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終章 仏像の還る場所
それでこそ、名探偵
しおりを挟むいい香りだな、と思って、晴比古は小田切の淹れてくれる珈琲の香りを嗅いでいた。
小田切が淹れてくれると言ったので、全員が思い思いの場所に座り、それを待っていた。
硬い表情をした持田はひとりカウンターに座り、古田も菜切もそちらには近づかなかった。
「ずいぶん苦労かけた妻だったんですよね」
珈琲をサイフォンで淹れながら、ぽつりぽつりと小田切は語る。
「私が会社を辞めて、独立したいと言ったときも、黙ってついてきてくれた。
今は会社も軌道に乗って、息子が継いでますけどね。
本当に最初は大変で、妻は私にはあまり愚痴を言わなかったけど、家計の方もかなり苦しかったみたいです。
会社は何度も倒れかかるし、光恵は心労が祟ったのか、ずいぶん早くに髪も白くなっていました。
ずいぶん年をとってから、会社も安定して、息子たちに譲り渡して。
ようやくゆっくりできると光恵は笑ってた。
今までずっと私の夢に付き合ってくれていたから、今度は光恵の夢だった喫茶店を、と思っていた、その矢先に。
……なんだったんでしょうね? 光恵の人生って」
と小田切は遠くを見ながら呟いていた。
「なんだったんだって……。
幸せだったんじゃないんですか?」
窓際の席で、そう言った晴比古をみんなが見る。
「これだけご主人に愛されてたんですから」
……そうなんですかね、と小さく小田切は呟いた。
「いや、夫婦でお互い思い合っているってだけで、俺にはもう夢のような世界かと……」
と思わず、もらしてしまい、幕田に、
「先生、大丈夫ですか?」
と苦笑いされてしまう。
「いや、両想いなら安心ってもんじゃないでしょ」
と志貴が言い出した。
「僕だって不安になるし」
と言う志貴を深鈴が見る。
って、いや、なにを不安になる必要がある。
今、現在、深鈴はお前の前に座ってるしなっ。
「紗江」
と持田から離れて座っていた古田が呼びかける。
びくり、と持田の肩が震えた。
「……悪かった。
あの洞穴で意識を取り戻して。
冷えた自分の身体に、自分が長くあそこに閉じ込められていたことを知った。
急に不安になったんだ。
殴られる前に、お前がなにもかも清算したいと言っていたことも思い出して。
それで、つい、藤堂くんを」
やはり、古田があの仏像を元に戻そうとしたことで、二人は揉めて、持田が仏像で、古田を殴ったということだった。
「妻とはもう別れてたんだ」
と古田は言う。
「藤堂くんのことがあったし、私たちの始まりは決して人に語れるようなものではなかったから、言い出せずにいたんだが。
私はお前に私と結婚して欲しいと願っていた」
持田は決して古田の方を見なかったが、膝の上で握りしめた手は震えていた。
「私は警察に捕まるだろう。
だから、これを言ったところでどうにもならないだろうし。
お前にとっては言われたくもない言葉だろうが。
これが私の最後の言葉だと思って聞いてくれ。
紗江、
……誰より、お前を大事に思っている。
私と結婚してくれ」
古田は紗江の背中に向かってそう言った。
紗江はそのまま振り向かなかったが、菜切は深い溜息をつき。
紗江を正面から見ていた小田切は少し笑い。
そして、晴比古は、二人に聞こえない程度に小さく呟いた。
「……ま、わかってはいたんだよな。
支配人を低血糖昏睡で殺さなかった時点で」
「人の気持ちって怖いですね」
そう小田切が呟いた。
「持田さんも今、自分が怖いと思っているかもしれないけど。
私も思っています。
なんだか微笑ましく貴方がたを見てしまい、ごく普通に笑ってしまった自分を怖いと――」
まるで事故の前のようです、と小田切は言う。
「でも、移り変わっていかなければ、きっと、辛くて死んでしまうから」
かつて幽霊であった男はそう言った。
「私も罪に問われるんですかね?」
と小田切は言う。
「でも、貴方はなにもやってないですからね、結局」
と晴比古が言うと、小田切は少し笑い、
「……あのタクシーの運転手さんと同じこと言いますね」
と言った。
「幕田さんっていう、女の方でしたが」
幕田が、はっと小田切を見る。
ああでも、と小田切が言った。
「今、私がこの珈琲に毒入れたら、全部なかったことになりますかね?
私の告白を聞いた人、全員、居なくなるわけですから」
そう陽気に笑う小田切に、ひっ、とみんな、息を飲む。
「はい、どうぞ」
と微笑み、小田切は珈琲を出してきた。
とてもいい香りがしていた。
藤堂真也は目を覚ましたが、古田を訴えなかった。
自分が洞穴に行って転んだだけだと主張し、紗江を頼みます、と古田に伝えたそうだ。
「結局、今回はあれだな。
事件らしい事件は起きてないわけだよな」
起きてないというか、なかったことになったというか。
傷害事件も、監禁殺人未遂も、もうひとつの殺人未遂も。
自分たち以外、人の居ないロビーで、マッサージチェアで揺られながら、晴比古がそう呟くと、幕田が笑って言ってきた。
「じゃあ、珍しく先生がご自分でされた推理もなかったことになったわけですよね」
「おい……」
すっかり元気じゃないか、と晴比古は思う。
ハルがなにか事件に関わっているのでは、とビクビクしていた幕田だったが、すべてが明らかになった今は、いつも通り陽気に笑っていた。
「いいじゃないですか」
と深鈴が笑う。
「事件を未然に防いでこその探偵です。
全員殺されてから、犯人はこの人ですって言うの、実は名探偵じゃないんじゃないかって、私、ずっと思ってたんですよ」
そうミステリーマニアの深鈴は言った。
まあ、そうだな、と晴比古も思う。
みんなが幸せに、とはいかなかったかもしれないが。
幸せになれそうな人たちも、燻っていた感情にケリがつけられそうな人たちも居る。
藤堂も、持田のことが気がかりだっただろうし。
彼女を幸せにするのが自分ではないとしても。
少なくとも、持田が自分のせいで不幸になったままではないと思うだけで、少しは気が楽になるかもしれない。
なんとなく、深鈴を見ながら、そんなことを考えていると、彼女が、
「なんですか?」
とこちらを見た。
いや、別に、と言うと、深鈴は、ふと眉をひそめ、言い出した。
「でも実は今回のこと、私たちにもちょっと原因があるみたいなんですよね」
マッサージチェアに揺られながらその顔を眺めていると、深鈴が恥ずかしそうに言ってきた。
「私と志貴がその、部屋の前で、結婚前にそういうことをするのは良くないとか言って揉めてるのを聞いて。
持田さん、もう一度、純粋だった頃に戻りたいと思って、古田支配人に関係を清算したいって言い出したみたいなんですよね……」
「さ、戻るか、幕田」
これ以上、のろけを聞かされてはたまらない、と晴比古は立ち上がる。
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