異国の酒場にて

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異国の酒場にて(前編)

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1)

「ここですが……」

 部下が、酒場の扉を開けた。
 街灯などいっさい無い、暗い路地に、白熱電球の黄色い光が溢れ、異国の言葉の喧騒が、どっとわたしの耳を打った。
 やめておきますか? と言いたげに、現地人の部下はわたしを見る。

「せっかく連れてきてもらったんだ、入るよ」

 部下はうなずき、わたしを先導して、店の中に入る。
 タバコの煙に満ちた、汗のにおいと、香辛料のにおいが混じった生ぬるい空気がわたしを包んだ。酸っぱいような、この町のどこでも感じる特有なにおいだった。
 わたし一人だったら、絶対に入ることはないだろう。
 ぬかるむ路地の奥に並んでいる店たちは、ベニヤ板の壁にトタン屋根を被せたいかにも即成という感じの作りで、嵐でもきたらひとたまりもなさそうだ。
 店の後ろには、すぐそこまで鬱蒼とした密林が迫っている。

 勤める会社が、地球のほぼ反対側にあるこの国に工場を造ることになり、わたしは技術者として、稼働に向けてのチェックのために赴任している。
 実は、わたしには前任者がいたのだが、なんと彼は、赴任期間も終わりに近づいたところで、事故に遭い、この世を去ってしまったのだ。
 それで、急遽わたしが送りこまれた。
 本来は、彼の仕事の残りを片づける、短期間の滞在のはずだった。
 ところが、タイミングの悪いことに、そこでパンデミックが始まった。
 気づいたら、わたしは帰国の機会を完全に逸してしまっていた。けっきょく、会社からは、そのまま当面現地にとどまり、技術指導をつづけるようにとのお達しだ。納得はいかないが、現状では飛行機に搭乗できない以上、帰国のしようもない。わたしは指示に従うしかなかった。

 工場は、将来のこの国の工業発展を見越して、首都からはかなり離れた港町にあった。
 まるで海と見まごうような、対岸が見えないほどの大河のほとりにあるその小さな港町は、すぐ裏手は熱帯の密林である。これからそのジャングルを切り開いて整地し、港も整備して、やがては大規模な工業団地とし、海路で海外に製品を輸出していく——これがこの国の政府の方針で、国外の企業を好条件で誘致していた。我が社はその誘いに乗ったわけだ。
 現時点では、ジャングルに隣り合って、いきなり建てられつつある工場群があるだけで、それにともない人が集まりつつある途中で、娯楽も首都のような洗練されたものは望むべくもなかった。
 帰国の見通しも立たないまま、滞在が長くなるにつれて、退屈がつのり、

「土地の人しか行かないような、面白い料理店に行きたいんだ」

 それで、部下に聞いてみたわけだ。
 浅黒い顔をしたわたしの部下は、そう言われて少し考えこんだ。

「そういうのは、ヤマダさんのお口には合わないのではないでしょうか……」

 以前日本に留学していたという彼は、流暢な日本語で答えた。
 真面目に仕事をこなす彼をわたしは気に入っていて、日本語が堪能なこともあり、仕事上の事柄に限らず、生活全般に関しても相談を持ちかけていたのだった。

「いつも食べているのが不味いというわけじゃないんだよ。ただ、同じ料理には飽きてしまってね」
「どこに行ってもそう変わるものじゃないですよ」
「それでもいいから頼むよ、せめて気分をかえたいんだ」
「そうですか……?」

 あまり乗り気でない部下に、わたしは頼み込んだ。

「何があっても、後で文句を言ったりしないから」
「大丈夫かなあ……でもヤマダさんの頼みですからねえ」

 渋る彼から、なんとか約束を取り付けたのだった。


2)

 狭い店はほぼ満席で、客はもちろん、土地の人ばかりだ。
 店に入ったわたしたちに、いっせいにみんなの視線が集まる。
 よそ者が来たのはまずかったか? と一瞬たじろぐが、人々はすぐにわたしたちに興味を失ったように、自分たちの会話に戻っていく。
 笑い声、嬌声、怒鳴り声、歌声、酒場はどこの国でも同じなのだろうか、たいへん賑やかだ。

「ヤマダさん、こちらへ」

 部下が店の奥の方にわたしを連れていく。
 不揃いなテーブルについた客たちの間をぬって進み、奥の席に座った。
 壁を背に、ガタガタする椅子に腰を下ろし、ほっと一息つく。
 店の天井では、紐で無造作に縛り付けられた扇風機がうなり、濁った空気をかき混ぜているが、どれほどの効果があるのかはわからない。
 こぼれたスープや、食べ物のカスが散らばるテーブルの上を、黒い甲虫が一匹、モゾモゾと歩いていた。
 なにしろすぐ裏はジャングルだ。
 そういうこともあるだろう。

 ずんぐり太った店員が現れて、手にした雑巾で、テーブルを無造作にざっと拭った。
 甲虫も、コロンと床に転がり落ちた。
 店員が、部下になにか早口で言い、部下もそれに、二言、三言答える。
 たぶん注文をしたのだろう。
 うなずいて店員は店の奥に入っていく。
 というか、店員の行った先は、あれは建物の外だ。
 今、彼が開けた扉の向こうは、真っ暗闇だった。
 厨房はどうも店の外、裏手にあるようだ。
 店の隅にあるラジオからは、女性歌手がまるですすり泣くかのように歌う、流行歌が切れ目なく流れている。

 やがて店員が、トレイをかかげて、戻ってきた。
 テーブルの上に、コップ二つと、大きなボウル、あと料理の載った皿をおいていく。
 ボウルの中には、紫色のなにかドロッとした液体がはいっていた。
 木の柄杓がさしてある。
 部下は、その柄杓を手に取ると、ボウルのなかみを掬って、トロトロとコップに注いだ。そして、コップのひとつをわたしの前に滑らせて差し出した。

「これは、土地のお酒なんですが、お口に合うかどうか……もしダメなら、いつものビールもありますので」
「ふうむ、発酵酒だね」

 コップを手に取り、匂いを嗅ぐ。
 草の香りのような匂いに、アルコールの気配もある。

「じゃ、乾杯」

 部下とコップを合わせ、一口、口に含んだ。
 炭酸が舌を刺激した。
 なにかの香辛料のような風味があり、そして甘さがある。
 アルコール度数はそれほど高くない。
 そして、なにが原料なのだろうか、柔らかいつぶつぶが口の中に残る。

「うーん、いいね、これは。やっぱりドブロクに近いのかな、美味しいよ」

 心配そうにわたしを見ている部下に、微笑んで感想を言った。

「ああ、よかったです」

 ほっとした顔だ。

「くせがあるので、嫌いだというひともおおぜいいますよ」
「そうなのかい? ぼくはお酒に強くないけど、これなら飲めるよ、さて、こっちの料理は、と」

 皿の上の料理に改めて目を向ける。
 緑の野菜と——この白いのは貝だろうか、肉質のなにかを炒めたもののようだ。フォークですくって、口に運ぶ。
 うん、これもいける。この食感と風味。やはりこれは貝だろう。滋味があり、そして歯切れの良い野菜とよく合っている。

「これも美味しいねえ、ああ、いいなあ、来て良かったよ、良い店につれてきてくれてありがとうね」

 わたしは部下に礼を言う。
 それからも、部下がいくつか料理を注文し、紫色の酒をおかわりし、わたしは料理を堪能した。
 適度なアルコールが身体をめぐり、心地よく、部下とも楽しく会話を交わした。
 そんななかで、部下がぽつりといった。

「ヤマダさんが、いい人でよかったです」
「え?」

 いきなりそんなことを言われ、わたしはとまどった。

「いや、取り立てて、そういうわけではないと思うけどな、ぼくなんか」 

 しかし、部下は真面目な顔で

「いいえ、ヤマダさんはいい人です」

 と繰り返す。
 その真剣な口調におされていると

「こんなことを言うと、ヤマダさんは気を悪くするかもしれませんが——」

 彼は少しためらって、そして言った。

「Kさんは……ひどかったです、あのひとは」

 K——つまり、死んでしまった前任者である。

「そうなのか?」
「はい。あえて、なにかは具体的には言いませんが」

 そう言う彼の目に、ちらりと怒りの色がのぞいた。
 温厚な彼がそんな表情をのぞかせるなんて、いったい何があったというのか。
 実のところ、Kは、本社にいた頃もあまり評判のいい男ではなかったのだ。公私ともに、いろいろと問題を起こし、それで世界の反対側に派遣される羽目になったとの噂もあった。もっとも、そんな奴を送りこまれる、こっちの工場としてはたまったものではないだろう。

「君たちにずいぶん迷惑をかけたんだね、きっと」

 彼はなにも言わない。

「もうしわけなかったね……」

 わたしは頭をさげて、そしてちょっと冗談めかして言った。

「まさか、それで、天罰が下ったわけでもないだろうけどね」

 自分からそんなふうに口に出しながら、なにかそのとき、わけもなく、わたしの胸の奥で、ぞくりと動くものがあって、わたしは落ち着かない気持ちになり、部下から目をそらした。

(おや?)

 そうやってそらした視線の先。
 店の床に、なにかが動いているのが目にとまった。
 ゆっくりと、モゾリ、モゾリ動いていくのは。

(あれは——亀?)

 わたしは眼をこらした。
 壁際の、テーブルの下の床を、その生き物は歩いていた。
 影になってよくは見えないが、確かに甲羅があって、そこから首と、脚がつきだしているようだ。
 亀は、首を振り、あたりの様子をうかがいながら、ゆっくり、進んでいく。

「ヤマダさん、どうされました?」

 じっと見つめていると、そんなわたしの様子を訝しく思ったのだろう、部下が声をかけてきた。

「あ……うん……面白いものがいたので」

 わたしは、部下に顔を向けて

「亀が、店の床をウロウロ歩いているよ。さすがジャングルが近いから、入ってきたんだねえ、ほら、あそこ……あれ?」

 指さしたのだが、もうそこには亀の姿はなく、

「おかしいな……」

 床の上、あちこち視線を走らせたが、どこにも見つからなかった。
 どこか物陰にでも入ってしまったのか。

「ハハハ、いなくなっちゃったよ」

 そういって、また部下に目を戻したわたしは、驚いた。
 その時、彼の顔に浮かんだ表情が、予想外の、どう解釈したらいいのかわからないものだったからだ。
 驚き? いやなにか違うような。
 恐れ? それもしっくりこない。
 どう説明したらよいのか、驚きや恐れと受容や安堵、そうした矛盾したものがないまぜとなったような、形容のしがたいなにかが、そこにはあったのだ。
 といってもそれは一瞬のことで、すぐにその表情はかきけされ、いつものおだやかな顔がもどってきたのだけれど。

「天罰、というのは、この土地の言葉で『パラーレ』というのですけどね……」

 部下はそんなことを言った。
 すっとテーブルに影が差した。
 顔を上げると、ずんぐりとした店員が、皿を持って立っていた。


港の酒場にて(中編に続く)
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