ま・な・か・い

たみやえる

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ま・な・か・い

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(結婚はしない)って、決めてる。
 恋は消費するのが楽しいんだもの。
  女と男の出逢いって一緒ファンタジー。目と目を交わしただけで(あ、私たち付き合うのね)とわかってしまう瞬間が本当にある不思議。刹那のときめきは(もしかして、運命?)なんて、胸を弾ませてくれるごちそう。だからかしら。私の恋愛は長続きしない。
 昨日の夜マンションの前で喧嘩別れした彼とは、ちょうど一ヶ月だった。
 恋の賞味期限は短い。二人の間に〈慣れ〉が漂ったらもうその恋は傷みかけ。始まった時の、なんていうか……キラキラした感じがなくなればもうおしまい。
 そうなる前に恋の美味しいところをしっかり味わっておきたかったのに……。
 今夜は仕事帰りに待ち合わせしてディナーだった。一週間ぶりの彼の目にくたびれて見えないよう、化粧直しは念入りに。
 普段ならちょっと尻込みしちゃうような高級レストラン。席に着くなり彼が、
「ね、店内少し照明落としすぎじゃないか」
と小声で言ってきた。
 今度の彼は研究職。あまり人と接しない職業柄からなのか、同い年なのにこんな風に時々見せる初心うぶな一面が可愛らしい。
「ううん、ちょうどいいくらい」
と、キッパリ言った私に彼が自信なさげに小首をかしげた。
「そうかな」
(うふふ。全部見えたら興ざめだもの、男と女のことって……)
 目の前の彼に対する微笑ましさがこみあげてきて、こぼれそうになった笑いを我慢する。プライド傷つけちゃ、悪いわ。
 付き合い始めてまだ浅いこの関係を、私はこれから楽しむつもりだった。会えなかった時間の隙間を埋めるために繰り出す他愛ないおしゃべり。寄せては返すさざ波みたいに視線を絡めながら漂う甘い雰囲気もご馳走。その最中に彼が小さくあくびした。
 それが、気にくわなかった。
 帰りの車の中で喧嘩になって……後はいつも通り。私の方から、サヨナラしてやった。
 落ち着いた恋がしたい。浮き草みたいな恋愛はもううんざり。毎回そう思うのに……。来月九日になれば三十六。若くはない。でもオバハンて歳でもない。残業が続くとさすがに深くなる小ジワだってまだまだ美容液を塗れば一晩で復活するから。
 (どうして私、いつもこうなっちゃうの)
 シクシクとした心の痛みをビールで飲みくだして目が覚めた土曜の朝(アハ、正午に近かった)。ゾンビになりかけの私が覗き込んだ鏡の中、ほっぺたのど真ん中につけまつげが居座ってた。そのよじれ具合が私の失恋の痛みを代弁して叫んでくれているみたい。おかしくって笑ってしまった。
 とりあえずシャワーだ。昨日の化粧と酒の匂いよ、さらば。さっぱりしてベランダに出た。七月の透き通った日差しとは違う地面の湿気を含んだじっとりとした紫外線が肌に染みる。目を閉じて両手を広げて爪先立ち。うん、と伸びをした。洗濯機がくぐもった音を立てて回っている。
「おはよ、駒子さん」
「おはよう、には遅すぎない? 今何時?」
 薄眼を開けて顔を向けると、〈隣の部屋の優しいボク〉と勝手に心の中で呼んでいる隣人が、物干し竿でヒラヒラする洗濯物を背景に微笑んでいた。
「駒子さん起きたばっかり? あー、また彼氏と別れたでしょ」
 問いかけに答えない上に忘れようとしてる昨夜の失恋を言い当てられた。ピタリと動きを止めたあたしに彼がニヤッと唇の片端をこころもち上げる。彼の名前は春日津雪。ひとまわりも歳下だから流石に射程外。男と女のあれやこれやの含みなしに話せるのが楽でいい。
「仕事帰りで疲れてヘロヘロなのにさ、マンションの前で痴話喧嘩してるんだもん。知らない人だったらシラーっと横を抜けてこうと思ったのに、もお、声が駒子さんじゃん。なんか俺出て行きづらくなっちゃった」
 思わず泳がせた視線の先には遮光カーテンみたいな雲が幕を張っていた。近頃青いのは空の上の、上の、もーっと上の方ばかりだ。
「俺がここに越してきてから、そういう場面に何回遭遇したことか。もう数えるのも忘れちゃうほどだよ」
って、津雪が歌うような軽ーい口調で言った。こいつ、あたしの男関係にとやかく言わないくせして、こういう嫌味を時々放ってくる。他の人言われたらカチンと来るところ。でも彼に言われると心が波立たない。なぜか私、この〈隣のボク〉に甘いところがある。
「いい加減、婆さんになる前に結婚して落ちつけって?」
 わざといじけた口調で言ったら、
「俺、いくつになっても駒子さんはきれいだと思うよ」
と、直球を投げてくる。うわあ……口先だけだとしても悪い気はしない。うっかり頬を赤らめたあたしのお腹が盛大に、ぐう、と鳴った。

「え? 駒子さん、今日結婚式に出席するの? 何時から?」
と、聞かれたのは、彼の手による作りたてのBLTサンドを機嫌よく頬張っているときだった。料理が趣味だという津雪のお誘いを受けてご相伴に預かること度々。すっかり馴染んでしまった、勝手知ったる他人の部屋。こんなふうにいきなり上がりこめるのは津雪にオンナの影がないから。
「二時から」
 式の開始時刻を答えたら、
「午後の?」
と聞き返された。
 何度も聞き返してくる彼に、上の空で、うん、と頷くと呆れたようにため息を吐かれた。
……夜中の二時に挙式するカップルがどこにいるのよ。
と心の中で毒づいた。
「髪は? セットとかどうするの。服は? ああっ、爪、手入れしてないじゃないですかっ」
……あんたは私の母親か。
「うるさいなー。新婦は会社の後輩なの。彼女が入社した時に指導係だったから招待されるって、まさに数合わせ要員だわね。せいぜい普段のスーツにコサージュで十分でしょ。髪は先週カットしたばかりだから……」
「ダメだよ。せっかくのお祝いの式なんだからとっておきじゃないと!」
 私の前に今まさに置かれんとしていたコーヒーカップがキッチンへ後戻りしてしまった。
「え、待ってよ。飲みたかったのに!」
「そんな時間ないよ、もう……っ」
 あわただしくジャケットを羽織った津雪は有無を言わせず私を部屋の外へ連れ出した。
 ? え? あたし部屋着のままなんだけど! 抗議しても津雪はどこかへ電話してちっとも聞いてくれやしない。

 三時間後、私は無事、後輩の結婚式に参加していた。式場までは津雪が車で送ってくれた。至れり尽くせりだ。
 気張った九センチヒールもきらきら光るスクラッチバッグも、頭から爪の先まで、ぜーんぶ、津雪の見立て。彼の口利きによる借り物。ふんわりと品良くアップにされた髪と、透けるような肌色に仕上げたメイクは津雪がしてくれた。
 私のずぼらのおかげで知ることになった彼の職業。津雪はメイクアップアーティスト(のアシスタント)だったのだ。
 アシスタントと言っても後ろから数えたほうが早いくらいですよ、と津雪。ああいう仕事にも序列があるのね。仕事に呼ばれない空いた時間に、美容師のアルバイトもしているんだとか。なかなか水物な(安定してないって意味)お仕事してるのね、って言ったら力ない笑いが返ってきた。悪いこと言っちゃった、と思った。
 小汚い部屋着のまま、津雪に腕を引かれ流まま、高級ドレス専門店に入ってしまった時は、ホント血の気が引いたんだから! 店の一室を借りて私のこと、手際よく変身させていく津雪は私のよく知る〈隣のボク〉じゃなかった。
 痛いくらい真剣な表情。まさに、仕事する男って感じで……。いつもの、ゆるーい彼とのギャップに、私は終始ポカンと口を開けていた。津雪に「口、閉じて」と何度も注意されるまでそのことに気づかなくて、すごく恥ずかしかったんだから!
……披露宴の会場で手持ち無沙汰だった私は、そんなこと、ぼんやり思い返していた。
——聞いた? 智美(新婦のことだ)の旦那さま、あの、Misakiの御曹司だって!
——うそ。玉の輿じゃん。
 Misakiって言えば、国内ばかりでなく海外でも評価の高い日本屈指のジュエリーメーカーだ。まさか、一貴がそこの御曹司だったなんて……。
(はあ、それでいかにも金持ちって雰囲気のオジさま、オバさま方が列席してるのね)
 心の中でこっそり普段着のスーツで参加しようとしていた自分の不明を恥じた。
 その時、誰かが〈恋多き女〉と噂の立つ私を見とがめたらしい。——いい歳して、がっついてるって聞くあの女? とか、——後輩の結婚式で男漁りする気だったりして……なんていう聞き捨てならないささやきが聞こえてきた。
 さらっと、浴びせられる、悪意のにわか雨。何度経験しても、そのたびどうしようもなく心が重くなる。女同士って容赦ない……自分もそんな女のひとりということにため息が出てしまう。
 今、話題にする? 移り気な恋愛ばかりの私だけど、略奪とか不倫とかそういう後ろめたいことはやったことないから。正々堂々と恋するのが私の信条。他人ひとのものに手を出したことはない。だからとやかく言われる筋合いなんてない。
 普段の私なら言われるままにしない。そういったささやき嬢たちをさりげなく会場の外へ連れ出し、先輩への礼節についてきっちりお説教させてもらうところなのに……。
 それまで大して気にもかけていなかった新郎の姿が、ひな壇当たったライトのせいで、今、はっきり見えたのだ。
 私、とっさに左手で右の小指を隠した。そこには小さなシルバーのリングがはまってた。
 そういえば、結婚式場近くで停めた車の中、私の髪の出来具合を再度確認した津雪がこれを気にした。
「駒子さん、指輪変えませんか。こちらのゴールドの、使ってください」
 差し出された黒いケースの中で濃い金色の指輪が煌めいていた。清流の滴りのようなラインが麗しい。これも借り物かしら。
「ありがと。でもこれはいいや」
 津雪がまさに、私の手を取って薬指にはめてようとしていたそれを慌てて断ったのだった。
 どうしても、外せないでいる小指の思い出……。
 ふ、と我に帰れば、新郎新婦が二人してキャンドルサービスで招待客の各テーブルを回り始めたところだった。
 自分の呼吸がどんどん浅くなっていくのを止められない。深呼吸って、どうやればいいんだっけ? そんな風にモタモタしてたら幸せそうな笑顔を顔に貼り付けた二人が来てしまった。
 笑顔を返そうとギクシャクと顔を上げた時、ほんの少しの
 ちょうど新婦である後輩の視線は同じテーブルに座る私以外の人間に向けられた瞬間だった。
 彼と目が合った。
 相変わらず笑うと目元によりシワが普段怜悧な表情の彼の顔を和らげセクシーだった。
 気のせいだ、と思う。もう彼は他人ひとのもの。
 あという間に別のテーブルへと移動して言ってしまったその背中から目が離せない。
(ああ……!)
 突然私の中に理解が降ってきた。
 これまでの恋は擬態だった。自分自身を騙すため、上っ面な恋に浮かれていただけ……。


 就職したて、背伸びしてばかりだった私。半ば度胸試しの気分で発作的に飛び込んだ本格的なバーで出会った男。歳は私より多分一つふたつ上。ちょっぴり皮肉屋、でも優しくて。お互い下の名前しか知らない、今振り返れば儚い付き合いだった。私は彼に夢中だった。気乗りしていない彼に粘り勝ちして一緒に行った夏祭り。アクセサリーを売る露店で見つけた小さな指輪。記念にしたくてねだった私に、彼が仕方ないなって笑って……。
 急に彼と連絡がとれなくなって、目が溶けるくらい泣いたものだ。


……一貴かずたか
 心の中で彼の名を呼んだ。口に出せばきっともう自分の心に蓋はできなくなる。
 そんな予感に心が震えた。
 でも、もう会うことはない。
 彼は結婚したのだ。偶然どこかで会っても素知らぬふりをしよう。私は過去の女って、ちゃんと自覚してるからって自分に言い聞かせた。
 それなのに。
 私の勤める広告代理店の会議室、避けようがない再会だった。
「こちらクライアント側の広報担当で高藤さん」
……私の信条は、他人ひとものには手を出さないってことだったはず。打ち合わせの後食事に付き合ったのがいけなかった。平日の夜、仕事とマンションうちの往復の間のわずかな時間、ほんの少しの逢瀬の回数が、時間が増えていく。
 会うのはもうやめたいのに、やめられない。
 これも仕事と自分に対して理由にならない言い訳をくりかえした。長い残暑が終わりを告げた頃、五つのショートムービーと、津雪がメイクを担当したテレビCMが完成した。その夜、マンションまで送ってくれた一貴の車から降りようとした時、突然彼の手が伸びてきて私はシートに押し付けられた。
 キスの味は、苦かった。
(……まだタバコ吸ってるんだ……)
 懐かしさで視界がうるむ。エレベーターを待つのがもどかしい。一人上昇する小箱の中、叫びそうになる口に心臓に拳をあてた。沸騰する鼓動を押さえつけたかった。
……次があるとしたら。今度はきっと、キスだけじゃ済まない……。


 部屋につく途中、重そうなデイパックを背にコンビニのレジ袋をさげた津雪に会った。彼も今帰りだったのだろうか。
「おかえり。久しぶりだね、駒子さん」
 そう言われるまで、彼と最近顔を合わせていなかったことに気づいていなかった自分に驚いた。すっかり彼に餌付けされてズーズーしくなってた私は、仕事帰り、途中で津雪に電話してご相伴のリクエストするのが、特に予定がない夜の日課だったのに。
 今までなら屈託無く言えてた〈ただいま〉って言葉が、喉に引っかかって出てこない。
 おかしな風に空いてしまった彼との距離を引き寄せたくて、
「あ、ごめん。この間の結婚式の時はホント色々良くしてくれてありがとう。あの時かかったお金、払うから、ちゃんと請求して」
と今更、二ヶ月前の結婚式の時のお礼を言ってみた。
「駒子さん、ご飯は? 有り合わせでよければ作るよ?」
と返した彼の目が笑ってないように見えた。
「……ごめん。外で食べてきた」
 作り笑顔で津雪の脇を通り抜ける。彼の向こうが私の部屋だ。鍵を取り出してドアを開けようとした私の背中に、
「駒子さんに二回も謝られちゃった。こんなの初めてだよ? どうしたの?」
と、津雪の声。彼の方を見もしないでガチャリと鍵をひねると、
「私、疲れてるから!」
とドアの外に声を放ち、自分の部屋に滑り込んだ。

 一貴の会社との仕事は終わっても、彼からの連絡が届くスマホの画面。今夜の待ち合わせ場所に彼はホテルのロビーを指定してきた。
 つまり、行けばもう、後戻りできない夜になる。
 いずれそうなると心のどこかで予想していたはずなのに、いざ現実となってそれが目の前に迫ってくると、動揺した。脳みそに薄いベールがかかったみたいになってしまって……。思考も感情も自分どおりに操縦できない。仕事を何のミスなく終わらせたのが不思議なくらいだった。ふらふらと指定されたホテルに着くと彼は深いソファーに腰を落ち着けコーヒーを飲んでいるところだった。
 手招きされるまま隣に座った彼の膝の近さ! お互いの膝が軽くぶつかって、くらくらしてしまいそう……。
 彼は私の小指の指輪を撫でた。
 どういう風に会話したかよく覚えていない。
 立ち上がった一貴が指を絡めてきて、私は視線を落とし導かれるまま、彼の後ろについていった。不意に彼が足を止めたので顔を上げると、そこには、おくるみを慣れない仕草でぎゅっと抱き抱えた智美が立っていた。化粧なんてしてない。身なりは整えていたけどいかにも駆けつけたって風で彼女は肩で息をしてた。智美が寿退社して以来の再会だった。
……全然気づかなかった。二人はできちゃった婚だったのね。
 すっぴんだけど彼女は美しかった。燃えるような怒りと母になったばかりの輝きがそして若さがオーラとなって彼女を取り巻いていた。(かなわない……)と心の底から思った。一貴の手が離れる。行き場のなくなった自分の手の虚しさったら! どうしようもない。
「どういうつもり? 結婚式の時に目をつけたってわけ? 一貴さんは私の夫なの。子供だっているっていうのに……!」
 智美の金切り声が私を打ちすえると、腕の中の赤ん坊が大声で泣き始めた。一貴が智美にすり寄り、猫なで声で赤ん坊をあやし始めるのをひどく遠くの光景のように見ていた。
 完全に、私の敗北だった。
 冷ややかな視線が自分に突き刺さるのを感じた。
 視線は一つじゃないって思った。ホテルのロビーにいた人全部から非難されている気がした。(なんでこんな惨めな思いしなきゃいけないの……?)喉の奥から苦いものがこみ上げてきた。
 立ち尽くしたままでいた私の頬が急に破裂したみたいに熱くなった。いつの間にか目の前に来ていた智美が私の頬を張ったからとわかったのは、彼女が子供を抱いているとは思えないような早足でホテルを出て行ってからだった。一貴は私に振り返りもせず、二人を追いかけて行ってしまった。
(何、あれ。年下の女に尻に敷かれて。だらしない……)
 急に左手小指の指輪がすごく重たく感じられた。
 (……私は後悔しない)心の中でそう繰り返したのは、意地を張っただけだった。誰に対して? 多分、自分自身に……。とぼとぼ出口に向かいかけたていた私の足が止まった。
 だって、津雪がいた。
 私をまっすぐ見ている。見たことない彼の険しい表情に体が震えてきて思わずその場に座り込んでしまっていた。
 恥ずかしくて。情けなくて。
 その時になってようやく涙がこみ上げてきた。
 夜の街の中を若い男に手を引かれ、涙で化粧をぐちゃぐちゃにして歩くオバハンを他人ひとはどう見たことだろう。
 あーあ。私、ぬけがらだ。ヒールが乾いた音をたてた。アラフォー女の涙なんて、無様で、みっともなくて汚いだけ。通行人のうち、不躾な輩がこっちを指差して笑った。こんな私と歩いたって、恥ずかしいだけだよ? ……なのに津雪は私の手を離さなかった。
 マンシヨンの駐車場に車を止めると、津雪はマンションの入り口とは反対へ私を連れて行った。
 私たちの住むマンションの横は河川敷に面していて一級河川の上に新幹線の高架がかかっていた。泣き腫らしている私を気遣って夜風に当てようとしてくれたものか。
 キンモクセイの香りが鼻をついた。マンション側の街路樹のなかに小さなオレンジ色の小さな花が泡立つようにして顔をのぞかせている。(もう十一月になろうっていうのに、まだ咲いているの……)そのまま顔を上げると、まんまるな月が浮かんでいた。
 津雪が私の手を取り、小指の指輪を引き抜く。おおきく振りかぶると河川敷に向かって投げてしまった。止める暇もなかったけど、惜しいいとも思わなかった。
「……ねえ、何か作ってよ。お腹すいちゃった」
 ほんとはそうでもなかったんだけど……久しぶりに彼の手料理を要求した私に、津雪は情けない表情かおして鼻の頭をかいた。
「俺、今、駒子さんを部屋にあげたら何もしないでいられる自信、ないんだよな……」
 視線を合わせようとしない彼を見て、私は急に身体中に血が回り始めた気がした。
(いや、待て。いくら何でも私の勘違いじゃない?)と自分を戒めてみる。
 不倫しかけた(寝てないもの。未遂でいいわよね?)現場を見られてすぐだ。この気のいい〈隣のボク〉の好意、ちょっとした気遣い。それとも、やんわり牽制されてるのかも。オバハンにこれ以上関わりたくないって……。
 勘違いしたくない。厚かましいって思われたくない……。だから私、
「あ、そ」
と、素っ気なく彼の言葉をやり過ごした。
 マンションに戻り二人してエレベーター乗る。部屋に向かって歩いている時も、私は自分のつま先だけを見ていた。
……明日になったら、いつも通り、ちょっと仲が良いただの〈お隣さん〉に戻ればいいんだ。
 とうとう、私の部屋の前まで来た。津雪は自分の部屋のドアの前で立ち、こちらを見たままでいる。私がちゃんと部屋に入るまで見守るつもりなのだろう。
 面倒見の良い男。
 胸に広がった悲しさを無視して、
「今日はありがと」
と私が閉じかけたドアに、すごい勢いで津雪が足を挟んできた。これじゃ、ドアが閉められない。

 戸惑って視線だけ上げた私は、

津雪と、目が合った。


〈了〉






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