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はじまり
呪い――
しおりを挟む和尚もまた違う夢の中に居た。
瀧の流れ落ちる音に、辺りを見回す。
そこは龍神ヶ淵だった。
瀧? 瀧なんかあったろうか。
そう思いながら、上流に向かって歩き出す。
不思議だ。
いつもと全然気が違う。
溢れんばかりの緑に覆われた淵は、濃い蒼い水の流れから、大気に波動を羽根のように広げていた。
まるで、淵の性質自体が違うように感じる。
上流に向かうに従い、地形も変わっていることに気がついた。
なんだ、これ?
どんどん瀧の音が強くなる。
和尚はいつの間にか走り出していた。
今はない場所にもうひとつ林があった。
駆け込んだそこにはかなり樹齢のいってそうな木がたくさんある。
その中を、一気に和尚は音に誘われるように駆け抜けた。
目の高さにあった枝を払い、急に開けた場所に飛び込む。
瀧だ!
飛沫を上げながら、高い斜面から瀧は、とうとうと水を落としている。
だが、和尚の目は、瀧ではなく、その前に居る女に奪われていた。
瀧壷の浅い場所に立っている白い肌の女――。
自分の知っている女というものとはまったく違う。
小さな顔に収まる品のいい配置の部品。理知的な瞳と、整った形の唇。
俺はこの女を知っている。
この顔を知っている――。
流れ落ちる水が広げる波紋の端を見ている女は、薄い生絹のような衣を手にしていたが、腕に抱えるそれからも、白い裸体が透けて見えていた。
背を這う見事な黒髪を空中に跳ねさせ、振り返った女は特に身体を隠すでもなく、物珍しげにこちらを見た。
恥ずかしがる様子もないせいか、その容姿のせいか、和尚はそれが人でないことを察した。
天女……?
本当はなんだったのかわからない。
だが、そのとき和尚はそう思った。
女は、まじまじとこちらを見ていたが、やがて小さく艶やかな唇を開く。
「――逃げないのか?」
は? と和尚はらしくもなく間抜けな声で訊き返した。
「この間私を見た男は、こけつまろびつ、逃げ出して行ったぞ」
と今来た急な斜面になっている林を指差した。
つい釣られてそちらを振り返っていると、女は溜息とともに言った。
「その男、自分が勝手に崖を落ちたんだ」
自分がだぞ、と透ける衣を絡ませた手を丸い頬に当て、繰り返す。
「なのに、いつの間にか裸を見られた私が怒って、何処までも追いかけていって、呪ったことになってるんだ」
眉をひそめ、お前、どう思う? と問う女に、和尚は吹き出した。
いまいち緊張感のないその女の口調のせいか、何処から聞きつけたのか、たかが人間の噂話に本当に困ったような顔をしているせいか。
「俺も聞いた、その噂。この山には素晴らしく――」
その先を和尚は飲み込んだ。
本人を前にして言うのは、さすがに気恥ずかしかったからだ。
素晴らしく美しい、絶対にこの世のものではない女が居て、それを見ると、目が潰れ、呪われるという。
いつの間にか、和尚の意識は、その世界に自然に溶け込んでいた。
口ごもる和尚に、先を読んだように、女は笑う。
水際まで来ると、濡れた手を差し上げ、和尚の頬に触れた。
冷たい指先だった――。
和尚は女から目を逸らすように、視線を斜め下に向ける。
だが、そこには輝く水滴を纏った白い女の腕があった。
「どうする?
お前も呪われてみるか?」
嗤うように女の声が問う。
もう、呪われている、と和尚は思った。
年頃になって、いい加減嫁を貰えと言われても、ただ面倒くさいとしか思わなかった自分が、この女からは目が離せない。
「俺は……お前が俺に害を成すものだとは思わない」
ふうん、と呟き、女は手を引いた。
腕を組み、少し顎を突き上げ、こちらを見下ろそうとする。
和尚は負けまいと、女の切れ長の眼の奥の、光に透ける黒い瞳を見つめる。
その目から、弾き飛ばされそうな磁力を感じていた。
近くに居れば、引き付けられるが、少しでも気持ちが引けた途端に、徹底的に拒絶されそうな。
「では、お前は私をなんだと思う?」
「俺はお前が何かはわからない。
だけど、お前は俺に幸福を与えてくれるものだと思う」
和尚は女を直視して言い切った。
なるほど、と女は頷く。
「お前はなかなか頭がいい」
感心しているのか、小莫迦にしているのか、いまいち、わからない口調だった。
「人であるお前が、私を自分の願いを叶えるものだと言った。
だから、私はそれに従わなければならない」
「え?」
女は腕を組んで、嫣然と笑う。
「私が本当はなんなのか、私は知らないが、人は私を『神』と呼ぶ。
神とは人によって呪われているもの。
祈りにより、縛られている力そのものだ。
お前が私を願いを叶える神だと思い、祈るのならそうなるし、祟る神だと思えば、厭だが、祟ってやろう」
祟ってやろうと言われても、と思って、はっとする。
「待て。
お前が神?
龍神は?」
龍神? と女は不思議そうに訊く。
この世界には龍神が居ない?
そんな世界が実在しているのか。
ならば、この女は龍神の支配下にないはずだ。そんな期待が頭をもたげだ。
だが、女は、ああ、あれか―― と呟く。
「厄介な女どもが連れて来たのだ。
私ひとりでは、この淵の呪力を守りきれないとでもいうらしい」
「連れてきた?」
あの龍の顔をよく見てみろ、と女は笑う。
龍の顔?
龍神を殺した女と同じ顔で、その女は言った。
「それで?
私は何をすればいいのだ」
「何をって――」
お前の望みを叶えるのだろう? と、どっちでもいいような口調で言う。
「今すぐに?」
「まあ、今だな。
後になると、私は忘れるし、面倒くさい」
その、気のない声に、だから、龍神を連れてこられたんだ、と突っ込みを入れたくなった。
そもそも此処を守っているのも、たいした使命感があるわけでなく、かつて、誰かにそう頼まれたから、らしかった。
じゃあ、と、どもりながら、頭の中で算段する。
ぶっ飛ばされるかもしれないが、この女なら、呪う、まではやっても、呪い殺す、まではやらない気がする。
一生、いや、何度生まれ変わっても、きっとこんなチャンスは二度と来ない。
覚悟を決めて、和尚は言った。
「俺のものになってくれないか」
「いいぞ」
「……あっさりだな」
「ああ」
「なんでだ?」
心底そう思って訊き返す。
「なんでって、お前が望んだんだろうが」
女は呆れたように言った。
「それはそうだが」
いや、よく頼まれるんだ、と女は言った。
その事も無げに放った言葉に、和尚はカッとなって言い返す。
「お前は頼まれれば誰とでも……っ、いや―っ」
俺が口を出すことでもないし、人間じゃないから、倫理観も違うのかもしれないと思い、留まろうとしたが、胸の中で勢いづいたものは止まりそうにない。
だが、女は、ああ、と笑い出した。
「お前たち人間とは違う。
私はお前たちに夢を見せるだけだ」
それも一応、相手は選んでいる、と付け足した。
「言いふらされても困るしな。
しゃべらないような奴しか選んでない」
さあ、さっさと済ませよう、と女は額に向かって手を伸ばす。
少し丸めた手の中に、ぼんやりと黒い梵字が浮かんで見えた。
「まっ、待てっ!」
こいつ、神様なのに、何故、梵字!? と思いながら、和尚はその手を押し返す。
「どうした。怖気づいたのか?」
人生観変わるらしいぞ、と女は笑う。
「どんな風に……?」
と怖いながらも訊いてみる。
「二度と人間の女の相手はできなくなるそうだ」
「……それもどうだかな」
いいことなのか、悪いことなのか――。
待て。
そうじゃなくて。
ようやく正気に返り、和尚は問うた。
「違う。
そういうまやかしじゃなくて、その、お前が本当に俺を好きになってくれることはないのか?」
女は少し考えたあとで、それは無理だ、と言い切った。
「私は、すべての物を愛するよう定められたもの。
特定のものを愛することは出来ない。
そういう感情はないんだ。
人とは違う意味で制約を受けている」
「では―― お前が人になることはないのか?」
「そうだな。たまにはな。だが、それには人の許可が必要だ――」
人の許可?
「和尚、和尚」
誰か―― あまり心地よくない声が自分を呼んでいる。
目を覚ますと、公人が自分を見下ろしていた。
「……なにやっとんじゃ、お前ら」
家に居ないと思ったら、と呆れたように、和尚の膝の上で眠る透子を見下ろす。
気持ちよさそうに寝ている孫娘の顔を覗き込んで言った。
「おうおう、よう寝とるのう。
やっぱり、お前の側じゃと、よう眠れるようじゃの。
もっと早う結婚させてやればよかったの」
「透子が、うん、て言わねえだろ?」
「でも、よかったじゃろうが。
うまい具合に結婚に持ち込めて。
お前も人を嵌めるのがうまいのう」
「別に嵌めたわけじゃない。
物の弾みだ、弾み」
と、らしくもなく赤くなる。
「透子には、まだ罪の意識があるから、お前を拒絶するのかしらんが。
そのうち、気もおさまろう。
そうすれば、お前を受け入れるはずじゃ」
和尚は透子を見下ろし呟く。
「……そうかな?」
今の夢はなんだ――?
もしかして、あれは過去にあったことじゃないのか?
だとするなら、透子は――
人間じゃない?
いや、それはおかしい。
だったら、たかが龍神ごときにああも支配される必要はないはずだ。
……もしかして、人で居続けるために、必要なことだったのか?
それに、そもそも、透子がこの世に誕生するのに必要だった人間の許可とは――?
しかし、それらの問題すべてが瑣末なことに思えるほど、和尚の胸に響いていた言葉があった。
『神とはすべての物を愛するように定められたもの。
特定のものを愛することは出来ない。
そういう感情はないんだ――』
透子――?
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