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第1章 夢幻泡影の章
第6話 ありのままの当主に
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岡崎城から矢矧川を越えてきた松平広忠の軍勢を見やりながら、語り合う三名の男の姿があった。彼らが語り合う陣地に翻るのは片喰紋と山桜の家紋。
「酒井将監殿、此度は合力かたじけない」
「むしろ、礼を言わねばならぬのは我らの方。桜井松平をお継ぎになられた松平監物殿自らが参られるとは嬉しい誤算じゃ」
「ははは、この桜井松平の軍勢のみでは岡崎を相手にはできませぬ。されど、三河一のおとな、酒井将監忠尚殿の合力が叶えば、広忠の首などすでに落ちたようなもの」
礼儀正しく振る舞う青年こそ、桜井松平家の当主・松平監物である。二年前の秋に亡くなった桜井松平清定の嫡男として、その後を継いで二年。
新当主としての威厳を示す格好の相手として、水野との同盟が終了した岡崎の松平家に狙いを定めたのである。そこへ協力を申し出たのが上野城主・酒井忠尚であった。
「監物家次殿、昨年お生まれになられたご嫡男へ、戦勝の報せを持ち帰って喜ばせてあげなされ」
「無論じゃ。松平蔵人を追放して二年が経つというに、未だに混乱を鎮められぬ暗君に負ける道理はござらん!知多の戸田を駆逐すれば我が叔父、水野下野が軍勢も押し寄せるであろうで、そうなる前に桜井松平の武威を示しておかねばならぬ」
刀を鳴らし、戦意が体の奥底から沸き立つ松平監物。酒井将監から見れば、若さもあろうが危なっかしいというのが正直なところであった。しかし、若い分、年の功がある酒井将監の言を聞き入れる下地がある。
――広忠殿にも、某や松平蔵人の進言を受け入れる器量があれば。
そう思い、遠く岡崎城を見つめる酒井将監のもとへ、一人の青年が駆け込んでくる。
「酒井様、敵が動き出しましたぞ」
「おお、そうか。広忠殿が動き出したか。孫十郎、迎え撃つぞ」
酒井将監が孫十郎と呼ぶ青年。名を榊原長政という。彼こそ、後に徳川四天王の一人に数えられる榊原康政――の父親なのである。
その日、桜井松平・酒井の連合軍は松平広忠率いる軍勢と合戦に及んだ。
反広忠の者らが織田と結び、松平蔵人はさらに駿河の今川とも手を結ばんとしていると聞き、狼狽した広忠など敵ではない。自信満々に二十歳になった松平の小童を蹴散らさんとした連合軍であったが、八幡神が味方したのは広忠であった。
昨年、愛妻・於大の方との離縁を経験し、意気消沈の松平広忠であったが、決して弱い男ではなかった。向かってくる桜井松平家次、上野の酒井忠尚らを見事、撃破して見せたのである。
「酒井様、立ち止まられては危のうございます」
広畔畷より北へ、居城・上野城への退却途中、馬を止めた酒井将監。そんな老将に敵の追撃を警戒しながら声をかけたのは榊原孫十郎であった。
「のう、孫十郎」
「は、はい!何でござりましょう!」
「ワシは広忠殿を見くびっておったやもしれぬ。信孝殿を追放し、水野との同盟が消滅した今、滅ぶだけじゃと思うて岡崎を見限ったが、ちと時期尚早であったと後悔しておる」
「某のような小者には判断できかねます。そのような小難しい道理は、城にお戻りになられてから……」
孫十郎の言葉を途中まで聞いた酒井将監は、自嘲気味に笑いながら馬に一鞭くれて走り出す。孫十郎も遅れまいと追走し、この戦いは終わりを迎えた。
そして、広畔畷にて見事に勝利を収めた岡崎城は歓声に沸いていた。広間の中央で酒井左衛門尉忠次が海老すくいを踊り、周囲に集まる者たちも囃し立てている。
「殿!実にお見事な戦いぶり、この石川安芸、感服いたしましたぞ!」
「ははは、そなたが岡崎の城を守っておればこそ、この広忠も全身全霊で眼前の敵を粉砕してやれたのだ。まこと、大儀であった」
「もったいなきお言葉……!」
酒を飲みながら泣き出すと長い石川安芸守忠成の相手は、婿である酒井雅楽助政家、石川右馬允康正と石川伝太郎一政ら息子たちに任せ、離席する広忠なのであった。
酒宴では植村新六郎氏明と本多平八郎忠豊が奇妙な音頭をとり、上機嫌で酒を酌み交わしている。そこへ、忠豊の長男・忠高も加わり、さらなる盛り上がりを見せていた。
ちなみに、本多忠豊・忠高父子と酒を酌み交わしている植村新六郎は天文四年、今より十年も昔に起こった森山崩れにおいて、広忠の父・清康を斬った阿部大蔵の一人息子・阿部正豊を討ち取った男。
その折に十六の若武者であった新六郎も今では二十六となり、子持ちになっているのだから、時が立つのは本当に早いものである。
さらには植村新六郎の妹・小夜は本多忠高の正室であり、この二人の間に生まれるのが、後に徳川四天王に数えられる本多平八郎忠勝であるのだが、それはまだまだ後の話。
「殿、此度の戦、まっこと見事にござりましたな!」
「おう、血鑓九郎ではないか」
血鑓九郎と呼ばれたのは先代・清康の頃より松平家に仕える古強者、長坂信政であった。そんな彼は酒を片手に、すでに出来上がってしまっていた。
「その名で呼ばれると、むずがゆいですなぁ。しかし、殿にそう呼ばれるとますます酔ってしまいそうじゃわい」
「ははは、酔うのは酒だけにいたせ。己に酔うては不覚を取ることになろうでな」
「不覚を取ることなど万に一つもありませぬが、肝に銘じておきますぞ!ひっく!」
「お、おう。時すでに遅し、じゃな。おい誰か!この酔っ払いの相手をしてやってくれい!」
未だ足元はふらついていないが、それも時間の問題とみられる血鑓九郎の相手を二十二歳の米津藤蔵常春と鳥居源七郎忠宗に任せた広忠は、気づけば縁側にポツンと腰かけている阿部大蔵の元へやって来ていた。
「これはこれは殿。拙者のような老いぼれなど、わざわざお構いにならずとも」
「よいよい。わしはそなたと話している時が落ち着くのじゃ」
「殿……」
「おう、そなたまで石川安芸のように泣くな。せっかく戦に勝ったというに、湿っぽくなるではないか」
そう言って肩を揺らして笑う広忠。そんな若き主君がわざわざ自分を気遣ってくれることに涙していた。
「殿。不肖の倅は先代、清康公を陣中にて斬りました」
「またその話か!それは幼い頃から何度も聞いたぞ。わしは天地がひっくり返ろうとも大蔵を恨むことはない。誰のおかげで今こうして岡崎の城主としておれるのか、一日たりとて忘れたことはないぞ」
何度も同じ過去の過ちを詫び続ける老人の相手。最初は鬱陶しかったが、十年も続くと不思議と扱いに慣れてくるもので。
「そうじゃ、殿はこれよりの戦、いかがなされるおつもりで?」
「いかがいたすもなにも、松平蔵人の成敗しかあるまい。あの者がおる限り、松平同士のいがみ合いは一向に終わらぬではないか」
「で、ありましょうなぁ」
かたわらでちびちびと酒を呑む阿部大蔵。隣では同じく少量ずつ酒を呑んでいる広忠。十年前、まさか岡崎城でこうして酒を呑んでいるなど、当時の阿部大蔵には想像すらできなかった。
「わしは死ぬまでに必ず安城城を取り戻し、松平も一つにまとめ上げてみせるぞ。そして、我が父が成し遂げたように三河をまとめ、尾張の織田を攻める」
「おお、大きく出られましたな……!」
「左様であるな。じゃが、これくらいのことを言っておかねば、父に見劣りするわしには誰もついて来ぬわ」
「ふふふ、殿は広畔畷へ己の眼を忘れて来られたようじゃ」
「何っ!」
カーッと血が頭にのぼる広忠。だが、阿部大蔵が視線の先にあるものを見て、激情など一瞬で収まっていくのが己でも分かる。
「殿、ここには殿のありのままを好いておる愚直な家臣らが、あれほど残っておりまする。今は亡き清康公のような当主ではなく、殿は殿らしい当主を目指してくだされ」
それはもう大きな目標を掲げた広忠であったが、阿部大蔵のありのままを好いて岡崎に留まっている者らがいることに気づかせてくれる言葉に涙が出そうになる。
「うむ、大蔵の言う通りじゃな。いつまでも父の陰を追っているようではいかぬな。三河を統一して尾張へ――というのは夢物語にせよ、安城城と周辺地域を取り戻すことは必ずや成し遂げて見せようぞ」
前途ある広忠の言葉に、阿部大蔵は孫の成長を喜ぶような、穏やかな表情で何度も、何度も頷くのであった。
しかし、自分なりの当主を目指そうと決意を新たに、反広忠の勢力を駆逐していこうと試みる広忠を時代の波は嘲笑うかのように、厳しい現実を叩きつけてくる。
時は過ぎて七月下旬。三河より遠く離れた駿河と武蔵で、事は起きたのだ。駿河の今川義元がついに北条に奪われた河東を奪還するべく挙兵したのである。それも、ただの挙兵ではない。
関東管領・山内上杉憲政と手を結び、北条氏康を挟撃する作戦を採ったのである。
北条氏康自らが駿河へ出陣し、今川義元率いる今川軍と対峙している最中に、武蔵国の重要拠点・河越城がこれまで犬猿の仲であった山内・扇谷の両上杉家の連合軍によって包囲されてしまった。
事態はそれだけに留まらず、八月十六日に今川軍が北条軍を狐橋の戦いにて打ち破ったのだ。
これにより、西からは駿河奪還に燃える今川軍、東には関東の覇権を取り戻そうと北条氏綱の死を契機に和睦した両上杉という敵を抱えた北条氏康は絶体絶命の危機に立たされる。
今川軍が北条軍を撃破し、駿河東部の奪還も間近という噂は、松平長親の一周忌法要を終えて一息ついていた広忠たちの元にも届いていた――
「今川軍が河東より北条軍を追い払った後は、矛先を三河へ転じてくるであろうか……?雅楽助、そちの意見も聞きたい」
「然らば、もう一つの可能性がござります」
「ほう、それは?」
「このまま駿河東部に留まらず、駿豆国境に進出し、北条領へ侵攻することです」
両上杉によって河越城を囲まれている状況であれば、この機に乗じて伊豆へ攻め込むことは十分にあり得る。
「甲斐の武田晴信も駿河へ入ったと聞く。北条領へ侵攻するのは武田との連合のうえで行う可能性もあるのではないか」
「そうなれば今川の矛先が三河へ転じるのはまだまだ先になりましょう」
東で今川家が北条家と対峙している間、広忠は東へ目を向ける必要はない。となれば東は牛久保の牧野氏の動きだけ警戒していれば良いことになる。
「よし、皆に問いたい。わしは今こそ、織田に奪われたままとなっている安城領を奪還すべきじゃと思う。遠慮のう申せ」
「某は殿の申す通り、織田信秀が美濃にて大敗した今こそ好機!安城攻めの折には、この本多平八郎忠豊にぜひ先鋒を!」
「某も殿の仰る通り、安城を織田より奪い返すことに賛同するぞ!じゃが、戦法は本多ではのうて、我ら大久保党にお任せくだされ!」
本多平八郎忠豊、大久保新八郎忠俊の重臣二名が安城奪還に賛同したことの影響力は大きかった。そのまま誰一人として反対することはなく、ただちに安城領を奪還するべく戦支度に取りかかった。
「左衛門尉、そちは軍勢の配備、いかがいたす」
「ハッ、然らば言上つかまつる」
広忠より松平勢の配置について試みに意見を求められたのは酒井左衛門尉忠次。彼はほんのわずかな時間、考えるそぶりを見せたが、配置を広忠へ示した。
「まず、安城へ出陣するにあたり、警戒せねばならぬのは矢作川の対岸に松平蔵人が拠点を置いた山崎城、上和田城の松平三左衛門忠倫、牛久保の牧野でしょう」
松平信孝が拠点とした山崎城は岡崎南西の大岡郷にあり、安祥城北の碧海台地の端の小高い丘に位置している。
山崎城から岡崎城まで見渡す限り低地が続いているため、見通しが利く。敵の侵入路や兵力が把握できる安祥城の出城として絶妙な立地。岡崎城より安城城を攻める動きを知れば、矢矧川を渡る頃合いを見計らって妨害に出てくることは明白。
「なるほど、山崎城にも安城城攻めを邪魔させぬため、抑えの兵を割かねばならぬか」
「はい。牛久保の牧野への牽制は長沢松平と五井松平に受け持っていただき、上和田には……そうですな、土居の本多広孝殿に牽制の役を担っていただく動きを取りまする」
敵方勢力を上手く牽制することで安心して安城城を攻めることができる酒井左衛門尉の策に、広忠は大きな勇気を得た。
「よし、安城城攻めにあたって大草と能見の松平にも動員をかけ、いずれかに山崎城を牽制させることとしようぞ」
「さすれば、我らは安城城攻めに専念できまするな」
「うむ。じゃが、城攻めも長引かせてはならぬ。短期決戦で臨むことといたそうぞ。そうじゃな、来る九月二十日を目途に支度するとしよう」
活き活きと策を練り、顔を見合わせて笑う広忠と酒井左衛門尉であったが、この時、岡崎城を抜けて尾張方面へ落ちていく人影があることに気づかなかった……
「酒井将監殿、此度は合力かたじけない」
「むしろ、礼を言わねばならぬのは我らの方。桜井松平をお継ぎになられた松平監物殿自らが参られるとは嬉しい誤算じゃ」
「ははは、この桜井松平の軍勢のみでは岡崎を相手にはできませぬ。されど、三河一のおとな、酒井将監忠尚殿の合力が叶えば、広忠の首などすでに落ちたようなもの」
礼儀正しく振る舞う青年こそ、桜井松平家の当主・松平監物である。二年前の秋に亡くなった桜井松平清定の嫡男として、その後を継いで二年。
新当主としての威厳を示す格好の相手として、水野との同盟が終了した岡崎の松平家に狙いを定めたのである。そこへ協力を申し出たのが上野城主・酒井忠尚であった。
「監物家次殿、昨年お生まれになられたご嫡男へ、戦勝の報せを持ち帰って喜ばせてあげなされ」
「無論じゃ。松平蔵人を追放して二年が経つというに、未だに混乱を鎮められぬ暗君に負ける道理はござらん!知多の戸田を駆逐すれば我が叔父、水野下野が軍勢も押し寄せるであろうで、そうなる前に桜井松平の武威を示しておかねばならぬ」
刀を鳴らし、戦意が体の奥底から沸き立つ松平監物。酒井将監から見れば、若さもあろうが危なっかしいというのが正直なところであった。しかし、若い分、年の功がある酒井将監の言を聞き入れる下地がある。
――広忠殿にも、某や松平蔵人の進言を受け入れる器量があれば。
そう思い、遠く岡崎城を見つめる酒井将監のもとへ、一人の青年が駆け込んでくる。
「酒井様、敵が動き出しましたぞ」
「おお、そうか。広忠殿が動き出したか。孫十郎、迎え撃つぞ」
酒井将監が孫十郎と呼ぶ青年。名を榊原長政という。彼こそ、後に徳川四天王の一人に数えられる榊原康政――の父親なのである。
その日、桜井松平・酒井の連合軍は松平広忠率いる軍勢と合戦に及んだ。
反広忠の者らが織田と結び、松平蔵人はさらに駿河の今川とも手を結ばんとしていると聞き、狼狽した広忠など敵ではない。自信満々に二十歳になった松平の小童を蹴散らさんとした連合軍であったが、八幡神が味方したのは広忠であった。
昨年、愛妻・於大の方との離縁を経験し、意気消沈の松平広忠であったが、決して弱い男ではなかった。向かってくる桜井松平家次、上野の酒井忠尚らを見事、撃破して見せたのである。
「酒井様、立ち止まられては危のうございます」
広畔畷より北へ、居城・上野城への退却途中、馬を止めた酒井将監。そんな老将に敵の追撃を警戒しながら声をかけたのは榊原孫十郎であった。
「のう、孫十郎」
「は、はい!何でござりましょう!」
「ワシは広忠殿を見くびっておったやもしれぬ。信孝殿を追放し、水野との同盟が消滅した今、滅ぶだけじゃと思うて岡崎を見限ったが、ちと時期尚早であったと後悔しておる」
「某のような小者には判断できかねます。そのような小難しい道理は、城にお戻りになられてから……」
孫十郎の言葉を途中まで聞いた酒井将監は、自嘲気味に笑いながら馬に一鞭くれて走り出す。孫十郎も遅れまいと追走し、この戦いは終わりを迎えた。
そして、広畔畷にて見事に勝利を収めた岡崎城は歓声に沸いていた。広間の中央で酒井左衛門尉忠次が海老すくいを踊り、周囲に集まる者たちも囃し立てている。
「殿!実にお見事な戦いぶり、この石川安芸、感服いたしましたぞ!」
「ははは、そなたが岡崎の城を守っておればこそ、この広忠も全身全霊で眼前の敵を粉砕してやれたのだ。まこと、大儀であった」
「もったいなきお言葉……!」
酒を飲みながら泣き出すと長い石川安芸守忠成の相手は、婿である酒井雅楽助政家、石川右馬允康正と石川伝太郎一政ら息子たちに任せ、離席する広忠なのであった。
酒宴では植村新六郎氏明と本多平八郎忠豊が奇妙な音頭をとり、上機嫌で酒を酌み交わしている。そこへ、忠豊の長男・忠高も加わり、さらなる盛り上がりを見せていた。
ちなみに、本多忠豊・忠高父子と酒を酌み交わしている植村新六郎は天文四年、今より十年も昔に起こった森山崩れにおいて、広忠の父・清康を斬った阿部大蔵の一人息子・阿部正豊を討ち取った男。
その折に十六の若武者であった新六郎も今では二十六となり、子持ちになっているのだから、時が立つのは本当に早いものである。
さらには植村新六郎の妹・小夜は本多忠高の正室であり、この二人の間に生まれるのが、後に徳川四天王に数えられる本多平八郎忠勝であるのだが、それはまだまだ後の話。
「殿、此度の戦、まっこと見事にござりましたな!」
「おう、血鑓九郎ではないか」
血鑓九郎と呼ばれたのは先代・清康の頃より松平家に仕える古強者、長坂信政であった。そんな彼は酒を片手に、すでに出来上がってしまっていた。
「その名で呼ばれると、むずがゆいですなぁ。しかし、殿にそう呼ばれるとますます酔ってしまいそうじゃわい」
「ははは、酔うのは酒だけにいたせ。己に酔うては不覚を取ることになろうでな」
「不覚を取ることなど万に一つもありませぬが、肝に銘じておきますぞ!ひっく!」
「お、おう。時すでに遅し、じゃな。おい誰か!この酔っ払いの相手をしてやってくれい!」
未だ足元はふらついていないが、それも時間の問題とみられる血鑓九郎の相手を二十二歳の米津藤蔵常春と鳥居源七郎忠宗に任せた広忠は、気づけば縁側にポツンと腰かけている阿部大蔵の元へやって来ていた。
「これはこれは殿。拙者のような老いぼれなど、わざわざお構いにならずとも」
「よいよい。わしはそなたと話している時が落ち着くのじゃ」
「殿……」
「おう、そなたまで石川安芸のように泣くな。せっかく戦に勝ったというに、湿っぽくなるではないか」
そう言って肩を揺らして笑う広忠。そんな若き主君がわざわざ自分を気遣ってくれることに涙していた。
「殿。不肖の倅は先代、清康公を陣中にて斬りました」
「またその話か!それは幼い頃から何度も聞いたぞ。わしは天地がひっくり返ろうとも大蔵を恨むことはない。誰のおかげで今こうして岡崎の城主としておれるのか、一日たりとて忘れたことはないぞ」
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「そうじゃ、殿はこれよりの戦、いかがなされるおつもりで?」
「いかがいたすもなにも、松平蔵人の成敗しかあるまい。あの者がおる限り、松平同士のいがみ合いは一向に終わらぬではないか」
「で、ありましょうなぁ」
かたわらでちびちびと酒を呑む阿部大蔵。隣では同じく少量ずつ酒を呑んでいる広忠。十年前、まさか岡崎城でこうして酒を呑んでいるなど、当時の阿部大蔵には想像すらできなかった。
「わしは死ぬまでに必ず安城城を取り戻し、松平も一つにまとめ上げてみせるぞ。そして、我が父が成し遂げたように三河をまとめ、尾張の織田を攻める」
「おお、大きく出られましたな……!」
「左様であるな。じゃが、これくらいのことを言っておかねば、父に見劣りするわしには誰もついて来ぬわ」
「ふふふ、殿は広畔畷へ己の眼を忘れて来られたようじゃ」
「何っ!」
カーッと血が頭にのぼる広忠。だが、阿部大蔵が視線の先にあるものを見て、激情など一瞬で収まっていくのが己でも分かる。
「殿、ここには殿のありのままを好いておる愚直な家臣らが、あれほど残っておりまする。今は亡き清康公のような当主ではなく、殿は殿らしい当主を目指してくだされ」
それはもう大きな目標を掲げた広忠であったが、阿部大蔵のありのままを好いて岡崎に留まっている者らがいることに気づかせてくれる言葉に涙が出そうになる。
「うむ、大蔵の言う通りじゃな。いつまでも父の陰を追っているようではいかぬな。三河を統一して尾張へ――というのは夢物語にせよ、安城城と周辺地域を取り戻すことは必ずや成し遂げて見せようぞ」
前途ある広忠の言葉に、阿部大蔵は孫の成長を喜ぶような、穏やかな表情で何度も、何度も頷くのであった。
しかし、自分なりの当主を目指そうと決意を新たに、反広忠の勢力を駆逐していこうと試みる広忠を時代の波は嘲笑うかのように、厳しい現実を叩きつけてくる。
時は過ぎて七月下旬。三河より遠く離れた駿河と武蔵で、事は起きたのだ。駿河の今川義元がついに北条に奪われた河東を奪還するべく挙兵したのである。それも、ただの挙兵ではない。
関東管領・山内上杉憲政と手を結び、北条氏康を挟撃する作戦を採ったのである。
北条氏康自らが駿河へ出陣し、今川義元率いる今川軍と対峙している最中に、武蔵国の重要拠点・河越城がこれまで犬猿の仲であった山内・扇谷の両上杉家の連合軍によって包囲されてしまった。
事態はそれだけに留まらず、八月十六日に今川軍が北条軍を狐橋の戦いにて打ち破ったのだ。
これにより、西からは駿河奪還に燃える今川軍、東には関東の覇権を取り戻そうと北条氏綱の死を契機に和睦した両上杉という敵を抱えた北条氏康は絶体絶命の危機に立たされる。
今川軍が北条軍を撃破し、駿河東部の奪還も間近という噂は、松平長親の一周忌法要を終えて一息ついていた広忠たちの元にも届いていた――
「今川軍が河東より北条軍を追い払った後は、矛先を三河へ転じてくるであろうか……?雅楽助、そちの意見も聞きたい」
「然らば、もう一つの可能性がござります」
「ほう、それは?」
「このまま駿河東部に留まらず、駿豆国境に進出し、北条領へ侵攻することです」
両上杉によって河越城を囲まれている状況であれば、この機に乗じて伊豆へ攻め込むことは十分にあり得る。
「甲斐の武田晴信も駿河へ入ったと聞く。北条領へ侵攻するのは武田との連合のうえで行う可能性もあるのではないか」
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「某は殿の申す通り、織田信秀が美濃にて大敗した今こそ好機!安城攻めの折には、この本多平八郎忠豊にぜひ先鋒を!」
「某も殿の仰る通り、安城を織田より奪い返すことに賛同するぞ!じゃが、戦法は本多ではのうて、我ら大久保党にお任せくだされ!」
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「左衛門尉、そちは軍勢の配備、いかがいたす」
「ハッ、然らば言上つかまつる」
広忠より松平勢の配置について試みに意見を求められたのは酒井左衛門尉忠次。彼はほんのわずかな時間、考えるそぶりを見せたが、配置を広忠へ示した。
「まず、安城へ出陣するにあたり、警戒せねばならぬのは矢作川の対岸に松平蔵人が拠点を置いた山崎城、上和田城の松平三左衛門忠倫、牛久保の牧野でしょう」
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「なるほど、山崎城にも安城城攻めを邪魔させぬため、抑えの兵を割かねばならぬか」
「はい。牛久保の牧野への牽制は長沢松平と五井松平に受け持っていただき、上和田には……そうですな、土居の本多広孝殿に牽制の役を担っていただく動きを取りまする」
敵方勢力を上手く牽制することで安心して安城城を攻めることができる酒井左衛門尉の策に、広忠は大きな勇気を得た。
「よし、安城城攻めにあたって大草と能見の松平にも動員をかけ、いずれかに山崎城を牽制させることとしようぞ」
「さすれば、我らは安城城攻めに専念できまするな」
「うむ。じゃが、城攻めも長引かせてはならぬ。短期決戦で臨むことといたそうぞ。そうじゃな、来る九月二十日を目途に支度するとしよう」
活き活きと策を練り、顔を見合わせて笑う広忠と酒井左衛門尉であったが、この時、岡崎城を抜けて尾張方面へ落ちていく人影があることに気づかなかった……
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主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
大陰史記〜出雲国譲りの真相〜
桜小径
歴史・時代
古事記、日本書紀、各国風土記などに遺された神話と魏志倭人伝などの中国史書の記述をもとに邪馬台国、古代出雲、古代倭(ヤマト)の国譲りを描く。予定。序章からお読みくださいませ
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