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第3章 流転輪廻の章
第47話 数多の来訪者
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菓子作りに没頭し、大樹寺へ遅れて到着した大久保藤五郎。そんな彼と元信は対面していた。
「改めて、某は大久保藤五郎忠行。大久保新八郎忠俊、大久保左衛門次郎忠次、大久保甚四郎忠員が弟にございまする!」
「うむ、それは存じておる。大久保一族は武勇に秀でた者らが多い。ゆえに、そなたが菓子作りに熱を上げていることが殊の外意外であった」
「そうでございましたか。ですが、某とて兄らほどではございませぬが、槍働きはできまする!合戦の折には殿の御為、しかと奉公させていただきまする!」
「左様か。ならば、戦場での活躍も期待しておるぞ。大久保藤五郎。また、いつの日かそなたが作りし菓子も食べさせてくれよ」
「も、もちろんにございまする!殿にもご満足いただけるよう、さらなる精進をいたします!」
やはり菓子のこととなると、大久保藤五郎は目の色を変えてくいついてくる。そんな様子がおかしく、元信も自然と笑みがこぼれる。だが、大久保藤五郎が作った菓子を食べたいというのは紛れもない本心であった。
そうして大久保一族と昼を過ぎてなお語り合っていたが、退屈したのか千丸や勘七郎、彦十郎らが居眠りを始めた。そのため、大久保甚四郎らもこの辺りで帰宅する運びとなった。
「然らば、殿。我らはこれにて失礼いたしまする」
「うむ、そなたらと話せて良かった。また会えるのを楽しみにしておるぞ」
大久保家の大人たちが一礼して退出し、ぞろぞろと廊下へ出ていく。大久保七郎右衛門が我が子・千丸を、大久保治右衛門が弟・勘七郎、大久保藤五郎が甥の彦十郎を負ぶっていく様は実に平和そのものであった。
「殿。高力新九郎殿がお目通りを願っておりまする」
「ほう、高力とな。善九郎、さては駿府に残してきた高力与左衛門が縁者か」
「はい。叔父であると申しておりました」
「左様か。これへ通すがよい」
「はっ、承知いたしました」
取り次いできた阿部善九郎正勝が高力新九郎を連れてくるのにそう時はかからなかった。
「殿、お初にお目にかかりまする。高力新九郎重正にございまする」
「おお、その所作。高力与左衛門が姿と重なるのう」
「はっ、甥の与左衛門を養育したのは某にございまするゆえ」
「左様であったか」
高力与左衛門清長の父・安長は元信の祖父・清康が亡くなった混乱に乗じて攻め込んできた織田信秀の軍勢と戦って戦死。それゆえに、叔父である高力新九郎が養育にあたった経緯がある。
「うむ、そなたの養育の賜物であろう。そなたの甥は立派に勤めてくれておるぞ」
「それはようございました。これであの世の兄にも良い報告ができまする」
落ち着いた所作で目元を拭う高力新九郎。甥に対しての感情というよりも、我が子に抱く愛情に近いのだろう。そう思えてならない。
そこへ、平岩七之助が早足で元信が高力新九郎と面会している間へとやって来る。
「いかがした、七之助。わしは今、高力新九郎と話しておるのじゃが……」
「はっ、お取込み中のところ申し訳ございませぬ。我が父と兄が訪ねて参りましたゆえ、取次に参りました」
「ほう、七之助が父と兄が……」
「平岩殿らが来られたか。然らば、某はこれにて失礼いたしまする。本日は殿にお会いでき、まこと嬉しゅうございました。駿府におる甥にもよろしくお伝えくだされ」
「うむ、すまぬな。また、次に会う時にはゆるりと話をしようぞ」
高力新九郎は落ち着いた様子でありながらも、素早さを併合した不可思議な所作で退出してゆく。そして、そう時を置かず、平岩父子が到着した。
「殿、平岩金八郎親重にございまする。此度の岡崎へのご帰還。まこと祝着の極みに存じまする」
「金八郎親重が子、五左衛門親正にございまする。此度のご帰還、まことめでたき限りに」
「うむ、わしが松平次郎三郎元信である。両名とも面を上げよ」
すっかり白髪の目立つ平岩金八郎は元信の高祖父・松平長親の代から祖父・清康の代まで使えた老臣である。今や隠居の身ではあるが、こうして当代の松平宗家の主が岡崎に帰還したことを聞きつけて大樹寺へ足を運んできたのであった。
そして、七之助の兄・五左衛門親正は元信と七之助よりも二ツ年上の十七。元服して日が浅い青年だが、顔立ちはやはり母を同じくする弟・七之助とよく似ている。
「殿、久方ぶりの岡崎はいかがにございまするか」
「自然と近く、静かでよい。駿府は人が多く、賑やかなのは良いが、どうにも心が落ち着かぬ。その点、岡崎は心底より安らげる」
「それはようございました。今は亡き松平家の方々も黄泉で喜んでおりましょう」
「そうであればよいのじゃが」
元信は日が傾いていく中、平岩老人から高祖父の頃の昔話や、祖父・清康の武勇伝などを聞き、その日は別れることとなった。
「七之助。今日は小姓の任はもうよい。ゆえ、父や兄と落ち着いて話して参れ。そう思えば、善十郎も伴って参れば良かったか」
ここへ来て、元信は平岩善十郎を駿府に残すのではなく、岡崎へ同伴させてやればよかったと後悔し始めた。されど、後悔というものは先に立たないもの。それが分かっていてもくよくよ思い悩んでしまうのも人間らしさと言えるのかもしれない。
それはさておき、元信の配慮に、当初は七之助も遠慮していたが、元信が念を押すうちに、家族とともに部屋を退出していった。
「殿!」
「おお、彦右衛門尉。そのように慌てて、何事じゃ」
「はっ、土居の本多豊後守広孝殿が嫡子を伴って参られました」
「ほう、土居の……」
本多豊後守は元信の父・広忠よりも二ツ下の二十九歳。そんな彼の諱の「広」は先代・広忠より偏諱である。
さらには、彼の正室は松平清康の従妹にあたる松平義春の娘。つまりは、先の日近合戦にて壮絶な最期を遂げた松平甚太郎忠茂の姉妹にあたる人物なのである。
「本多の中でも松平とも縁の深い本多豊後守が参ったか。うむ、これへ通してくれ」
「承知いたしました。ただいま、お連れいたしまする」
鳥居彦右衛門尉元忠が本多豊後守広孝を呼びに行く間、青野松平家と姻戚であり、父より名の一字を拝領した武士がどのような人であるか、夢想していく。そして、対面の時を迎えた。
「殿、土居の本多豊後守広孝にございます。此度は参上が遅れ、大変申し訳ございませぬ」
「気にせぬで良い。今こうして対面が叶ったのだから、そう気に病むこともあるまい」
面を上げた本多豊後守は日に焼けながらもどこか上品な顔立ちを残していた。駿府でみる公達と岡崎で会った大久保一族を足して二で割ったような、相反する要素が見事に同居していた。
「と、殿?拙者の顔に何かついておりますか」
「否、何でもない。して、隣で可愛らしく座っておるのが嫡子か」
「はい、彦次郎にございます。まだ三ツにございますゆえ、殿にお仕えできるはまだまだ先のこととなりましょう」
「うむ。あと十年は先のこととなろうが、今から元服するのが待ち遠しいの」
「はっ!拙者も彦次郎が殿の下で奉公している様を思い浮かべるだけで、仕合わせにございます」
忠臣・本多豊後守広孝の言語態度は見事というほかなかった。その後も土居の領民らの暮らしについて尋ねたり、父・広忠はどのような当主であったのか。本多豊後守の思うところや、彼しか知らない情報を得た。
逆に元信は駿府での暮らしぶりなどを聞かせ、本多豊後守が感じている不安を払しょくすることに努めた。その甲斐あってか、駿府へ戻ることも肯定的に捉えてもらえたようであった。
「然らば、某はこれにて失礼いたしまする。そろそろ彦次郎も眠たくなってくる頃でしょうゆえ、家に帰って寝かしつけることといたしまする」
「左様か。本多豊後守、こうしてそなたと話せたこと、仕合わせに思うぞ。わしの知らぬ父の一面も知ることができたゆえな」
「そのようにおっしゃっていただけるとは、拙者も嬉しゅうございます。然らば、これにて失礼仕る」
嫡子・彦次郎を伴い、元信のいる部屋より退出していく本多豊後守。その背は生き生きとしており、明日への希望に満ちているかのようであった。
鳥居彦右衛門尉と植村新六郎に本多豊後守らを見送らせ、元信が大樹寺の一室でごろりと寝転がっていると阿部善九郎と天野三郎兵衛がやってきた。
「両名ともいかがした。もしや、またもや来訪者か」
「はい」
「今日は陽も暮れ、もはや夜じゃ。わしも疲れておるゆえ、明日にいたすと伝えてくれい」
「然らば、そのように上野城主の酒井将監殿にお伝えいたしまする」
「待て!今、酒井将監忠尚殿と申したか!」
この年の三河忩劇にて反今川として挙兵した酒井将監忠尚。彼は松平重臣でありながら元信とは別に扱われるほどの勢力を持つ老臣、何より酒井左衛門尉忠次の叔父にあたる者。そんな人物が訪ねてきたのだから、さすがの元信も驚きを隠しえなかった。
「よし、会うことと致す。されど、これ以上の面会は明日にいたすゆえ、阿部善九郎は他の者が参ったらその旨を伝えてくれよ。天野三郎兵衛は酒井将監殿をこれへ連れて参るがよい」
「はっ!」
「委細承知!」
阿部善九郎と天野三郎兵衛の両名は元信からの指示を受けて静止を解き、再び慌ただしく動き始める。
遠くで阿部善九郎と鳥居彦右衛門尉、植村新六郎の話し声が聞こえ、それも静かになったかというところで、元信の前に天野三郎兵衛が戻ってきた。
「殿、酒井将監殿をお連れいたしました。お連れの方が三名おりまするが……」
「かまわぬ。連れの者らもこれへ通すがよい」
元信が許可を出すと、障子の裏から白髪交じりの老人が姿を現した。されど、年齢以上の覇気を纏い、若々しさがにじみ出ている。そんな老臣の後に色白の少年と肉付きの良い壮年男性、酒井左衛門尉と同じくらいの年の頃の壮年が続いて出てきた。
「元信殿、酒井将監忠尚にござる。夜分に失礼いたす」
「こちらこそ、遠く上野より岡崎までご足労いただき、感謝いたします」
「こちらこそ来訪が夜となり、まこと申し訳ござらぬ。それにしても、あの折の竹千代君がかようにご立派なお姿となられようとは……。まさしく清康公の再来というべきか……!」
石川安芸や酒井雅楽助らであれば号泣しているであろうが、同じ老臣でも酒井将監は異なっていた。嬉し涙こそ流していないものの、心底より喜んでいることは表情からも伝わってくる。
「酒井将監殿、そちらに控えておる者らは……」
「おお、紹介がまだにございましたな。この色白な小童は某と同族、酒井与九郎にございまする」
「酒井与九郎と申します。以後、お見知りおきくださいませ」
「ここでもう一人酒井一族と会えようとは思わなんだ。うむ、酒井与九郎。よろしく頼むぞ」
聞けば酒井与九郎はまだ八ツの子供。しかし、酒井将監に話してよいと促されるまで静かに待ち、いざ話すとなれば礼儀正しい。実に優秀な少年であった。
「これに控える者は某の家臣、榊原七郎右衛門長政にござる。広忠公御存命の頃より仕えておる者にございまする」
「榊原七郎右衛門にございまする。元信さま、お見知りおきくださいませ」
榊原七郎右衛門。十一年前に広畔畷にて桜井松平監物と連合して広忠と戦った折にも酒井将監の傍にいた者である。そんな彼も今では二男三女に恵まれ、父親となっているのだから時の流れとは早いものである。
そして、酒井将監の視線は残る甥っ子と同じくらいの年頃の壮年へと移っていくのであった。
「この者も某の家臣、大須賀五郎左衛門尉にございまする」
「大須賀五郎左衛門尉にございます。若輩者なれど、酒井将監様の下で松平家の御為に働いて参る所存!」
「よくぞ申してくれた。このような得がたき良臣を持てたとは、酒井将監殿も仕合わせ者にございますな」
「恐縮にございまする」
主君のそのまた主君より良臣と称された大須賀五郎左衛門尉は照れくさそうにしながらも、しっかりと喜びをその身に受け止めているようであった。
「して、殿。岡崎へ帰還なされたということは、このまま城主として滞在なされるので?」
「否、此度は墓参りがための一時帰国にすぎぬ。数日の後には三河を発ち、駿府へ戻ることと相成ろう」
「左様にございますか」
「そう気落ちせずともよい。いずれ岡崎へ戻ることが叶う日もあろうゆえ、それまでは今川へ反旗を翻すようなことだけはしてはならぬぞ」
「はっ、そのお言葉、肝に銘じることといたしましょう」
かくして上野の酒井将監一行との対面も果たし、元信の長い一日も終わりを迎えるのであった。
「改めて、某は大久保藤五郎忠行。大久保新八郎忠俊、大久保左衛門次郎忠次、大久保甚四郎忠員が弟にございまする!」
「うむ、それは存じておる。大久保一族は武勇に秀でた者らが多い。ゆえに、そなたが菓子作りに熱を上げていることが殊の外意外であった」
「そうでございましたか。ですが、某とて兄らほどではございませぬが、槍働きはできまする!合戦の折には殿の御為、しかと奉公させていただきまする!」
「左様か。ならば、戦場での活躍も期待しておるぞ。大久保藤五郎。また、いつの日かそなたが作りし菓子も食べさせてくれよ」
「も、もちろんにございまする!殿にもご満足いただけるよう、さらなる精進をいたします!」
やはり菓子のこととなると、大久保藤五郎は目の色を変えてくいついてくる。そんな様子がおかしく、元信も自然と笑みがこぼれる。だが、大久保藤五郎が作った菓子を食べたいというのは紛れもない本心であった。
そうして大久保一族と昼を過ぎてなお語り合っていたが、退屈したのか千丸や勘七郎、彦十郎らが居眠りを始めた。そのため、大久保甚四郎らもこの辺りで帰宅する運びとなった。
「然らば、殿。我らはこれにて失礼いたしまする」
「うむ、そなたらと話せて良かった。また会えるのを楽しみにしておるぞ」
大久保家の大人たちが一礼して退出し、ぞろぞろと廊下へ出ていく。大久保七郎右衛門が我が子・千丸を、大久保治右衛門が弟・勘七郎、大久保藤五郎が甥の彦十郎を負ぶっていく様は実に平和そのものであった。
「殿。高力新九郎殿がお目通りを願っておりまする」
「ほう、高力とな。善九郎、さては駿府に残してきた高力与左衛門が縁者か」
「はい。叔父であると申しておりました」
「左様か。これへ通すがよい」
「はっ、承知いたしました」
取り次いできた阿部善九郎正勝が高力新九郎を連れてくるのにそう時はかからなかった。
「殿、お初にお目にかかりまする。高力新九郎重正にございまする」
「おお、その所作。高力与左衛門が姿と重なるのう」
「はっ、甥の与左衛門を養育したのは某にございまするゆえ」
「左様であったか」
高力与左衛門清長の父・安長は元信の祖父・清康が亡くなった混乱に乗じて攻め込んできた織田信秀の軍勢と戦って戦死。それゆえに、叔父である高力新九郎が養育にあたった経緯がある。
「うむ、そなたの養育の賜物であろう。そなたの甥は立派に勤めてくれておるぞ」
「それはようございました。これであの世の兄にも良い報告ができまする」
落ち着いた所作で目元を拭う高力新九郎。甥に対しての感情というよりも、我が子に抱く愛情に近いのだろう。そう思えてならない。
そこへ、平岩七之助が早足で元信が高力新九郎と面会している間へとやって来る。
「いかがした、七之助。わしは今、高力新九郎と話しておるのじゃが……」
「はっ、お取込み中のところ申し訳ございませぬ。我が父と兄が訪ねて参りましたゆえ、取次に参りました」
「ほう、七之助が父と兄が……」
「平岩殿らが来られたか。然らば、某はこれにて失礼いたしまする。本日は殿にお会いでき、まこと嬉しゅうございました。駿府におる甥にもよろしくお伝えくだされ」
「うむ、すまぬな。また、次に会う時にはゆるりと話をしようぞ」
高力新九郎は落ち着いた様子でありながらも、素早さを併合した不可思議な所作で退出してゆく。そして、そう時を置かず、平岩父子が到着した。
「殿、平岩金八郎親重にございまする。此度の岡崎へのご帰還。まこと祝着の極みに存じまする」
「金八郎親重が子、五左衛門親正にございまする。此度のご帰還、まことめでたき限りに」
「うむ、わしが松平次郎三郎元信である。両名とも面を上げよ」
すっかり白髪の目立つ平岩金八郎は元信の高祖父・松平長親の代から祖父・清康の代まで使えた老臣である。今や隠居の身ではあるが、こうして当代の松平宗家の主が岡崎に帰還したことを聞きつけて大樹寺へ足を運んできたのであった。
そして、七之助の兄・五左衛門親正は元信と七之助よりも二ツ年上の十七。元服して日が浅い青年だが、顔立ちはやはり母を同じくする弟・七之助とよく似ている。
「殿、久方ぶりの岡崎はいかがにございまするか」
「自然と近く、静かでよい。駿府は人が多く、賑やかなのは良いが、どうにも心が落ち着かぬ。その点、岡崎は心底より安らげる」
「それはようございました。今は亡き松平家の方々も黄泉で喜んでおりましょう」
「そうであればよいのじゃが」
元信は日が傾いていく中、平岩老人から高祖父の頃の昔話や、祖父・清康の武勇伝などを聞き、その日は別れることとなった。
「七之助。今日は小姓の任はもうよい。ゆえ、父や兄と落ち着いて話して参れ。そう思えば、善十郎も伴って参れば良かったか」
ここへ来て、元信は平岩善十郎を駿府に残すのではなく、岡崎へ同伴させてやればよかったと後悔し始めた。されど、後悔というものは先に立たないもの。それが分かっていてもくよくよ思い悩んでしまうのも人間らしさと言えるのかもしれない。
それはさておき、元信の配慮に、当初は七之助も遠慮していたが、元信が念を押すうちに、家族とともに部屋を退出していった。
「殿!」
「おお、彦右衛門尉。そのように慌てて、何事じゃ」
「はっ、土居の本多豊後守広孝殿が嫡子を伴って参られました」
「ほう、土居の……」
本多豊後守は元信の父・広忠よりも二ツ下の二十九歳。そんな彼の諱の「広」は先代・広忠より偏諱である。
さらには、彼の正室は松平清康の従妹にあたる松平義春の娘。つまりは、先の日近合戦にて壮絶な最期を遂げた松平甚太郎忠茂の姉妹にあたる人物なのである。
「本多の中でも松平とも縁の深い本多豊後守が参ったか。うむ、これへ通してくれ」
「承知いたしました。ただいま、お連れいたしまする」
鳥居彦右衛門尉元忠が本多豊後守広孝を呼びに行く間、青野松平家と姻戚であり、父より名の一字を拝領した武士がどのような人であるか、夢想していく。そして、対面の時を迎えた。
「殿、土居の本多豊後守広孝にございます。此度は参上が遅れ、大変申し訳ございませぬ」
「気にせぬで良い。今こうして対面が叶ったのだから、そう気に病むこともあるまい」
面を上げた本多豊後守は日に焼けながらもどこか上品な顔立ちを残していた。駿府でみる公達と岡崎で会った大久保一族を足して二で割ったような、相反する要素が見事に同居していた。
「と、殿?拙者の顔に何かついておりますか」
「否、何でもない。して、隣で可愛らしく座っておるのが嫡子か」
「はい、彦次郎にございます。まだ三ツにございますゆえ、殿にお仕えできるはまだまだ先のこととなりましょう」
「うむ。あと十年は先のこととなろうが、今から元服するのが待ち遠しいの」
「はっ!拙者も彦次郎が殿の下で奉公している様を思い浮かべるだけで、仕合わせにございます」
忠臣・本多豊後守広孝の言語態度は見事というほかなかった。その後も土居の領民らの暮らしについて尋ねたり、父・広忠はどのような当主であったのか。本多豊後守の思うところや、彼しか知らない情報を得た。
逆に元信は駿府での暮らしぶりなどを聞かせ、本多豊後守が感じている不安を払しょくすることに努めた。その甲斐あってか、駿府へ戻ることも肯定的に捉えてもらえたようであった。
「然らば、某はこれにて失礼いたしまする。そろそろ彦次郎も眠たくなってくる頃でしょうゆえ、家に帰って寝かしつけることといたしまする」
「左様か。本多豊後守、こうしてそなたと話せたこと、仕合わせに思うぞ。わしの知らぬ父の一面も知ることができたゆえな」
「そのようにおっしゃっていただけるとは、拙者も嬉しゅうございます。然らば、これにて失礼仕る」
嫡子・彦次郎を伴い、元信のいる部屋より退出していく本多豊後守。その背は生き生きとしており、明日への希望に満ちているかのようであった。
鳥居彦右衛門尉と植村新六郎に本多豊後守らを見送らせ、元信が大樹寺の一室でごろりと寝転がっていると阿部善九郎と天野三郎兵衛がやってきた。
「両名ともいかがした。もしや、またもや来訪者か」
「はい」
「今日は陽も暮れ、もはや夜じゃ。わしも疲れておるゆえ、明日にいたすと伝えてくれい」
「然らば、そのように上野城主の酒井将監殿にお伝えいたしまする」
「待て!今、酒井将監忠尚殿と申したか!」
この年の三河忩劇にて反今川として挙兵した酒井将監忠尚。彼は松平重臣でありながら元信とは別に扱われるほどの勢力を持つ老臣、何より酒井左衛門尉忠次の叔父にあたる者。そんな人物が訪ねてきたのだから、さすがの元信も驚きを隠しえなかった。
「よし、会うことと致す。されど、これ以上の面会は明日にいたすゆえ、阿部善九郎は他の者が参ったらその旨を伝えてくれよ。天野三郎兵衛は酒井将監殿をこれへ連れて参るがよい」
「はっ!」
「委細承知!」
阿部善九郎と天野三郎兵衛の両名は元信からの指示を受けて静止を解き、再び慌ただしく動き始める。
遠くで阿部善九郎と鳥居彦右衛門尉、植村新六郎の話し声が聞こえ、それも静かになったかというところで、元信の前に天野三郎兵衛が戻ってきた。
「殿、酒井将監殿をお連れいたしました。お連れの方が三名おりまするが……」
「かまわぬ。連れの者らもこれへ通すがよい」
元信が許可を出すと、障子の裏から白髪交じりの老人が姿を現した。されど、年齢以上の覇気を纏い、若々しさがにじみ出ている。そんな老臣の後に色白の少年と肉付きの良い壮年男性、酒井左衛門尉と同じくらいの年の頃の壮年が続いて出てきた。
「元信殿、酒井将監忠尚にござる。夜分に失礼いたす」
「こちらこそ、遠く上野より岡崎までご足労いただき、感謝いたします」
「こちらこそ来訪が夜となり、まこと申し訳ござらぬ。それにしても、あの折の竹千代君がかようにご立派なお姿となられようとは……。まさしく清康公の再来というべきか……!」
石川安芸や酒井雅楽助らであれば号泣しているであろうが、同じ老臣でも酒井将監は異なっていた。嬉し涙こそ流していないものの、心底より喜んでいることは表情からも伝わってくる。
「酒井将監殿、そちらに控えておる者らは……」
「おお、紹介がまだにございましたな。この色白な小童は某と同族、酒井与九郎にございまする」
「酒井与九郎と申します。以後、お見知りおきくださいませ」
「ここでもう一人酒井一族と会えようとは思わなんだ。うむ、酒井与九郎。よろしく頼むぞ」
聞けば酒井与九郎はまだ八ツの子供。しかし、酒井将監に話してよいと促されるまで静かに待ち、いざ話すとなれば礼儀正しい。実に優秀な少年であった。
「これに控える者は某の家臣、榊原七郎右衛門長政にござる。広忠公御存命の頃より仕えておる者にございまする」
「榊原七郎右衛門にございまする。元信さま、お見知りおきくださいませ」
榊原七郎右衛門。十一年前に広畔畷にて桜井松平監物と連合して広忠と戦った折にも酒井将監の傍にいた者である。そんな彼も今では二男三女に恵まれ、父親となっているのだから時の流れとは早いものである。
そして、酒井将監の視線は残る甥っ子と同じくらいの年頃の壮年へと移っていくのであった。
「この者も某の家臣、大須賀五郎左衛門尉にございまする」
「大須賀五郎左衛門尉にございます。若輩者なれど、酒井将監様の下で松平家の御為に働いて参る所存!」
「よくぞ申してくれた。このような得がたき良臣を持てたとは、酒井将監殿も仕合わせ者にございますな」
「恐縮にございまする」
主君のそのまた主君より良臣と称された大須賀五郎左衛門尉は照れくさそうにしながらも、しっかりと喜びをその身に受け止めているようであった。
「して、殿。岡崎へ帰還なされたということは、このまま城主として滞在なされるので?」
「否、此度は墓参りがための一時帰国にすぎぬ。数日の後には三河を発ち、駿府へ戻ることと相成ろう」
「左様にございますか」
「そう気落ちせずともよい。いずれ岡崎へ戻ることが叶う日もあろうゆえ、それまでは今川へ反旗を翻すようなことだけはしてはならぬぞ」
「はっ、そのお言葉、肝に銘じることといたしましょう」
かくして上野の酒井将監一行との対面も果たし、元信の長い一日も終わりを迎えるのであった。
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