冷たい舌

菱沼あゆ

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神降ろし

終焉2

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 和尚は、ぼんやりと腕の中の透子を見ていた。

 何が起こっているのか、わからなかった。

 透子は、ほんのちょっとの怪我でも大騒ぎしていた。

 血を見ると目眩がすると言っていた。

 今、その透子が、自ら身体を傷つけ、脇腹から血を滴らせている。

 今まで見たどんな悪夢も叶わないこの現実――。

 透子が吐く、熱を帯びたような息も、もう顔にはかからないのに。

 それでも尚も現実感はなく、既に重くなっている透子の身体を抱いたまま、早く目を覚まさなければと思っていた。

 目を覚まさなければ、透子が死んでしまう。
 そう思った――。

 そのとき、肩を叩いたものが居た。
 びくり、と振り返る。

 天満だった。

「和尚、此処まで来たら、やるしかない。
 透子ちゃんを淵に沈めてやれ」

 だが、忠尚の怒鳴る声が近くでした。

 まるで己れの心の声のように。

「やめろ、馬鹿なことを考えるなっ。
 まだ病院に連れていけばなんとかなるかもしれないじゃないか、和尚っ、和尚っ!」

 そうだ。
 なんとかなるかもしれない。

 お前が死ぬなんて、そんなことあるはずない。

 この淵の生贄に、この俺の生贄になるなんて、そんなこと……!

 気づいたら、足が震えていた。

「……帰ろう」

 和尚、と後ろから天満の哀れむような声がする。

「帰ろう、透子。
 お前、おでんが食べたいとか馬鹿なこと言ってたじゃないか」

「和尚」
 天満の骨ばった手が肩を掴んだが、身体を揺さぶり振り落とす。

「透子っ!
 お前が帰らないと、潤子さん、おでん持て余して困るだろうがっ!

 帰ろう、なあ、俺と一緒に帰ろうっ!
 なあ、透子っ!」

 認めたくない。
 認めたくない!

 これが、お前の最期だなんてっ!

 困ったように笑う途中で止まっているかのような透子の顔。

 なんともいえない。
 中途半端な表情が、いつも通りの曖昧な透子を思わせる。

「なに満足そうに笑ってんだよっ。
 お前、なんにも俺に言ってねえだろっ」

 緑の滴るような石段を、透子が駆け上ってくる。いつも莫迦みたいに大きく手を振って。

 寺だからやめろと言っても、聞かなかった。

 だが、自分は本堂に居ても、何処に居ても、いつもその声をその姿を待っていた。

『和尚ーっ』

「お前っ、ほんとに俺になんにも言ってねえよっ。
 いつだって、俺ばっかりっ」

 悔しくて悔しくて。
 なんとか自分だけを見つめさせたかった。

 その目で、俺だけを見て、愛していると言って欲しかった。

「お前のために、俺はなにもかも振り捨てて来たのに。
 なんで……最期までその願いを叶えてくれない?」

 ふっと、かつての透子の姿が思い浮かんだ。

『いいだろう。
 お前が望むなら、私はお前の側に居よう』

 ……お前が望むならかよ。

「――ほんっとーに、ひどい女だ」

 苦笑する。

 俺はあのときも、お前が神凪和尚として産まれてからも、ずっと、そう言いたかったんだよ―― 透子。

「このくそ女……っ」

 俯き、吐き捨てる和尚の肩に誰かの手が触れた。
 人の温かみ、だが、和尚は振り向かなかった

「……沈めてあげてください」
 静かに春日はそう言った。

「彼女はいつでも逃げ出せたのに、君のために逃げなかった」

 ふいに透子の言葉が蘇った。

『貴方が苦しむ姿、ずっと見てた。
 つらかったあ……』

「馬鹿だよ……。
 お前が居なくなる方が、よっぽど辛いだろうが」

「そうですね。
 馬鹿なんですよ、女って―」

 ようやく振り返ると、春日は透子の血の溶け出した水が流れていくのを、ただ見ていた。

「さんざん振り回しておいて、ふっと消えて。
 それも、愛しているからそうしたなんて」

 自嘲気味な声だった。

「賢そうなくせに、馬鹿なんですよ……。

 でも、僕もやっぱり馬鹿だから。
 そんな舞が愛しくてたまらなかった」

 透子の最期に、春日は恋人との別れを重ねているようだった。

「長い間、僕には舞しか居なかった。
 両親の愛さえも失って。

 だけど……、僕はそれでよかった。
 それだけで、よかったのに」

 俺も同じだ。
 忠尚と違って、多くを望まない子供だと言われていた。

 だけど、そうじゃなかった。
 俺はお前さえ居れば、それでよかったんだ。

 女一人が生きがいだなんて、女々しいと人に笑われても。

 それで……俺はよかったのに。

 よかったのにな、透子……。

 俺の生贄になること。

 それがお前の望みなのか?

 それだけが、もうお前にしてやれることのすべてなのかっ?

 和尚はそっと、腕の中の透子を淵の水に触れさせる。

 透子の身体が吸い込まれるように淵に呑み込まれた刹那、金色の光が触手を放つように自分に襲いかかってきた。

 側にいた春日があおりをくらってよろける。

 龍神を殺したとき、この光が自分に向かってきた。

 自分を次の龍神にするために。

 あのとき、身体に入り切らなかった光が、今、すべて魂の奥深くに吸い込まれていった。

 一瞬の内に、淵を取り巻く空気が変わったのを感じる。

 かつてと同じ、息をするのも苦しいほどの澄み切った神聖な空気。

 和尚は自分の身体が、白く、闇から浮き上がるように燐光を放っているのに気がついた。

 ぼんやりとそんな自分の手を見つめる。

 龍神になって初めて、不思議なまでに研ぎ澄まされた感覚を覚えた。

 この八坂の空気に触れるすべてのものが自分の支配下にあるような。

 だが、それがなんだと言うんだ?

 人間、神凪透子は消えてしまった。

 この天女を手放さないで済むのなら、俺はなんでもすると誓ったのに。

 透子の身体が沈んだところに、そっと手を伸ばす。

 自分が手を入れたところから、金色の波紋が起こり、透子の血で赤く染まっていた淵を染め変えた。

 ざんっと重い音がした。

 身体を支え切れなくなった加奈子が上流に落下したらしい。

「忠尚、なにやってるんだ、忠尚!
 早く加奈子さんを助けろ!」

 天満の声がする。

 だが、動かない忠尚に代わって、天満が再び川に飛び込んだ。

 ざばざばと水を掻き分ける音がする

 淵は昔の輝きを取り戻している。

 だが、和尚は笑った。

 これがなんだというんだ。八坂が守れたから、どうだっていうんだ!?

 俺はお前が、この八坂を、淵を龍神を愛していたから、守りたかっただけだ!

 ……それだけだったのに!

 ちょっと高くてあまったれた透子の声が、耳に蘇る。

『和尚ーっ』

 なんで気づいてやれなかった、俺は……。

 いつも、いつもいつもいつも、あの笑顔の下で、あいつは、いつか訪れるこの瞬間に脅えていたのにっ。

 俺は、またあいつと居られる幸福に酔って、すべてに目を閉ざしていた。

 見えていたのに。
 すぐそこに終わりがあること――!

 和尚は透子の消えた淵を覗き込む。

 透子の身体はカーブしている対岸側の、急激に深くなっている場所に呑み込まれたようだった。

 それは、かつて龍神が居た場所。

 だが、こうして見ていても、ただ向こう岸の竹笹が映っているだけだった。

 だが和尚は、その昏い淵に向かって微笑みかける。

「透子、わかってるよ。
 すぐに行くから、ちょっと待ってろ」

「か、和尚くん……?」

 春日は怖いものでも見るように和尚を見ていた。




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