冷たい舌

菱沼あゆ

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はじまり

透子の魔法

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 林を抜けると、目に飛び込んできたのは、どんよりと澱んだ淵に清廉な輝きを放つ白い裸体。

 美しいその脚の側を流れる水も、月光を浴びて輝いている。

 気配に気づき、透子が振り向いた。

 和尚、と小さくその口が動く。

 そんなあられもない姿を見られても、透子は、いつものように恥ずかしがったりはしなかった。

 なんだかそんなものを突き抜けた遠い世界に彼女は居る。

 そんな気がして、和尚はふいに怖くなった。

 透子の魂はもう自分など手の届かないところに行ってしまったのではないか。

 生まれて初めて透子が八坂祭りで舞うために、衣装をまとったときも、こんな気持ちになった。

 彼女は本当は、自分なんかには手の届かない存在。

 それを見せつけられた気がして――。

 だが、幾度も捕らわれかけたその想いを押し隠し、和尚は穏やかに彼女に訊いた。

「なにしてるんだ?」

 透子は自分と同じように、微かな笑みを口もとに覗かせ、禊、と言った。

「こうしてたら、きれいになれないかなあ、と思って」

 そう言って、透子は淵の水をすくいあげて、投げた。

 それは月光にきらめきながら透子の上に落ちていく。

 だが、そんな飾りなどなくとも、透子自身の白い肌の方が余程、輝いて見えていた。

「どうして?」
と言いながら、和尚は脱ぎ捨てられた透子の服を避けながら、自分は装束のまま、冷たい水に足先をつける。

「忠尚に汚されたわけじゃないだろう?」
 そう言うと、透子は笑った。

「どうして知ってるの?」

 透子はどちらの意味で訊いているのだろう。

 どうして、忠尚がしようとしたことを知っているのか。

 どうして、忠尚に汚されていないと知っているのか。

 いや―― どっちでもいいか。

 安堵の溜息を、透子に気づかれないように漏らしたあとで、彼女の額の中心を指で突く。

「天満さんに聞いた」

 ぴりり、と指先に突き刺すような刺激が走ったが、和尚は笑った。

「封印は健在だな」

 和尚は封印が透子の感情を封じ込めていることには気づいていなかったが、その身を守るのに役立っていることは知っていた。

 何度も自分が弾かれているからだ。

 透子はそのことに関しては、都合よく記憶を消去しているようだが、彼女は何度か自分の部屋を訪れている。

 この間のように、いつも何かに追い詰められているかのような顔をして――。

 そう、と言い、透子は和尚に背を向ける。

 その目は流れる淵を見つめていた。

 和尚は黙って、その身体を後ろから抱きしめる。

 細いのに、やわらかな身体の感触が直に伝わってきた。

 初めてちゃんと彼女に触れた気がした。

 やがて、腕に、ぽつりと何かが落ちた。

 和尚はそれには気づかぬふりをして、空を見上げた。

「透子、見ろよ。
 月が綺麗だ」

 その言葉に、素直に透子の小さな頭が持ち上がる。
 やわらかな細い髪が和尚の顔にかかった。

 澄んだ蒼白い月は、異様なほど大きかった。
 月を見たまま、透子は言う。

「……忠尚ね、封印が弾き飛ばす前に、自分から手を放したわ」

「どんな魔法を使ったんだ?」

 囁くように問うと、
「思ったままを言っただけ――。

 泣かないで。
 大好きよ、『忠尚』って」
と目許だけで透子は微笑む。

 小憎らしいことを。

 だが、おそらくそれは真実なのだろう。

 自分を想っているのとはまた違う気持ちで、透子は忠尚を想っている。

 恋愛感情ではないとわかっていて、それが、ときどき辛かった。

 忠尚も自分も、透子との間にある距離は大差ないような気がして。

 そう思ったとき、黒い林を見ていた透子の目が伏せられた。

 何かを覚悟するように毅然としていた口許が崩れる。

 透子は顔を覆った。

 透子? と優しく問うと同時に、透子は胸にしがみついてきた。

「透子……?」

 どうしていいかわからずに、つい、手を離した和尚だったが、黒髪の這う、艶かしいほど白い肩が震えるのを見て、そっとそこに触れる。

 透子はまるで、お互いの体温を移そうとでもするように、身体を寄せてきた。

 やわらかい透子の吐息が服の間を縫うように、言葉とともに滑り込んできた。

「和尚……抱いて」
 透子は和尚の胸に顔を寄せる。

 透子は強く強く和尚の腕を握り締める。
 まるで何かに迷うように。

 和尚は透子の滑らかな背に手を回し、抱きしめる。

「……いいのか?」

 透子は和尚の胸に顔を埋めたまま、しばらく考えていた。

 そして、顔を上げて、こう言った。

「あ―― ごめん。
 やっぱ、やめた」

 お~ま~え~っとさすがに殴りつけそうになる。

 透子は気配を察したのか、何もしていないのに、頭を押さえ、苦笑いして後ずさった。

「ごめんごめん。
 だってさ、やっぱり神事の最中じゃんっ」

 こいつに物を考えさせてはいけなかった、と殴らずに留めた拳を震わせた和尚を見上げ、透子はまだ頭を押さえたまま、あのさ、と笑う。

「淵、見張ってない?」

「あ?」

「いいじゃない。
 朝まで二人で見張ってようよ」
と、いつもの顔で言い出した。

 まったく、と溜息を漏らす。
 でもその方が透子らしくもあった。

 なんだか……なんだか、さっきの透子は――。

 彼女は何か誰にもどうしようもないものに追い詰められているように見えた。

 だが、そうわかっていながら、和尚はそのことに気づかぬふりをしようとした。

 深く考えるのが怖かったのかもしれない。

 いや、考えてももうどうにもならないことだと、心の何処かで知っていただけなのかもしれない。

「……わかったから、服、着てくれませんかね」

 厭味にそう言ってやると、透子は、ごめんごめんと言いながら、ほっとしたように笑って見せた。




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