上 下
18 / 31

17.アッシュの過去

しおりを挟む
  自宅に戻ったフィオナは、洗濯桶を出してきて、クリーム色のワンピースを洗い始めた。

 初日は結局依頼人はホワイトリー侯爵だけだったが、稼いだ額としては十分すぎるほど十分だった。その上、時間が遅くなったからという理由で夕食までご馳走になってしまったのである。
 ここしばらくロイド邸に通ってはいたが夕食は初めてのことで、もちろん最初は固辞したフィオナだったが、アッシュだけでなく、アルバートやロージーも、メルケンにまで熱心に誘われると、さすがに断りきれなかった。

 このときばかりは、マナーを身に付けさせてくれた大聖堂での経験に感謝する。

(夕食、美味しかったな)

 貴族邸で伴される食事としては、わりとシンプルなメニューなのかもしれない。
 鶏肉と野菜のソテーに、じゃがいもの付け合せ、それから黒糖いりのパン。
 貴族の食卓にはステータスのように肉ばかりが並ぶことも多いイメージがあったのだが、ロイド邸では違うようだ。

 鶏肉には胡椒がいっぱい振られていて、それはアッシュの好みなのだろうか。けれど普段あまり香辛料を使わないフィオナには刺激が強すぎた。黙って食べていたが、フィオナの顔にすぐに気付いたアッシュが、アルバートに命じた。

『フィオナの分は次回から、胡椒は少なめで頼む』
『承知いたしました、メルケンに伝えておきます』

 次回から。
 ということは、次回もあるのだろうか。
 そんな表情をしてしまったのだろう、アッシュが当たり前だろうと言わんばかりに口元を曲げる。

『なにか?』
『いえ、何も……』

(そんな、顔をして……!)

 それがまるで一緒にご飯をしてくれないと拗ねるぞと言わんばかりだったから、フィオナは思わず笑ってしまった。フィオナが笑うと、アッシュの表情も優しくなる。

『ありがとうございます。私が飢えないかどうか心配してくださって』
『分かればよい。俺の目が黒いうちは君を飢えさせないよ』

 いっぺんに機嫌を直し、はは、と快活に笑うアッシュはとても若々しく見えた。

(……親切な人ね、伯爵は)

 フィオナは手洗いしていたクリーム色のワンピースに視線を落とす。これもアッシュに買ってもらったものだ。そして……。彼女は大事そうに壁にかけているライトピンク色の夢みたいに可愛らしいワンピースに視線を送る。クリーム色のドレスと一緒にアッシュに買ってもらったもの。

『俺と街を歩く時にはぴったりだろう?』
『このワンピースを着たフィオナと、街でデートしたいな』

(もちろん、冗談よね、伯爵は……)

 それからアッシュと街にいくタイミングもなかったし、今はロイド邸に『占い師』として通うことになったからあのワンピースの出番はない。でも、それでよかったとも思う。

 大切すぎて、着れないから。
 フィオナにとってあのワンピースは、お守りみたいなものに感じられる。

(あるだけで、元気になる)

 彼女は口元を緩めると、クリーム色のワンピースを絞って、干すために立ち上がった。

 ◇◇◇

 『占い』はそれからも順調だった。

 アッシュの見立て通り、モリス侯爵が回してくれる依頼人は皆、ある一定以上の爵位の持ち主が多く、難しい案件もほぼなかった。一番多いのはやはり恋愛関係。それからホワイトリー侯爵のように亡くなった人の想いをみてほしい、というのもある。
 そして、多くても一日三件まで。ホワイトリー侯爵のように心付けを置いていってくれる人も多く、かつてないくらいに稼ぐことができている。
 フィオナの生活は、これ以上ないくらいに充実していた。

(一人一人じっくり視れるようになって……、皆さんの役に立ってるという感じがするのが励みになるな)

 フィオナにとっては自分の『ちから』がちゃんと相手のためになっていると実感できるのが最も嬉しいことだ。
 それこそが母と約束したことだったから。

(今の私のことを、お母さんもきっと喜んでくれるよね?)

 そうして今日も彼女はロイド邸の表門の前に立っていた。

「あれ、君は……?」

 そこで不意に声をかけられて、フィオナは振り返る。
 そこには今まで一度も会ったことのない、赤毛の青年が立っていた。服装はいかにも貴族らしいが、お供はついていないのでそこまで高位貴族ではないかもしれない。

「ああ、その布……、占い師かな?」
「ええ」

 頭から白い布を被っているフィオナは一目で占い師だと分かるだろう。占いが終わり、アッシュと過ごす時間には布を取るけれど、それまでは顔ばれがしないように被っている。

 溌剌とした感じの青年の顔がみるみる青ざめていく。

(……どうされたのかな……?) 

「ロイドに雇われているのか?」
「え? ええ、まぁ、そうですね」

 正確に言うと雇われているのではなく、委託しているのだが、それをこの青年に説明する必要はないだろう。フィオナが頷くと、青年が一歩後ずさる。

「うそだろ、あいつが占い師を……雇うなんて……? そんなに追い詰められているのか?」

(ああ、そうよね……。伯爵は占い師のこと、信じていらっしゃないものね)

 フィオナのことも最初はまったく信じていなかった。

(この方は本当に伯爵のお知り合いに違いないわ)

 赤毛の青年が青ざめたままで、しかしフィオナに会釈はしてくれる。

「不躾だったな。失礼した」
「いえ……」

 踵を返した青年がよろよろと去っていく。

(あれ、伯爵に用事があったわけではないのかな……?)

 おそらくはずみで落ちたのだろう、ネクタイピンが地面に転がっている。
 あっと思った彼女はそれを拾って、青年の背中に声をかける。

「あの、ネクタイピンを落として―――……!」

 瞬時に、目の前が青みがかる。

『ロイド、本当にすまない』

 赤毛の青年が、頭を下げる。
 今よりもいくらか若いアッシュが、無表情でそこに立っていた。

『ネルソンが謝ることではない。彼女が望んだことだろう?』
『それは、そうだが……。だがケイトのことは君も好いていただろう?』

(好いて、いた……?)

 ぐにゃりと目の前の光景が歪む。

 ネルソンが、視線を逸らすと、そこに立っているのは美しいブロンドの髪と、グリーンの瞳を持つ令嬢。彼女がケイトに違いない。
 どくんとフィオナの胸の鼓動が嫌な音を立てて鳴る。

(……私の、髪色と、瞳に、似ていない……?)

 どくどくと胸の鼓動は鳴り続ける。

『違うよ。彼女とはあくまでも昔からの知り合いってだけだよ』
『しかし、いい感じだったろうが。僕がしゃしゃり出たのは間違いない』
『ネルソン。こういうことには縁とタイミングが非常に関係しているだろう。だから――……』

 はっと気づくと、目の前にはもう誰も立っていなかった。
 掌からはネクタイピンが落ちてしまっていて、フィオナはそれを拾おうと身をかがめた。どうしてかぶるぶる奮える指がネクタイピンに触れようかとしたその時、彼女はぎゅっと拳を握りしめる。

(怖い、もう一回視てしまうかも、しれない)

 アッシュが好いていたらしい、昔からの知り合い。
 フィオナと同じ、髪色と瞳の色をもつ令嬢。

(とっても綺麗な人だった)

 髪色と瞳の色はそっくりと言っても良かったが、容貌はフィオナとは似ても似つかない。
 そこでフィオナはふと、アッシュが彼女の瞳と髪色をよく褒めてくれることを思い返す。

(……あの人に似ているから、褒めてくださるのかな……?)

 アッシュと赤毛の青年を心配そうに見守っていたケイトは、大人びた印象を与える、間違いなく美しい人だった。そして貴族令嬢であることは、その服装からも間違いない。
 立場もアッシュにぴったりだった人。

(そうよね、親切に……してくださっているけれど……、やっぱり……好きな方はいらっしゃったわよね)

 アッシュは優しい。
 優しいから、ネルソンがケイトに恋心を持ったことに気付いて、譲ったのかもしれない。
 彼らの未来を想い、自分の思いは胸にしまったままで。

(当たり前よね、だって……あんなに素敵な人なんだもの、伯爵は)

 フィオナがネクタイピンを手に取るのを躊躇ったのは、もしかしたらケイトの想いが読み取れてしまうかもしれないからだ。

(伯爵のことをケイトさんも想っていたら……そしてただ理由があって別れないといけなかったのかもしれなかったとしたら……)

 ずきずきと頭痛がし始める。

(私、どうしちゃったの)

 ため息をひとつつくと、彼女は震える指を伸ばして、ネクタイピンを手に取った。
 覚悟したが、もう映像は何一つ視えなかったから――安堵してしまう。

(なんでこんなに、胸が痛いんだろう?)

 フィオナはそのネクタイピンを鞄にしまうと、ロイド邸の門を開いた。引き続き頭だけでなく胸もずきずきと痛むが、彼女はそれを無視することにする。

 だが、出迎えてくれたアルバートには気づかれなかったけれど、アッシュにはすぐばれてしまった。

「フィオナ、体調が悪いのでは?」

 執務机からすぐに立ち上がったアッシュがすぐに彼女の目の前までやってくる。心配そうな表情のアッシュが顔をのぞきこんでくるから、フィオナは思わず泣きそうになってしまう。

(なんで、すぐ分かっちゃうんだろう……?)

「熱がある?」
「い、いえ、ありません」

 アッシュはじっと彼女の瞳を見つめた。

「じゃあ、中和が必要なんだな?」

(……!)

 観念したフィオナは小さく頷く。

「はい。実は今さっき、人と、その、ぶつかってしまって……、『ちから』を使ってしまいました」
「そうだろう? 顔色がよくないよ――はい」

 アッシュの差し出された手を前に、今までにないことに一瞬躊躇してしまう。

(……、私、勘違い、なんてしていないよね……? そう、これはただの中和。私は頭痛、伯爵は不眠症を治すためのもの。ただ、それだけ)

 フィオナは自分に言い聞かせながら、彼の手を握る。
 ふわりと浮遊感は漂うけれど、今日はどうしてかとても淋しい感じがした。

 頭痛はすぐにおさまり、手を離したフィオナは笑顔をつくる。

「ありがとうございます、楽になりました……!」
「そう?」

 けれどアッシュはじっと彼女の顔をのぞきこんだままだ。

「無理をしてはいけないよ? なんだかまだ顔色がよくない気がするんだが」
「い、いえ、大丈夫です! 本当に、大丈夫なんです」

 フィオナが両手を振れば、アッシュもそれ以上は何も言わなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

拝啓、婚約者さま

松本雀
恋愛
――静かな藤棚の令嬢ウィステリア。 婚約破棄を告げられた令嬢は、静かに「そう」と答えるだけだった。その冷静な一言が、後に彼の心を深く抉ることになるとも知らずに。

愛人をつくればと夫に言われたので。

まめまめ
恋愛
 "氷の宝石”と呼ばれる美しい侯爵家嫡男シルヴェスターに嫁いだメルヴィーナは3年間夫と寝室が別なことに悩んでいる。  初夜で彼女の背中の傷跡に触れた夫は、それ以降別室で寝ているのだ。  仮面夫婦として過ごす中、ついには夫の愛人が選んだ宝石を誕生日プレゼントに渡される始末。  傷つきながらも何とか気丈に振る舞う彼女に、シルヴェスターはとどめの一言を突き刺す。 「君も愛人をつくればいい。」  …ええ!もう分かりました!私だって愛人の一人や二人!  あなたのことなんてちっとも愛しておりません!  横暴で冷たい夫と結婚して以降散々な目に遭うメルヴィーナは素敵な愛人をゲットできるのか!?それとも…?なすれ違い恋愛小説です。

性悪という理由で婚約破棄された嫌われ者の令嬢~心の綺麗な者しか好かれない精霊と友達になる~

黒塔真実
恋愛
公爵令嬢カリーナは幼い頃から後妻と義妹によって悪者にされ孤独に育ってきた。15歳になり入学した王立学園でも、悪知恵の働く義妹とカリーナの婚約者でありながら義妹に洗脳されている第二王子の働きにより、学園中の嫌われ者になってしまう。しかも再会した初恋の第一王子にまで軽蔑されてしまい、さらに止めの一撃のように第二王子に「性悪」を理由に婚約破棄を宣言されて……!? 恋愛&悪が報いを受ける「ざまぁ」もの!! ※※※主人公は最終的にチート能力に目覚めます※※※アルファポリスオンリー※※※皆様の応援のおかげで第14回恋愛大賞で奨励賞を頂きました。ありがとうございます※※※ すみません、すっきりざまぁ終了したのでいったん完結します→※書籍化予定部分=【本編】を引き下げます。【番外編】追加予定→ルシアン視点追加→最新のディー視点の番外編は書籍化関連のページにて、アンケートに答えると読めます!!

新婚なのに旦那様と会えません〜公爵夫人は宮廷魔術師〜

秋月乃衣
恋愛
ルクセイア公爵家の美形当主アレクセルの元に、嫁ぐこととなった宮廷魔術師シルヴィア。 宮廷魔術師を辞めたくないシルヴィアにとって、仕事は続けたままで良いとの好条件。 だけど新婚なのに旦那様に中々会えず、すれ違い結婚生活。旦那様には愛人がいるという噂も!? ※魔法のある特殊な世界なので公爵夫人がお仕事しています。

捨てられたなら 〜婚約破棄された私に出来ること〜

ちくわぶ(まるどらむぎ)
恋愛
長年の婚約者だった王太子殿下から婚約破棄を言い渡されたクリスティン。 彼女は婚約破棄を受け入れ、周りも処理に動き出します。 さて、どうなりますでしょうか…… 別作品のボツネタ救済です(ヒロインの名前と設定のみ)。 突然のポイント数増加に驚いています。HOTランキングですか? 自分には縁のないものだと思っていたのでびっくりしました。 私の拙い作品をたくさんの方に読んでいただけて嬉しいです。 それに伴い、たくさんの方から感想をいただくようになりました。 ありがとうございます。 様々なご意見、真摯に受け止めさせていただきたいと思います。 ただ、皆様に楽しんでいただけたらと思いますので、中にはいただいたコメントを非公開とさせていただく場合がございます。 申し訳ありませんが、どうかご了承くださいませ。 もちろん、私は全て読ませていただきますし、削除はいたしません。 7/16 最終部がわかりにくいとのご指摘をいただき、訂正しました。 ※この作品は小説家になろうさんでも公開しています。

転生したら、最推しキャラの弟に執着された件。 〜猫憑き!?氷の騎士が離してくれません〜

椎名さえら
恋愛
私はその日、途方に暮れていた。 なにしろ生家であるサットン侯爵家が没落し、 子供の頃からの婚約者に婚約破棄されたのだ。 だが同時に唐突に気づいた。 ここはかつて読んでいた某ライトノベルの世界だと! しかもガスはあるし、水道も通ってるし、醤油が存在する まさかのチートすぎる世界だった。 転生令嬢が、氷の騎士(最推しキャラの、弟!)と 呼ばれる男のリハビリを精一杯して ヒロインのもとへ返してあげようとしたら、 ヒーローの秘密(キーは猫)を知った上、 気づいたら執着からの溺愛されて逃げられなくなる話。 ※完結投稿です ※他サイトさんでも連載しています ※初日のみ頻回更新、のち朝6時&18時更新です ※6/25 「23 決戦は明後日」の内容が重複しておりましたので修正しました  すみません(/_;)

タイムリープ〜悪女の烙印を押された私はもう二度と失敗しない

結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
恋愛
<もうあなた方の事は信じません>―私が二度目の人生を生きている事は誰にも内緒― 私の名前はアイリス・イリヤ。王太子の婚約者だった。2年越しにようやく迎えた婚約式の発表の日、何故か<私>は大観衆の中にいた。そして婚約者である王太子の側に立っていたのは彼に付きまとっていたクラスメイト。この国の国王陛下は告げた。 「アイリス・イリヤとの婚約を解消し、ここにいるタバサ・オルフェンを王太子の婚約者とする!」 その場で身に覚えの無い罪で悪女として捕らえられた私は島流しに遭い、寂しい晩年を迎えた・・・はずが、守護神の力で何故か婚約式発表の2年前に逆戻り。タイムリープの力ともう一つの力を手に入れた二度目の人生。目の前には私を騙した人達がいる。もう騙されない。同じ失敗は繰り返さないと私は心に誓った。 ※カクヨム・小説家になろうにも掲載しています

悪意には悪意で

12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。 私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。 ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。

処理中です...