元康からの問いに一瞬考える素振りを見せたが、応えることを決断。まだ若年の元康にも分かるよう、難しい言葉を使わず、説明を始める。
「よいか、領国の境目である鳴海領が織田にも今川にも従っておる。となれば、織田は易々と鳴海を抜いて、三河への侵攻してくることとなろう」
「それは先ほど申されておりました。然らば、太守様はいかにして鳴海領を確保なさろうとしておられたのでしょうか」
「予は当家が政治的にも軍事的にも保護することによって、鳴海領を確保したいと考えておった」
「つまりは、我が松平家と同じく、今川家の従属国衆としておきたかったと」
元康の考えに、静かに首肯する今川治部太輔義元。つまりは、山口氏を今川に従属させることで今川領国の開きっぱなしの玄関を閉じようとしたのであった。しかし、山口氏は開けっ放す方を選択してしまった。
「では、太守様は山口氏を粛清した鳴海領をいかにする所存で……?」
「直轄領とするほかなかろう。同じく、大高領も織田へ備える必要もあるゆえ、鳴海と大高の双方には、予が厳選したものを城将として派遣し、守衛を担わせる考えでおる」
「となれば、城代になされる方は太守様の中で目星がついておられるのですか?」
「うむ。この者らならば最前線で織田を防ぎえるうえ、城将の任を承諾するであろうという者は二名ほどな。蔵人佐、気になるならば、その者らに城将を命ずる場にお主も同席いたすか」
「よ、よろしいのですか!?太守様がお許しいただけるというのならば、ぜひ同席いたしたく存じます!」
かくして、義元は織田領との境目に位置し、信長が奪還を狙ってくるであろう尾張国東部の鳴海・大高の守衛を担当する城将を任ずる場に元康も同席することが決まった。
元康のもとにも国元からの書状で織田・水野の侵攻があるのではないかという軍事的な緊張が高まりつつあることが伝わってくる内容が届けられている。
そのため、本領岡崎に近い鳴海・大高両領の城将が誰になるかは元康にとっても他人ごとではないというのが紛れもない本心であった。
「殿、お戻りになられまするか」
「おお、彦右衛門尉か。ご苦労であったな、帰るとしようぞ」
「ははっ!」
元康が義元との対面に臨んでいる間、外にて待機を命じられていた近侍の鳥居彦右衛門尉元忠を連れて、どこか落ち着かない足取りで義元の隠居屋敷を後にする元康。そんな彼は、自然な足取りで自邸へと向かっていた。
「おお、殿!お戻りになられましたか!」
屋敷に戻った元康を出迎えたのは、元康よりも十五年上で三十三歳となった酒井左衛門尉忠次であった。
常の彼からは想像できない額から粒の汗を流し、あわあわとしている様子に、元康は何か引っかかるものを覚えた。
「左衛門尉ではないか。そのように慌てていかがした」
「ご、御前様が産気づかれ……!今、侍女らが湯の支度などをはじめ、屋敷中はてんやわんやの大騒ぎにございますれば!」
「なんと!?」
粛清される命もあれば、また乱世に産まれなん命もある。よもや、こうも早く自分が父親になる日が来ようとは元康も想定していなかった。
「差配は左衛門尉がいたしておるのか」
「いえ、殿がお生まれになった折に御傍におりました雅楽助どのが」
「そうであったか。雅楽助ならば安心じゃ」
「はい。先ほどから植村新六郎や平岩七之助、平岩善十郎らが指示を受けて右へ左へ走り回っておりますれば」
「ははは、あの三名は実直で使い勝手が良いゆえ、雅楽助も扱いやすいのであろう。何より、あの三名は気配りができて、よく動く」
そう元康が酒井左衛門尉に語り掛けている間も、慌ただしく屋敷の廊下を往来する平岩七之助の姿が目に入る。
「また、御前さまのご実家、関口刑部少輔屋敷へは某の一存にて石川与七郎と阿部善九郎の両名を向かわせました」
「おう、与七郎と善九郎ならば舅殿に瀬名が産気づいたこと、上手く伝えるであろう。でかしたぞ、左衛門尉」
「はっ、お褒めに預かり光栄にございまする」
そう言って一礼する酒井左衛門尉。主君である元康が帰宅し、彼と話しているうちに平常心を取り戻しつつあるのが、その一礼からも伝わってくるかのようであった。
「加えて、天野三郎兵衛と高力与左衛門の両名は男手のいる仕事を侍女らから頼まれて、黙々とこなしておりまする」
「それゆえに姿を見かけぬのじゃな。うむ、承知した。わしは一度、自室へ戻り、着替えるといたす」
「はっ、承知いたしました」
元康は外行きの服装のままであったため、一度着替えるために自室へ。その後を鳥居彦右衛門尉が太刀を持って続いていく。
その様子を見届けた酒井左衛門尉は急ぎ足で屋敷内へ戻り、自分なりにできることはないかと探しに行くのであった。
そうして屋敷では慌ただしい時が過ぎていき、その間にも関口刑部少輔邸へ奔っていた阿部善九郎正勝が戻り、まもなく石川与七郎数正が関口刑部少輔とその夫人らとともに帰ってくることを告げ、その対応にも松平家臣らは追われることとなった。
「殿、どこか落ち着かぬご様子」
「分かるか、彦右衛門尉」
「はい。こうして殿の御傍に仕えるのも長うございますからな」
「もう八年となろうか。まこと早いものよ」
八年前から元康に近侍する鳥居彦右衛門尉。これだけの期間、共に過ごせば、元康が落ち着かなることも予見できたし、その理由も察することもできるというものであった。
「とはいえ、阿部善九郎どのや天野三郎兵衛どの、平岩七之助どの、植村新六郎どの、石川与七郎どのらよりも一年二年短くはありまするが」
「ははは、あやつらはわしが人質として駿府に参ったころから近侍しておるゆえな。じゃが、そなたも含めて、わしの意を汲んで動いてくれる者らが数多おるということはこの上ない幸福ぞ。この元康は果報者じゃ」
「もったいなきお言葉……!この鳥居彦右衛門尉、死ぬまで、いえ、死んでなお殿にお仕えいたしまするぞ!」
「死んでなおも奉公とは申せ、枕元に夜な夜な立たれてはわしは厠へ行けなくなるやもしれぬ」
さすがにこの元康の返しは近侍・鳥居彦右衛門尉でも予測できなかったらしく、一瞬鳩が豆鉄砲を食ったような顔を浮かべた後、こみ上げてくる笑いを抑えきれず、笑い声を漏らしていた。
「ふっ、彦右衛門尉。笑いすぎてはないか」
「も、申し訳ございませぬ……!」
笑いが止まらぬ彦右衛門尉の背中を元康が笑いながら強く二度叩いた頃、少将之宮の町にある松平邸に、乱世に生を生まれた赤ん坊の声が響き渡る。
「殿!」
「おう、生まれたか!」
――こうしてはおられぬぞ!
その想いがあふれる足取りで、妻子との対面を果たすべく自室を飛び出していく元康なのであった。
包囲するのみに留めていた岩倉城を陥落させ、次なる狙いは今川氏勢力の影響が及んでいた勢力圏。すなわち、織田領国と今川領国の境目に位置する、尾張国東部。鳴海・大高領の奪還へ、織田信長は乗り出したのである。
その結果、今川・織田両氏の和睦は再び破棄され、鳴海・大高両領で両勢力による確保と奪還をめぐっての軍事的な緊張が高まっていくこととなった。
織田信長が尾張で活発に活動する頃、元康のいる駿府でも動きがあった。それは、尾張鳴海領を治めている山口左馬助教継、山口九郎次郎教吉が今川義元の隠居屋敷へと呼び出されたのである。
そこには、今川家親類衆であり、近隣の三河岡崎を治める元康も同席していた。
「蔵人佐、何故山口父子が呼び出された場に同席させられておるか分かるかの」
「はっ、鳴海山口氏の所領に最も近い親類衆だから、でございましょうか」
「そうじゃ。そして、これより起こることの生き証人となってもらいたいからじゃ」
元康はふいに義元の言葉に不穏な気配を感じ取った。しかし、ここでは気づかないふりをした方が良さそうだと判断し、何事もなかったかのように背筋を正して、山口父子が入室してくるのを待った。
「山口左馬助、同九郎次郎。入って参れ」
「はっ、太守様におかれましてはご機嫌麗しく」
「そのような堅苦しい挨拶は良い。ここは正月の出仕の場ではないゆえな」
「ははっ!して、我らに火急の用がおありと承っておりますが、一体何事にございましょうや」
織田領国との境目である鳴海領を治める国衆である山口左馬助は、どうして呼び出されたのか、分かっていないようで分かっていた。
それは今川・織田両家に両属し、自家の存立と鳴海領の安泰を図ったことが今川義元の逆鱗に触れたのであろう、と。しかし、境目に位置する国衆が両属という対応を取ることは何も珍しいことではない。
よって、その理論で弁明すれば必ずや義元にも理解してもらえる、と考えていたのである。
「うむ、鳴海山口氏が当家と織田家に両属しておることについて、問いたきことがあったゆえ、遠く駿府まで呼び出したのじゃ」
「はっ、その儀につきましては、太守様もご承知の通り、領国の境目に位置する国衆としては別段珍しくもないことかと存じまする」
「黙らっしゃい!」
ピシリと言い切る義元に、当の山口左馬助・九郎次郎父子以上に、すぐ傍で控えていた元康の方が驚き入ってしまった。駿府で暮らすようになって以来、このように烈火のごとく怒りを露にした義元の姿など見たことがなかったからである。
いつも落ち着き払った様子で万事を処し、今川家の家政を取り仕切ってきた傑物。そんな御仁が激昂し、そのまま刀を引き抜き成敗してしまいそうなほどの怒気を発しているのである。
「良いか、両属などという対応は帰属が不安定な状況においてのみ許されること!お主らがやっとおることは、体のよい日和見にすぎぬ!この義元を嘗め腐っておるわ!」
「お言葉ではございまするが……!」
「ええい、くどい!誰ぞ、この痴れ者を切り捨ててしまえい!」
「太守様、何卒お許しを!何卒――!」
山口父子から見えない位置で控えていた武者たちにより、太刀を預けて丸腰であった両名は瞬く間に切り伏せられ、絶命していた。
駿府館よりも新しい床板に、血だまりが二つ。そこからこぼれた赤い雫は線を成し、胡坐をかく元康の左足にまで到達する。
人が死ぬことを覚悟して臨む戦場とは違い、日常生活が送られる邸宅で行われた謀殺に、足から感じる生暖かい液体の感触に、元康も目まいに襲われていた。
「蔵人佐、しっかりせよ」
「た、太守様……!い、今のは一体何が起こったのでございまするか……」
「去就明らかにせざる鳴海山口氏の当主と嫡男を成敗したのみである」
「このような謀殺、太守様の名に傷がつきまする……!」
「なんの、予の名に傷がつくことなど安いこと。良いか、鳴海領は織田領国と当家の領国の玄関と言っても良い。それが開け放たれたままでは、いかがなる?蔵人佐、そなたの岡崎に近いところまで易々と織田や水野の軍勢が通過できることとなろうが。それでは今川領国を守ることは敵わぬ。ゆえに、心を鬼にして、父子を誅殺した」
確かにやったことは騙し討ちに近い。だが、これを許しておけば、鳴海山口氏は両属が許されて、どうして自分たちはならぬのかと前例が出来上がってしまう。
そして、義元が成敗を命じたのは、現当主である息子・氏真に山口父子の誅殺は荷が重く、先の長い人生、そのことを背負って生きていかなければならなくなるのだ。
「予は今年で四十一となった。じゃが、五郎はまだ二十二。こうした重荷を背負うのは老い先短い隠居の務めじゃ」
元康をはじめとする他の今川領国庇護下に入っている国衆や家臣を守るため、まだ若い息子に重荷を背負わせないため。すべての重荷を背負い込もうとする義元の姿が、元康の脳裏に焼き付いて離れなかった。
「よいか、蔵人佐。領国を守るとはこういうことじゃ」
「こういうことじゃ、と申されますのは……」
「仏の心を持ちつつも、鬼とならねばならぬ折には鬼となる心構えのことよ。優しさだけでは国は守れぬ、これは五郎にもしかと伝えておかねばならぬこと」
時には鬼にならなければならないこともある。すなわち、たった今の山口父子の成敗も義元は心を鬼とし、すべての業を背負う覚悟でもって行ったのだ。それが、強く元康の胸を打った。
「太守様。太守様は先ほど両属は許さぬという姿勢を鮮明になされましたが、いかなるご存念か、お伺いしてもよろしいでしょうや」
「いかなる存念か。うむ、蔵人佐にならば申してもよかろう」
義元は元康からの問いに一瞬考える素振りを見せたが、応えることを決断。まだ若年の元康にも分かるよう、難しい言葉を使わず、説明を始める。
「よいか、領国の境目である鳴海領が織田にも今川にも従っておる。となれば、織田は易々と鳴海を抜いて、三河への侵攻してくることとなろう」
「それは先ほど申されておりました。然らば、太守様はいかにして鳴海領を確保なさろうとしておられたのでしょうか」
「予は当家が政治的にも軍事的にも保護することによって、鳴海領を確保したいと考えておった」
「つまりは、我が松平家と同じく、今川家の従属国衆としておきたかったと」
元康の考えに、静かに首肯する今川治部太輔義元。つまりは、山口氏を今川に従属させることで今川領国の開きっぱなしの玄関を閉じようとしたのであった。しかし、山口氏は開けっ放す方を選択してしまった。
「では、太守様は山口氏を粛清した鳴海領をいかにする所存で……?」
「直轄領とするほかなかろう。同じく、大高領も織田へ備える必要もあるゆえ、鳴海と大高の双方には、予が厳選したものを城将として派遣し、守衛を担わせる考えでおる」
「となれば、城代になされる方は太守様の中で目星がついておられるのですか?」
「うむ。この者らならば最前線で織田を防ぎえるうえ、城将の任を承諾するであろうという者は二名ほどな。蔵人佐、気になるならば、その者らに城将を命ずる場にお主も同席いたすか」
「よ、よろしいのですか!?太守様がお許しいただけるというのならば、ぜひ同席いたしたく存じます!」
かくして、義元は織田領との境目に位置し、信長が奪還を狙ってくるであろう尾張国東部の鳴海・大高の守衛を担当する城将を任ずる場に元康も同席することが決まった。
元康のもとにも国元からの書状で織田・水野の侵攻があるのではないかという軍事的な緊張が高まりつつあることが伝わってくる内容が届けられている。
そのため、本領岡崎に近い鳴海・大高両領の城将が誰になるかは元康にとっても他人ごとではないというのが紛れもない本心であった。
「殿、お戻りになられまするか」
「おお、彦右衛門尉か。ご苦労であったな、帰るとしようぞ」
「ははっ!」
元康が義元との対面に臨んでいる間、外にて待機を命じられていた近侍の鳥居彦右衛門尉元忠を連れて、どこか落ち着かない足取りで義元の隠居屋敷を後にする元康。そんな彼は、自然な足取りで自邸へと向かっていた。
「おお、殿!お戻りになられましたか!」
屋敷に戻った元康を出迎えたのは、元康よりも十五年上で三十三歳となった酒井左衛門尉忠次であった。
常の彼からは想像できない額から粒の汗を流し、あわあわとしている様子に、元康は何か引っかかるものを覚えた。
「左衛門尉ではないか。そのように慌てていかがした」
「ご、御前様が産気づかれ……!今、侍女らが湯の支度などをはじめ、屋敷中はてんやわんやの大騒ぎにございますれば!」
「なんと!?」
粛清される命もあれば、また乱世に産まれなん命もある。よもや、こうも早く自分が父親になる日が来ようとは元康も想定していなかった。
「差配は左衛門尉がいたしておるのか」
「いえ、殿がお生まれになった折に御傍におりました雅楽助どのが」
「そうであったか。雅楽助ならば安心じゃ」
「はい。先ほどから植村新六郎や平岩七之助、平岩善十郎らが指示を受けて右へ左へ走り回っておりますれば」
「ははは、あの三名は実直で使い勝手が良いゆえ、雅楽助も扱いやすいのであろう。何より、あの三名は気配りができて、よく動く」
そう元康が酒井左衛門尉に語り掛けている間も、慌ただしく屋敷の廊下を往来する平岩七之助の姿が目に入る。
「また、御前さまのご実家、関口刑部少輔屋敷へは某の一存にて石川与七郎と阿部善九郎の両名を向かわせました」
「おう、与七郎と善九郎ならば舅殿に瀬名が産気づいたこと、上手く伝えるであろう。でかしたぞ、左衛門尉」
「はっ、お褒めに預かり光栄にございまする」
そう言って一礼する酒井左衛門尉。主君である元康が帰宅し、彼と話しているうちに平常心を取り戻しつつあるのが、その一礼からも伝わってくるかのようであった。
「加えて、天野三郎兵衛と高力与左衛門の両名は男手のいる仕事を侍女らから頼まれて、黙々とこなしておりまする」
「それゆえに姿を見かけぬのじゃな。うむ、承知した。わしは一度、自室へ戻り、着替えるといたす」
「はっ、承知いたしました」
元康は外行きの服装のままであったため、一度着替えるために自室へ。その後を鳥居彦右衛門尉が太刀を持って続いていく。
その様子を見届けた酒井左衛門尉は急ぎ足で屋敷内へ戻り、自分なりにできることはないかと探しに行くのであった。
そうして屋敷では慌ただしい時が過ぎていき、その間にも関口刑部少輔邸へ奔っていた阿部善九郎正勝が戻り、まもなく石川与七郎数正が関口刑部少輔とその夫人らとともに帰ってくることを告げ、その対応にも松平家臣らは追われることとなった。
「殿、どこか落ち着かぬご様子」
「分かるか、彦右衛門尉」
「はい。こうして殿の御傍に仕えるのも長うございますからな」
「もう八年となろうか。まこと早いものよ」
八年前から元康に近侍する鳥居彦右衛門尉。これだけの期間、共に過ごせば、元康が落ち着かなることも予見できたし、その理由も察することもできるというものであった。
「とはいえ、阿部善九郎どのや天野三郎兵衛どの、平岩七之助どの、植村新六郎どの、石川与七郎どのらよりも一年二年短くはありまするが」
「ははは、あやつらはわしが人質として駿府に参ったころから近侍しておるゆえな。じゃが、そなたも含めて、わしの意を汲んで動いてくれる者らが数多おるということはこの上ない幸福ぞ。この元康は果報者じゃ」
「もったいなきお言葉……!この鳥居彦右衛門尉、死ぬまで、いえ、死んでなお殿にお仕えいたしまするぞ!」
「死んでなおも奉公とは申せ、枕元に夜な夜な立たれてはわしは厠へ行けなくなるやもしれぬ」
さすがにこの元康の返しは近侍・鳥居彦右衛門尉でも予測できなかったらしく、一瞬鳩が豆鉄砲を食ったような顔を浮かべた後、こみ上げてくる笑いを抑えきれず、笑い声を漏らしていた。
「ふっ、彦右衛門尉。笑いすぎてはないか」
「も、申し訳ございませぬ……!」
笑いが止まらぬ彦右衛門尉の背中を元康が笑いながら強く二度叩いた頃、少将之宮の町にある松平邸に、乱世に生を生まれた赤ん坊の声が響き渡る。
「殿!」
「おう、生まれたか!」
――こうしてはおられぬぞ!
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守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
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