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はじまり
夢の記憶
しおりを挟むさわさわと黒い木々が梢を揺らしていた。
二人は大樹の陰に腰を下ろし、話していた。
いつものあのちょっと甘えたような声でしゃべる透子に、和尚は、ほっとしていた。
さっき、突然妙なことを言い出した透子の顔が、あのときと重なって見えていたからだ。
思い詰めたように淵へと駆け出して行ったあの十四の夏――。
「ねえ、和尚」
「なんだ?」
「何処へも行かないでね」
「俺が何処へ行くっていうんだ」
だが透子は真面目な顔で見上げ、いつの間にか自分と絡ませていた指に力を込める。
「私以外の誰かを好きになったりしないで――」
消え入りそうな声で懇願するように、そんなことを言う。
「お前な……」
今まで俺が他に目を向けたことがあるかと文句を言いたくなった。
自分ほど、透子ひとりに心を尽くしている人間はいない。
いつも側に居る忠尚や斉上が、如何に遊び歩いていても、決して仲間に加わるような真似はしなかったではないか。
――だって、見てしまったから。
心に沁み込んで、永遠に離れないもの……。
子どもの頃、透子はまだ、淵で禊をしていた。
今みたいに、女らしい身体つきではなかったが。
長く伸びた手足、子どもなのに細くくびれた腰。
身体に纏いつく、濡れて束になった長い黒髪の下で、月光に輝く白い肌。
こんな奇麗なものを手に入れられるのは、きっと汚れのない人間に違いない。
そう思って――。
和尚は透子の頬にそっと手を伸ばす。
「昔は……妖精みたいだと思ってたけど。
今は、まるで、天女みたいだ」
「あんたときどき―― 忠尚より、くさいこと言うわ」
俯き苦笑する透子に、そのまま顔を近づけ、口づけた。
和尚の胸に縋り、うとうとしながら、透子は彼の声を聞いていた。
「おい、お前、朝まで見張ってようって言わなかったか?
なんかこれ、あれみたいだな。
卒論提出のとき、お前に付き合ってたはずなのに、気が付いたら俺だけが資料をまとめてるんだ。
おい、聞いてるか、透子?」
聞いてるよ。
聞こえてるよ、和尚。
聞き慣れた低い声と、身体を通して感じるその心音に、透子は、さっき逃げ出さないでよかった、と思った。
『和尚、抱いて――』
あのとき、私は、すべてを捨てて逃げ出そうとした。
だって怖かったから。
死ぬことが怖いんじゃなくて。
貴方を置いていくことが、ふいに怖くなったから。
でも――
淵からの風に吹かれ、透子の髪が流れて、和尚に触れる。
透子はその髪の毛の先にまで触覚があって、和尚を感じているような気がした。
貴方はいつも逃げないものね。
だから、私も逃げない。
あの日、淵に立ち尽くしていた貴方を抱き締めたいと思ったけど、私にはそれは叶わないことだから。
だから、私は私に出来る方法で、貴方を抱き締める――。
ほんとは、ずっと――
永遠に一緒に居たかったけど。
絡めていた指先に力を込めた透子を、和尚が見下ろす気配がした。
ふっと、吐息が近づく。
夢の中――。
透子は薄桃色と紫の霞みの中を漂っていた。
ふいに、その色がグラデーションの空に変わる。
懐かしい、あの日の夕空だった。
今より幼い、だけどもう、誰より澄んだ眼をした和尚の手が、あのときと同じに頬に触れる。
「ま、待って」
ついそう言ってしまっていた。
和尚が訝しげな顔をする。
今、此処で顔を背けさえすれば、この人を助けられるかもしれない。そう思った。
今、此処でこの人を拒絶しさえすれば――。
なのに、口は勝手に訊いていた。
「……和尚。
私のこと、好き?」
それは、今の彼にさえ、改めて訊いたことのない言葉だった。
和尚は目を逸らしたが、ぼそりと呟く。
「馬鹿じゃねえ……?」
口許を歪めて照れたように笑う。
透子の唇は、涙を堪えようとして震えていた。
どうしよう、私、この人が好きだ。
どんな罪を犯しても、守り続けてきた私の神を殺しても。
私は、この人が欲しい。
透子は幼い和尚に心の中で問いかけた。
この先、私と地獄に堕ちるとしても、貴方は私を許してくださいますか―?
自分に触れてくる和尚を、透子は目を閉じずに見ていた。
焼き付けておきたかったから。
貴方のその顔を。
この目に、この心に。
何処までも持っていけるはずの、この魂に。
口づけられた瞬間、震えるまつ毛の隙間から、透子はそれを見た。
思わず、声を上げそうになる。
和尚越しに見上げた空。
そこには紛れもない彩雲が広がっていた。
グラデーションの空に、薄く棚引く七色の雲。
彩雲だ……!
あれはやっぱり、紛れもない彩雲だったんだ。
透子の目から熱い滴が零れ落ちた。
何が、吉兆なんだかわからないが、空だけにでもいい、祝福されていたことが、ただ、嬉しかった――。
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