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神降ろし
淵の底
しおりを挟む深い淵の底に、ほとんど水の流れのないところがあった。
白い祠が岩に寄りかかるように鎮座している。
もう一つの龍神の祠だ。
だが、その中には何もない。
かつてそこに本物の龍神が居た。
だから、此処には偶像など必要なかったのだ。
和尚は、その前に膝をついた。
そっと屈み込んで、そこに倒れているものに手を伸ばす。
きっちりと閉じられた瞼。
血の気を失った透子の顔は、なんだか満足げに見えて、今にも笑い出しそうだった。
馬鹿が……何がそんなに嬉しいんだよ。
和尚も釣られて笑い、横たわる透子の細い指に、自分のそれ搦める。
そっとその頬に己れの頬を寄せた。
冷たい水と変わらぬ肌の感触。
透子はもう居ないんだ。
身に染みてそう思う――。
俺は無意識のうちに、お前と同じものになりかったんだな。
だけど、お前という犠牲なしに、俺は神には成り得なかった。
「意味ねえだろ。
誰が考えたシナリオだよ、これ……」
透子、お前が此処に居るのなら、俺も一生此処に居るよ。
その胸に頬を寄せたとき、いきなり背後から蹴り上げられた。
なにっ? と振り返る。
此処に一体、誰が存在できるというんだ。そう思い見ると、後ろに女が立っていた。
いつか見た、天女のような輝くばかりの裸身――。
「透子――
いや、お前は……」
神凪和尚、と女は呼びかける。
「久しぶりだな。
いやまあ、ずっと側には居たんだが」
長い夢を見ていたような気がする――。
そう言い、透子はその口許で薄く嗤った。
ぞくりとする。
これは、神である透子だ。
同じ魂だが、こうして見ているだけで、完全な格の違いを見せつけられているようだった。
それは、自分と彼女との間に、真実横たわっていた距離でもあった。
「なかなか面白かったよ、人として生きるのも」
笑みさえ浮かべて透子は言った。
すべてにピリオドを打つようなその言葉。
これで本当に終わりなのか?
すべてはこの女の気まぐれから始まって、気まぐれのまま終わるのか――?
和尚は唇を噛み締め、そのいつも以上に倣岸不遜に見えるその顔を見上げる。
川面から降りそそぐ月光が、川の流れに揺れ、女に天女の羽衣を纏わせているように見えた。
相変わらず美しく微笑んでいるその顔は、透子そっくりの造形だったが、やはり何かが違っていた。
もう自分への情愛も何もかも捨て去ったような透徹とした瞳をしている。
「透子……」
神凪透子という身体が死んだときよりも、絶望に満ちた声で呼びかける。
身体が離れるのと、魂が自分から離れていくのとでは違う。
死んでもなお、『透子』は自分を想っていてくれると信じていたかった。
この透子は俺を愛してはいない。
いや、もともとそうだったんだ。
あの『透子』こそが、この女の作り出した幻だったのだから。
幻――。
和尚はその言葉を噛み締める。
『和尚ーっ!』
いつも甘ったれた声で自分の名を呼び、石段を駆け上ってきていたあの透子が幻?
みんなに罵られながら、カウンタックをぶっ飛ばしていた透子が――。
女は和尚の腕に抱きかかえられている己れの亡骸を見つめていた。
その目は遠い過去に懸命に生きた、一人の女を慈しんで見ているかのように見えた。
その横顔を見つめ、和尚は問いかける。
本当にあの透子はただの幻だったのか?
お前の心の中に、もう俺は居ないのか?
その心の声が聞こえたように、ふいに自分を向いた女の目。
人では有り得ない、人には見えない場所を見つめている目だった。
怯みそうになるが、その光が人間神凪透子の中にもあったことを思い出し、気を奮い立たせる。
この女も透子も同じもののはずだ。
女は言った。
「お前を愛していたよ。
だが、今となっては、なんだか遠い感情なんだ――」
自分こそがその感情を捜すかのように川面を見上げる。
そこには、揺れながら降り注ぐ金色の光があった。
「私はすべてのものを愛するように生まれてきた存在。
もう、お前ひとりを愛することはできない」
そう託宣のように言い切る。
「透子」
「……私はもう透子ではない」
「いや、透子だ。
神凪透子という人間を経たお前もまた透子のはずだっ」
和尚は強くその両腕を掴む。
その細さも肌も、透子と変わらぬ感触を宿していた。
だが、必死の呼びかけにも、女は相変わらずの鼻っ柱の強そうな顔で、こちらを見ない。
「お前……自分には誰かを愛するというような感情はないと言ったな。
それなら何故、お前は人になった?
お前は最初から俺が好きだったんだ。
そうでなければ何故、龍神の傘下に下ってまで人になるんだ!
長く刺激のないところで、生き過ぎたから、感情に疎くなってるだけだ。
神のお前にも、人を想う気持ちはある」
和尚は言い切った。
「……人を、鈍いみたいに」
女はそれだけ漏らし、ちょっと不機嫌そうな顔をした。
その顔つきは、いつもの透子と似て見えた。
「愛してるよ、透子」
彼女を見つめて和尚は言った。
神とは人に呪われた存在。
人の祈りにより、縛られる――。
「お前も俺を――
愛してくれるはずだ」
水で満たされた空間の中で、彼女は唇を引き結び、こちらを見ない。
その呪いに絡め取られまいとするように。
「例え、これがただの呪いに過ぎないとしても、俺はお前を縛りたい」
透子、敢えて繰り返し、そう呼んだ。
この女を神凪透子として、此処に留めるために。
俺は―― この天女に呪をうち、逃がさない!
そのとき、背後から聞き慣れた声がした。
「ほんとにいつの世でも、しぶとい男だな、お前は」
振り向くと、大陸風の衣装を纏った美しい女が立っていた。
「薫子か――」
えっ、ババア!?
どうやらそれは、薫子の前世の姿のようだった。
透子は若い薫子を指差し言った。
「この女が昔、大陸からあれを連れてきたのだ」
「あれ?」
「あの龍神だ。
この八坂のパワーを私では抑えられないと言って。
あの顔を見ろと言ったろう?
日本の龍神は神と人とを結ぶ気のようなもの。
あんな角だの牙だの持った獰猛な顔はしていない。
最初は大変な暴れ龍でな。
鬱陶しかったから、腹を割いたら、剣が出てきて――」
「お前か……」
龍を退治し、腹から剣を取り出したのはこの女だったのか。
「それからはお前が此処を治めていたのか?」
いやあ、という透子に、薫子は、
「これがそんな殊勝なものなら、人間の私がわざわざ大陸から渡ってきたりはせんわ。
この女、龍がおとなしくなったのをいいことに。
また、すべてを任せて、のらりくらりと」
と愚痴を垂れはじめる。
「お前……神様でも人間でも性格変わんねえじゃねえか」
やはり、透子と、この女との間に、明確な線引きなどないような気がするのだが。
「和尚。
その女はお前との約束を果たすため、人になろうとしていた。
だが、人でないものが人の器に宿るのには人の許可が居る。
私は龍神を抑え、上手く使うために優秀な巫女が必要だった。
利害が一致し、私は孫として、透子が生まれてくることを許す代わりに、龍神の巫女の器を与えたのだ。
どうかと思ったが、透子、人として生まれてきたお前は、ちゃんと私の可愛い孫だったよ」
ありがとう、と透子は上から微笑む。
あくまでも、上からだが。
なんとなくムカつきながら、おい、ババアと呼びかけた。
「この女、もう一度この器に押し込められないか」
そう言うと、透子は目をしばたく。
薫子が袖で口許を隠し、にやりと嗤った。
「心配するな、和尚。
なんのために今日、儀式を行わせたと思っておる」
透子が、ん? という顔をする。
はっ、と自分の遺体を見た。
「……そうか、薫子!
謀ったな!
お前だろう。
私にあの紅い月の夢を見せていたのは!」
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