冷たい舌

菱沼あゆ

文字の大きさ
上 下
67 / 80
はじまり

呪い――

しおりを挟む
 

 和尚もまた違う夢の中に居た。

 たきの流れ落ちる音に、辺りを見回す。

 そこは龍神ヶ淵だった。

 瀧? 瀧なんかあったろうか。
 そう思いながら、上流に向かって歩き出す。

 不思議だ。
 いつもと全然気が違う。

 溢れんばかりの緑に覆われた淵は、濃い蒼い水の流れから、大気に波動を羽根のように広げていた。

 まるで、淵の性質自体が違うように感じる。

 上流に向かうに従い、地形も変わっていることに気がついた。

 なんだ、これ?

 どんどん瀧の音が強くなる。
 和尚はいつの間にか走り出していた。

 今はない場所にもうひとつ林があった。

 駆け込んだそこにはかなり樹齢のいってそうな木がたくさんある。

 その中を、一気に和尚は音に誘われるように駆け抜けた。

 目の高さにあった枝を払い、急に開けた場所に飛び込む。

 瀧だ!

 飛沫を上げながら、高い斜面から瀧は、とうとうと水を落としている。

 だが、和尚の目は、瀧ではなく、その前に居る女に奪われていた。

 瀧壷の浅い場所に立っている白い肌の女――。

 自分の知っている女というものとはまったく違う。

 小さな顔に収まる品のいい配置の部品。理知的な瞳と、整った形の唇。

 俺はこの女を知っている。

 この顔を知っている――。

 流れ落ちる水が広げる波紋の端を見ている女は、薄い生絹のような衣を手にしていたが、腕に抱えるそれからも、白い裸体が透けて見えていた。

 背を這う見事な黒髪を空中に跳ねさせ、振り返った女は特に身体を隠すでもなく、物珍しげにこちらを見た。

 恥ずかしがる様子もないせいか、その容姿のせいか、和尚はそれが人でないことを察した。

 天女……?

 本当はなんだったのかわからない。

 だが、そのとき和尚はそう思った。

 女は、まじまじとこちらを見ていたが、やがて小さく艶やかな唇を開く。

「――逃げないのか?」

 は? と和尚はらしくもなく間抜けな声で訊き返した。

「この間私を見た男は、こけつまろびつ、逃げ出して行ったぞ」
と今来た急な斜面になっている林を指差した。

 つい釣られてそちらを振り返っていると、女は溜息とともに言った。

「その男、自分が勝手に崖を落ちたんだ」

 自分がだぞ、と透ける衣を絡ませた手を丸い頬に当て、繰り返す。

「なのに、いつの間にか裸を見られた私が怒って、何処までも追いかけていって、呪ったことになってるんだ」

 眉をひそめ、お前、どう思う? と問う女に、和尚は吹き出した。

 いまいち緊張感のないその女の口調のせいか、何処から聞きつけたのか、たかが人間の噂話に本当に困ったような顔をしているせいか。

「俺も聞いた、その噂。この山には素晴らしく――」

 その先を和尚は飲み込んだ。

 本人を前にして言うのは、さすがに気恥ずかしかったからだ。

 素晴らしく美しい、絶対にこの世のものではない女が居て、それを見ると、目が潰れ、呪われるという。

 いつの間にか、和尚の意識は、その世界に自然に溶け込んでいた。

 口ごもる和尚に、先を読んだように、女は笑う。

 水際まで来ると、濡れた手を差し上げ、和尚の頬に触れた。

 冷たい指先だった――。

 和尚は女から目を逸らすように、視線を斜め下に向ける。

 だが、そこには輝く水滴を纏った白い女の腕があった。

「どうする?
 お前も呪われてみるか?」

 嗤うように女の声が問う。

 もう、呪われている、と和尚は思った。

 年頃になって、いい加減嫁を貰えと言われても、ただ面倒くさいとしか思わなかった自分が、この女からは目が離せない。

「俺は……お前が俺に害を成すものだとは思わない」

 ふうん、と呟き、女は手を引いた。

 腕を組み、少し顎を突き上げ、こちらを見下ろそうとする。

 和尚は負けまいと、女の切れ長の眼の奥の、光に透ける黒い瞳を見つめる。

 その目から、弾き飛ばされそうな磁力を感じていた。

 近くに居れば、引き付けられるが、少しでも気持ちが引けた途端に、徹底的に拒絶されそうな。

「では、お前は私をなんだと思う?」

「俺はお前が何かはわからない。
 だけど、お前は俺に幸福を与えてくれるものだと思う」

 和尚は女を直視して言い切った。
 なるほど、と女は頷く。

「お前はなかなか頭がいい」

 感心しているのか、小莫迦にしているのか、いまいち、わからない口調だった。

「人であるお前が、私を自分の願いを叶えるものだと言った。
 だから、私はそれに従わなければならない」

「え?」
 女は腕を組んで、嫣然と笑う。

「私が本当はなんなのか、私は知らないが、人は私を『神』と呼ぶ。

 神とは人によって呪われているもの。
 祈りにより、縛られている力そのものだ。

 お前が私を願いを叶える神だと思い、祈るのならそうなるし、祟る神だと思えば、厭だが、祟ってやろう」

 祟ってやろうと言われても、と思って、はっとする。

「待て。
 お前が神?

 龍神は?」

 龍神? と女は不思議そうに訊く。

 この世界には龍神が居ない?
 そんな世界が実在しているのか。

 ならば、この女は龍神の支配下にないはずだ。そんな期待が頭をもたげだ。

 だが、女は、ああ、あれか―― と呟く。

「厄介な女どもが連れて来たのだ。
 私ひとりでは、この淵の呪力を守りきれないとでもいうらしい」

「連れてきた?」

 あの龍の顔をよく見てみろ、と女は笑う。

 龍の顔?

 龍神を殺した女と同じ顔で、その女は言った。

「それで?
 私は何をすればいいのだ」

「何をって――」

 お前の望みを叶えるのだろう? と、どっちでもいいような口調で言う。

「今すぐに?」

「まあ、今だな。
 後になると、私は忘れるし、面倒くさい」

 その、気のない声に、だから、龍神を連れてこられたんだ、と突っ込みを入れたくなった。

 そもそも此処を守っているのも、たいした使命感があるわけでなく、かつて、誰かにそう頼まれたから、らしかった。

 じゃあ、と、どもりながら、頭の中で算段する。

 ぶっ飛ばされるかもしれないが、この女なら、呪う、まではやっても、呪い殺す、まではやらない気がする。

 一生、いや、何度生まれ変わっても、きっとこんなチャンスは二度と来ない。

 覚悟を決めて、和尚は言った。

「俺のものになってくれないか」

「いいぞ」

「……あっさりだな」
「ああ」

「なんでだ?」
 心底そう思って訊き返す。

「なんでって、お前が望んだんだろうが」
 女は呆れたように言った。

「それはそうだが」
 いや、よく頼まれるんだ、と女は言った。

 その事も無げに放った言葉に、和尚はカッとなって言い返す。

「お前は頼まれれば誰とでも……っ、いや―っ」

 俺が口を出すことでもないし、人間じゃないから、倫理観も違うのかもしれないと思い、留まろうとしたが、胸の中で勢いづいたものは止まりそうにない。

 だが、女は、ああ、と笑い出した。

「お前たち人間とは違う。
 私はお前たちに夢を見せるだけだ」

 それも一応、相手は選んでいる、と付け足した。

「言いふらされても困るしな。
 しゃべらないような奴しか選んでない」

 さあ、さっさと済ませよう、と女は額に向かって手を伸ばす。

 少し丸めた手の中に、ぼんやりと黒い梵字が浮かんで見えた。

「まっ、待てっ!」

 こいつ、神様なのに、何故、梵字!? と思いながら、和尚はその手を押し返す。

「どうした。怖気づいたのか?」

 人生観変わるらしいぞ、と女は笑う。

「どんな風に……?」
と怖いながらも訊いてみる。

「二度と人間の女の相手はできなくなるそうだ」

「……それもどうだかな」

 いいことなのか、悪いことなのか――。

 待て。
 そうじゃなくて。

 ようやく正気に返り、和尚は問うた。

「違う。
 そういうまやかしじゃなくて、その、お前が本当に俺を好きになってくれることはないのか?」

 女は少し考えたあとで、それは無理だ、と言い切った。

「私は、すべての物を愛するよう定められたもの。

 特定のものを愛することは出来ない。
 そういう感情はないんだ。

 人とは違う意味で制約を受けている」

「では―― お前が人になることはないのか?」

「そうだな。たまにはな。だが、それには人の許可が必要だ――」

 人の許可?

「和尚、和尚」

 誰か―― あまり心地よくない声が自分を呼んでいる。

 目を覚ますと、公人が自分を見下ろしていた。

「……なにやっとんじゃ、お前ら」

 家に居ないと思ったら、と呆れたように、和尚の膝の上で眠る透子を見下ろす。

 気持ちよさそうに寝ている孫娘の顔を覗き込んで言った。

「おうおう、よう寝とるのう。
 やっぱり、お前の側じゃと、よう眠れるようじゃの。

 もっと早う結婚させてやればよかったの」

「透子が、うん、て言わねえだろ?」

「でも、よかったじゃろうが。
 うまい具合に結婚に持ち込めて。

 お前も人をめるのがうまいのう」

「別に嵌めたわけじゃない。
 物の弾みだ、弾み」
と、らしくもなく赤くなる。

「透子には、まだ罪の意識があるから、お前を拒絶するのかしらんが。

 そのうち、気もおさまろう。
 そうすれば、お前を受け入れるはずじゃ」

 和尚は透子を見下ろし呟く。

「……そうかな?」

 今の夢はなんだ――?
 もしかして、あれは過去にあったことじゃないのか?

 だとするなら、透子は――

 人間じゃない?

 いや、それはおかしい。

 だったら、たかが龍神ごときにああも支配される必要はないはずだ。

 ……もしかして、人で居続けるために、必要なことだったのか?

 それに、そもそも、透子がこの世に誕生するのに必要だった人間の許可とは――?

 しかし、それらの問題すべてが瑣末さまつなことに思えるほど、和尚の胸に響いていた言葉があった。

 

『神とはすべての物を愛するように定められたもの。
 特定のものを愛することは出来ない。

 そういう感情はないんだ――』
 
 
   透子――?
 
 

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

後宮の記録女官は真実を記す

悠井すみれ
キャラ文芸
【第7回キャラ文大賞参加作品です。お楽しみいただけましたら投票お願いいたします。】 中華後宮を舞台にしたライトな謎解きものです。全16話。 「──嫌、でございます」  男装の女官・碧燿《へきよう》は、皇帝・藍熾《らんし》の命令を即座に断った。  彼女は後宮の記録を司る彤史《とうし》。何ものにも屈さず真実を記すのが務めだというのに、藍熾はこともあろうに彼女に妃の夜伽の記録を偽れと命じたのだ。職務に忠実に真実を求め、かつ権力者を嫌う碧燿。どこまでも傲慢に強引に我が意を通そうとする藍熾。相性最悪のふたりは反発し合うが──

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

雇われ側妃は邪魔者のいなくなった後宮で高らかに笑う

ちゃっぷ
キャラ文芸
多少嫁ぎ遅れてはいるものの、宰相をしている父親のもとで平和に暮らしていた女性。 煌(ファン)国の皇帝は大変な女好きで、政治は宰相と皇弟に丸投げして後宮に入り浸り、お気に入りの側妃/上級妃たちに囲まれて過ごしていたが……彼女には関係ないこと。 そう思っていたのに父親から「皇帝に上級妃を排除したいと相談された。お前に後宮に入って邪魔者を排除してもらいたい」と頼まれる。 彼女は『上級妃を排除した後の後宮を自分にくれること』を条件に、雇われ側妃として後宮に入る。 そして、皇帝から自分を楽しませる女/遊姫(ヨウチェン)という名を与えられる。 しかし突然上級妃として後宮に入る遊姫のことを上級妃たちが良く思うはずもなく、彼女に幼稚な嫌がらせをしてきた。 自分を害する人間が大嫌いで、やられたらやり返す主義の遊姫は……必ず邪魔者を惨めに、後宮から追放することを決意する。

後宮の棘

香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。 ☆完結しました☆ スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。 第13回ファンタジー大賞特別賞受賞! ありがとうございました!!

逃げるための後宮行きでしたが、なぜか奴が皇帝になっていました

吉高 花
恋愛
◆転生&ループの中華風ファンタジー◆ 第15回恋愛小説大賞「中華・後宮ラブ賞」受賞しました!ありがとうございます! かつて散々腐れ縁だったあいつが「俺たち、もし三十になってもお互いに独身だったら、結婚するか」 なんてことを言ったから、私は密かに三十になるのを待っていた。でもそんな私たちは、仲良く一緒にトラックに轢かれてしまった。 そして転生しても奴を忘れられなかった私は、ある日奴が綺麗なお嫁さんと仲良く微笑み合っている場面を見てしまう。 なにあれ! 許せん! 私も別の男と幸せになってやる!  しかしそんな決意もむなしく私はまた、今度は馬車に轢かれて逝ってしまう。 そして二度目。なんと今度は最後の人生をループした。ならば今度は前の記憶をフルに使って今度こそ幸せになってやる! しかし私は気づいてしまった。このままでは、また奴の幸せな姿を見ることになるのでは? それは嫌だ絶対に嫌だ。そうだ! 後宮に行ってしまえば、奴とは会わずにすむじゃない!  そうして私は意気揚々と、女官として後宮に潜り込んだのだった。 奴が、今世では皇帝になっているとも知らずに。 ※タイトル試行錯誤中なのでたまに変わります。最初のタイトルは「ループの二度目は後宮で ~逃げるための後宮でしたが、なぜか奴が皇帝になっていました~」 ※設定は架空なので史実には基づいて「おりません」

雪狐 氷の王子は番の黒豹騎士に溺愛される

Noah
BL
【祝・書籍化!!!】令和3年5月11日(木) 読者の皆様のおかげです。ありがとうございます!! 黒猫を庇って派手に死んだら、白いふわもこに転生していた。 死を望むほど過酷な奴隷からスタートの異世界生活。 闇オークションで競り落とされてから獣人の国の王族の養子に。 そこから都合良く幸せになれるはずも無く、様々な問題がショタ(のちに美青年)に降り注ぐ。 BLよりもファンタジー色の方が濃くなってしまいましたが、最後に何とかBLできました(?)… 連載は令和2年12月13日(日)に完結致しました。 拙い部分の目立つ作品ですが、楽しんで頂けたなら幸いです。 Noah

処理中です...