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一夜のあやまち
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しおりを挟む「よし、これで終わりかな」
ふうっと息を吐き、洗浄した器材をまとめる。それから慣れた手つきでそれをパッキングし、滅菌器に入れスイッチを押す。これで今日の業務は終了だ。
作業していた台を拭いて、本田秋良はポキポキと首を鳴らした。あまりよくないのは知っているのだが、ついいつもしてしまう。
秋良は、都内の内科クリニックで看護師として働いている。今年で二十七歳、ここに勤めて三年が経った。
院長とその息子夫婦で営む小さなクリニックだが、人間関係もよくアットホームな雰囲気でとても働きやすい。一生ここで働きたいと思ったほどの職場だが、あと二ヶ月ほどで秋良はこのクリニックを退職する。
二年間付き合っている恋人と結婚することになったからだ。プロポーズされたのは三ヶ月前。彼から『結婚しよう』という言葉を聞いたときは本当に嬉しかった。
小学生の頃に両親を事故で亡くしている秋良は、自分の家族を持つことが長年の夢だった。ずっと親代わりをしてくれていた姉のことも安心させられる。
幸せの絶頂のはずだ。なのに、どうしてこんなに不安なのだろう。
これがマリッジブルーというやつなのだろうか。
はあっと深いため息をつき、秋良は同僚の待つナースセンターに戻るため薄暗い廊下を歩き出した。
職場を出て、買い物を終えた秋良は婚約者である鈴木浩太と暮らすアパートに帰ってきた。彼とは一年ほど前から同棲している。
浩太は小さな物流会社で営業をしていて、帰宅が秋良より早いが家事は一切しない。洗濯はできるが、掃除と料理がとにかく苦手だという。
秋良は唯一の趣味が料理だ。家事も苦になるタイプではないし、浩太に自分のものを洗わせるのに抵抗があって家事をすべて引き受けることにした。
だからそれについては不満はないのだが……。
「ただいま」
そう言いながらリビングに入り、部屋の中を見た秋良は大きなため息をついた。
テーブルの上には朝食に使った食器やゴミがそのまま残されている。ソファーには脱いだ服や靴下が無造作に置かれたままだ。
秋良はうんざりしながら、それを片付け始めた。食器はシンクに、ゴミはゴミ箱に。脱いだ服は脱衣かごに入れてほしい。
子どもでもできることだと思うのだが、何度言っても改善されることはなかった。
一年間言い続けてもダメだったのだから、もう諦めたほうがいいのかもしれない。
早く自分の家庭を持ちたいと願っていたのに、いざ結婚が決まったら不安になるのは浩太に対する不満があるからだろうか。
浩太は秋良より三歳年上だが、だらしがないところがあるし頼りない。普段の生活は秋良に頼りきりなくせに、彼女のことを下に見ている節がある。
『秋良、本当に彼に大事にされてる?』
プロポーズされたと報告したときに、姉にそう言われたことを思い出す。喜んでくれると思っていたのに、姉の反応は思いもよらぬものだった。
『秋良の選んだ人だから、本当はこんなことは言いたくないけど……。本当にこのまま彼と結婚して大丈夫? もう一度よく考えたほうがいいと思う』
硬い表情でそう言った姉は、明らかにこの結婚を歓迎していなかった。
今まで浩太との交際についてなにか言われることはなかったが、もしかするとよく思っていなかったのかもしれない。
だが、結婚を辞める勇気もない。このチャンスを逃したら、自分と結婚してくれる相手など二度と現れない気がする。
だからきっとこれでいい。不安が押し寄せる度に、秋良は何度もそう自分に言い聞かせる。
散らかっていたものをある程度片付け終えたところで、秋良は部屋に浩太の姿がないことに気がついた。
いつもはソファーか寝室のベッドでゲームをしているのに、コンビニにでも買い物に出掛けたのだろうか。
そこでふと、秋良は部屋の様子に違和感を覚えた。なにかがおかしい。それの正体をたしかめようと一歩踏み出したとき、テーブルに置いてあったスマートフォンが鳴った。
浩太だろうかと、スマートフォンを手に取る。メッセージの送り主は、やはり浩太だった。
『やっぱり結婚できない』
そんな言葉が目に飛び込んできて、秋良はピタリと動きを止めた。なにかの間違いではないかと、もう一度スマートフォンの画面を見つめる。だが、それが変わるはずもない。
少しの間待ってみる。しかし、それ以上メッセージが送られてくることはなかった。
「そうだ、電話……」
しばらく呆然としていたが、ハッと我に返り持っていたスマホを震える手で操作し電話をかける。
だが、呼出音さえ鳴らない。プー、プーという電子音だけがやけに冷たく耳に響いた。
着信拒否されている。その事実に愕然としてしまい、手からスマホが滑り落ちて床に落ちた。
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