不屈の葵

ヌマサン

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第3章 流転輪廻の章

第54話 織田・今川の和睦

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 当主が交代し、新たな体制へと移行せんとしている今川家。三河での混乱は大方鎮まったとはいえ、大丈夫と胸を張って言える状況ではなかった。

 重臣らに担ぎ出される形で今川家に反旗を翻した吉良三郎義安は今川家に降伏。しかし、命は取られないまでも、三河追放処分を受けたうえで、駿府へ連行されて幽閉の身となっていた。

 作手奥平家では奥平九八郎定能が高野山へ追放されたことを受け、今川義元は奥平貞友を処分をすることで奥平氏を許すことにした。

 しかし、処刑されるはずの奥平貞友は逃げ延びて抵抗を続け、追放されたはずの定能も後に赦免されるなど、首謀者たちの処分は曖昧なままに終わった。

 火種が未だくすぶっている状況であるものの、おおむね三河平定は完了したといえる状況ではあったのである。

「父上、当面は三河の内政や当家の軍事面は父上が担うという認識でよろしいでしょうか」

「うむ、そのつもりじゃ。そちにはまず、駿河と遠江の統治を任せたい。関口刑部少輔をつけてしかと補佐させるゆえ、そう案ずるでないぞ」

「はっ、何から何まで有難う存じます。して、その書状は?」

「牧野民部丞成定に宛てた文書じゃ。五カ年の年限を定めたうえで、吉良氏の属城である西尾城への在番を命じる内容でしたためておる」

 吉良義安の降伏を受けて、その弟・吉良義昭を吉良家の主として今川家は認めていたが、あくまでも吉良氏の所領は今川氏の直轄領とされていた。そのため、城代を設置するという手段を講じられたのである。

「まぁ、吉良家は幾度となく当家に逆らっておりますゆえ、父上の処分は妥当であろうと心得ます」

「予もそう思う。じゃが、吉良家の方が当家よりも家格は上となるゆえ、処断することもままならぬ」

「もし、処断した場合にはいかが相なりまする?」

「吉良家の存在は未だ不安定な西三河の統制に役立つ。処断すれば、次は西三河にて大規模な争乱が巻き起こることとなり、織田の介入を受けることともなろう。さらには、室町幕府将軍であらせられる足利義輝様の不興を買うことにもなろう」

 生かしておいてはいつまた叛乱を起こすか知れず、かといって処断すれば西三河統治に失敗するばかりか、室町幕府将軍・足利義輝からの印象も悪くなってしまう。

 政治的な事情が絡むことで、吉良義安を処断することはできない状況が生まれていたのである。ただ、義元は彼の弟・義昭を擁立することで、平和的に解決しようと目論んでおり、現段階では成功と言える成果を挙げていた。

「父上、政というものはまこと厄介なものにございますな」

「いかにも、ありとあらゆることに細心の注意を払わねばならぬ。それができねば、できる者に食い物にされることとなろう」

「できる者、それは織田のことでしょうや?それとも武田や北条でしょうや?」

 できなければ、できる者に食われる。それこそ下剋上であり、弱肉強食の乱世を評した言葉と言っても良かった。

「うむ、五郎が申した三大名は今すぐに行動を起こすことはなかろう。織田は尾張一統も成せておらぬ。武田は西上野侵攻や長尾景虎との戦い、北条は古河公方の威光を借りて関東制圧に躍起になっておる。こちらに兵を差し向ける余裕はなかろう」

「されど、父上は今すぐに行動を起こすことはないと申されました」

「ほう、よう聞いておったのう。いかにもじゃ。織田とは敵対しており、武田と北条とは互いに婚姻同盟を結んでおる。それは三者の力が拮抗しているゆえに安定しておる」

「つまるところ、鼎のようなものであると?」

 今川・武田・北条の甲相駿三国同盟は鼎のような関係性である。その氏真のたとえは言い得て妙であった。

「五郎、武田と北条との関係は鼎のようなものと心得よ。どれか一本の脚が折れたとすれば、残る二本はこちらに寄りかかって来るものと心得よ」

 仮に武田が折れれば北条と今川が、北条が折れれば今川と武田が、そして今川が折れれば武田と北条が寄りかかって来る。すなわち、同盟崩壊の危機に直面するどころか、いずれか一方が滅亡の危機に瀕することすらあり得るのだ。

「父上、この五郎はより一層政につとめ、国の繁栄に努めまする!」

「よくぞ申した。父も隠居の身として、その手助けをいたそうぞ。まずは今から少しずつでも当主の重責に慣れていくことからじゃ。焦るでないぞ。そなたが成長するのに必要な時は、この父が稼ぐゆえな」

「はっ、はいっ!父上、何卒よろしくお願いいたしまする!」

 氏真の前向きな姿勢を目の当たりにした義元の表情は慈父そのもの。海道一の弓取りとしてでなく、我が子の成長を喜ぶ父親としての顔であった。

 それからも乱世の時は流れていく。正月は瞬く間に過ぎ、二月十五日には武田晴信は葛山城を調略を用いて攻略。その十日後の二十五日には駿河にて山科言継の連歌会が催され、無人斎道有の子・武田六郎信友も参加するなど盛況であった。

 そうして春惜月、卯月を迎えた。

 西に目を向ければ、四月上旬には毛利元就によって、大友宗麟の異母弟・大内義長が自害に追い込まれたこの月。今川と織田でも転機となる出来事が起ころうとしていた。

 三河国上野原にて、織田弾正忠家当主・織田信長と今川家前当主・今川義元が会見し、和睦する運びとなったのである。

 その日、上野原には四名の者が己の威光を示すように二名、二名に分かれて向き合っていた。一方は織田上総介信長、尾張守護・斯波義銀。もう一方は今川治部太輔義元、三河国主・吉良義昭。

 織田信長が担ぎ出した尾張守護職にある斯波氏。今川義元が担ぎ出した吉良氏。この両氏は足利一門最高の格式を誇る家柄同士。彼らを同席させることで、和睦に対する姿勢を示したものであった。

「今川治部太輔義元殿。織田上総介信長にござる。此度は和睦を受諾していただき、感謝申し上げます。」

「織田上総介殿。互いに争うておる場合ではない、利害の一致による和睦にござる。その旨、ご承知おきくだされよ」

「無論にございます。我らは尾張国内にも多くの敵を抱え、今川殿も三河の鎮定が成せたとはいえぬ状況。ひとまず、お互いにこの状況を対処することが先決にございますれば」

 敵対している両者の会談は妙に張り詰めた緊張感をもたらしていたが、ここへ両家の家臣らが乗り込むことがなかったのは、同席した斯波義銀、吉良義昭の両名の存在が大きいといえよう。

 かくして、弘治三年四月。桜舞い散る中、織田信長と今川義元は和睦を遂げたのである。あくまでも同盟ではなく、和睦。それが意味するところは、聡い両名は痛いほどに承知していた。

 稲生の戦いを経て降伏させた織田武蔵守信成、敵対の意思を表明した岩倉城の織田伊勢守家など、尾張国内の情勢対応に追われる織田信長。

 対して、三河国内の反今川氏勢力を屈服させ、三河支配を盤石なものとしたい今川義元。

 互いに状況を好転させたならば、その時和睦を解消し、再び争うことになる。いわば、決着を先延ばしにしただけなのである。しかし、これでお互いに優先して対処すべきことに全力で当たれることの意味は大きかった。

 ――今川の脅威が遠のいたうちに尾張という地盤を固めておかねばならぬ。

 そう考える織田上総介信長。

 ――織田との争いは一時的に止んだ。今のうちに、三河統治を盤石なものとせねばならぬ。

 そのように考える今川義元。両者の思惑のもと、それぞれの領国での状況は好転してゆく。桶狭間の戦いまで、あと三年一ヵ月――

「あなた様、無事のお戻り安堵いたしました」

 清洲城に戻った信長を待っていたのは今は亡き『美濃の蝮』の娘であった。彼女が両手をつき、深く一礼して夫・信長を出迎えたのである。

「お濃か。うむ、おれは無事に戻って参ったぞ」

「ええ、無事に戻られること、信じておりました」

「で、あるか。して、留守中に何事かあったか」

「何事もなく、と申しましたらいかがなされますか」

「偽りを申すな、とかように申すであろうな」

 勘の良さと決断力に優れる織田信長という男は今川との和議が成せて安堵するにとどまらず、すでに尾張国内の情勢に目を向けていた。

「さすがはあなた様」

「して、末森城に潜らせておいた草の者から届いた便りは」

「こちらに」

「うむ」

 濃姫から受け取った書状を開き、黙読する信長。次第にその眼は怒りと呆れが入り混じったような感情を帯びていく。

「そなたの兄がおれの弟に書状を送りつけたらしい」

「あなた様が今川と和睦を成したことで、矛先が美濃へ向けられることを恐れたのでございましょう。美濃へ向けられかねない矛先をかわすには、獅子身中の虫を利用するが得策と考えたのでしょう」

「まさしく、お濃の申す通りであろう。恐らく、勘十郎を再び決起させ、おれの敵を増やそうというのだろうよ」

 母に間に入られては勘十郎信成を許さずにはおけなかった信長。しかし、完全に心を許していたわけではない。

「武蔵守さまは近ごろ、新参である若衆の津々木蔵人なる者を重用し、柴田権六を軽んじるようになったとも聞き及んでおります。そこに付け入れば、状況を好転させる手がかりとなるやもしれませぬ」

「ふふふ、おれも同じことを考えておった。さすがは蝮の娘よ。そんなそなたに我が長子の養母となってもらおうと考えておる」

「まぁ、奇妙丸さまを養子に……!?」

「奇妙丸の生母は側室。それでは必ずや後継者同士、血で血を洗う今に近い状況になりかねぬ。ゆえ、正室であるお濃が養子といたせば、後継者としての格も上がるというもの。さらに、そなたが養育に当たれば手前比類なき武士となろうぞ」

 夫より絶賛された濃姫であったが、後を継がせる長子を自らの養子とさせ、嫡男として知らしめる信長からの提案に対し、事の重大さを痛感させられていた。しかし、今の彼女に選択肢は一つのみであった。

「奇妙丸さまを養子として養育にあたること、委細承知いたしました。あなた様の期待に応えられるよう、尽力いたしましょう」

「うむ、このようなことを頼めるはそなたしかおらぬゆえな。しかと頼むぞ」

「はい」

 かくして、生まれたときに顔が奇妙であるとして、信長より『奇妙丸』との幼名を与えられた奇妙丸は濃姫の養子となることとなるのである。

 そこへ、小姓より、緒川からの来客が参ったことが告げられる。

「殿。緒川水野家当主、水野下野守信元殿が参上いたしました」

「おう、水野下野が参ったか。これへ通せ」

「ははっ!」

 素早く一礼して信長の前より立ち去った小姓が伴ってきたのは元信の伯父・水野下野守であった。

「織田上総介殿、奥方様。水野下野守、ただいま参上いたしました」

「よくぞ参った。近ごろ、三河はいかがじゃ」

「はっ、昨年岡崎に当主が墓参のため三河入りしたこともあり、松平は息を吹き返しつつありまする」

「ほう、竹千代がのう」

 思わず元信の幼名を口にしてしまう信長。それほど、彼の想い出の中では八歳の少年のまま時が止まっているのである。

「はい。元信は今川家の親類衆となり、今川義元からも目をかけられているようにございまする」

「ははは、待遇を聞けばおれでもその程度の事は分かる。しかも、新当主氏真とは兄弟のように仲睦まじいとも耳にしておる」

「さ、さすがにございまする。この水野下野、御見それいたしました……!」

「よい、表裏者であるそなたの誉め言葉など一番安心できぬわ。それよりも、三河の情勢はいかがなっておる」

「はっ、三河の反今川勢力に肩入れしていた美濃遠山氏ですが、従属先の武田家の手前、支援が難しくなったとのこと。何分にも、武田と今川は婚姻同盟を締結した間柄にございますれば」

 長尾景虎と北信濃で争い続けている武田晴信。そんな武田晴信から睨まれたのでは、従属国衆・美濃遠山氏は従属先の同盟国である今川氏に敵対する勢力を支援できないのは当然の摂理であった。

「とすれば、三河の鎮定は半ば成就しておるようなものではないか」

「はい。されど、当主が交代したばかりですゆえ、今すぐ和議を反故にして尾張侵攻を開始してくることはございますまい。今川家の目的は三河支配を盤石なものとすることにありまするゆえ」

「で、あるか。ならば、おれも急いで尾張一統を成就させるとしようぞ。水野下野守には引き続き三河方面へ睨みを聞かせておくのだ。良いな?」

「はっ、無論承知しておりまする。何卒、三河方面のことは万事お任せくだされ」

 かくして織田と水野の協議は済み、それぞれが成すべきことを確認し合って別れたのであった――
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