不屈の葵

ヌマサン

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第2章 水沫泡焔の章

第22話 書物が紡ぐ知識の輪

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 源応尼の元で水野家の人々、自らの母親のことを聞くことができた竹千代。満足げに庵を後にし、仮寓へ帰着。留守を守っていた酒井雅楽助政家、酒井左衛門尉忠次らの出迎えを受け、その日は眠りについた。

 明けて、まだまだ寒さが厳しい冬の朝。呼気を白く染められながらむくりと起き上がる。

 この日は臨済寺へと赴くこととなっていた。竹千代はこの日、酒井雅楽助と石川与七郎数正を伴って屋敷を出る。

「竹千代さま、お足元にお気をつけあそばせ」

「うむ」

 地面をすっぽり覆い隠してしまった新雪に足を滑らせてはと酒井雅楽助がすぐさま指摘。これを素直に聞き入れた竹千代は、やはり素直な童であった。

「与七郎、ここか」

「はい、ここが今川の軍師ともいわれる太原崇孚和尚がおられる臨済寺にございます」

 竹千代主従が訪れた臨済寺は一昨日の御殿と昨日の庵を足して二で除したような造りであった。豪華絢爛という言葉はまったく当てはまらず、さりとて飾り気がないわけではなく、荘厳な雰囲気が建物全体からにじみ出ている。

「松平竹千代さま。お越しをお待ちしておりました」

 門の前で竹千代らを出迎えた若い修行僧に連れられ、寺の中へ歩みを進めていく。明かりの乏しい廊下を奥へと進み、黒染めの法衣をまとう老僧のいる間へ。

「竹千代殿。さぁ、こちらへ」

 泰然自若を体現した老僧の声に、竹千代は自然と体が動いていた。別段声を荒げているわけでもないのに、相手に有無を言わせない確かな凄みが感じられる。

「竹千代にござりまする。よろしゅうお頼み申します」

「うむ、太原崇孚じゃ。常日頃の手習いはそなたの祖母、源応尼が相手をしよう。されど、駿府におる折には拙僧が教えて進ぜよう。まずは、その文机をこちらへ」

「はい」

 部屋の隅に置かれていた粗末な文机。これを運んでくると、竹千代は自らと太原崇孚の間に机を配置。机を挟んで向かい合う形を取り、太原崇孚の次の言葉を待っていた。

「竹千代殿、尾張での人質生活において手習いはいたしたか」

「はい。加藤図書より文字の読み書き、算術や熱田のことなどを教わりました」

「左様か。然らば、論語などは教わらなんだか」

「論語は岡崎におる頃、おばば様――随念院様より教わりました」

 随念院というのは竹千代の大叔母、先代・広忠にとって叔母にあたる女性。かつ、竹千代が不在の間、岡崎の政務を松平重臣らとともに担っている人物。

 太原崇孚にとって、随念院とはそういった認識であったのだが、よもや竹千代に論語を学ばせていたとは、いささか意表を突かれた恰好となる。

「ほう、論語を学んでおったとは、ちと意外であった。では、孔子の弟子に子貢という人があったことを存じておるかな」

「シコウ……?」

「さすがに知らなんだか。ここでは人の名は横に置いておくとする。本題はその子貢が孔子に政治の要諦、すなわち最も大切なことは何かと訊ねた。すると孔子は『食を足し、兵を足し、民これを信ず』と答えたそうな」

 子貢の名はちんぷんかんぷんといった様子の竹千代であったが、太原崇孚が語る内容に興味津々らしく、知識に飢えた虎のような眼で目の前の老僧をじっと見つめていた。

 ここまで孔子の話に食いついてくる九歳児は珍しい。かように思いながら太原崇孚は話し続ける。

「孔子が申したことは、およそ国家には食、兵、信がなければならぬと申したわけじゃ。ここまでは分かるかな?」

「はい。して、その子貢と申すお方は孔子の言葉を聞き、なんと答えたのでございましょう」

「うむ、それはこうじゃ。もし、政治に食、兵、信の三ツを備えられぬ場合にはどれを捨てたがよいか、と問いかけたそうな」

 このあたりから竹千代は真剣に考えている様子であった。恐らく、彼の脳内では自分であれば食、兵、信のいずれを切り捨てるであろうか。これを子供ながらに情報を整理しながら考えているのだろう。

「食は言うまでもなく食べ物、兵は戦の備え、信は人々の信じあう心とでもいうべきものじゃ。さて、竹千代殿。お主ならば、どれを捨てるか。これを考えてみるがよい」

 太原崇孚に改めて言われるまでもなく、そのことについて思案する竹千代。さすがに即答いたしかねる、そんな様子に太原崇孚は試みに助け舟を出してみた。

「竹千代殿は松平家の当主であったな」

「は、はい」

「松平家で考えてみると思案しやすのではなかろうか。いかがじゃ?」

「ならば、思いつきました」

「なに、もう考えついたと申すか。よろしい、申してみよ」

 三河国岡崎から来た九歳の松平家当主がどのような答えを導き出したというのか。太原崇孚もまた、興味津々といった様子であった。

「竹千代ならば兵を捨てまする」

「ほう、この戦乱の世で兵を捨てると申すか」

「はい。食べ物がなければ人は生きていけませぬ。そして、人を信じれなくなった者もまた、死んだも同然と心得まする。されど、武器を捨てても生きてはいけまする。ゆえに、兵を捨てると申し上げました」

「孔子と同じ答えであったか。うむ、見事じゃ。さて、子貢は孔子にまた訊ねた。残った食と信の二つのうち、どうしても一つを捨てなければならない時、何を捨てたら良いかとな。竹千代ならばいかがする」

 これまた意地の悪い問いであった。さすがの竹千代は困るだろう。そう考えていた太原崇孚であったが、竹千代の返事は思いのほか早かった。

「信を捨てまする。食がなければ人は生きていけませぬゆえ」

「左様か。孔子はのう、食を捨てよとおっしゃった」

「信ではなく、食を捨てる……」

 さすがの竹千代も理解しかねる様子であった。しかし、諦めることなく思考し続ける様子に、太原崇孚はしばらくの間見守り続けることに。ただ、そう簡単に答えにたどり着けるはずもなく、竹千代の表情に困惑の色が濃くなってゆく。

「では、仮に竹千代が言うように信を捨てて食だけ残ったとすればどうなるか、考えてみるとしよう」

「はい」

「人を信じる心を失い、そこに食だけが残る。危うい事態とは思わぬか?」

 太原崇孚より発された言葉の意味を捉えかねた様子の竹千代。己で考えることも大切。されど、明日まで考えておくように、というのも酷なように感じてしまう。

「分かりました。人を信じられぬのに食だけ残されたとあっては、争いが起こりまする。それでは最初に兵を捨てた意味がありませぬ」

「ほう、自力でたどり着くとは見事じゃ。うむ、それこそが乱世と言えよう。よくぞここまで考え抜かれた」

 一切遠慮することなく、竹千代を褒め殺しにかかる太原崇孚。褒められる竹千代もまんざらでもない様子であった。

 その日の講義は孔子の論語をもとに続けられ、竹千代は政の要ともいえる考え方だけでなく、古人の言葉から多くの知恵を学んだ。

 竹千代は何より、書を読み、己の血肉とすることの何たるかを教わったような心地がしていた。そうした充足感を味わいながら歩む家路は発見に満ち、すべてが輝いて見えるよう――

「竹千代さま、太原崇孚殿から多くのことを学べたようにございますな」

「そう見えるか?」

「はい。この雅楽助にはそのように見受けられまする。これ、与七郎からはどのように映っておるか」

「某も雅楽助殿と同じにござりまする。殿はほんの数刻で更なる成長を遂げられた」

 酒井雅楽助と石川与七郎から成長したと述べられようとも、当の竹千代にはまったく実感がわかない。しかし、この実直な二人がそういうのであればそうなのだろうと思うことにする。

 竹千代が酒井雅楽助、石川与七郎を伴い臨済寺から少将之宮の町にある屋敷へ戻ってくる道中、酒井雅楽助から形原松平家の左近が人質に出されている話などを聞かされていた。

 形原松平家は松平広忠が於大の方と離縁し、水野との縁を切った折も水野下野守の同母妹にあたる於丈の方を離縁しなかった松平家広が当主を務める家である。

 そんな松平家広の次男にあたる男子こそが左近というわけである。そんな人物が今川家に人質に出されているとの話を小耳に挟み、主君である竹千代に共有したということらしかった。

 道中に松平が関係することもそうでないことも話し合いながら帰宅した竹千代一行。そんな彼らを慌てた様子で出迎えたのは、酒井左衛門尉であった。

「左衛門尉、いかがした」

「おお、殿。お戻りになられましたか。実は、先ほど関口刑部少輔氏純様が御息女を伴って参られ、殿にお会いしたいとのこと」

「そうか。して、御両所は」

「はい。奥の間に通してございます」

 帰宅してみると、来客があった。太原崇孚からの教えを受け、頭が破裂しそうな思いで今度は関口刑部少輔父娘の応対をせねばならぬ。九歳の竹千代にとって、重労働であることは間違いなかった。

 今川家御一家衆である関口氏純が娘を伴って訪問してきたのだ。手習い帰りの服装のまま応対するわけにもいかず、酒井雅楽助政家の指示で慌ただしく着替えを済ませ、支度を整えていく。

「竹千代殿、明けましておめでとうございます」

 竹千代が入室すると、関口刑部少輔から先手必勝とばかりに新年の挨拶をされる。竹千代も驚いた様子であったが、すぐに気持ちを切り替えて新年のあいさつを返していく。

「此度は新年の挨拶がてら、家中で話題に上ることの多い竹千代殿の顔を見に参りました。突然の訪問、平に御容赦くだされ」

 むしろ、竹千代が訪ねていくべきところを、関口刑部少輔自らが訪問してきた。それだけでなく、突然の訪問を詫びられたとあっては、松平重臣らも慌てずにはいられない。

 しかし、当の竹千代は静かに一礼。いまだ緊張がほぐれないのか、たどたどしく言葉を発し、関口刑部少輔と対話していく。

「関口刑部少輔さま、そちらの方が――」

「はい。娘の瀬名にございます。瀬名、ご挨拶を」

「関口刑部少輔が娘、瀬名にございまする。以後、お見知りおきを」

「松平竹千代じゃ。こちらこそ、よろしく」

 竹千代も瀬名姫も緊張しているのか、実に動きがぎこちない。そんな子供らのあいさつを喜色満面の様子で見守る関口刑部少輔が後を引き取った。

「本日はもう一人娘を連れて参る予定だったのですが……」

「ここち悪しと申しておりまして」

「どこかお体が悪いので?」

「長患いというわけでは。ただ、昨日遊びすぎて疲れただけかと」

 関口刑部少輔は心配なさげに振る舞っているが、その実心配そうにしていた。それが竹千代にも瀬名姫にも分かるほどに。

「竹千代さま、書物などはお読みになられまするか?」

「読みます。論語などを少々」

「論語……。瀬名は源氏物語や枕草子などをよく読みます。竹千代さまはお読みになられたことはございますか」

「いいえ。読んだことはございませぬ」

「では、次にお会いする時にお持ちいたしましょう。ぜひ、竹千代さまの感想もうかがってみとうございます」

 本の話題に移るなり表情が生き生きとし始める瀬名姫。その熱に呑まれ前のめりになっていく姫を咳払いで遮ったのは関口刑部少輔であった。

「瀬名」

「は、はい」

 しおれた花のようにシュンとする瀬名姫。怒られたわけではないのだが、感受性が強いのか、怒られたと勘違いしていてもおかしくなかった。

「竹千代殿、娘が失礼をいたしました。あのように取り乱してはしたない……」

「いえ。気にしておりませぬ。それほど源氏物語や枕草子の世界に浸れる姫が羨ましゅうございます」

「そう申していただけると助かります。十二になると申すに、心なき者にございます」

「心なき者とは。姫でなく、竹千代の方が無心なりと申せましょう」

 さりげなく竹千代が瀬名姫を庇った。そう映ったのは瀬名姫だけでなく、姫の父である関口刑部少輔もそうであったのだ。

「竹千代殿は誠によきお人じゃ。必ずや大成なされる御仁だと見ましたぞ」

 とっさに何と答えればよいか分からず、かぶりかぶりする竹千代。そんなしっかりしているようで、可愛げもある少年を気に入ったのか、関口刑部少輔はますます機嫌よくなった。

 まるで酒でも呑んだかのように滑らかに動く関口刑部少輔の舌は目の前の少年が謙遜すればするほど褒めちぎっていく。

 そして、関口刑部少輔が放つ言葉を聞き、傍らで聞いている酒井雅楽助などは感極まって涙を流し始めるほどであった。隣で泣く雅楽助に懐紙《かいし》を渡して涙を拭うよう促すのは酒井左衛門尉。

 傍らで大の大人が泣いているのを横目に、竹千代は関口刑部少輔との会話を続けていった。

 そうして半刻ほど経ち、夜も更けてきた頃合いに関口刑部少輔と瀬名姫の父娘は自邸へ帰ってくのであった――
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