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蘇りの書
時空の揺らぎ
しおりを挟む初めてこの時代に迷い込んだあのとき、真生は男に襲われた。
なんとか抵抗しようと、ベッドの上に散らばっていたガラス片を手探りで探す。
だが、そのとき、いつも学園を這っているのと同じ男の霊が、真生の上にのしかかっている男の顔を見て言った。
『あれ? 俺が居るなあ……』
その瞬間、予感は確信に変わった。
そう。
きっと、これから自分がこの男を殺すのだ、と。
『お前に殺された……』
学園でも、男はいつも自分に向かい、そう言っていた。
そのときは、誰にでも言っているのだろうと軽く考えていたが、そうではなかったようだ。
どうせ決まっている事実なら、という思いもあり、襲いかかる男を真生は殺せた。
男の首をガラス片で切ったのは、男に服を脱がされたあとだったので、幸い吹き出した血は制服にかからなくて済んだ。
自分の上に居る死んだ男をベッドに転がしたときには、前から居る男の魂の方は、既にこちらには興味を失ったかのように、また、廊下を這いに行っていた。
わからないな、霊の考えることは。
この場所のせいか、まるで現実感のないまま、真生はそう思い、脱ぎ散らかしたかのように散らばっている服をかき集める。
すぐに着ようとしてやめた。
男の血が全身についていたからだ。
幸い水は出るようだったので、ひとつだけ病室にあった水道で、見えるところについた血を拭いて、制服を着たが、鏡がなかったので、顔や頭についた血を拭うのは忘れていた。
ここがどこだか知らないが、男の死体を始末しなければ、と真生は思っていた。
状況は理解できないままでも、人はおのれの罪を隠そうとする。
あの男の霊がいつも這っている、いや、今も這っている廊下で、真生は死体を引きずっった。
ああ……七不思議のひとつ。
死体を引きずる女は自分だったのか、と思いながら。
口からもれるのは、あの曲だ。
『終わりなき世界のレクイエム』
曲に溢れる切迫感と切なさの中に、真生は救いを求めた。
そのとき、ふっと頭に浮かんだのだ。
よく似ているが、雰囲気の違う旋律が。
それはいつも曾祖父が自分を膝に抱き、口ずさんでいたメロディだった。
少し伴奏を変えただけで、それはしっくり曲に馴染む気がした。
戦争が始まる前のような悲壮感を漂わせ、切迫した空気のまま終わっていたあのレクイエムが、後半を曾祖父の曲の通りに変えると、不思議に希望に満ちあふれてくる。
おそらく、高坂の叔父、越智哲治は、戦地で曲のラストを書きかえようとしたのだ。
彼は日本に帰ること叶わなかったが、彼の戦友たちが、その曲を覚え、持ち帰った。
真生の曾祖父のように。
戦地に行った哲治は恐らく、今の自分と同じに、初めて人を殺した。
その恐怖から、希望ある未来にすがろうとして、曲を書きかえたのだろう。
本当の絶望に沈んでいる人間は、呑気に目の前に広がる闇を愛でてはいられない。
日本に居た間は、哲治にとっても、戦争も、人が死ぬことも、自分が誰かを殺すことも、遠い世界の出来事だったのではないだろうか。
ただ、自分以外の人に訪れている。
そして、これから自分に訪れるかもしれない恐ろしい未来の迫り来る気配を曲として書き記していただけで。
あの曲を口ずさみながら、死体を引きずっていた真生は廊下の行き止まりで扉を開けた。
視界が歪む。
ふたたび、時空の揺らぎに呑み込まれたようだった――。
そこで真生は回想をやめ、ふっと息を吐いた。
「いつの間にか私の手から死体は消えていましたが。
死体と血のついたマットは、おそらく、別々の時間の八咫さんが、おや、こんなところにも、とか言って、それぞれ片付けてくれたんでしょう」
意外と便利な人ですね、と八咫を見て言ってしまう。
八咫は渋い顔をしていた。
高坂が、
「なに、淡々と語ってるんだ」
と言ってくる。
「いや、淡々と語っているのは、感情を殺しているからですよ」
と真生は言った。
「一人殺してみてわかりましたよ。
私に二人目は殺せない」
一人殺して、そのまま走れる人間もいるだろうが、自分には無理だ。
そう思う真生を八咫が見ていた。
だが、私はおそらく、もう一人、殺さなければならない。
いや、この時間から見れば、すでに『殺している』人間がもう一人居る。
そう真生は思っていた。
自分以外の誰かが殺していてくれれば……。
そう願っていたのだが、今まで聞いて回ったところによると、残念ながら、そんな事実はないようだった。
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