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第3章 流転輪廻の章
第66話 今川と織田、それぞれの未来にかける想い
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――駿河御前の懐妊。
それを本人の口から告げられた数日後。元康は今川五郎氏真のいる駿府館へと赴いていた。
「松平蔵人佐、先の北条助五郎の元服の儀ぶりであるな」
「はい。御屋形様も壮健そうで、元康安堵いたしました」
「ははは、あの夜は酔いすぎてしもうたが、父上も酔うておられたゆえ、お叱りはなかった。ははは……!」
「そ、それはようございました」
駿府館にて会うたびに、何気ない話から入る氏真。緊張感のない当主と捉えられてしまいそうであるが、元康としても緊張せずに話したいことを話せる雰囲気づくりとしては巧妙であると感じていた。
「今日はその北条助五郎ともう一人、これへ招いておる」
「して、そのもう一人とは……?」
「それは後からのお楽しみじゃ」
そう笑う氏真のもとに、北条助五郎とそのもう一人が広間外の廊下へ姿を現した。
「おお、両名とも苦しゅうない。近うよれ、近う」
そういって氏真が右手に持つ閉じたままの扇で差し招くと、両名とも広間へ入る前に一礼してから入室してくるのであった。
「御屋形様におかれましては、ご機嫌麗しく」
「うむ、北条助五郎。堅苦しい挨拶は無用じゃ。松平蔵人佐、そなたもじゃ」
「はっ、ははっ!」
突然矛先を己に向けられ、元康は反射的に手をついて一礼していた。そして、北条助五郎が話し終えると、その後を引き取るように残る一人の人物も口を開いた。
「武田六郎信友にございます。御屋形様におかれましてはご機嫌麗しく」
「ははは、信友叔父も堅苦しい挨拶は抜きにせよ。腹が痛くなって参るゆえな」
「はっ、では仰せのままに」
そういって面を上げた武田六郎信友の顔を、元康はどこかで見覚えがあるような気がしていた。
「蔵人佐、この武田六郎という男に見覚えはないか」
「はっ、某もどこかでお会いしたことがあると感じておりますが……」
「二年前、我が祖父、無人斎道有とともに来ておった者なのじゃが――」
元康に聞こえるか聞こえないかの声量でつぶやく氏真。しかし、その言葉の中で、『二年前』と『無人斎道有』という単語が元康の記憶を呼び覚ました。
「あっ、あの折の武田六郎殿ではございませぬか!」
あまりに素っ頓狂な声で正解を口にする元康に、思わず氏真と北条助五郎氏規はくすりと笑みがこぼれる。そんな二人の反応に顔を赤らめる元康に向き直った武田六郎から再会を喜ぶ言葉がかけられる。
「松平蔵人佐元康殿、あの折はまだ次郎三郎元信でしたな」
「左様にございました。あの時にお会いした時はまだ前髪の少年にございましたゆえ、思い出すのに手間取ってしまいもうした。まこと申し訳ござらぬ」
「いやいや、かように思い出してくだされたのです。この武田六郎信友、嬉しく思います」
元康と同じく十七となっていた。二年前は元服も済んでいなかった少年が、立派な一人前の武士として自分の前に座している。それだけで何やら感慨深いものがあった。
「そうじゃ、武田六郎叔父。そなたの父は京にて壮健で過ごしておるとか」
「はい。某に家督を譲りし後は上洛し、京にて幕府のため在京奉公しておるとのこと。六十五歳となられてなお、幕府への忠誠心は衰えておらぬのには、某も感服いたしております」
「うむ、さすがは我が祖父。己のできる限りのことをして奉公するとは、並みの者には到底真似できぬこと。実に見事!」
主君・氏真とその叔父でもある武田六郎とのやり取り。その中で耳に入ったいくつかの単語に、元康は引っかかりを覚え、思考が停止しまっていた。
「御屋形様、無人斎道有様は京にてご奉公をなさっておられるのですか……?」
「ほう、蔵人佐は知らなんだか。いかにも、我が祖父は上洛し、公方様のおられる京にて奉公に励んでおられる。そこな、六郎叔父に家督を譲ったうえでのことじゃ」
「家督と申されましても、甲斐武田氏の家督はすでに武田大膳大夫晴信殿に譲っておられたはず」
「そうじゃ。じゃが、我が祖父の本心はともかく、口では叔父上の家督相続を認めておられぬでな。ゆえに、家督を譲ると仰って、六郎叔父に家督を譲られたのじゃ」
自分を追放した息子が家督を相続したことを認めていない父。しかし、元康が前に武田晴信の人となりを聞いた時には、父らしい穏やかな表情を浮かべていたことを今も鮮明に覚えている。
となれば、やはり氏真も言っている通り、本心はともかく、口では認めていないと頑なに主張しているだけなのかもしれなかった。
「なるほど、親子というものはなかなか大変にございますな」
「それをまもなく父になられる松平蔵人佐殿から聞くと、なんの皮肉かと申したくなりますな」
元康の言葉に食いついたのは氏真――ではなく、沈黙を貫いていた先日元服を迎えたばかりの北条助五郎氏規であった。
「某も不甲斐ないがゆえに三河岡崎を追われぬよう、用心せねばなりませぬな」
「ははは、甲斐だけに、とかように申したいわけじゃな」
「いえ、そのようなつもりはまったく」
甲斐の無人斎道有、武田晴信の親子関係について話した後に、元康が甲斐と口にしたことから、すかさず氏真が笑いを取ろうとしたものであるが、見事に不首尾に終わった。
「これでは予が恥をかいただけではないか」
「まこと、申し訳ございませぬ」
「よいよい、ほんの戯れじゃ。みなもこれ以上気にするでないぞ」
「ははっ!」
三人全員に言わんとすることが十二分に伝わったことを確認した氏真の視線は再び元康へと向けられる。
「して、蔵人佐。瀬名の様子はいかがじゃ。体調など崩してはおらぬか」
「はい。某の見る限りでは、体調を悪化させているような様子はございませぬ」
元康は自分の見たままを率直に氏真へと伝える。子を身ごもっている当人ではない以上、自分の見たところしか語れない以上、遅疑逡巡する問いではなかった。
「それならばよい。じゃが、もし生まれて参るのが男であったならば、早くも嫡男誕生!めでたい限りではないか」
「はっ、そうなればあの世で父も祖父も、岡崎におります家臣らも喜んでくれましょう」
すでに亡くなった父・広忠は十七で嫡男をもうけ、祖父・清康も十六という若年で嫡男が誕生している。かくいう元康は出産が越年するため、十八で父となるのであり、父や祖父よりも父になる時期が若干遅れてしまった感がある。
「うむ、もし嫡男誕生となれば、予に姫が生まれたならば、娶わせて今川一門としての格を上げることも可能となろうぞ」
「そ、それはありがたき御事かな……!して、御屋形様にもお子が生まれるご予定がございまするので……!?」
「ない。相模より輿入れして参った春姫はまだ十二じゃ。まだまだ先のこととなろう」
「左様にございましたな。もし、お方様との間にお子が生まれたならば、太守様と相模の北条左京大夫氏康殿の御孫という尊き血筋となりまするな」
今川義元と北条氏康の孫。その子が当主となれば、今川と北条の間柄はますます安泰。東海道から関東にかけてが一枚岩となっていく。敵対する諸大名から見れば脅威以外の何物でもなくなる。
「うむ。じゃが、今でも北条助五郎、武田六郎が予の前で一堂に会しておる。すでに甲相駿の三国同盟は断金の交わりと言っても過言ではない」
「まこと、御屋形様の仰る通りにございますな」
「であろう。当家の駿河、遠江、三河。そして、武田家の甲斐、信濃に、北条家の相模、伊豆、武蔵、上野、下総は一つの領国。甲相駿三国同盟のみで十ヶ国。南北朝の折に六分一殿と呼ばれた山名氏に匹敵する国力じゃ」
南北朝の頃に日ノ本六十六ヶ国のうち、十二ヶ国の守護職を保有していたことから、六分一衆とも六分一殿とも呼ばれた山名氏。氏真は今の甲相駿三国同盟はそれに匹敵すると、そう申しているのである。
「御屋形様の仰る通り、今川家の当主のもとに次期北条家当主の弟、現当主の弟が集っているとは実に感慨深きこと」
「そうであろう、蔵人佐!」
手にした扇子で元康を指し示す氏真。実に上機嫌な彼は武田と北条へ期待を寄せている。それが元康、北条助五郎、武田六郎の三名からも見てとれた。
かくして、氏真に招かれた元康たちは今後の今川の未来について語り合い、その日は解散となった。
元康が駿府にて、氏真らと平和を謳歌している頃。尾張の織田上総介信長はといえば。
同族である犬山城主・織田信清と協力し、尾張上四郡と呼ばれる丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡の守護代で岩倉城主・織田伊勢守家の当主である織田信賢と対峙していた。
「殿!この森三左衛門が先鋒を相務めまする!」
「おう、三左衛門ならば良かろう。この浮野での合戦、断じて負けるわけには参らぬ」
「心得ております!ゆえ、必ずや勝ちを収めてみせまする!」
浮野における合戦にて信長方の先鋒を務めるのは森三左衛門可成。初めは織田信賢方の優勢で推移したものの、『攻めの三左』の異名をとる森三左衛門らの奮戦もあり、信長に八幡神は味方した。
「殿、お味方が織田信賢勢を突き崩しましたぞ!」
「で、あるか。さすがは三左衛門じゃ」
馬上から戦況を眺める信長。そんな彼の傍らに控えるは一度は彼に反旗を翻した兄・三郎五郎信広であった。先代信秀の頃より、数多の合戦に参陣している彼が傍らで控えていることは信長にとっても心強い限りであった。
「兄者、この戦に勝ちし後は岩倉の者共はいかにするべきか」
「このまま追い討ちし、勢いそのままに岩倉城を陥落せしめることこそ肝要かと」
「ほう、兄者は一気に滅ぼすべきであると。じゃが、おれの考えは異なる。おれは来年には上洛が控えておるゆえ、あまり岩倉と事を荒立てとうはない」
「む、刺激しては上洛に障るとお考えで」
「いかにも。ゆえに、兄者には岩倉包囲軍の大将を務めていただき、おれが上洛から帰国するまで包囲するのみに留めてもらいたい」
ここで岩倉の織田伊勢守家との勢力争いを激化させては、来年早々の上洛に障る。
それが信長の紛れもない本心であり、そのためにここで手痛い敗北を味わわせるのみにとどめ、上洛の前に包囲。信長の帰国と同時に、攻め滅ぼす。若き覇王はそんな計画を脳内で思い描いていた。
「申し上げます!佐脇藤八郎良之どの、手傷を負いながらの強弓で知られた林弥七郎を討ち取りました!」
「申し上げます!生駒八右衛門家長どの、敵将をみごと討ち取りましてございます!」
「伝令!前田又左衛門利家どの、弟の佐脇藤八郎どのに負けじと敵中へ飛び込み、果敢に敵に挑んでおります。敵将の首が上がるのは時間の問題かと思われます!」
次々と本陣へと駆けこんでくる伝令を機嫌よさげに頷きながら聞き入れる信長。その日の浮野での勝利は信長にとって実に満足のいく結果であり、上洛を控えるなかで幸先いいと申すに足るものであった。
「殿、前田又左衛門が活躍には目を見張るものがございますな」
「で、ある。槍の又左と呼ぶに相応しい活躍ぶり、近々創設予定の赤黒の母衣衆の赤母衣衆筆頭に抜擢するつもりよ」
母衣衆とは信長の親衛隊ともいうべき直属の精鋭部隊。そのうちの赤母衣衆の筆頭に抜擢するというのだから、信長が前田又左衛門の活躍をしっかり認めていたことが分かる。
「今は今川と直接事を構えてはおらぬが、早ければ来年のうちには尾張侵攻が始まろう。それまでに尾張内部でおれに従わぬ者は成敗せねばならぬ」
「すべては今川に勝つため、にございまするな」
「で、ある。それまでに時がないのだ。ゆえに、上洛も来年早々と決めておる」
「殿の申すこと、しかと、この三郎五郎にも理解できました」
三郎五郎信広の言葉に満足いったと言わんばかりに野心に満ちた笑みを浮かべる信長。そこへ、来訪者を告げる使者が入る。
「殿、下伊那郡司の秋山善右衛門尉虎繫よりの使者が到着。陣中見舞いにやってきたとのことにございます」
「ほう、武田より使者が参ったと申すか。よし、会おう。兄者はその間、おれに代わり軍勢の指揮を頼みまする」
そう言い残した信長は和睦している今川家の同盟相手である武田家の家臣、秋山善右衛門尉虎繁よりの使者と面会。武田晴信より陣中見舞いの言葉、陣中見舞いの品々が披露された。
「使者殿。そなたの主、秋山善右衛門尉殿にお伝えくだされ。この信長が見舞いの言葉と品々に喜んでおったと」
「はっ、承知いたしました。では、これにて失礼いたしまする」
武田よりの使者との面会を果たした信長は澄み切った空を見上げる。父・信秀の念願でもあった尾張一統まであと少しなのだと、己に言い聞かせているかのようでもあった。
それを本人の口から告げられた数日後。元康は今川五郎氏真のいる駿府館へと赴いていた。
「松平蔵人佐、先の北条助五郎の元服の儀ぶりであるな」
「はい。御屋形様も壮健そうで、元康安堵いたしました」
「ははは、あの夜は酔いすぎてしもうたが、父上も酔うておられたゆえ、お叱りはなかった。ははは……!」
「そ、それはようございました」
駿府館にて会うたびに、何気ない話から入る氏真。緊張感のない当主と捉えられてしまいそうであるが、元康としても緊張せずに話したいことを話せる雰囲気づくりとしては巧妙であると感じていた。
「今日はその北条助五郎ともう一人、これへ招いておる」
「して、そのもう一人とは……?」
「それは後からのお楽しみじゃ」
そう笑う氏真のもとに、北条助五郎とそのもう一人が広間外の廊下へ姿を現した。
「おお、両名とも苦しゅうない。近うよれ、近う」
そういって氏真が右手に持つ閉じたままの扇で差し招くと、両名とも広間へ入る前に一礼してから入室してくるのであった。
「御屋形様におかれましては、ご機嫌麗しく」
「うむ、北条助五郎。堅苦しい挨拶は無用じゃ。松平蔵人佐、そなたもじゃ」
「はっ、ははっ!」
突然矛先を己に向けられ、元康は反射的に手をついて一礼していた。そして、北条助五郎が話し終えると、その後を引き取るように残る一人の人物も口を開いた。
「武田六郎信友にございます。御屋形様におかれましてはご機嫌麗しく」
「ははは、信友叔父も堅苦しい挨拶は抜きにせよ。腹が痛くなって参るゆえな」
「はっ、では仰せのままに」
そういって面を上げた武田六郎信友の顔を、元康はどこかで見覚えがあるような気がしていた。
「蔵人佐、この武田六郎という男に見覚えはないか」
「はっ、某もどこかでお会いしたことがあると感じておりますが……」
「二年前、我が祖父、無人斎道有とともに来ておった者なのじゃが――」
元康に聞こえるか聞こえないかの声量でつぶやく氏真。しかし、その言葉の中で、『二年前』と『無人斎道有』という単語が元康の記憶を呼び覚ました。
「あっ、あの折の武田六郎殿ではございませぬか!」
あまりに素っ頓狂な声で正解を口にする元康に、思わず氏真と北条助五郎氏規はくすりと笑みがこぼれる。そんな二人の反応に顔を赤らめる元康に向き直った武田六郎から再会を喜ぶ言葉がかけられる。
「松平蔵人佐元康殿、あの折はまだ次郎三郎元信でしたな」
「左様にございました。あの時にお会いした時はまだ前髪の少年にございましたゆえ、思い出すのに手間取ってしまいもうした。まこと申し訳ござらぬ」
「いやいや、かように思い出してくだされたのです。この武田六郎信友、嬉しく思います」
元康と同じく十七となっていた。二年前は元服も済んでいなかった少年が、立派な一人前の武士として自分の前に座している。それだけで何やら感慨深いものがあった。
「そうじゃ、武田六郎叔父。そなたの父は京にて壮健で過ごしておるとか」
「はい。某に家督を譲りし後は上洛し、京にて幕府のため在京奉公しておるとのこと。六十五歳となられてなお、幕府への忠誠心は衰えておらぬのには、某も感服いたしております」
「うむ、さすがは我が祖父。己のできる限りのことをして奉公するとは、並みの者には到底真似できぬこと。実に見事!」
主君・氏真とその叔父でもある武田六郎とのやり取り。その中で耳に入ったいくつかの単語に、元康は引っかかりを覚え、思考が停止しまっていた。
「御屋形様、無人斎道有様は京にてご奉公をなさっておられるのですか……?」
「ほう、蔵人佐は知らなんだか。いかにも、我が祖父は上洛し、公方様のおられる京にて奉公に励んでおられる。そこな、六郎叔父に家督を譲ったうえでのことじゃ」
「家督と申されましても、甲斐武田氏の家督はすでに武田大膳大夫晴信殿に譲っておられたはず」
「そうじゃ。じゃが、我が祖父の本心はともかく、口では叔父上の家督相続を認めておられぬでな。ゆえに、家督を譲ると仰って、六郎叔父に家督を譲られたのじゃ」
自分を追放した息子が家督を相続したことを認めていない父。しかし、元康が前に武田晴信の人となりを聞いた時には、父らしい穏やかな表情を浮かべていたことを今も鮮明に覚えている。
となれば、やはり氏真も言っている通り、本心はともかく、口では認めていないと頑なに主張しているだけなのかもしれなかった。
「なるほど、親子というものはなかなか大変にございますな」
「それをまもなく父になられる松平蔵人佐殿から聞くと、なんの皮肉かと申したくなりますな」
元康の言葉に食いついたのは氏真――ではなく、沈黙を貫いていた先日元服を迎えたばかりの北条助五郎氏規であった。
「某も不甲斐ないがゆえに三河岡崎を追われぬよう、用心せねばなりませぬな」
「ははは、甲斐だけに、とかように申したいわけじゃな」
「いえ、そのようなつもりはまったく」
甲斐の無人斎道有、武田晴信の親子関係について話した後に、元康が甲斐と口にしたことから、すかさず氏真が笑いを取ろうとしたものであるが、見事に不首尾に終わった。
「これでは予が恥をかいただけではないか」
「まこと、申し訳ございませぬ」
「よいよい、ほんの戯れじゃ。みなもこれ以上気にするでないぞ」
「ははっ!」
三人全員に言わんとすることが十二分に伝わったことを確認した氏真の視線は再び元康へと向けられる。
「して、蔵人佐。瀬名の様子はいかがじゃ。体調など崩してはおらぬか」
「はい。某の見る限りでは、体調を悪化させているような様子はございませぬ」
元康は自分の見たままを率直に氏真へと伝える。子を身ごもっている当人ではない以上、自分の見たところしか語れない以上、遅疑逡巡する問いではなかった。
「それならばよい。じゃが、もし生まれて参るのが男であったならば、早くも嫡男誕生!めでたい限りではないか」
「はっ、そうなればあの世で父も祖父も、岡崎におります家臣らも喜んでくれましょう」
すでに亡くなった父・広忠は十七で嫡男をもうけ、祖父・清康も十六という若年で嫡男が誕生している。かくいう元康は出産が越年するため、十八で父となるのであり、父や祖父よりも父になる時期が若干遅れてしまった感がある。
「うむ、もし嫡男誕生となれば、予に姫が生まれたならば、娶わせて今川一門としての格を上げることも可能となろうぞ」
「そ、それはありがたき御事かな……!して、御屋形様にもお子が生まれるご予定がございまするので……!?」
「ない。相模より輿入れして参った春姫はまだ十二じゃ。まだまだ先のこととなろう」
「左様にございましたな。もし、お方様との間にお子が生まれたならば、太守様と相模の北条左京大夫氏康殿の御孫という尊き血筋となりまするな」
今川義元と北条氏康の孫。その子が当主となれば、今川と北条の間柄はますます安泰。東海道から関東にかけてが一枚岩となっていく。敵対する諸大名から見れば脅威以外の何物でもなくなる。
「うむ。じゃが、今でも北条助五郎、武田六郎が予の前で一堂に会しておる。すでに甲相駿の三国同盟は断金の交わりと言っても過言ではない」
「まこと、御屋形様の仰る通りにございますな」
「であろう。当家の駿河、遠江、三河。そして、武田家の甲斐、信濃に、北条家の相模、伊豆、武蔵、上野、下総は一つの領国。甲相駿三国同盟のみで十ヶ国。南北朝の折に六分一殿と呼ばれた山名氏に匹敵する国力じゃ」
南北朝の頃に日ノ本六十六ヶ国のうち、十二ヶ国の守護職を保有していたことから、六分一衆とも六分一殿とも呼ばれた山名氏。氏真は今の甲相駿三国同盟はそれに匹敵すると、そう申しているのである。
「御屋形様の仰る通り、今川家の当主のもとに次期北条家当主の弟、現当主の弟が集っているとは実に感慨深きこと」
「そうであろう、蔵人佐!」
手にした扇子で元康を指し示す氏真。実に上機嫌な彼は武田と北条へ期待を寄せている。それが元康、北条助五郎、武田六郎の三名からも見てとれた。
かくして、氏真に招かれた元康たちは今後の今川の未来について語り合い、その日は解散となった。
元康が駿府にて、氏真らと平和を謳歌している頃。尾張の織田上総介信長はといえば。
同族である犬山城主・織田信清と協力し、尾張上四郡と呼ばれる丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡の守護代で岩倉城主・織田伊勢守家の当主である織田信賢と対峙していた。
「殿!この森三左衛門が先鋒を相務めまする!」
「おう、三左衛門ならば良かろう。この浮野での合戦、断じて負けるわけには参らぬ」
「心得ております!ゆえ、必ずや勝ちを収めてみせまする!」
浮野における合戦にて信長方の先鋒を務めるのは森三左衛門可成。初めは織田信賢方の優勢で推移したものの、『攻めの三左』の異名をとる森三左衛門らの奮戦もあり、信長に八幡神は味方した。
「殿、お味方が織田信賢勢を突き崩しましたぞ!」
「で、あるか。さすがは三左衛門じゃ」
馬上から戦況を眺める信長。そんな彼の傍らに控えるは一度は彼に反旗を翻した兄・三郎五郎信広であった。先代信秀の頃より、数多の合戦に参陣している彼が傍らで控えていることは信長にとっても心強い限りであった。
「兄者、この戦に勝ちし後は岩倉の者共はいかにするべきか」
「このまま追い討ちし、勢いそのままに岩倉城を陥落せしめることこそ肝要かと」
「ほう、兄者は一気に滅ぼすべきであると。じゃが、おれの考えは異なる。おれは来年には上洛が控えておるゆえ、あまり岩倉と事を荒立てとうはない」
「む、刺激しては上洛に障るとお考えで」
「いかにも。ゆえに、兄者には岩倉包囲軍の大将を務めていただき、おれが上洛から帰国するまで包囲するのみに留めてもらいたい」
ここで岩倉の織田伊勢守家との勢力争いを激化させては、来年早々の上洛に障る。
それが信長の紛れもない本心であり、そのためにここで手痛い敗北を味わわせるのみにとどめ、上洛の前に包囲。信長の帰国と同時に、攻め滅ぼす。若き覇王はそんな計画を脳内で思い描いていた。
「申し上げます!佐脇藤八郎良之どの、手傷を負いながらの強弓で知られた林弥七郎を討ち取りました!」
「申し上げます!生駒八右衛門家長どの、敵将をみごと討ち取りましてございます!」
「伝令!前田又左衛門利家どの、弟の佐脇藤八郎どのに負けじと敵中へ飛び込み、果敢に敵に挑んでおります。敵将の首が上がるのは時間の問題かと思われます!」
次々と本陣へと駆けこんでくる伝令を機嫌よさげに頷きながら聞き入れる信長。その日の浮野での勝利は信長にとって実に満足のいく結果であり、上洛を控えるなかで幸先いいと申すに足るものであった。
「殿、前田又左衛門が活躍には目を見張るものがございますな」
「で、ある。槍の又左と呼ぶに相応しい活躍ぶり、近々創設予定の赤黒の母衣衆の赤母衣衆筆頭に抜擢するつもりよ」
母衣衆とは信長の親衛隊ともいうべき直属の精鋭部隊。そのうちの赤母衣衆の筆頭に抜擢するというのだから、信長が前田又左衛門の活躍をしっかり認めていたことが分かる。
「今は今川と直接事を構えてはおらぬが、早ければ来年のうちには尾張侵攻が始まろう。それまでに尾張内部でおれに従わぬ者は成敗せねばならぬ」
「すべては今川に勝つため、にございまするな」
「で、ある。それまでに時がないのだ。ゆえに、上洛も来年早々と決めておる」
「殿の申すこと、しかと、この三郎五郎にも理解できました」
三郎五郎信広の言葉に満足いったと言わんばかりに野心に満ちた笑みを浮かべる信長。そこへ、来訪者を告げる使者が入る。
「殿、下伊那郡司の秋山善右衛門尉虎繫よりの使者が到着。陣中見舞いにやってきたとのことにございます」
「ほう、武田より使者が参ったと申すか。よし、会おう。兄者はその間、おれに代わり軍勢の指揮を頼みまする」
そう言い残した信長は和睦している今川家の同盟相手である武田家の家臣、秋山善右衛門尉虎繁よりの使者と面会。武田晴信より陣中見舞いの言葉、陣中見舞いの品々が披露された。
「使者殿。そなたの主、秋山善右衛門尉殿にお伝えくだされ。この信長が見舞いの言葉と品々に喜んでおったと」
「はっ、承知いたしました。では、これにて失礼いたしまする」
武田よりの使者との面会を果たした信長は澄み切った空を見上げる。父・信秀の念願でもあった尾張一統まであと少しなのだと、己に言い聞かせているかのようでもあった。
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西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
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