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第3章 流転輪廻の章
第39話 親類衆・松平元信
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婚儀を明日に控えた瀬名姫は早朝から侍女に手伝わせ、美しい黒髪をすかせていた。ここ数日は晴れが続き、木の芽や草の芽が萌え出でる冬萌の言葉が似あう気候である。
窓を開ければ、軒先からは日ノ本一の富士山を眺望できるに違いない。そう、瀬名姫は想っていた。
「姫様」
「父上がお越しになられたのでしょう。ここへ通してくださいな」
来客を取り次いできた侍女が誰が来訪したのかを告げるより先に、誰が訪ねてきたのかを見抜いてしまった瀬名姫。もう十八年も娘をしていると、父の心境までもが手に取るように分かるのである。
「お瀬名、いよいよ明日は松平次郎三郎殿が元へ嫁ぐこととなる。気分のほどはいかがであるか」
「ふふふ。父上、そう心配なさらずとも瀬名は達者でございます。母上が丈夫な体に産んでくださいましたゆえ」
「左様か。それならば良かった。父は姫が婚儀を前に体調を崩してしまうことはないかと気が気でなかった」
政務を担う人物としては今川治部太輔からも頼りにされる関口刑部少輔という男。そんな彼も家族、こと娘のこととなると一人の子煩悩な父親であった。
明日の夜には花嫁・瀬名姫は輿に乗り、嫁入り道具の品々とともに花婿である元信の屋敷へ向かう。婚儀が待ち遠しい半面、どこか緊張もする。そんな様子の父を見て、姫はクスリと笑う。
「父上、落ち着きなされませ。瀬名は次郎三郎殿が妻である以前に、父上の娘にございます。時折、お屋敷へ顔を出してくださいませ」
「う、うむ。それもそうか。されど、訪問の折には屋敷の主である松平次郎三郎殿にもあらかじめ日時を伝えておかねばならぬな」
「次郎三郎殿も父上のことを慕っておられます。父より書状が届いたと知れば、目を輝かせて文をお読みになられることでしょう」
父の心配を解きほぐす娘。父は娘の体調を気遣い、緊張しているようならば緊張をほぐしてやろうなどと考えていたが、今の状況はまるで逆であった。
「お瀬名、感謝するぞ。これにて父も案ずることなく、姫を松平家へと送り出すことができよう」
「それはようございました。瀬名も松平のお家で妻として立派に務めて参りまする」
「その意気じゃ。じゃが、無理だけはするでないぞ。お家のことも大事であるが、体も労わるのじゃぞ」
「はい、父上。お心遣い感謝いたします」
深窓の令嬢という言葉そのものの娘が嫁ぐ。それをしかと見送ることも父としての務め、そこからの両家の架け橋となるべく奔走することが以後の務めなのだ。そう、父は自らに言い聞かせているかのような表情をしていた。
そうして迎えた祝言の日。その日の夜、松平次郎三郎元信の屋敷へと瀬名姫の乗った輿が入っていく。
十一年前に執り行われた松平広忠と田原御前の祝言よりも平和、かつ煌びやかな祝言となり、それを聞いた松平家臣は口裏を合わせていたかのように皆が涙した。
そうして式を終えると元信と瀬名姫は身を清めて寝所へと入っていく。
「次郎三郎さま。不束者ではございますが、何卒よろしくお願い申し上げます」
「それはわしとて同じこと。姫、こちらこそよろしくお頼みいたす」
互いに深々と一礼するも、いまだに夫婦になった感覚に慣れない二人。まさか初めて会った日には、こうして夫婦になるなどとは考えたこともなかった。
しかし、二人に共通していたのはなんともいえない、大きな幸福感で満たされていたということ。元信も瀬名姫も、青春真っただ中。充足感、幸福感に満たされながら夜を明かしていく。
翌日は白装束で過ごし、三日目にしてようやく色柄の着物に改める。俗にいう、お色直しである。それから花嫁は花婿の親族たちと対面することになるが、駿府にて会える元信の親族は一人しかいなかった。
そう、元信の生母・於大の方の実母、源応尼である。元信の屋敷へと呼び出された源応尼は御年六十五。住まいより屋敷へ来るのも、徒歩ではなく輿に乗ってようやくといったところであった。
「おばば様、次郎三郎にございまする」
「おおっ、竹千代殿も大きゅうなられましたなぁ……!諱に駿河の御屋形様より一字を拝領したと聞き及んでおります」
「はいっ!元信の『元』の一字は太守様より賜りました、大切な一字にございます!」
長らく訪ねることもできずにいた祖母へ、新年の挨拶もかねて近況報告をしていく。その折の元信の瞳の輝きようは婚儀の時以上であった。
「おばば様。此度、元信はこちらにおわす関口刑部少輔氏純殿が娘、瀬名姫を正室としてお迎えいたしました」
「おおっ……!早くも生涯の伴侶までお決まりになりましたか……!おめでとうございます……っ!」
感極まった源応尼の瞳から一つ、また一つと涙が床へとこぼれていく。自分のことを自分以上に喜んでくれる家族に恵まれたこと、それ自体が元信は何よりも喜ばしかった。
「源応尼さま。松平元信が妻、瀬名と申します。以後、よろしゅうお頼み申します」
「瀬名さま、ご丁寧なあいさつ痛み入ります。今後とも、次郎三郎殿を支えてやってくださいまし」
「はい。それは、もう……!」
花嫁と花婿の祖母。この二人は当初、堅苦しい空気が流れていたものの、徐々に打ち解けていく。教養のある二人の話題はいつしか『源氏物語』や『枕草子』などの文学面での話へ推移していった。
楽し気に本の話をしている瀬名姫と源応尼の姿に、元信は一歩引いた場所からニコニコと笑みをたたえながら見守っていた。自分の家族と、花嫁が打ち解けている。それだけで、胸につっかえていた不安が取れていくような思いであった。
「そうじゃ、次郎三郎殿」
「はい、何でございましょうか」
「祝言を挙げたことじゃし、太守様に願い出て三河岡崎へ帰省してはいかがか。墓前にて壮健に過ごして居ることを伝え、領内を巡検して国元の家臣らと久々に会ってみるのもよかろう」
「墓参にございますか。駿府へ来て以来、一度も三河へ帰国しておりませなんだ。おばば様の勧めに従い、太守様に願い出てみるとしましょう」
「そうなされるがよい」
瀬名姫こと駿河御前との婚儀をつつがなく終えた元信は翌日、駿府館へと登城。滞りなく婚儀を済ませたことの報告もかねて、岡崎への帰省を願い出るためである。
「殿!お供にはこの、阿部善九郎正勝をお連れくださいませ!」
「おお、徳千代――ではなく、善九郎正勝。よかろう、供をいたせ」
「ははっ!」
竹千代として駿府にやって来てより近侍として仕え続けている阿部徳千代。彼はこの年元服し、阿部善九郎正勝と名乗っている。
「そういえば、善九郎は宴会の席にて今川家臣の江原三右衛門定次殿に気に入られておったな」
「はい、某が殿の傍に近侍する姿を見て感心したとのことで、目をかけていただいております」
「それは良かったではないか。ひょっとすると、縁談などが持ち込まれるやもしれぬぞ」
「殿、さすがにそれはなかろうかと」
「さて、そうかのう?」
道中、善九郎正勝をからかいながら登城した元信は、駿府館にて今川治部太輔義元と対面することが叶った。その場には嫡子である五郎氏真も同席しており、何やら親子で話をしていたらしい。
「太守様。五郎さま。松平次郎三郎元信、ただいま参上いたしました」
「うむ、よくぞ参った。次郎三郎のことゆえ、今日明日中には駿府館へやって来るであろうと思うておったぞ」
「さすがは太守様にございます」
上座にて脇息に寄りかかり、上機嫌な様子の今川義元。その傍らで姿勢を崩さずに正座している今川氏真。
両名の前にて、元信は瀬名姫との婚儀を済ませたこと。そして、墓参のために三河へ帰省したい旨を伝えた。
「ほほう、三河岡崎へ立ち戻り、領内の巡検と墓参をしたいと申すか」
「はい。長らく家臣らと言葉をかわすことはおろか、顔すら見れておりませぬ。これでは、三河の叛乱鎮定や尾張攻めの先鋒を承った折に松平衆がまとまりを欠く事態にもなりかねませぬ」
「それゆえに、墓参と称して帰省し、領内を巡検。家臣らとも交流を深めたいというわけじゃな」
義元からの言葉に口を横一文字に結んで頷く元信。そこへ、両者のやり取りを傍で聞いていた若人が口を開いた。
「父上、次郎三郎が本国三河へ立ち戻ること、お許しになられては?」
「うむ、許したいところではある。じゃが、今の三河は危険極まりない。ゆえに、許すか否かを迷っておるのよ」
「されど、三河統治を盤石なものとするためにも、一度次郎三郎を帰国させるのは良いのではないかと」
五郎氏真からの言葉に、義元は瞼を閉じ、堅く口を結んだまま考え込む素振りを見せる。しかし、その素振りも長くは続かず、次の瞬間には口角を上げ、笑みを浮かべていた。
「よかろう、次郎三郎が三河岡崎へ帰国することを認めようぞ」
「ははっ、ありがとう存じます!」
「されど、帰国はお許が父の命日前後といたせ。さすれば、父の法要も行えようゆえな」
「承知いたしました。その頃までには三河での忩劇も収まっておればよいのですが」
年が明けて弘治二年に入ってなお、一向に収まる気配のない三河忩劇。むしろ、収まるどころか激化しているほどなのである。
「先の滝脇松平と大給松平の間で起こった戦いについては存じておろう」
「はい。反旗を翻した大給松平親乗との合戦にて松平乗遠殿の嫡男・松平正乗殿が討ち死にし、松平乗遠殿は意気消沈しておると聞き及んでおります」
反今川の大給松平家と親今川の滝脇松平家。この両家が合戦に及び、滝脇松平家当主の嫡男が戦死する事態となったのだ。この松平家同士の抗争は元信にとっても頭の痛い問題であった。
大給松平家は宗家への対抗意識がどの松平家よりも強く、宗家が右を向けば左を向き、宗家が左を向けば右を向くような家なのである。
「さらには、そちの松平宗家でも離反者が出たであろう」
「まこと面目次第もございませぬ。離反した酒井将監忠尚につきましては、岡崎におる老臣どもが説得を続けております。駿府におります酒井左衛門尉忠次よりも説得の文を送らせておりまする」
「たしか、酒井左衛門尉は酒井将監の甥にあたる者であったな」
「はい。ゆえに、同族の言葉なら聞く耳を持つのではないかと思い、説得を進めさせておりまする」
松平同士の争いに、重臣の離反。新年早々、松平宗家の主・元信の頭を痛める出来事への対応が大挙して押し寄せていた。
「まこと、次郎三郎も大変にございますな。ははは」
「これ、五郎。そちも笑っておれる余裕などあるまい。そちが予の後を継げば、こうした従わぬ国衆への対応を考え、早急に手を打たねばならぬようになるのじゃぞ」
父からの言葉に苦い顔をする今川五郎氏真。松平領国で起こったことに頭を痛める元信にとって、目の前の父子のやり取りはクスリと笑えるものであった。
「次郎三郎!」
「はい!いかがなされましたか、五郎さま」
「うむ、この五郎が当主となりし折に従わぬ者が出たならば、次郎三郎が討伐してはくれぬか」
「それは言うまでもなき事。五郎さまは主君にございますゆえ、主命とあらばこの次郎三郎が先鋒となり、敵を討ち果たしてご覧に入れまする」
そういう元信の言葉を頼もしく思ったのか、氏真の表情は一気に明るくなり、喜色満面であった。ただし、義元の表情はその真逆に推移していた。
「五郎!」
「はっ、はいっ!」
「このたわけめ!次郎三郎は忠義者ゆえ、かように答える。それを分かっていて尋ねるとは次郎三郎を侮っておる!」
「い、いえ!そのようなことは……!」
「いや、心の内では軽んじておろう。それゆえに、丸投げするという安易な考えが浮かんでくるのじゃ。まったくお許は鍛錬が足らぬわ!」
その瞬間、元信の眼前にて雷が炸裂した。父の落とした雷に身を焦がされた息子はしょげかえり、見ている元信の方がかえって申し訳ないと思ってしまうほどであった。
「よいか、領国内での叛乱は家臣に任せきりにして良いものではない。それでは一時は鎮められようとも禍根を残すこととなろう。君臣心を一にして事態に当たらねば話にならぬもの。さよう心得るべし!」
「父上、申し訳ございませぬ!この五郎、おっしゃる通り鍛錬も思慮も足りませなんだ……!」
「ならば、今日よりさらなる鍛錬に打ち込み、思慮深くなるために勉学に励め。近ごろようやく励むようになったと聞くが、まだまだじゃ。これまで以上に励むのじゃぞ」
「そ、そういたします……!」
かつて義元より長文の教訓状を送られた氏真。彼はまた、父より大事な教訓を一つ教わったような心地がしたのであった。
それは、同席している元信とて同じことであった――
窓を開ければ、軒先からは日ノ本一の富士山を眺望できるに違いない。そう、瀬名姫は想っていた。
「姫様」
「父上がお越しになられたのでしょう。ここへ通してくださいな」
来客を取り次いできた侍女が誰が来訪したのかを告げるより先に、誰が訪ねてきたのかを見抜いてしまった瀬名姫。もう十八年も娘をしていると、父の心境までもが手に取るように分かるのである。
「お瀬名、いよいよ明日は松平次郎三郎殿が元へ嫁ぐこととなる。気分のほどはいかがであるか」
「ふふふ。父上、そう心配なさらずとも瀬名は達者でございます。母上が丈夫な体に産んでくださいましたゆえ」
「左様か。それならば良かった。父は姫が婚儀を前に体調を崩してしまうことはないかと気が気でなかった」
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「父上、落ち着きなされませ。瀬名は次郎三郎殿が妻である以前に、父上の娘にございます。時折、お屋敷へ顔を出してくださいませ」
「う、うむ。それもそうか。されど、訪問の折には屋敷の主である松平次郎三郎殿にもあらかじめ日時を伝えておかねばならぬな」
「次郎三郎殿も父上のことを慕っておられます。父より書状が届いたと知れば、目を輝かせて文をお読みになられることでしょう」
父の心配を解きほぐす娘。父は娘の体調を気遣い、緊張しているようならば緊張をほぐしてやろうなどと考えていたが、今の状況はまるで逆であった。
「お瀬名、感謝するぞ。これにて父も案ずることなく、姫を松平家へと送り出すことができよう」
「それはようございました。瀬名も松平のお家で妻として立派に務めて参りまする」
「その意気じゃ。じゃが、無理だけはするでないぞ。お家のことも大事であるが、体も労わるのじゃぞ」
「はい、父上。お心遣い感謝いたします」
深窓の令嬢という言葉そのものの娘が嫁ぐ。それをしかと見送ることも父としての務め、そこからの両家の架け橋となるべく奔走することが以後の務めなのだ。そう、父は自らに言い聞かせているかのような表情をしていた。
そうして迎えた祝言の日。その日の夜、松平次郎三郎元信の屋敷へと瀬名姫の乗った輿が入っていく。
十一年前に執り行われた松平広忠と田原御前の祝言よりも平和、かつ煌びやかな祝言となり、それを聞いた松平家臣は口裏を合わせていたかのように皆が涙した。
そうして式を終えると元信と瀬名姫は身を清めて寝所へと入っていく。
「次郎三郎さま。不束者ではございますが、何卒よろしくお願い申し上げます」
「それはわしとて同じこと。姫、こちらこそよろしくお頼みいたす」
互いに深々と一礼するも、いまだに夫婦になった感覚に慣れない二人。まさか初めて会った日には、こうして夫婦になるなどとは考えたこともなかった。
しかし、二人に共通していたのはなんともいえない、大きな幸福感で満たされていたということ。元信も瀬名姫も、青春真っただ中。充足感、幸福感に満たされながら夜を明かしていく。
翌日は白装束で過ごし、三日目にしてようやく色柄の着物に改める。俗にいう、お色直しである。それから花嫁は花婿の親族たちと対面することになるが、駿府にて会える元信の親族は一人しかいなかった。
そう、元信の生母・於大の方の実母、源応尼である。元信の屋敷へと呼び出された源応尼は御年六十五。住まいより屋敷へ来るのも、徒歩ではなく輿に乗ってようやくといったところであった。
「おばば様、次郎三郎にございまする」
「おおっ、竹千代殿も大きゅうなられましたなぁ……!諱に駿河の御屋形様より一字を拝領したと聞き及んでおります」
「はいっ!元信の『元』の一字は太守様より賜りました、大切な一字にございます!」
長らく訪ねることもできずにいた祖母へ、新年の挨拶もかねて近況報告をしていく。その折の元信の瞳の輝きようは婚儀の時以上であった。
「おばば様。此度、元信はこちらにおわす関口刑部少輔氏純殿が娘、瀬名姫を正室としてお迎えいたしました」
「おおっ……!早くも生涯の伴侶までお決まりになりましたか……!おめでとうございます……っ!」
感極まった源応尼の瞳から一つ、また一つと涙が床へとこぼれていく。自分のことを自分以上に喜んでくれる家族に恵まれたこと、それ自体が元信は何よりも喜ばしかった。
「源応尼さま。松平元信が妻、瀬名と申します。以後、よろしゅうお頼み申します」
「瀬名さま、ご丁寧なあいさつ痛み入ります。今後とも、次郎三郎殿を支えてやってくださいまし」
「はい。それは、もう……!」
花嫁と花婿の祖母。この二人は当初、堅苦しい空気が流れていたものの、徐々に打ち解けていく。教養のある二人の話題はいつしか『源氏物語』や『枕草子』などの文学面での話へ推移していった。
楽し気に本の話をしている瀬名姫と源応尼の姿に、元信は一歩引いた場所からニコニコと笑みをたたえながら見守っていた。自分の家族と、花嫁が打ち解けている。それだけで、胸につっかえていた不安が取れていくような思いであった。
「そうじゃ、次郎三郎殿」
「はい、何でございましょうか」
「祝言を挙げたことじゃし、太守様に願い出て三河岡崎へ帰省してはいかがか。墓前にて壮健に過ごして居ることを伝え、領内を巡検して国元の家臣らと久々に会ってみるのもよかろう」
「墓参にございますか。駿府へ来て以来、一度も三河へ帰国しておりませなんだ。おばば様の勧めに従い、太守様に願い出てみるとしましょう」
「そうなされるがよい」
瀬名姫こと駿河御前との婚儀をつつがなく終えた元信は翌日、駿府館へと登城。滞りなく婚儀を済ませたことの報告もかねて、岡崎への帰省を願い出るためである。
「殿!お供にはこの、阿部善九郎正勝をお連れくださいませ!」
「おお、徳千代――ではなく、善九郎正勝。よかろう、供をいたせ」
「ははっ!」
竹千代として駿府にやって来てより近侍として仕え続けている阿部徳千代。彼はこの年元服し、阿部善九郎正勝と名乗っている。
「そういえば、善九郎は宴会の席にて今川家臣の江原三右衛門定次殿に気に入られておったな」
「はい、某が殿の傍に近侍する姿を見て感心したとのことで、目をかけていただいております」
「それは良かったではないか。ひょっとすると、縁談などが持ち込まれるやもしれぬぞ」
「殿、さすがにそれはなかろうかと」
「さて、そうかのう?」
道中、善九郎正勝をからかいながら登城した元信は、駿府館にて今川治部太輔義元と対面することが叶った。その場には嫡子である五郎氏真も同席しており、何やら親子で話をしていたらしい。
「太守様。五郎さま。松平次郎三郎元信、ただいま参上いたしました」
「うむ、よくぞ参った。次郎三郎のことゆえ、今日明日中には駿府館へやって来るであろうと思うておったぞ」
「さすがは太守様にございます」
上座にて脇息に寄りかかり、上機嫌な様子の今川義元。その傍らで姿勢を崩さずに正座している今川氏真。
両名の前にて、元信は瀬名姫との婚儀を済ませたこと。そして、墓参のために三河へ帰省したい旨を伝えた。
「ほほう、三河岡崎へ立ち戻り、領内の巡検と墓参をしたいと申すか」
「はい。長らく家臣らと言葉をかわすことはおろか、顔すら見れておりませぬ。これでは、三河の叛乱鎮定や尾張攻めの先鋒を承った折に松平衆がまとまりを欠く事態にもなりかねませぬ」
「それゆえに、墓参と称して帰省し、領内を巡検。家臣らとも交流を深めたいというわけじゃな」
義元からの言葉に口を横一文字に結んで頷く元信。そこへ、両者のやり取りを傍で聞いていた若人が口を開いた。
「父上、次郎三郎が本国三河へ立ち戻ること、お許しになられては?」
「うむ、許したいところではある。じゃが、今の三河は危険極まりない。ゆえに、許すか否かを迷っておるのよ」
「されど、三河統治を盤石なものとするためにも、一度次郎三郎を帰国させるのは良いのではないかと」
五郎氏真からの言葉に、義元は瞼を閉じ、堅く口を結んだまま考え込む素振りを見せる。しかし、その素振りも長くは続かず、次の瞬間には口角を上げ、笑みを浮かべていた。
「よかろう、次郎三郎が三河岡崎へ帰国することを認めようぞ」
「ははっ、ありがとう存じます!」
「されど、帰国はお許が父の命日前後といたせ。さすれば、父の法要も行えようゆえな」
「承知いたしました。その頃までには三河での忩劇も収まっておればよいのですが」
年が明けて弘治二年に入ってなお、一向に収まる気配のない三河忩劇。むしろ、収まるどころか激化しているほどなのである。
「先の滝脇松平と大給松平の間で起こった戦いについては存じておろう」
「はい。反旗を翻した大給松平親乗との合戦にて松平乗遠殿の嫡男・松平正乗殿が討ち死にし、松平乗遠殿は意気消沈しておると聞き及んでおります」
反今川の大給松平家と親今川の滝脇松平家。この両家が合戦に及び、滝脇松平家当主の嫡男が戦死する事態となったのだ。この松平家同士の抗争は元信にとっても頭の痛い問題であった。
大給松平家は宗家への対抗意識がどの松平家よりも強く、宗家が右を向けば左を向き、宗家が左を向けば右を向くような家なのである。
「さらには、そちの松平宗家でも離反者が出たであろう」
「まこと面目次第もございませぬ。離反した酒井将監忠尚につきましては、岡崎におる老臣どもが説得を続けております。駿府におります酒井左衛門尉忠次よりも説得の文を送らせておりまする」
「たしか、酒井左衛門尉は酒井将監の甥にあたる者であったな」
「はい。ゆえに、同族の言葉なら聞く耳を持つのではないかと思い、説得を進めさせておりまする」
松平同士の争いに、重臣の離反。新年早々、松平宗家の主・元信の頭を痛める出来事への対応が大挙して押し寄せていた。
「まこと、次郎三郎も大変にございますな。ははは」
「これ、五郎。そちも笑っておれる余裕などあるまい。そちが予の後を継げば、こうした従わぬ国衆への対応を考え、早急に手を打たねばならぬようになるのじゃぞ」
父からの言葉に苦い顔をする今川五郎氏真。松平領国で起こったことに頭を痛める元信にとって、目の前の父子のやり取りはクスリと笑えるものであった。
「次郎三郎!」
「はい!いかがなされましたか、五郎さま」
「うむ、この五郎が当主となりし折に従わぬ者が出たならば、次郎三郎が討伐してはくれぬか」
「それは言うまでもなき事。五郎さまは主君にございますゆえ、主命とあらばこの次郎三郎が先鋒となり、敵を討ち果たしてご覧に入れまする」
そういう元信の言葉を頼もしく思ったのか、氏真の表情は一気に明るくなり、喜色満面であった。ただし、義元の表情はその真逆に推移していた。
「五郎!」
「はっ、はいっ!」
「このたわけめ!次郎三郎は忠義者ゆえ、かように答える。それを分かっていて尋ねるとは次郎三郎を侮っておる!」
「い、いえ!そのようなことは……!」
「いや、心の内では軽んじておろう。それゆえに、丸投げするという安易な考えが浮かんでくるのじゃ。まったくお許は鍛錬が足らぬわ!」
その瞬間、元信の眼前にて雷が炸裂した。父の落とした雷に身を焦がされた息子はしょげかえり、見ている元信の方がかえって申し訳ないと思ってしまうほどであった。
「よいか、領国内での叛乱は家臣に任せきりにして良いものではない。それでは一時は鎮められようとも禍根を残すこととなろう。君臣心を一にして事態に当たらねば話にならぬもの。さよう心得るべし!」
「父上、申し訳ございませぬ!この五郎、おっしゃる通り鍛錬も思慮も足りませなんだ……!」
「ならば、今日よりさらなる鍛錬に打ち込み、思慮深くなるために勉学に励め。近ごろようやく励むようになったと聞くが、まだまだじゃ。これまで以上に励むのじゃぞ」
「そ、そういたします……!」
かつて義元より長文の教訓状を送られた氏真。彼はまた、父より大事な教訓を一つ教わったような心地がしたのであった。
それは、同席している元信とて同じことであった――
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この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
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