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本編
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ここではない、どこかの世界線。
まだ魔法使いと呼ばれた人間が存在していた頃の話である。
誰かに呼ばれた気がして、暗闇から浮上した。
なんとか瞼をこじ開ける。刺すように光が一気に飛び込んできて、息を吐いた。体中を襲うのは重苦しい倦怠感で、指の一本も思い通りに動かせない。鈍痛が頭を襲った。
近くで誰かが音を立てて息を飲み、がたっと何か大きな物音がした。
「アデル、気づいたのか?」
意気込んだように、呟かれた。
なんとか声の主を見ようと試みるが、残念ながら身体はぴくりとも動かない。問いかけようとしたが最初はひゅーひゅーと呼吸が漏れるばかりだった。少しだけ喉に力を込めると、ようやく微かに声が出た。
「……だ……れ……?」
がさがさの声はしわがれていて聞き苦しかったろうに、迷うことなく返事が戻ってくる。
「エリオットだ」
エリオット。
名乗られても、思い当たる節がない。ぼんやりとその名前を考えていると、そこではたと気づいた。
(自分の名前も、わからない……ア、デル……?)
アデル、というのが自分の名前だろうか。
視界が暗くなり、若い男が自分を覗き込んでいることに気づいた。
「ああ、アデル、よかった……!」
涙を浮かべている彼は、とても端正な顔だちだった。プラチナブロンドの短めの髪に、綺麗な蒼い瞳。すっと通った鼻筋に、意志の強そうな口元。体つきはそこまで大柄という感じはしないが、それでもしなやかそうな印象を与える男である。
「ああ、意識が戻ってよかった。起き上がれるか?」
無意識に手を差し伸べようとして、あまりの痛みに躊躇った。
「体中が痛い。バラバラになりそう」
「無理をするな。アデル、喉は乾いてるか? 水の準備をしよう――」
「わ、たし……アデルっていう名前なの……?」
アデルの呟きに、エリエットが黙り込んだ。
「おもい、だせない……なにも……」
自分のことを思い出そうとすると、頭痛が一際強くなった。エリオットが黙ったまま、そっと彼女の頭を撫でた。まるでアデルを頭痛が襲っていることを知っているかのように。彼の手つきは優しく、少しだけ痛みが和らぐ気がした。
「医者を呼んでくる。もし辛かったら、寝ていろ」
そう言うなり、エリオットは静かに部屋を出ていった。
☆
「アデル、診させてもらうよ?」
しばらくしてやってきた医者は、こざっぱりした格好をしていた。白いシャツと黒のパンツ、また綺麗な銀色の長い髪を後ろでひとくくりにしていて、一見医者とは思えない。年齢はエリオットとそう変わるような気がしないがきびきびとした手つきはたしかに医者としてのそれで、アデルは素直に彼の指示に従った。
身体を起こすのが辛いと聞いた医者は、横になったままのアデルを診察してくれた。
「うん、問題なさそうだ」
しばらくして医者がそう判断を下し、部屋の隅で誰かが息を吐いた音がアデルにも聞こえた。ベッドに横たわった彼女は天井を見上げたまま、暗い気持ちになった。
(問題、ない……? 何も覚えていないというのに)
医者が明るい口調で続けた。
「痛いのは仕方ない。痛み止めを処方しよう。後は安静にしていれば、徐々に体力は戻るはずだ。休むことが何よりの薬だね」
「そうか」
答えるエリオットの声はどこか安堵しているかのようだった。
「記憶については体力が戻ってから考えてみよう。他、注意点などを書いて渡すね」
「助かる」
二人の距離感がわかるかのような、親しげな口調だった。
「もちろんだ。――エリオット、良かったね?」
「……ああ」
ちくり、と胸が痛んだ。
(……?)
エリオットの声の何かが、アデルの心に漣を起こす。アデルはそんな自分を訝しく思いつつも身体の痛みに意識を囚われた。
医者の処方してくれた痛み止めはよく効いた。そうなると眠りも深くなり、アデルの若い身体は確実に回復していった。
“思っているよりも長い間”眠っていたようなのに、脚の力も問題なく、すぐに立ち上がることもできた。
「さすがエリオットが丁寧にマッサージしていただけのことはある」
医者が驚いてそう褒めてくれるほどの、回復力だった。
立ち上がれるようになってすぐに、部屋の片隅にある鏡を覗き込んだ。
(これが、私……?)
そこに映った女性の姿に首を傾げるしかなかった。
亜麻色のウェーブした髪に、薄茶色の瞳が印象的だった。つんと尖った鼻に、小ぶりな口元。さすがにしばらく寝ついていたということもあって陽に焼けておらず肌は真っ白で、身体も折れんばかりに細い。
(可愛いっていう感じはない、ごく普通の…………それだけだわ)
自分の顔を眺めても、記憶が蘇ることもないし、自身の顔になんの愛着もなかった。
医者の許可のもと、屋敷の中を歩けるようになるのは直だった。
徐々に生活は形になっていくのに、記憶だけが戻らない。
「すぐには難しいと思う。こればかりは、なにかのきっかけがないと無理かもしれないね」
一週間に一度診察しにきてくれる医者にはとにかく焦らないようにと忠告された。アデルは自身の核が見つからない心許ない気持ちで暮らしていた。
動けるようになって気づいたが、この屋敷には通いの使用人が数人いるだけで、エリオットしか住んでいなかった。そのエリオットがアデルの世話をしてくれる。まるで王女に忠節を誓った騎士のように。まるでこの世界が二人きりであるかのように。
「貴方は、私の家族?」
歩けるようになってしばらくしてアデルがエリオットにそう尋ねると、彼は困ったように微笑んだ。
「家族のようなものと思ってもらったらいいかな」
「家族、のようなもの……?」
「ああ」
曖昧な答えに、アデルは黙り込むしかなかった。エリオットのいない場所で医者や使用人を捕まえて、自身と彼について尋ねても誰も彼も言葉を濁す。
「記憶が戻れば、教えるよ」
エリオットを始め、判を押したようにそう諭されるのだ。
食事はいつも二人きりで囲む。エリオットはどうしてかアデルの好みをよく熟知していた。
肉料理よりも野菜が好き。塩が強すぎるものは好みではないが、辛いものは好き。フルーツだったら、甘いよりも甘酸っぱいものを。紅茶よりも珈琲を好む。珈琲に砂糖入れないがミルクはたっぷり注ぐ。
何も言わなくても、アデル好みの料理が毎回並べられる。
「貴方は私をよく知っているのね?」
彼から返ってくるのは微笑みだけ。
「家族のようなもの、だから……?」
アデルが聞けば、彼は再び困ったように微笑むだけだ。
エリオットは彼女と自身の関係についてなどは口を濁すが、その他の状況については徐々に教えてくれるようになった。
昼食の後に庭園を散歩しながら、エリオットが口を開いた。新緑が美しい季節だ。庭園は五分も歩けば一周してしまうほどの規模だが、今のアデルにはちょうどいい。
「この屋敷は、君が……祖父母から受け継いだものだよ」
エリオットのしっかりとした腕につかまって、アデルはゆっくり歩きながらその言葉を聞く。
「ご両親は残念ながら亡くなっている。兄弟は他にいない。だが心配することはないよ。祖父母の遺産で生活できているからね」
彼の説明によれば、祖父母の遺産を受けとっている関係で、アデルが記憶を失ったままだと、話せないことはたくさんあるらしい。エリオットはその条件が書かれている書類ならばアデルに見せることはできるよ、と淡々と続けた。
「でも基本は心配しないでほしい。日常生活に問題のない資金は提供が約束されている。まずはゆっくり身体を癒やすことに集中して欲しい」
「うん、ありがとう」
彼のプラチナブロンドの髪が、風で揺れ、彼女は瞳を細めた。
(……きれい……)
まるで宝石のように輝く彼の髪と、穏やかな口調。
(どうしてか、彼の側にいると安心する……)
記憶がないという不安定な状況でも、アデルはエリオットの側にいれば落ち着いていられた。もちろんエリオットがアデルの世話を献身的に焼いてくれてることと無関係ではない。だがそれ以前に彼の気配さえ感じれば、いかなる時も自身の心が鎮まることに彼女は気づいていた。
(やはり、私と彼は何か関係があるんだろうな……家族、ということは……兄にしては似ていない気がするし、では従兄弟……、それとも……恋人だった?)
アデルはエリオットにつかまっている手に力をぎゅっとこめた。
(早く思い出したいな)
しばらくしてアデルは、エリオットが定期的に外出する日があることに気づいた。一ヶ月に一度のことではあるが、その日はエリオットは昼食ののち、アデルの世話を他の使用人に任せて外出してしまう。最初は気に留めていなかったが、それが必ず月に一度ある、と気づいてからは気になって仕方なくなった。外出のことをエリオット本人はもちろん使用人に尋ねても、答えははぐらかされてしまう。
「私も一緒に出かけたい」
と言ってみれば、エリオットは町に連れ出してくれるようになった。
――だがそれでも、彼は月に一度必ず一人で外出するのだ。しかも帰宅した彼は必ず仄かな香水の移り香を漂わせていた。
(町に、恋人がいらっしゃるのかな)
何しろエリオットは美しい容姿を持つ、若い男性だ。彼がこの屋敷でアデルの世話を焼いているのは、おそらく祖父母の遺言と関係があるのではないか、とアデルは考え始めていた。
その日もまたエリオットが一人きりで出かけていったので、アデルは落胆した。使用人に少し昼寝をすると断って、寝室に入った。窓辺に立って、そこから広がっている庭園の景色を眺めた。
(エリオットに恋人がいらっしゃるのなら、私から解放してあげたいな)
だが記憶が戻らない以上、アデルに出来ることはない。それがまた歯がゆかった。アデルが眠りから覚めて半年は経っているが、彼女の記憶はかけらも戻る気配がない。
ふう、とため息をついたその時視界の端で煌めく何かに気づいた。
「――!」
視線を送って、息を呑んだ。
庭園の向こう側を若いと思われる金髪の女性が男性と腕を組んで歩いていたからだ。光ったと思ったのは、その女性がつけていたネックレスでエスコートしているのはもちろん――。
(エリオット……!)
がらがらと足元が崩れていくような感覚に囚われた。アデルは思わず目の前の窓に手をついた。
エリオットはしばらく前に外出したはずなのに、どうしてこの屋敷にいるのだろう。予定が変わったのだろうか?
アデルは踵を返して寝室の扉を開けようと思って、躊躇った。この扉を開けた向こうには使用人が待っているから彼女が庭園に向かおうとすればおそらく止められてしまうだろう。彼女は再び窓辺に戻ると、細心の注意を払って音がしないように窓をこじ開けた。幸い今日のドレスは室内着だから、動きやすい。必要な分だけ開けた窓から、外に這い出るとアデルは彼らに気づかれないように近づいていった。
エリオットたちは腕を組みながら、庭園を歩いている。
心臓が高鳴って、痛いぐらいだ。
木と、ちょうど腰くらいまでの高さにある草の茂みに身を隠していると、彼らが近づいてきた。アデルが隠れている茂みの前にはちょうどベンチがあるから、もしかしたらそこに座るのかもしれない。
息を潜めていると、思った通り彼らはそこに座った。
座るなり、エリオットがため息をついた。
「こういうことは、困る」
「どうして?」
弾けるような女性の声はまるでエリオットをからかっているようだ。
「アデルに気づかれてしまうだろう」
どくん、と鼓動が高鳴った。
「駄目なの?」
エリオットはしばらく黙り込んでいた。
「……駄目ではないが、あまり刺激はしたくない」
「まぁそれはそうかもしれないわね」
随分と親しそうだ、とアデルは暗い気持ちで認めた。
「アデルさんの記憶はまだ戻らず?」
「ああ。本人もなんとか戻したいと思っているみたいだが、こればかりはなかなかな……」
「アデルさん、大変ね。それに、貴方も」
同情したかのような女性の声が響いた。
「俺?」
「ええ。アデルさんが元通りにならない限りは、なかなか自由になれないじゃない」
その言葉はまるでナイフのようにアデルの心を刺し貫いた。呼吸の仕方を忘れるほどの衝撃を受けているアデルの耳に、いつものような穏やかなエリオットの声が響く。
「そんな言い方はやめてくれないか。俺は今の状況が自由ではないなんて思っていない」
「だけど、でも本当だったらエリオットの奥様が……」
(―――!!)
エリオットの奥様。
アデルは目を見開いた。
「だから止めてくれと言っている」
エリオットの声は固く、尖っていた。
「ごめんなさい」
「怒ってはいない。だが君の言い方はかつての妻に失礼だ。もちろん、アデルにも」
かつての妻。
アデルは小刻みに震え続ける身体を抱きしめるだけで精一杯だった。頭を下げて地面につくばかりに俯き、小さく丸まる。
それから気を取り直した彼らが交わす楽しげな会話は既にアデルの耳には届かなかった。
(盗み聞きした私が悪かったわ)
あれから程なくして女性が帰宅するというので二人はベンチから去った。しばらく呆然自失としていたが、使用人に気づかれる前にと気力を振り絞って部屋に戻った。幸い、誰かに気づかれた様子はなかった。窓を閉めると、ベッドに腰かけてうなだれた。
(彼女が恋人かどうかは分からない。けれどエリオットにはかつて奥様がいらっしゃった。それに他の方からしたら今のこの状況はやはりエリオットに無理を強いているんだわ)
どれだけの時間が経ったか、寝室の扉が開けられる音にアデルはのろのろと視線を上げた。
「ずっと寝室にこもっていると聞いたが、気分が悪いのか?」
そこには心配した様子を隠そうともしないエリオットが立っていた。
「あ……」
ふと窓に視線を送ると、夕暮れが近づいていた。
アデルはふるふると首を横に振った。
「ううん、大丈夫。心配かけてしまったならごめんなさい」
「ならばいいが……熱はないか?」
エリオットが室内に入ってきてアデルの額に手を伸ばした。その動きで、ふわりと柔らかい香りが漂った。
(あの人の――)
思ったと同時に、ぴたりと彼の冷たい手が額に押し当てられる。
(あの人の、香り――……)
『かつての妻に失礼だ』
びくんと震えアデルの身体が硬直した。
「どうした? 熱はないようだが」
心配そうに顔をのぞきこまれ、アデルは我に返った。
「ううん、なんでもない。やはりちょっと体調が悪いのかも。今夜は早めに休むわ」
頷いたエリオットが額から手を離した。
「もし気分が悪いのではないなら、何か食べやすいものを運ばせよう。」
彼はいつもと同じように、親切で優しかった。
その優しさがアデルには身を切るように辛く感じられた。
「エリオットと何かあったのかい?」
向かいのソファに座った医者に尋ねられ、アデルは瞬いた。
「何か、とは?」
今日は一月に一回の定期検診だ。この時ばかりは医者の希望で、エリオットはもちろん、使用人すらも同じ部屋にいない。最初は難色を示していたエリオットだったが、患者の精神のためだよと医者に言われて渋々従っている。
「ここしばらくふさぎ込んでいるらしいじゃないか」
ズバリ言い当てられ、アデルは口ごもった。
確かにあの日以来アデルは思い悩んでいた。
アデルは意識を取り戻してから、与えられるものをなんの疑問もなく受け入れている自分に気づいた。エリオットが四六時中側にいることに慣れきっていて、まさか彼に恋人がいる可能性など考えてもいなかった。
どうやら自分には祖父母の遺産とやらがあるようだから慌てて結婚する必要はなさそうだが、それでもどうにかして自立しなくてはならないのではないか、と考え始めていた。
それはすなわち、エリオットから離れることを意味する。
(でも私は……)
あの日気づいたのは自分の置かれた状況についてだけではない。いつの間にか抱いていたエリオットへの恋情も自覚したのだった。
彼の側にいたい、だが離れるべきなのだろうとも思う。そんな相反する想いが苦しくて苦しくてたまらない。
だがエリオット本人には悟られたくないとも思っていた。決して態度に出したつもりはなかったが、もしかしたら気づかれていたのだろうか。
「そんなつもりはなかったのですが……」
「そんなつもりはないけれど?」
アデルは頭を働かせ、余計なことは言うまい、と心に決めた。
「ただ――自立したいな、とは思っていました」
これ以上エリオットに迷惑をかけたくはない。そしてこの返答は意外でもなんでもなかったらしく、医者はあっさり頷いた。
「そうか。まぁあれだけ過保護に囲われていたら窮屈に思っても仕方ないだろうね」
「いえ、窮屈とかではなく……。エリオットには感謝しています。しているのですが……記憶が戻らない以上、祖父母との約束とやらで、何一つ真実も教えてもらえない。このままだと私はずっとエリオットがいないと生きていけない人間になってしまいます」
医者は腕組みをした。
「そうだね。まぁ確かに……」
ふうっと彼はため息をついた。
「記憶は、何か大きなトリガーがあれば思い出せることもあれば、何もなくても突然不意に戻ることもある。こればかりは誰にも分からない」
「……ですよね……」
「一番良くないのは、君が考えすぎてしまうこと、気に病むことだ。いいかい、エリオットは君がいてくれればそれだけでいい男だよ。案外彼は今の状況を楽しんでいるかもしれないよ」
「そんなことは。それに、彼は優しいですから……」
アデルはうつむいた。
医者はそれ以上余計なことは言わなかった。それから彼はアデルの気が楽になるような世間話をたくさんしてくれた。
ようやくアデルの顔に自然な笑顔が浮かぶようになった。
(ああ、本当に私はこうして周囲の人達に支えられている……)
エリオットも医者も、使用人たちも。みんなアデルに優しい。
そのことに彼女は感謝せずにはいられなかった。帰り際、部屋の扉まで見送ると、医者が口を開いた。
「アデル」
「はい」
「不安に思うことがあれば、エリオットに伝えるといいよ。彼はそれに応えてくれるだけの度量がある」
「……」
医者は微笑んだ。
「彼の、君への献身は本物だと僕は思っているよ」
☆
医者の忠告は胸に響いたが、しばらくアデルは苦しみ続けることとなった。エリオットには意識して、以前と同じように接するように心がけた。
エリオットはそんなアデルに気づいているのだろう、彼の視線の端々に気遣いを感じた。変わらず尽くしてくれる彼に、思いの丈を告げたいと何度思ったか分からない。ただしそれをすることで、すべてをぶち壊してしまうかもしれないと思えば、アデルはどうしても言葉にすることはできなかった。
真実を知ることよりも、彼を失いたくはなかった。
(私は、臆病だわ……)
そして一月が経ち、今日はまたエリオットが町に出かける日だ。
「では行ってくる。帰りは遅くならないよ」
「うん、わかったわ。楽しんできて」
アデルがぎこちなく微笑むと、エリオットの瞳にさっと何かの感情が動いた。だがすぐにエリオットは目を逸らし、彼女の部屋を出ていった。
(あの、綺麗な方に会いに行かれるのね……)
エリオットはアデルが意識を取り戻してから、外泊をしたことはないはずだ。いつだって夕方には帰ってくるけれど。
(あの方の香水の香りがまた移っていたら、私……)
アデルは居ても立ってもいられずにその場で立ち上がった。彼女の部屋を出ると、珍しいことに廊下には誰もいなかった。
アデルは衝動に任せて、屋根裏部屋にあがっていった。この部屋にはエリオットには入らないように言いつけられていた。
『ガラクタが多いから、君が怪我をしたらいけない』
そんな風に言われて、今まで素直に従っていたが、こんな日くらいは背きたい気分だった。
部屋は布をかぶった家具や、物がたくさん置かれていたが、片付いていないというほどでもなかった。あたりを見渡して、アデルは不思議な感慨に囚われた。
「なにかしら、とても不思議なことだけれど……」
その全てを、どうしてかアデルは知っている気がした。
「ここは子供のための部屋だったのではないかしら」
棚を開けてみると、中には予想通り子供のおもちゃが並べられていた。
ふと手に取ったのは、木製の馬のおもちゃだった。なめらかな手触りのそれは、しかしとても古ぼけていた。アデルはそれをゆっくり触りながら、息を吐いた。
(どうしてかしら、なんでか……とても)
「懐かしい」
無意識にそう呟くと、馬のおもちゃを棚に戻した。そしてその隣に置いてあったこれまた古ぼけた皮の表紙の冊子を手に取った。
開いてみて、息を呑む。
「……エリオットの字……?」
文字を見ただけでどうしてか彼が脳裏に浮かんだ。
確かに愛する妻へ、と書き出されたそれはエリオットより、という署名で終わっていた。
「エリオットの日記……?」
ふらふらと床に座り込んだアデルは夢中になってページを繰った。
そこには手紙の形式で、エリオットの妻への想いがあますところなく綴られていた。愛する妻、大好きな君、誰よりも大切な貴女。出会ってから自分がどれだけ幸せだったか、どうやって愛を育んだか、語りかける彼の口調が簡単に想像できるくらい、熱烈な愛の告白だった。
かつての妻への想いと思えば、アデルは傷ついてもおかしくないはずだった。だが彼女は今、やっと――思い出していた。
「エリオット……」
すうっとアデルの両の瞳に涙が浮かぶ。
彼女はある一節をそっとなぞった。
『愛する妻、アデルへ』
君の了承を得ないまま、全てを決めてしまったことは申し訳ないと思っている。だが俺には他に選択肢がなかった。君がいない世界など、俺には何の意味もない。アデル。君は俺を許してくれないだろうな――。
「――アデル!」
顔面蒼白のエリオットが屋根裏部屋に飛び込んできた時、アデルは気を失って床に倒れ込んでいた。側にはエリオットの日記が落ちていた。
☆
アデルが次に目を覚ました時、誰かにしっかりと手をつかまれていることに気づいた。それがエリオットだと気づいて、彼女は口元に笑みを浮かべた。
「エリオット」
「気がついたのか、アデル!」
プラチナブロンドの短めの髪に、綺麗な蒼い瞳を持つエリオットが覗き込んできた。必死にも見えるその姿がアデルにある記憶を鮮明に蘇らせた。
「あの日と同じね」
「……あの、日?」
「うん。可愛いあの子を私が産んだ日」
エリオットの喉から、ひゅっと鋭く息を呑む音がした。
「私が……死にかけた日、ね」
彼が繋いでいる手にぎゅっと力を込めた。
「もしかして……思い出し、たのか?」
「ええ」
アデルがベッドに起き上がろうとする素振りをみせると、エリオットが手伝ってくれた。神妙な面持ちのエリオットを見つめて、アデルが呟いた。
「貴方の口から、全部教えて」
それぞれ男爵家に生まれたアデルとエリオットは、想い想われ結ばれ仲睦まじい若夫婦だった。そしてやがてアデルが一人目の子供を身ごもり、ふたりの幸せは最高潮に達していた。
「この家は、僕達の家だった」
「そうね。あの屋根裏部屋にあったのは、私達の赤ちゃんのものよね?」
エリオットは頷いた。
「ああ」
二人は初めての子供を心待ちしていた。
子供の名前も考え、家を整えた。
二人の幸せは揺らぐことがない、と信じていた。
だがあの日、アデルはお産で命を落としかけた。自分はいいから赤ちゃんだけは助けてくれとアデルは魘されるように願った。自分が苦しむ姿を見せたくないとアデルによって部屋に入ることを許されていなかったエリオットは、扉の外でその悲痛な叫びを聞いていた。
頑張りなさい、大丈夫、赤ちゃんは助かります、赤ちゃんだけではなく貴女も助けますからね!
医者たちの必死な声を聞きながら、エリオットは家を飛び出した。町で有名な黒魔術師の家にまっすぐに向かったエリオットは、魔術師にひれ伏して願った。
なんでも与える。自分の命でも魂でも、財産でも。だがどうしてもアデルだけは助けてくれ。自分の愛する妻の命を助けてくれ、と。
黒魔術師は気まぐれだった。
応えてくれない可能性もあった。けれどエリオットにとって運が良かったことに、その日の黒魔術師は機嫌がよかった。
『よかったな。赤ん坊は助かるみたいだぞ』
『赤ん坊は、ということは、アデルは、俺の妻は!?』
黒魔術師はニタリと笑った。
『確かにお前の妻の魂は今、現世から離れようとしているな――ふん、お前のような美しい男が泣きながら這いつくばっているのを見るのは気分がよい。よかろう、力を貸してやる――だがね』
対価はエリオットの人間としての瑞々しい生命。その命は黒魔術師の何よりの滋養になるのだという。エリオットの魂は死に、不老不死となって、永遠にこの世を彷徨う存在になる。
亡霊と同じだよ、と黒魔術師は言った。
その上で、アデルにかける魔法は、あまりにも巨大な闇の力を持っているために、何が起こるか約束はできないと告げられた。
『もしかしたらお前の妻は、永遠に目覚めないかもしれない。目覚めても記憶をなくしているかもしれない。人間としての肉体は滅びてお前と同じ不老不死となって、ただ眠るだけの人形に成り果てるのかもしれないよ』
あまりにも気まぐれで、残酷な魔法。
しかしエリオットは一瞬たりとも迷わなかった。
『アデルが生き続けてくれるならそれ以外は何もいらない』
その瞬間、エリオットの中からアデル以外の全てが消えた。
自分たちの子供ですら。
そうして黒魔術師に魔法をかけてもらい、アデルは眠り続けることとなった。エリオットは自宅に戻ると、家族に全てを説明した。それまで苦しみ続けていたアデルが突然安らかに眠り始めたことを医師も家族も目撃していたから、納得はした。
またエリオットがどれだけアデルを愛しているかを知っていたから、理解を示してくれた。
後日、エリオットが黒魔術師の家に向かうと、そこはもぬけの殻だった。その後、黒魔術師には二度と会っていない。
そしてエリオットはそれからずっとアデルの側にいた。
――150年もの間。
「150年も経ったの……?」
「ああ。俺の姉を覚えているか?」
「ケルシーのこと? もちろん」
アデルにも優しく接してくれた、とても朗らかな人だった。
「うん。俺たちの子供はケルシーとジョセフに引き取ってもらって、育ててもらったんだ。自分の子供たちと同じように可愛がってくれたよ」
「そうだったの……」
「ああ。年を取らない俺が育てていては、最初はよくても子供が奇異の目で見られるからな」
そうしてエリオットは時々アデルと自分の子供を密かに物陰から見守る以外は、この家に引きこもっていた。エリオットは自分の子供の前に姿を現さないと決めていた。
やがてアデルとエリオットの子供は成人し、ケルシーとジョセフから真実を聞かされた。
それまで十分ケルシーとジョセフに愛されて育った彼は、最初の衝撃が去ると、エリオットに会いたいと懇願した。
「彼が望むなら、とこの家に招待することにした」
エリオットの顔が蒼白になった。
「俺は……俺だけは、俺たちの息子に会った」
アデルは首を横に振った。
「いいの。彼が望んだのであれば、私が貴方でもそうしたと思うわ」
その答えを聞き、エリオットはゆるゆると息を吐いた。
「だが俺は……。息子より君を……」
アデルはエリオットの逡巡の意味がわかっていた。
だからもう一度首を横に振る。
「本当に、いいの。わかっている」
エリオットはため息のようなものをついた。
「彼は……すごく良い青年だった。笑顔が君に似ていた」
エリオットは彼に赦しを乞うた。自分の我儘で彼の側にいられなかったこと。彼から両親を奪ったことを。全ては自分の咎だ、恨んでくれていい、憎んでくれていい、と呟くエリオットに、息子は泣きながら告げた。
『今の両親は、僕を愛して育ててくれました。だから僕は貴方を恨んでいません。そして、僕のお母さんをお
父さんがそこまで愛していたことを知って、僕は……生まれてきてよかったなと思っています』
息子とはそれからも密かに交流は続いた。会うのは必ず、この家で。眠るアデルと共に。もちろん、エリオットが息子の人生の表舞台で関わることは一度もなかった。そして息子は最期に遺言を残した。
本当の両親を自分の子孫が秘密裏に守っていくのだと。そうして彼らがつましく生きていけるだけの財産を与えていくことを決めたのだ。
エリオットが毎月会っていたあの女性は――アデルとエリオットの子孫だったのだ。それはあの女性が望んだからだ。
女性は、アデルとエリオットの物語に深く魅せられていた。
「そんな……」
アデルは言葉を失った。
「これが真実だ。君が記憶が戻ったのなら、今度からは一緒に会おう。彼女と話しているのは、君のことばかりだ」
彼女は君が目覚めたと知ってからずっと会いたがっていたよ、とエリオットは静かに続けた。
アデルはしばらくして、彼に尋ねた。
「エリオットは、辛くなかった?」
瞬いたエリオットは、意外なことを聞かれた、とばかりに小さく首を傾げた。
「俺が辛い? なんでだ?」
「だって、自分の子供を自分で育てられなくて。私にそんな魔法をかけなければ貴方は人間として生きられたし、まだ若かったのだからきっと再婚だって――」
「アデル」
エリオットが彼女の名前を呼ぶ。
「俺にとって、君がいなければ何の意味もないことだ」
「エリオット……」
「もちろん、子供の成長を側で見られなかったことは辛かった。だがケルシーは度々我が家にやってきて子供の様子を聞かせてくれたし、必要があれば影から見守ることもできた。それに成人してからは、俺の存在を彼は知っていた。彼は俺を赦してもくれた。だから悔いはない」
エリオットの美しい顔がそこで歪んだ。
「それより俺は君が記憶を取り戻したら謝らなくてはと思っていた。俺が君を失いたくないばかりに、この世を永遠に彷徨う存在にしてしまった。あんなに楽しみにしていた子供の成長も見守ることができなかった。だからといってこれから子供を産むこともできない。君にとってこれが最善の選択だったのかを、俺に決定する権利なんてなかった」
「エリ、オット……」
エリオットの瞳は揺れていた。
「俺は君が眠っている姿を見守るだけで幸せだった。いつまでだって待てた。だが君は――」
アデルの両の瞳からこらえきれず涙が溢れた。
「アデル、泣かないでくれ。どうやって謝罪したらわからないが、それでもできる限りの贖罪はするつもりで」
彼女は首を横に振った。
「エリオット……」
「なんだ?」
アデルはエリオットをじっと見つめた。
(ああ……、私は、彼のことを)
「愛してる」
その瞬間、エリオットの全ての動きが止まった。
「愛してる」
アデルはしゃくりあげながら、もう一度言葉にした。
「私も、私も同じ決断を迫られたら同じことをした。貴方が死にかけて、貴方を救える方法があったらなんだってしたに違いないわ。だって愛しているから――エリオット、愛してる」
号泣しながらアデルが両手を広げると、ようやくぎくしゃくと動き始めたエリオットが彼女を抱きしめた。かつて何度も抱きしめた彼の身体は今も変わらずしっくりときて、彼女にやすらぎを与える。
「俺も、君を愛している。誰よりも、何よりも。自分の命よりも」
「私も……私を見守っていてくれて、ありがとう。待っていてくれて、ありがとう。愛してくれてありがとう」
アデルの声は震え、掠れていた。
「うん」
万感こもったエリオットの声も掠れていた。
「これからは私が貴方の側にいる。ずっとずっといる。もう一人にさせないわ」
彼女を抱きしめていた彼の腕に更に力がこもった。
まるで離さないとばかりに強く抱きしめられ、アデルも彼を抱きしめ返した。
エリオットが彼女の耳元で囁く。
「今までだって君と共に生きていたよ。お願いだ、これからも俺と永久に生きてくれ」
「……うん。私、あなたが側にいてくれたら、それだけで――」
☆
数年後。
「お母様、手紙が届いていたって」
「ありがとう」
息子が渡してくれた手紙を開いた女性はにっこりと微笑んだ。
「お母様、すごく嬉しそう。良い知らせなの?」
まだ幼い息子が興味深そうに尋ねてくる。
「うん、とても」
女性は柔らかく微笑みながら、文面に目を走らせた。
「知り合いのご夫婦が旅先でちょくちょく手紙をくださるの。いつてもとても幸せそうで、読むだけで嬉しくなってしまうの」
「そうなんだ」
「貴方にもそのうち話してあげるわね」
女性は手紙を丁寧に畳んだ。はーいと答えた息子はもう興味を無くしたらしく、部屋を飛び出していった。
「貴方の……ご先祖の話だからね」
部屋に一人になった女性はそう呟くと、紅茶を一口飲んだ。
+FIN+
まだ魔法使いと呼ばれた人間が存在していた頃の話である。
誰かに呼ばれた気がして、暗闇から浮上した。
なんとか瞼をこじ開ける。刺すように光が一気に飛び込んできて、息を吐いた。体中を襲うのは重苦しい倦怠感で、指の一本も思い通りに動かせない。鈍痛が頭を襲った。
近くで誰かが音を立てて息を飲み、がたっと何か大きな物音がした。
「アデル、気づいたのか?」
意気込んだように、呟かれた。
なんとか声の主を見ようと試みるが、残念ながら身体はぴくりとも動かない。問いかけようとしたが最初はひゅーひゅーと呼吸が漏れるばかりだった。少しだけ喉に力を込めると、ようやく微かに声が出た。
「……だ……れ……?」
がさがさの声はしわがれていて聞き苦しかったろうに、迷うことなく返事が戻ってくる。
「エリオットだ」
エリオット。
名乗られても、思い当たる節がない。ぼんやりとその名前を考えていると、そこではたと気づいた。
(自分の名前も、わからない……ア、デル……?)
アデル、というのが自分の名前だろうか。
視界が暗くなり、若い男が自分を覗き込んでいることに気づいた。
「ああ、アデル、よかった……!」
涙を浮かべている彼は、とても端正な顔だちだった。プラチナブロンドの短めの髪に、綺麗な蒼い瞳。すっと通った鼻筋に、意志の強そうな口元。体つきはそこまで大柄という感じはしないが、それでもしなやかそうな印象を与える男である。
「ああ、意識が戻ってよかった。起き上がれるか?」
無意識に手を差し伸べようとして、あまりの痛みに躊躇った。
「体中が痛い。バラバラになりそう」
「無理をするな。アデル、喉は乾いてるか? 水の準備をしよう――」
「わ、たし……アデルっていう名前なの……?」
アデルの呟きに、エリエットが黙り込んだ。
「おもい、だせない……なにも……」
自分のことを思い出そうとすると、頭痛が一際強くなった。エリオットが黙ったまま、そっと彼女の頭を撫でた。まるでアデルを頭痛が襲っていることを知っているかのように。彼の手つきは優しく、少しだけ痛みが和らぐ気がした。
「医者を呼んでくる。もし辛かったら、寝ていろ」
そう言うなり、エリオットは静かに部屋を出ていった。
☆
「アデル、診させてもらうよ?」
しばらくしてやってきた医者は、こざっぱりした格好をしていた。白いシャツと黒のパンツ、また綺麗な銀色の長い髪を後ろでひとくくりにしていて、一見医者とは思えない。年齢はエリオットとそう変わるような気がしないがきびきびとした手つきはたしかに医者としてのそれで、アデルは素直に彼の指示に従った。
身体を起こすのが辛いと聞いた医者は、横になったままのアデルを診察してくれた。
「うん、問題なさそうだ」
しばらくして医者がそう判断を下し、部屋の隅で誰かが息を吐いた音がアデルにも聞こえた。ベッドに横たわった彼女は天井を見上げたまま、暗い気持ちになった。
(問題、ない……? 何も覚えていないというのに)
医者が明るい口調で続けた。
「痛いのは仕方ない。痛み止めを処方しよう。後は安静にしていれば、徐々に体力は戻るはずだ。休むことが何よりの薬だね」
「そうか」
答えるエリオットの声はどこか安堵しているかのようだった。
「記憶については体力が戻ってから考えてみよう。他、注意点などを書いて渡すね」
「助かる」
二人の距離感がわかるかのような、親しげな口調だった。
「もちろんだ。――エリオット、良かったね?」
「……ああ」
ちくり、と胸が痛んだ。
(……?)
エリオットの声の何かが、アデルの心に漣を起こす。アデルはそんな自分を訝しく思いつつも身体の痛みに意識を囚われた。
医者の処方してくれた痛み止めはよく効いた。そうなると眠りも深くなり、アデルの若い身体は確実に回復していった。
“思っているよりも長い間”眠っていたようなのに、脚の力も問題なく、すぐに立ち上がることもできた。
「さすがエリオットが丁寧にマッサージしていただけのことはある」
医者が驚いてそう褒めてくれるほどの、回復力だった。
立ち上がれるようになってすぐに、部屋の片隅にある鏡を覗き込んだ。
(これが、私……?)
そこに映った女性の姿に首を傾げるしかなかった。
亜麻色のウェーブした髪に、薄茶色の瞳が印象的だった。つんと尖った鼻に、小ぶりな口元。さすがにしばらく寝ついていたということもあって陽に焼けておらず肌は真っ白で、身体も折れんばかりに細い。
(可愛いっていう感じはない、ごく普通の…………それだけだわ)
自分の顔を眺めても、記憶が蘇ることもないし、自身の顔になんの愛着もなかった。
医者の許可のもと、屋敷の中を歩けるようになるのは直だった。
徐々に生活は形になっていくのに、記憶だけが戻らない。
「すぐには難しいと思う。こればかりは、なにかのきっかけがないと無理かもしれないね」
一週間に一度診察しにきてくれる医者にはとにかく焦らないようにと忠告された。アデルは自身の核が見つからない心許ない気持ちで暮らしていた。
動けるようになって気づいたが、この屋敷には通いの使用人が数人いるだけで、エリオットしか住んでいなかった。そのエリオットがアデルの世話をしてくれる。まるで王女に忠節を誓った騎士のように。まるでこの世界が二人きりであるかのように。
「貴方は、私の家族?」
歩けるようになってしばらくしてアデルがエリオットにそう尋ねると、彼は困ったように微笑んだ。
「家族のようなものと思ってもらったらいいかな」
「家族、のようなもの……?」
「ああ」
曖昧な答えに、アデルは黙り込むしかなかった。エリオットのいない場所で医者や使用人を捕まえて、自身と彼について尋ねても誰も彼も言葉を濁す。
「記憶が戻れば、教えるよ」
エリオットを始め、判を押したようにそう諭されるのだ。
食事はいつも二人きりで囲む。エリオットはどうしてかアデルの好みをよく熟知していた。
肉料理よりも野菜が好き。塩が強すぎるものは好みではないが、辛いものは好き。フルーツだったら、甘いよりも甘酸っぱいものを。紅茶よりも珈琲を好む。珈琲に砂糖入れないがミルクはたっぷり注ぐ。
何も言わなくても、アデル好みの料理が毎回並べられる。
「貴方は私をよく知っているのね?」
彼から返ってくるのは微笑みだけ。
「家族のようなもの、だから……?」
アデルが聞けば、彼は再び困ったように微笑むだけだ。
エリオットは彼女と自身の関係についてなどは口を濁すが、その他の状況については徐々に教えてくれるようになった。
昼食の後に庭園を散歩しながら、エリオットが口を開いた。新緑が美しい季節だ。庭園は五分も歩けば一周してしまうほどの規模だが、今のアデルにはちょうどいい。
「この屋敷は、君が……祖父母から受け継いだものだよ」
エリオットのしっかりとした腕につかまって、アデルはゆっくり歩きながらその言葉を聞く。
「ご両親は残念ながら亡くなっている。兄弟は他にいない。だが心配することはないよ。祖父母の遺産で生活できているからね」
彼の説明によれば、祖父母の遺産を受けとっている関係で、アデルが記憶を失ったままだと、話せないことはたくさんあるらしい。エリオットはその条件が書かれている書類ならばアデルに見せることはできるよ、と淡々と続けた。
「でも基本は心配しないでほしい。日常生活に問題のない資金は提供が約束されている。まずはゆっくり身体を癒やすことに集中して欲しい」
「うん、ありがとう」
彼のプラチナブロンドの髪が、風で揺れ、彼女は瞳を細めた。
(……きれい……)
まるで宝石のように輝く彼の髪と、穏やかな口調。
(どうしてか、彼の側にいると安心する……)
記憶がないという不安定な状況でも、アデルはエリオットの側にいれば落ち着いていられた。もちろんエリオットがアデルの世話を献身的に焼いてくれてることと無関係ではない。だがそれ以前に彼の気配さえ感じれば、いかなる時も自身の心が鎮まることに彼女は気づいていた。
(やはり、私と彼は何か関係があるんだろうな……家族、ということは……兄にしては似ていない気がするし、では従兄弟……、それとも……恋人だった?)
アデルはエリオットにつかまっている手に力をぎゅっとこめた。
(早く思い出したいな)
しばらくしてアデルは、エリオットが定期的に外出する日があることに気づいた。一ヶ月に一度のことではあるが、その日はエリオットは昼食ののち、アデルの世話を他の使用人に任せて外出してしまう。最初は気に留めていなかったが、それが必ず月に一度ある、と気づいてからは気になって仕方なくなった。外出のことをエリオット本人はもちろん使用人に尋ねても、答えははぐらかされてしまう。
「私も一緒に出かけたい」
と言ってみれば、エリオットは町に連れ出してくれるようになった。
――だがそれでも、彼は月に一度必ず一人で外出するのだ。しかも帰宅した彼は必ず仄かな香水の移り香を漂わせていた。
(町に、恋人がいらっしゃるのかな)
何しろエリオットは美しい容姿を持つ、若い男性だ。彼がこの屋敷でアデルの世話を焼いているのは、おそらく祖父母の遺言と関係があるのではないか、とアデルは考え始めていた。
その日もまたエリオットが一人きりで出かけていったので、アデルは落胆した。使用人に少し昼寝をすると断って、寝室に入った。窓辺に立って、そこから広がっている庭園の景色を眺めた。
(エリオットに恋人がいらっしゃるのなら、私から解放してあげたいな)
だが記憶が戻らない以上、アデルに出来ることはない。それがまた歯がゆかった。アデルが眠りから覚めて半年は経っているが、彼女の記憶はかけらも戻る気配がない。
ふう、とため息をついたその時視界の端で煌めく何かに気づいた。
「――!」
視線を送って、息を呑んだ。
庭園の向こう側を若いと思われる金髪の女性が男性と腕を組んで歩いていたからだ。光ったと思ったのは、その女性がつけていたネックレスでエスコートしているのはもちろん――。
(エリオット……!)
がらがらと足元が崩れていくような感覚に囚われた。アデルは思わず目の前の窓に手をついた。
エリオットはしばらく前に外出したはずなのに、どうしてこの屋敷にいるのだろう。予定が変わったのだろうか?
アデルは踵を返して寝室の扉を開けようと思って、躊躇った。この扉を開けた向こうには使用人が待っているから彼女が庭園に向かおうとすればおそらく止められてしまうだろう。彼女は再び窓辺に戻ると、細心の注意を払って音がしないように窓をこじ開けた。幸い今日のドレスは室内着だから、動きやすい。必要な分だけ開けた窓から、外に這い出るとアデルは彼らに気づかれないように近づいていった。
エリオットたちは腕を組みながら、庭園を歩いている。
心臓が高鳴って、痛いぐらいだ。
木と、ちょうど腰くらいまでの高さにある草の茂みに身を隠していると、彼らが近づいてきた。アデルが隠れている茂みの前にはちょうどベンチがあるから、もしかしたらそこに座るのかもしれない。
息を潜めていると、思った通り彼らはそこに座った。
座るなり、エリオットがため息をついた。
「こういうことは、困る」
「どうして?」
弾けるような女性の声はまるでエリオットをからかっているようだ。
「アデルに気づかれてしまうだろう」
どくん、と鼓動が高鳴った。
「駄目なの?」
エリオットはしばらく黙り込んでいた。
「……駄目ではないが、あまり刺激はしたくない」
「まぁそれはそうかもしれないわね」
随分と親しそうだ、とアデルは暗い気持ちで認めた。
「アデルさんの記憶はまだ戻らず?」
「ああ。本人もなんとか戻したいと思っているみたいだが、こればかりはなかなかな……」
「アデルさん、大変ね。それに、貴方も」
同情したかのような女性の声が響いた。
「俺?」
「ええ。アデルさんが元通りにならない限りは、なかなか自由になれないじゃない」
その言葉はまるでナイフのようにアデルの心を刺し貫いた。呼吸の仕方を忘れるほどの衝撃を受けているアデルの耳に、いつものような穏やかなエリオットの声が響く。
「そんな言い方はやめてくれないか。俺は今の状況が自由ではないなんて思っていない」
「だけど、でも本当だったらエリオットの奥様が……」
(―――!!)
エリオットの奥様。
アデルは目を見開いた。
「だから止めてくれと言っている」
エリオットの声は固く、尖っていた。
「ごめんなさい」
「怒ってはいない。だが君の言い方はかつての妻に失礼だ。もちろん、アデルにも」
かつての妻。
アデルは小刻みに震え続ける身体を抱きしめるだけで精一杯だった。頭を下げて地面につくばかりに俯き、小さく丸まる。
それから気を取り直した彼らが交わす楽しげな会話は既にアデルの耳には届かなかった。
(盗み聞きした私が悪かったわ)
あれから程なくして女性が帰宅するというので二人はベンチから去った。しばらく呆然自失としていたが、使用人に気づかれる前にと気力を振り絞って部屋に戻った。幸い、誰かに気づかれた様子はなかった。窓を閉めると、ベッドに腰かけてうなだれた。
(彼女が恋人かどうかは分からない。けれどエリオットにはかつて奥様がいらっしゃった。それに他の方からしたら今のこの状況はやはりエリオットに無理を強いているんだわ)
どれだけの時間が経ったか、寝室の扉が開けられる音にアデルはのろのろと視線を上げた。
「ずっと寝室にこもっていると聞いたが、気分が悪いのか?」
そこには心配した様子を隠そうともしないエリオットが立っていた。
「あ……」
ふと窓に視線を送ると、夕暮れが近づいていた。
アデルはふるふると首を横に振った。
「ううん、大丈夫。心配かけてしまったならごめんなさい」
「ならばいいが……熱はないか?」
エリオットが室内に入ってきてアデルの額に手を伸ばした。その動きで、ふわりと柔らかい香りが漂った。
(あの人の――)
思ったと同時に、ぴたりと彼の冷たい手が額に押し当てられる。
(あの人の、香り――……)
『かつての妻に失礼だ』
びくんと震えアデルの身体が硬直した。
「どうした? 熱はないようだが」
心配そうに顔をのぞきこまれ、アデルは我に返った。
「ううん、なんでもない。やはりちょっと体調が悪いのかも。今夜は早めに休むわ」
頷いたエリオットが額から手を離した。
「もし気分が悪いのではないなら、何か食べやすいものを運ばせよう。」
彼はいつもと同じように、親切で優しかった。
その優しさがアデルには身を切るように辛く感じられた。
「エリオットと何かあったのかい?」
向かいのソファに座った医者に尋ねられ、アデルは瞬いた。
「何か、とは?」
今日は一月に一回の定期検診だ。この時ばかりは医者の希望で、エリオットはもちろん、使用人すらも同じ部屋にいない。最初は難色を示していたエリオットだったが、患者の精神のためだよと医者に言われて渋々従っている。
「ここしばらくふさぎ込んでいるらしいじゃないか」
ズバリ言い当てられ、アデルは口ごもった。
確かにあの日以来アデルは思い悩んでいた。
アデルは意識を取り戻してから、与えられるものをなんの疑問もなく受け入れている自分に気づいた。エリオットが四六時中側にいることに慣れきっていて、まさか彼に恋人がいる可能性など考えてもいなかった。
どうやら自分には祖父母の遺産とやらがあるようだから慌てて結婚する必要はなさそうだが、それでもどうにかして自立しなくてはならないのではないか、と考え始めていた。
それはすなわち、エリオットから離れることを意味する。
(でも私は……)
あの日気づいたのは自分の置かれた状況についてだけではない。いつの間にか抱いていたエリオットへの恋情も自覚したのだった。
彼の側にいたい、だが離れるべきなのだろうとも思う。そんな相反する想いが苦しくて苦しくてたまらない。
だがエリオット本人には悟られたくないとも思っていた。決して態度に出したつもりはなかったが、もしかしたら気づかれていたのだろうか。
「そんなつもりはなかったのですが……」
「そんなつもりはないけれど?」
アデルは頭を働かせ、余計なことは言うまい、と心に決めた。
「ただ――自立したいな、とは思っていました」
これ以上エリオットに迷惑をかけたくはない。そしてこの返答は意外でもなんでもなかったらしく、医者はあっさり頷いた。
「そうか。まぁあれだけ過保護に囲われていたら窮屈に思っても仕方ないだろうね」
「いえ、窮屈とかではなく……。エリオットには感謝しています。しているのですが……記憶が戻らない以上、祖父母との約束とやらで、何一つ真実も教えてもらえない。このままだと私はずっとエリオットがいないと生きていけない人間になってしまいます」
医者は腕組みをした。
「そうだね。まぁ確かに……」
ふうっと彼はため息をついた。
「記憶は、何か大きなトリガーがあれば思い出せることもあれば、何もなくても突然不意に戻ることもある。こればかりは誰にも分からない」
「……ですよね……」
「一番良くないのは、君が考えすぎてしまうこと、気に病むことだ。いいかい、エリオットは君がいてくれればそれだけでいい男だよ。案外彼は今の状況を楽しんでいるかもしれないよ」
「そんなことは。それに、彼は優しいですから……」
アデルはうつむいた。
医者はそれ以上余計なことは言わなかった。それから彼はアデルの気が楽になるような世間話をたくさんしてくれた。
ようやくアデルの顔に自然な笑顔が浮かぶようになった。
(ああ、本当に私はこうして周囲の人達に支えられている……)
エリオットも医者も、使用人たちも。みんなアデルに優しい。
そのことに彼女は感謝せずにはいられなかった。帰り際、部屋の扉まで見送ると、医者が口を開いた。
「アデル」
「はい」
「不安に思うことがあれば、エリオットに伝えるといいよ。彼はそれに応えてくれるだけの度量がある」
「……」
医者は微笑んだ。
「彼の、君への献身は本物だと僕は思っているよ」
☆
医者の忠告は胸に響いたが、しばらくアデルは苦しみ続けることとなった。エリオットには意識して、以前と同じように接するように心がけた。
エリオットはそんなアデルに気づいているのだろう、彼の視線の端々に気遣いを感じた。変わらず尽くしてくれる彼に、思いの丈を告げたいと何度思ったか分からない。ただしそれをすることで、すべてをぶち壊してしまうかもしれないと思えば、アデルはどうしても言葉にすることはできなかった。
真実を知ることよりも、彼を失いたくはなかった。
(私は、臆病だわ……)
そして一月が経ち、今日はまたエリオットが町に出かける日だ。
「では行ってくる。帰りは遅くならないよ」
「うん、わかったわ。楽しんできて」
アデルがぎこちなく微笑むと、エリオットの瞳にさっと何かの感情が動いた。だがすぐにエリオットは目を逸らし、彼女の部屋を出ていった。
(あの、綺麗な方に会いに行かれるのね……)
エリオットはアデルが意識を取り戻してから、外泊をしたことはないはずだ。いつだって夕方には帰ってくるけれど。
(あの方の香水の香りがまた移っていたら、私……)
アデルは居ても立ってもいられずにその場で立ち上がった。彼女の部屋を出ると、珍しいことに廊下には誰もいなかった。
アデルは衝動に任せて、屋根裏部屋にあがっていった。この部屋にはエリオットには入らないように言いつけられていた。
『ガラクタが多いから、君が怪我をしたらいけない』
そんな風に言われて、今まで素直に従っていたが、こんな日くらいは背きたい気分だった。
部屋は布をかぶった家具や、物がたくさん置かれていたが、片付いていないというほどでもなかった。あたりを見渡して、アデルは不思議な感慨に囚われた。
「なにかしら、とても不思議なことだけれど……」
その全てを、どうしてかアデルは知っている気がした。
「ここは子供のための部屋だったのではないかしら」
棚を開けてみると、中には予想通り子供のおもちゃが並べられていた。
ふと手に取ったのは、木製の馬のおもちゃだった。なめらかな手触りのそれは、しかしとても古ぼけていた。アデルはそれをゆっくり触りながら、息を吐いた。
(どうしてかしら、なんでか……とても)
「懐かしい」
無意識にそう呟くと、馬のおもちゃを棚に戻した。そしてその隣に置いてあったこれまた古ぼけた皮の表紙の冊子を手に取った。
開いてみて、息を呑む。
「……エリオットの字……?」
文字を見ただけでどうしてか彼が脳裏に浮かんだ。
確かに愛する妻へ、と書き出されたそれはエリオットより、という署名で終わっていた。
「エリオットの日記……?」
ふらふらと床に座り込んだアデルは夢中になってページを繰った。
そこには手紙の形式で、エリオットの妻への想いがあますところなく綴られていた。愛する妻、大好きな君、誰よりも大切な貴女。出会ってから自分がどれだけ幸せだったか、どうやって愛を育んだか、語りかける彼の口調が簡単に想像できるくらい、熱烈な愛の告白だった。
かつての妻への想いと思えば、アデルは傷ついてもおかしくないはずだった。だが彼女は今、やっと――思い出していた。
「エリオット……」
すうっとアデルの両の瞳に涙が浮かぶ。
彼女はある一節をそっとなぞった。
『愛する妻、アデルへ』
君の了承を得ないまま、全てを決めてしまったことは申し訳ないと思っている。だが俺には他に選択肢がなかった。君がいない世界など、俺には何の意味もない。アデル。君は俺を許してくれないだろうな――。
「――アデル!」
顔面蒼白のエリオットが屋根裏部屋に飛び込んできた時、アデルは気を失って床に倒れ込んでいた。側にはエリオットの日記が落ちていた。
☆
アデルが次に目を覚ました時、誰かにしっかりと手をつかまれていることに気づいた。それがエリオットだと気づいて、彼女は口元に笑みを浮かべた。
「エリオット」
「気がついたのか、アデル!」
プラチナブロンドの短めの髪に、綺麗な蒼い瞳を持つエリオットが覗き込んできた。必死にも見えるその姿がアデルにある記憶を鮮明に蘇らせた。
「あの日と同じね」
「……あの、日?」
「うん。可愛いあの子を私が産んだ日」
エリオットの喉から、ひゅっと鋭く息を呑む音がした。
「私が……死にかけた日、ね」
彼が繋いでいる手にぎゅっと力を込めた。
「もしかして……思い出し、たのか?」
「ええ」
アデルがベッドに起き上がろうとする素振りをみせると、エリオットが手伝ってくれた。神妙な面持ちのエリオットを見つめて、アデルが呟いた。
「貴方の口から、全部教えて」
それぞれ男爵家に生まれたアデルとエリオットは、想い想われ結ばれ仲睦まじい若夫婦だった。そしてやがてアデルが一人目の子供を身ごもり、ふたりの幸せは最高潮に達していた。
「この家は、僕達の家だった」
「そうね。あの屋根裏部屋にあったのは、私達の赤ちゃんのものよね?」
エリオットは頷いた。
「ああ」
二人は初めての子供を心待ちしていた。
子供の名前も考え、家を整えた。
二人の幸せは揺らぐことがない、と信じていた。
だがあの日、アデルはお産で命を落としかけた。自分はいいから赤ちゃんだけは助けてくれとアデルは魘されるように願った。自分が苦しむ姿を見せたくないとアデルによって部屋に入ることを許されていなかったエリオットは、扉の外でその悲痛な叫びを聞いていた。
頑張りなさい、大丈夫、赤ちゃんは助かります、赤ちゃんだけではなく貴女も助けますからね!
医者たちの必死な声を聞きながら、エリオットは家を飛び出した。町で有名な黒魔術師の家にまっすぐに向かったエリオットは、魔術師にひれ伏して願った。
なんでも与える。自分の命でも魂でも、財産でも。だがどうしてもアデルだけは助けてくれ。自分の愛する妻の命を助けてくれ、と。
黒魔術師は気まぐれだった。
応えてくれない可能性もあった。けれどエリオットにとって運が良かったことに、その日の黒魔術師は機嫌がよかった。
『よかったな。赤ん坊は助かるみたいだぞ』
『赤ん坊は、ということは、アデルは、俺の妻は!?』
黒魔術師はニタリと笑った。
『確かにお前の妻の魂は今、現世から離れようとしているな――ふん、お前のような美しい男が泣きながら這いつくばっているのを見るのは気分がよい。よかろう、力を貸してやる――だがね』
対価はエリオットの人間としての瑞々しい生命。その命は黒魔術師の何よりの滋養になるのだという。エリオットの魂は死に、不老不死となって、永遠にこの世を彷徨う存在になる。
亡霊と同じだよ、と黒魔術師は言った。
その上で、アデルにかける魔法は、あまりにも巨大な闇の力を持っているために、何が起こるか約束はできないと告げられた。
『もしかしたらお前の妻は、永遠に目覚めないかもしれない。目覚めても記憶をなくしているかもしれない。人間としての肉体は滅びてお前と同じ不老不死となって、ただ眠るだけの人形に成り果てるのかもしれないよ』
あまりにも気まぐれで、残酷な魔法。
しかしエリオットは一瞬たりとも迷わなかった。
『アデルが生き続けてくれるならそれ以外は何もいらない』
その瞬間、エリオットの中からアデル以外の全てが消えた。
自分たちの子供ですら。
そうして黒魔術師に魔法をかけてもらい、アデルは眠り続けることとなった。エリオットは自宅に戻ると、家族に全てを説明した。それまで苦しみ続けていたアデルが突然安らかに眠り始めたことを医師も家族も目撃していたから、納得はした。
またエリオットがどれだけアデルを愛しているかを知っていたから、理解を示してくれた。
後日、エリオットが黒魔術師の家に向かうと、そこはもぬけの殻だった。その後、黒魔術師には二度と会っていない。
そしてエリオットはそれからずっとアデルの側にいた。
――150年もの間。
「150年も経ったの……?」
「ああ。俺の姉を覚えているか?」
「ケルシーのこと? もちろん」
アデルにも優しく接してくれた、とても朗らかな人だった。
「うん。俺たちの子供はケルシーとジョセフに引き取ってもらって、育ててもらったんだ。自分の子供たちと同じように可愛がってくれたよ」
「そうだったの……」
「ああ。年を取らない俺が育てていては、最初はよくても子供が奇異の目で見られるからな」
そうしてエリオットは時々アデルと自分の子供を密かに物陰から見守る以外は、この家に引きこもっていた。エリオットは自分の子供の前に姿を現さないと決めていた。
やがてアデルとエリオットの子供は成人し、ケルシーとジョセフから真実を聞かされた。
それまで十分ケルシーとジョセフに愛されて育った彼は、最初の衝撃が去ると、エリオットに会いたいと懇願した。
「彼が望むなら、とこの家に招待することにした」
エリオットの顔が蒼白になった。
「俺は……俺だけは、俺たちの息子に会った」
アデルは首を横に振った。
「いいの。彼が望んだのであれば、私が貴方でもそうしたと思うわ」
その答えを聞き、エリオットはゆるゆると息を吐いた。
「だが俺は……。息子より君を……」
アデルはエリオットの逡巡の意味がわかっていた。
だからもう一度首を横に振る。
「本当に、いいの。わかっている」
エリオットはため息のようなものをついた。
「彼は……すごく良い青年だった。笑顔が君に似ていた」
エリオットは彼に赦しを乞うた。自分の我儘で彼の側にいられなかったこと。彼から両親を奪ったことを。全ては自分の咎だ、恨んでくれていい、憎んでくれていい、と呟くエリオットに、息子は泣きながら告げた。
『今の両親は、僕を愛して育ててくれました。だから僕は貴方を恨んでいません。そして、僕のお母さんをお
父さんがそこまで愛していたことを知って、僕は……生まれてきてよかったなと思っています』
息子とはそれからも密かに交流は続いた。会うのは必ず、この家で。眠るアデルと共に。もちろん、エリオットが息子の人生の表舞台で関わることは一度もなかった。そして息子は最期に遺言を残した。
本当の両親を自分の子孫が秘密裏に守っていくのだと。そうして彼らがつましく生きていけるだけの財産を与えていくことを決めたのだ。
エリオットが毎月会っていたあの女性は――アデルとエリオットの子孫だったのだ。それはあの女性が望んだからだ。
女性は、アデルとエリオットの物語に深く魅せられていた。
「そんな……」
アデルは言葉を失った。
「これが真実だ。君が記憶が戻ったのなら、今度からは一緒に会おう。彼女と話しているのは、君のことばかりだ」
彼女は君が目覚めたと知ってからずっと会いたがっていたよ、とエリオットは静かに続けた。
アデルはしばらくして、彼に尋ねた。
「エリオットは、辛くなかった?」
瞬いたエリオットは、意外なことを聞かれた、とばかりに小さく首を傾げた。
「俺が辛い? なんでだ?」
「だって、自分の子供を自分で育てられなくて。私にそんな魔法をかけなければ貴方は人間として生きられたし、まだ若かったのだからきっと再婚だって――」
「アデル」
エリオットが彼女の名前を呼ぶ。
「俺にとって、君がいなければ何の意味もないことだ」
「エリオット……」
「もちろん、子供の成長を側で見られなかったことは辛かった。だがケルシーは度々我が家にやってきて子供の様子を聞かせてくれたし、必要があれば影から見守ることもできた。それに成人してからは、俺の存在を彼は知っていた。彼は俺を赦してもくれた。だから悔いはない」
エリオットの美しい顔がそこで歪んだ。
「それより俺は君が記憶を取り戻したら謝らなくてはと思っていた。俺が君を失いたくないばかりに、この世を永遠に彷徨う存在にしてしまった。あんなに楽しみにしていた子供の成長も見守ることができなかった。だからといってこれから子供を産むこともできない。君にとってこれが最善の選択だったのかを、俺に決定する権利なんてなかった」
「エリ、オット……」
エリオットの瞳は揺れていた。
「俺は君が眠っている姿を見守るだけで幸せだった。いつまでだって待てた。だが君は――」
アデルの両の瞳からこらえきれず涙が溢れた。
「アデル、泣かないでくれ。どうやって謝罪したらわからないが、それでもできる限りの贖罪はするつもりで」
彼女は首を横に振った。
「エリオット……」
「なんだ?」
アデルはエリオットをじっと見つめた。
(ああ……、私は、彼のことを)
「愛してる」
その瞬間、エリオットの全ての動きが止まった。
「愛してる」
アデルはしゃくりあげながら、もう一度言葉にした。
「私も、私も同じ決断を迫られたら同じことをした。貴方が死にかけて、貴方を救える方法があったらなんだってしたに違いないわ。だって愛しているから――エリオット、愛してる」
号泣しながらアデルが両手を広げると、ようやくぎくしゃくと動き始めたエリオットが彼女を抱きしめた。かつて何度も抱きしめた彼の身体は今も変わらずしっくりときて、彼女にやすらぎを与える。
「俺も、君を愛している。誰よりも、何よりも。自分の命よりも」
「私も……私を見守っていてくれて、ありがとう。待っていてくれて、ありがとう。愛してくれてありがとう」
アデルの声は震え、掠れていた。
「うん」
万感こもったエリオットの声も掠れていた。
「これからは私が貴方の側にいる。ずっとずっといる。もう一人にさせないわ」
彼女を抱きしめていた彼の腕に更に力がこもった。
まるで離さないとばかりに強く抱きしめられ、アデルも彼を抱きしめ返した。
エリオットが彼女の耳元で囁く。
「今までだって君と共に生きていたよ。お願いだ、これからも俺と永久に生きてくれ」
「……うん。私、あなたが側にいてくれたら、それだけで――」
☆
数年後。
「お母様、手紙が届いていたって」
「ありがとう」
息子が渡してくれた手紙を開いた女性はにっこりと微笑んだ。
「お母様、すごく嬉しそう。良い知らせなの?」
まだ幼い息子が興味深そうに尋ねてくる。
「うん、とても」
女性は柔らかく微笑みながら、文面に目を走らせた。
「知り合いのご夫婦が旅先でちょくちょく手紙をくださるの。いつてもとても幸せそうで、読むだけで嬉しくなってしまうの」
「そうなんだ」
「貴方にもそのうち話してあげるわね」
女性は手紙を丁寧に畳んだ。はーいと答えた息子はもう興味を無くしたらしく、部屋を飛び出していった。
「貴方の……ご先祖の話だからね」
部屋に一人になった女性はそう呟くと、紅茶を一口飲んだ。
+FIN+
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