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理由がありませんっ
杵崎には言うな
しおりを挟む小さな備品倉庫の扉が閉まった途端、陽太は態度を変えて言ってきた。
「今朝はずいぶんと楽しそうだったな」
「え?」
「朝、杵崎と楽しそうに出勤してきたろう」
……どうやったら、あれが楽しそうに見えるんだ。
深月が返事をせずに角の棚の上にある社史を取ろうとすると、深月の頭の上に陽太の手が伸び、取ってくれた。
そして、その鼠色の重い社史を手に、
「気づいてはいるだろうが、社史はいらない。
お前と話したかったんだ」
とまっすぐ深月を見つめて陽太は言ってくる。
……貴方、実は暇なんですかっ。
っていうか、私は貴方のその視線が苦手なんですよっ。
まっすぐ見つめないでくださいっ。
犯罪も犯してないのに、ごめんなさいしそうになりますっ、と思いながら、
「ひ、暇なんですか、支社長っ」
とその眼差しから逃げたくて、口に出して、そう言うと、
「暇ではない」
と陽太は言ってきた。
そりゃそうだろうな、と思っていると、
「暇ではないんだが。
朝から一度もお前の顔を間近に見ていないので落ち着かなくて。
此処に来てみたら、お前が居ないから、カウンターの前を莫迦みたいに何往復もしてしまったじゃないか」
と文句を言ってくる。
この前を行ったり来たりする陽太を思い浮かべ、
「いや、だから、暇なんですか……」
と思わず繰り返すと、
「いや、だから、暇ではない」
と陽太も繰り返す。
「だが、落ち着かないんだ。
こんなことは初めてだ」
と陽太は言う。
「だが、心配するな。
ちゃんと仕事のことを考えながら、往復していた。
まあ、途中で、人事部長に見とがめられたが」
駄目じゃないですか、と思う。
この若い支社長がちゃんとやるかどうか、おじさんたちはまだ見張っている段階なのに――、
と思っていたが、陽太は、
「いや、そんな顔するな。
大丈夫だ」
と言う。
「ずっと座っていたのでは、アイディアがまとまらないし、身体が鈍るから歩いてるんだと言い訳しておいた。
……だが、そしたら、長い健康トークが始まって。
ウロついてたことをごまかせたのはよかったんだが、思わぬ時間を食ってしまい、お前はいつの間にか、部署に戻ってた」
陽太はそう言い、渋い顔をする。
ああ、と深月は苦笑いした。
人事部長の健康トーク。
社食などで出くわすときがあるが、確かに長い。
この人、律儀に最後まで聞いてたのかと笑ってしまう。
「だがまあ、確かに、このままでは、いずれ、仕事に支障が出てくる気はするな。
それで、お前を秘書に呼ぼうかと思ったんだが」
なんだって?
「いや、俺は若造なのに、支社長に抜擢されたから。
前の支社長のときは、三人くらい秘書が居たようなんだが、遠慮して杵崎ひとりで回してたんだ。
でも、やっぱり人手が足りないなと思って。
お前は総務だし。
秘書は総務、人事から引っ張ることも多いから、別におかくしないじゃないか。
お前の顔もいつも見られるし、一石二鳥だ」
「いやあのー。
私を秘書にと言っていただけるのはありがたいんですが。
上のお姉様方をすっとばして私というのは、なにかとトラブルの元になりますし」
それに……と言いかけ、深月は言い淀んだ。
これではまるで、身体の関係で秘書に抜擢された怪しい女みたいになってしまうではないか、と思ったのだ。
だが、そんな言葉を口に出すのも恥ずかしく黙っていると、陽太は、
「身体の関係で秘書に抜擢されたみたいで、嫌だなと思ってるんだろ」
と言ってくる。
「その通りじゃないか。
だが、それのなにがいけない」
と陽太は胸にかかる深月の髪を一束つかんで言ってきた。
「俺はお前が忘れられない。
お前の顔を見ないと落ち着かないんだ。
俺が仕事に集中するためにも、お前が必要だ。
幸い、お前は仕事も切れるようだ。
お前を側に置いておくことがそんなにいけないことなのか」
手綱かなにのように髪をつかんだまま、陽太は言ってくる。
「いや、仕事が切れるって誰に訊いたんですか」
と言ってみたが、
「そんなの見てればわかる」
と陽太は言う。
ほんとですか?
なにかこう、恋の初めなので、瞬間的に目がくもってるわけではなく?
と思ったのだが、陽太は、
「今だって、予備の社史の位置もすぐに答えられたじゃないか。
滅多に見るもんじゃないから、前、金子に聞いたが、覚えてなかったぞ」
と言ってきた。
「たまたまですよ」
「備品のミスもなく、どれがいいとかアドバイスまでしてくれると評判いいし」
「いやそれ、単に、最初にすごいクレーマーな御局様に当たったからですよ」
それで、ミスなくこなせるよう気をつけているからだ。
「クレームを仕事の向上に活かせるのは素晴らしいことじゃないか」
と言ってくる陽太に、
褒めるの上手いな、この人、と思う。
深月は、部下使うの上手いんだろうな、と今までほとんど接点のなかった陽太を見上げ、思っていた。
恋愛感情は抜きにしても、この人の部下になるのはいいかもしれないと思わなくもなかったのだが。
「でも、やっぱり嫌です」
と深月は断った。
「なんでだ」
「だって、そんな大抜擢。
ロッカーにガラスの靴とか入ってたらどうするんですか」
「……よかったじゃないか」
「ああっ、すみませんっ。
間違えましたっ。
靴にガラスとか入ってたらどうするんですかっ」
いや、どんな言い間違いだ、という顔をした陽太に、深月は更に言いつのる。
「トウシューズに画鋲が入ってたり」
「お前はロッカーにトウシューズを入れてるのか」
いや……入れてないですけどね。
「ともかく、考えておけ。
俺ももうちょっと考える。
お前と英孝が仲良くなられても困るからな」
「そういえば、支社長は杵崎さんとは仲良しなんですか?」
「……仲良く見えたか?」
いえ、と言いはしたが、今、英孝と言ったし。
杵崎さんも、支社長はピュアな男だからとか言ってたしなーと思う。
「昔、いろいろと揉めた仲なんだ」
と陽太は、ざっくり言ったあとで、
「杵崎に訊け。
黙っておきたいのはあいつの方だから」
と陽太は社史を手に行きかけ、戻ってきた。
「いや、やっぱり訊くな」
どうしたいんだ……。
「もうあいつに話しかけるな。
お前、神社で巫女もやってるだろう。
あいつ、前、巫女さんと付き合ってたんだ。
巫女さん好きかもしれん」
と言い出す。
「いや、それ杵崎さんが騙されたって話ですよね?」
と言ったが、
「ともかく、杵崎にはなにも言うな」
と言って、陽太は去っていった。
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