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蘇りの書

あの曲を……

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 あの夕暮れどきと同じだ。

 そう弾きながら真生は思っていた。

 ステンドグラスに遮られて、本来の色が見えない夕陽が虹色に降り注いで揺れている。

 あのとき、弾きながら見上げた真生の目に、ステンドグラス越しに、あれが見えた。

 夕陽の中を飛ぶ三機の戦闘機。

 あれがすべての始まりだった――。

 曲は転調し、明るい未来へと向かう。

 感じる。

 あの波動が遠ざかって行くのを。

 この曲が完成に近づくとともに、過去と今が切り離されていく。

 高坂のレコードが途中で引っかかって聴けなくなっていたのは、あの先がなにか違う気がすると思っていた、哲治の想いが傷となっていたのかもしれない。

 終わりのない曲。

 終わりのない世界が今、終焉を迎えようとしていた。

 消えゆく波動を感じているのかいないのか。

 秋彦は、ふらつきながらも立ち上がり、側まで来た。

 彼はなにかが起こりつつあるのを察しているようだったが、真生の手を止めることはせず、その手許を見つめていた。

 ああ。
 遠ざかっていく、すべてが――。

 あの張り詰めた空気も。
 華やかな街並も。

 あの部屋の、高坂さんの匂いも。

 でも、そう。

 すべて、もう終わっている世界のことだったのに。

 何故、今、こんなに……。

 最後の一音が長く礼拝堂に響き、厚いステンドグラスを振動させる。

 天にそびえるようなパイプの中の空気が抜け切り、やがて、その振動が止まった。

 ステンドグラスの向こうには、ただ夕焼け空があり、飛行機雲さえ残ってはいないようだった。

 終わらない世界が収束し、まだ自分の周りに漂っていたように感じていたものすべてが、その一音とともに消えていた。

 真生は秋彦を振り向く。

「先生、あなたはもう元の時代へは戻れません。

 もうなにも、あなたの手には入らない。

 あなたが欲するものも、あなたが縛られていたものもすべて。

 津田秋彦は今、死んだんです。

 津田先生、

 ――あなたはもう自由です」

 秋彦は黙って夕陽を背に立つ真生を見ていたが。

 やがて、笑い出す。

 その場に膝をつき、すがるように真生の両腕を握った。

 なにかの想いを込めたような力強さがその手にはあった。

 一人殺して、真生にはわかった。

 自分がもう一人殺すことは出来ないと。

 だが、津田秋彦を殺したのは自分のようだった。

 誰もそれをしていないのに、彼はその存在を消しているから。

 ならば、こうするしかないと思った。

「莫迦だな……」

 ぽつりと秋彦が言った。

「お前ももう高坂と会えなくなるのに」

 色のついていない部分に夕焼け空の広がるステンドグラスを見ながら真生は言う。

「でも、守りたかったから。

 例え、あの人がもう死んでいる人だとしても。

 私がもう二度と会えないとしても。

 ほんの少しでも長く、この世界に存在していて欲しいと願ったから」

 瞬きもせず、下も向かないようにして、真生は夕陽を見つめていた。

 真生、と呼びかけ、秋彦が立ち上がる。

「もう一度弾いてくれ」

 秋彦の手が離れたとき、不思議な感じを受けた。

 高坂もあの時代ももう自分の側にはないのに、そこから来たこの人は確かに生きて、自分の腕をつかんでいたことに。

 それなのに、高坂はここには存在できない。

 高坂は自分の手をつかんでいても、一緒に飛ぶことはできなかった。

 さだめにあらがい、死者の国から蘇った人間はきっと時代を越えることは出来ないのだ。

 真生は椅子に座り、もう一度、完成したその曲を奏でる。

 その調べは八咫の許までは届かないだろうが、坂部には聴こえただろう。

 今日はやけに練習熱心だなと思われてそうだと真生は笑う。

 それか、曲が違うじゃないかと怒鳴り込んできそうだ。

 秋彦のことをなんと紹介しようかな、と思ったとき、目を閉じて聴いていたらしい秋彦が言った。

「……美しい音色だな」

 オレンジの光に照らされたその白い顔をちらと見る。

 穏やかな笑みに見えた。

「さっき、ここに飛んだとき、自分は何百年も眠っていたんだと思った。

 あのとき、何故笑ったのか自分でもわからなかったんだが、今ならわかるよ」

 秋彦は本当は解放されたかったのだろう。

 母親の呪縛から。

 だが、強い母への想いがそれを拒んでいた。

「ここは何百年も経った世界じゃないですよ」
と鍵盤に視線を戻しながら言ったが、秋彦は笑ったようだった。

「……同じことだよ」
と。

 ステンドグラスが震えても、もうその先になにも見えなかった。

「如月ーっ。
 曲が違うじゃないかーっ」

 案の定、坂部が扉を跳ね開け、怒鳴り込んできた。

 真生は秋彦と目を合わせ、少し笑った。



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