不屈の葵

ヌマサン

文字の大きさ
上 下
64 / 100
第3章 流転輪廻の章

第64話 澪標-miwotukushi-

しおりを挟む
 春の足音が近づきつつある頃、尾張国品野城をめぐる戦いは終着点に達しようとしていた。

「くっ、逃げるでない!藤井松平ごときの夜襲に敗れたとあっては、面目が立たぬわ!」

 裏崩れを起こした織田軍を立て直そうと試みる佐久間右衛門尉信盛。三十を超え、先代・織田信秀の頃から戦功のある彼でも、ここまで崩れた軍勢を立て直すことは不可能に近かった。

「申し上げます!」

「なんじゃ!」

「はっ、滝山伝三郎さまが城より打って出て参った高木長次郎広正なる将と一騎打ちに及び、討ち取られたる由!」

「なっ、滝山伝三郎が討たれたと……!」

 味方の将が討たれたと味方に伝播すれば、もはや織田軍は支離滅裂となるは必定。となれば、佐久間右衛門尉の取る道は一つしかなかった。

「よし、撤退じゃ!」

「に、逃げられるのでございまするか!?」

「たわけ!逃げるのではない、退くだけじゃ!退き佐久間の本領発揮と参ろうぞ!者ども、撤退いたすぞ!」

 ここに佐久間右衛門尉は退却戦に突入した。ここまで来て、織田方の大将を討ち漏らしてはと藤井松平勘四郎信一、高木長次郎、桜井松平監物らの軍勢が追いすがるも、これらの追撃を巧みにかわし、佐久間右衛門尉は無事に撤退を果たすのであった――

 一方、その頃。

 元康の駿府帰還を敵方に悟られないためにも、織田方へ攻撃を仕掛けるよう命を受けた松平勢が知多郡の石ヶ瀬へと攻め寄せつつあった。

「兄者、松平勢が石ヶ瀬川の渡河を始めましたぞ!」

「騒ぐな。まもなく織田の援軍を率いる藤二郎が、先鋒部隊が川を渡り終えたところで行軍中の敵側面をつく。その時こそ、藤十郎の出番じゃ。まぁ待て」

 血気にはやる藤十郎忠重を諫める下野守信元。茂みに伏せながら、松平勢のさらなる接近をじっと待っていた。

 そこへ、水野下野守が待ち望んだ鬨の声が巻き起こる。潜んでいた水野兵から矢を浴びせられ、そのまま斬りこんでくる水野兵と松平兵とで白兵戦が展開される。

「よし、藤十郎!我ら本隊も動くぞ!」

 水野下野守が号令を下そうとした折、すでに藤十郎忠重の姿はなかった。

「おいっ、藤十郎はいずこぞ!」

「殿、藤十郎さまはあちらで敵とすでに交戦中にございます!」

「ちっ、まったく困ったやつよ。こうなれば、我らも前進するぞ!藤十郎に後れを取るでないぞ!かかれ!」

 先走った異母弟の動きに呆れつつも、水野下野守は水野兵に突撃を命じた。水野藤二郎率いる織田勢と交戦している松平勢は、それ以上の数で側面に現れた水野勢に慌てふためく。

「阿部四郎五郎どの!お味方、崩れ立っておりまする!」

「やむを得まい。かくなるうえは、無理に戦うべきに非ず。川を渡り、対岸のお味方と合流するべきであろう」

 元康よりも十年上の阿部四郎五郎忠政は若さを活かした迅速な判断でもって、撤退すべきと判断。それからは得意の弓で味方の撤退を援護しながら、味方に撤退を促してゆく。

 それを遠目から確認し、舌打ちする男の姿があった。

「ちっ、松平の奴ら、撤退を始めよったか……!これでは初陣の初手柄を逃してしまうではないか!」

 初陣であり、まだ満足のいく手柄を挙げられていない水野下野守信元が末弟・藤十郎忠重は槍を引っ提げて、逃げ腰の松平兵を一人、また一人と突き伏せていく。

「貴殿、水野藤十郎忠重殿とお見受けいたす!槍合わせ願おう!」

「おおっ、ようやく骨のある武士が出てきたか!いかにも、某が水野藤十郎忠重じゃ!いざ、尋常に勝負!」

 藤十郎は繰り出される相手の槍を首を捻ってかわし、そのまま相手の槍を横へ払って右大腿部を貫いた。

「ははは、口ほどにもない奴」

「おう、藤十郎。兜首を挙げる好機ではないか」

「ああ、藤二郎兄者!このような雑魚武者の首などいらぬ!兄者が手柄となされるがよろしかろう」

「まぁ、お主がいらぬというなら、貰っていくとする。てやぁっ!」

 水野藤二郎忠分は刀を構えてよろめく相手に近寄り、一振りにて首を討った。この藤十郎が兄に手柄を譲ったという話は美化されたうえで織田信長にまで伝わり、「自ら首を獲るよりも優れた行いである」と感心されることとなる。

 それはともかく、この石ヶ瀬の戦いは伏兵を仕掛けた水野下野守に軍配が上がり、松平勢は撤退を余儀なくされることとなった。

 そんな尾張・三河国境での小競り合いが続く頃、弘治四年二月二十六日には斎藤道三を討った息子の斎藤高政が将軍・足利義輝の推挙なく、三好長慶と親しい伊勢貞孝を通じて、朝廷から正式に治部大輔に補任されるという事態が発生。

 本来、大名への栄典授与は将軍の権能であり、それが三好方に奪われつつあることは足利義輝にとって悩ましい事態であった。

 何より、全国の諸大名が朝廷の官途に就く際、将軍からの推挙を経ない状況が恒常化する可能性すらあった。

 それだけでも頭の痛い足利義輝であったが、その二日後にはさらなる変事が勃発する。

 この日、朝廷は正親町天皇の即位のため、年号を永禄に改元したのである。この改元の何が問題かと言えば、朝廷と室町幕府の協議の上で行われてきた改元を、朝廷は近江国朽木にいる将軍・足利義輝に知らせなかった。

 それだけでなく、畿内の実力者である三好長慶には清原枝賢を介して相談・連絡していたにもかかわらず、将軍には相談も連絡もなかったのであるから、足利義輝はメンツを潰された形になるわけである。

 この弘治から永禄への改元を第三者から知らされた足利義輝は当然のことながら激怒し、この永禄改元を拒絶。弘治の年号を使い続けたのである。そして、翌三月の十三日に朽木で挙兵するに至るのである――

 一方、新たに永禄となって迎えた四月。今川義元のお膝元・駿府は春の温かな日差しに包まれながら、皆が政に精を出していた。

「太守様、松平蔵人佐にございます」

 四月二十六日。駿府へ帰還した元康は、隠居屋敷へと移り住んだ今川治部太輔義元の元を訪問した。用件は今川義元が過日の寺部城攻めの感状を認めていると耳にしたことに起因する。

「おお、蔵人佐。よくぞ参った。初陣から鮮やかな勝利、まこと見事であった」

「はっ!太守様ならびに御屋形様のご期待に沿う形となり、元康安堵いたしております」

「左様であったか」

 元康は口上を述べると、視線をチラリと義元の文机へと移していく。その誘導しているかのような、あからさまな視線に気づいた義元は笑みを浮かべながら、感状の話題を展開していく。

「たった今、足立右馬助遠定宛の感状を認めたところよ。他の松平家臣への感状もじきに発給するゆえ、今しばし待つがよい」

「はっ、お手数おかけいたしまする。太守様より感状をいただいたとなれば、家臣らも感激することでしょう」

「そうであればよいがの。何分にも三河は尾張侵攻をするうえで欠かせぬ地。何としても足場を固めておかねばならぬゆえ、予も力が入りすぎておるやもしれぬ」

「やはり、尾張を攻められまするか」

 尾張侵攻となれば、松平をはじめ、三河衆が先鋒となることは必定。そうなれば、犠牲は測り知れないことは誰よりも元康が感じ取っていることである。

「蔵人佐、そなたら松平にはもうひと踏ん張りしてもらわねばならぬ。じゃが、当家の領国に手出ししてくる織田を駆逐いたせば、三河衆が先鋒となって戦う機会は今よりも減ることとなる。そのこと、よくよく承知おいてくれよ」

「はっ、それは無論承知しております。しかし、某が危惧するは、今も織田と水野が当家の領国に攻め込んできていることにございます。であるのに、当主の某が駿府にて穏やかな日々を送っている。それが口惜しゅうてなりませぬ」

 そう言って唇を噛む元康に、義元は歩み寄り、そっと悩める青年の右肩に左の手を置いた。

「よいか、蔵人佐。予はそなたの苦しみのすべてを分かってやることはできぬ。じゃが、その苦しみの根源たる尾張を併呑することで苦しみを除くことはできる。ゆえに、知恵を絞って策を練り、武を持って三河支配を盤石なものとしておる」

「はい。それはこの元康とて、重々承知しておりまする」

「うむ。そう長く時はかからぬ。いや、時をかけては織田上総介が勢力を盛り返す時を与えてしまうことにもなりかねぬ」

「太守様は織田が勢力を盛り返すと、かようにお考えで……?」

 元康からの問いに、海道一の弓取りは静かに頷いてみせる。そのまなざしは、織田信長率いる織田弾正忠家のことを警戒しているかのようでもあった。

「よいか。予は今年で齢四十となった。近ごろはめっきり老いも感じてきてもおる。跡取りの五郎は二十一となったが、まだまだ若く内政面では半人前。じゃが、軍事に関しては赤子も同然であろう」

「はっ、御屋形様は初陣もまだにございますゆえ、それは致し方なきことかと」

「そうじゃ。予は子煩悩ゆえ、頼りない五郎が戦場に出て討たれるようなことがあってはと戦場から遠ざけてしもうた。今は予が軍事を担えば済むことゆえ、表向きは何事もなく家政は回っておる」

 聞き手に回っていた元康にとって、自らを子煩悩と評したり、表向きは何事もなくという義元の言葉が妙に気にかかった。

「じゃが、尾張の織田上総介信長はどうじゃ。未だ尾張一統も成し得ぬが、着実に基盤を固め、勢力を拡大させておる。それで、二十五の年だというではないか」

 一体、目の前にいる今川義元という父親が何を言いたいのか。元康にはもうわかるような心地がしていた。

「予の目が黒いうちはよい。織田の侵攻を食い止めることなどいかようにも対処できる。じゃが、予の死後、五郎の実力では抗し切れまい。それゆえに、予が生きているうちに尾張を平らげておきたい。さすれば、心残りなくあの世にいけようものぞ」

 海道一の弓取りはすでに己の死後の今川家の行く末を案じている。この視点は、まだまだ若い元康には到底持ちえない視点であった。

「それゆえに、太守様は尾張侵攻を急がれておられたと……!」

「背後の武田とも北条とも婚姻同盟を締結しておる。太原崇孚の忘れ形見が生きておるうちに、西への勢力拡大を目指す。それしかないゆえな」

「では、太守様。この元康が御屋形様に代わって、戦場での軍配を預かりまする。必ずや、織田上総介をも超える大将となり、御屋形様の刀となり、楯となりまする!」

「その心意気や良し。お主の口からその言葉が聞けて、安堵したわ。じゃが、そう一人で背負い込むものではない。近いうちに、もう一人頼れる若者を元服させ、五郎を補佐させるつもりでおる」

 今川義元に頼れると評される若者。それも未だ元服しておらぬ者――

 元康の脳内でグルグルと候補となる人の影がいくつもちらつくが、義元の哄笑によって打ち消される。

「よい、近日中に元服の儀を執り行うゆえ、楽しみに待つがよい」

 そのように言われ、待つこと数日。夏の影が迫りつつある中、元康は近侍らを伴って今川治部太輔義元の隠居屋敷を訪れた。

 広間へと通されると、彼を手招く一人の壮年男性の姿があった。そう、元康の舅である関口刑部少輔氏純であった。

 屈託のない笑みを浮かべながら手招きする舅に吸い寄せられるように、元康は彼の前へと向かっていく。

「おお、婿殿。これはよくぞ参られた。貴殿の席はこちらじゃ。ささっ、近う近う」

「これは舅殿。では、お隣失礼いたしまする」

 設けられていたのは今川家親類衆の席。他の今川家臣よりも上位の席に招かれ、着座するのは良き心地であった。

 上座には隠居屋敷の主である今川義元。そして、今川家現当主・今川五郎氏真が座していた。隠居、当主揃っての元服となれば、並みの元服の儀ではない。このことは、事態を詳しく知らぬ元康にもよくよく伝わってきた。

「舅殿、これより行われる元服の儀、一体どのお方の元服が執り行われるのでしょうか」

「なに、婿殿は知らずにこの席に参られたとか!?」

「はっ、太守様に伺っても来れば分かると言われるばかりで……」

「そうか。ならば、ここで明かすのは野暮やもしれぬ」

 そう独り言ちて納得した様子の関口刑部少輔。ここまで来て、誰の元服かも明かされることなく、元康は元服の儀に立ち会うこととなった。

 ――一体誰の元服の儀が執り行われるというのか?

 そんな疑問が頭に浮かんだ次の瞬間、広間にその日の主役とも呼べる人物が登場した。

 入室してすぐに見えた横顔だけでは誰なのか判別がつかなかった元康だったが、チラリと目線をこちらへ向けた瞬間に、何者であるのかをようやく理解することができたのであった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

獅子の末裔

卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。 和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。 前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。

戦艦タナガーin太平洋

みにみ
歴史・時代
コンベース港でメビウス1率いる ISAF部隊に撃破され沈んだタナガー だがクルーたちが目を覚ますと そこは1942年の柱島泊地!?!?

16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽
歴史・時代
【第12章を週1回程度更新します】世界の海が人と船で結ばれていく16世紀の遥かな旅の物語です。 12章では16世紀後半のヨーロッパが舞台になります。 ※このお話は史実を参考にしたフィクションです。

第一機動部隊

桑名 裕輝
歴史・時代
突如アメリカ軍陸上攻撃機によって帝都が壊滅的損害を受けた後に宣戦布告を受けた大日本帝国。 祖国のため、そして愛する者のため大日本帝国の精鋭である第一機動部隊が米国太平洋艦隊重要拠点グアムを叩く。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

大東亜架空戦記

ソータ
歴史・時代
太平洋戦争中、日本に妻を残し、愛する人のために戦う1人の日本軍パイロットとその仲間たちの物語 ⚠️あくまで自己満です⚠️

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

大陰史記〜出雲国譲りの真相〜

桜小径
歴史・時代
古事記、日本書紀、各国風土記などに遺された神話と魏志倭人伝などの中国史書の記述をもとに邪馬台国、古代出雲、古代倭(ヤマト)の国譲りを描く。予定。序章からお読みくださいませ

処理中です...